「――メリエル父上のもとに行きませんか」

 僕がそう言ったとき、母上はとても驚いた顔をした。僕がこっそり騎士団の詰め所に行ったときから、三週間ほど経過していて、母上も僕が一向に「メリエル父上に会いたい」とも「マリア父上に会わなければ」ということも言わないことに気がついて、僕に「会いに行こう」という風な言葉を投げかけないようになっていたときのことだったからだろうか。

「……良いのかい?」

 母上は、ちょっとの間言葉を選んで、僕にそっとそう訊ねた。僕は薄く微笑み、うなずく。母上はそんな僕にとてもほっとしたような、でもなぜか泣きそうな顔をした。そうかい、と呟いて、席を立つ。そんな母上のもとに寄り添うような形で、僕はそばに立ってその手を取った。軽く引くようにして部屋を出る。僕の従者はなにも言わずとも僕の後ろについてきた。彼には、もうすでに、今日、ここ最近のすべてを終わらせることを告げていた。

「ロカ? 久しぶりだな。元気にしていたのか?」

 メリエル父上の部屋に通された僕の顔を見て、中にいて話をしていたメリエル父上はぱっと明るい表情で迎えてくれた。そんなメリエル父上の相手をいままでしていた、僕の知らない貴族の男性は、僕を見て、それではメリエル様、と言って室を後にした。そんな彼の太った背中が扉の外に消えるのを流し見てから、僕は彼の座っていた、この部屋の応接間の一人がけのソファに座った。母上も僕とメリエル父上の座っている各ソファの間に置かれたソファに座る。

「お久しぶりです、父上。あまり顔を見せずにいてすみません」

「いいんだよ、そんなことは。今日顔を見せてくれたから、それで流そう」

 そう言って、メリエル父上は笑った。僕も苦笑して、ありがとうございます、と言う。僕の返事を聴いてから、ちょっと間を置き、メリエル父上は、「……それで、なにか言うことがあるんだろう? ロカ」

「……気付いていらしたのですか?」

「――人の気配がしたからね。お前のであるような足音だったな」

「……何の話だい?」

 僕とメリエル父上の会話に、当たり前について行けないだろう母上がいぶかしげに訊ねる。僕はちょっと頭を掻いて、「……メリエル父上と、マリア父上が――その……」

 瞳をゆらりと揺らして、どう説明しようかと頭を回転させる僕に、メリエル父上ははは、と軽く笑い飛ばした。母上がメリエル父上のほうを見る。

「――喧嘩してたんだよ、俺とマリアがな。……レオのことで、マリアが落ち込んでいたんだ。だから、お前が落ち込む姿が気分が良いから、そのままでいろよって言ったら激しく抗議されてね」

「父上!」

 メリエル父上のあんまりな説明に、僕は驚いてしまった。そんなメリエル父上の様子に、母上は、「……そうだったのかい? それを、ロカが聴いたの?」

「部屋の外でね――だいぶマリアが怒っていたから、ちょっとショッキングだっただろう? すまないな、ロカ」

「い、いえ……あの……」

 ――メリエル父上は、そんな風にマリア父上の怒りを誘うようなことは言っていなかった。でも、それをうまく説明することが出来ない。あわあわと口を開けたり閉めたりする僕を放って、メリエル父上はからりと笑う。「――それでずっと篭っていたのだろう、ロカ。……レオのことは、本当にすまなかった。お前が気にすることなんて、これっぽっちもないんだよ。少しでも元気になってくれたのなら、俺もちっとは救われる」

「――僕は……あの……レオ様が極刑に処されたこと、父上に謝りたくて……でも、うまい言葉が出てこないんです。……父上も、その……なんと言えば……」

「――俺か? もちろん、俺も少しはショックだったさ。でも、仕方ないことなんだ。お前を蹴って頭を打ち付けさせて、それでなにもお咎めなしでいることのほうが恐ろしいんだよ。お前になにしたって、マリアは何も言わないなんて広まってみろ、……想像できるかい?」

 目を細めて言ったメリエル父上の言葉に、僕はその後を想像してぶるりと身が冷えるのを知った。……そうなっていては、秩序もなにもない。僕は貴族や民衆に、――なにが起きていてもおかしくなかったのだ。……それでも、極刑というのは……。

「……そうさね。私も、ロカ、あんたがボロボロになって倒れていたときから、そんなことを考えていた。マリアの子どもであるということは、そういうことなんだよ。レオは愚かだった。それだけの話なんだ」

「……僕は」

 思いつく言葉は、全て「綺麗ごと」と一蹴されそうな気がして、僕はゆるゆると視線を落として俯いた。背筋が凍ってしまって、かたかたと身が震える。

「――マリア父上は……まだ、レオ様のこと……」

「――どうだろうね。なんとも思わずにいれるようになったかもしれないし、まだ夢にでも見ているかもしれない。でも、あいつだって、そんなの初めてじゃないんだ。お前が背負い込んで部屋に篭るようなことじゃないんだよ。ロカ、初めてだったから随分ショッキングだっただけで、お前はなにも悪くないんだ」

 ――僕は、なにも悪くない。

 ――僕は、部屋から出て、久しぶりにメリエル父上と顔を合わせた。それは、僕なりに、レオ様のことから一歩進むことができたら、と思ったからだ。一歩でも進まなければならない。

 僕は、……生きているから。

 レオ様のように、……進めなくなっていてはいけないと思ったんだ。部屋に篭っている間に、ずっと考えていた「生」と「死」。死にたいな、死ねないかな。僕はずっとそんなことを考えていた。生にしがみついていたくなかった。……それでも、生きている。僕は、生きている。死ぬことが出来ない、嫌がっても小さくても生にしがみついていた。……半年、部屋に篭っていても、生き抜いてしまった僕は、この三週間でとてもいろいろなことを考えた。主に、「生と死について」。そして、「レオ様の死について」。

 ――一歩――進まなくてはならないと、思ったんだ。

「……僕は、王になります」

 僕の言葉に、メリエル父上が微笑む。

「ああ。お前は王になってくれよ、ロカ。俺が見れなくなった頃でもいい、いつかはさ。そうしてくれないと、レオも浮かばれない。王になる器の糧だったのなら、まだ浮かばれるだろう?」

「――私は……まだ、ロカを王にしたいと思えないんだよ」

 母上がぽつりと呟く。その言葉に、僕は母上のほうを見た。母上は、暗い顔をして、視線を落としていた。「こんなに辛いことばかり、あんたに起こって……、あのままあんたとメリエルと、あの土地にいれたら、こんなことは起こらなかった。マリアがあんたを不幸にしたんだ」

「でも……私は……」

 ぎゅ、と下唇を噛んで、母上はそこで言葉を切った。僕はその先の言葉を聴きたいと思えなかった。でも、そうはっきり母上が言ったことに関しては、少しだけ――……

「――母上。僕は、王になります」

「……ロカ」

 僕が母上を見つめながら、いつもの「苦笑」も「作り笑い」もなくして真剣な表情で言えば、母上が僕をはっとした目で見た。僕は背筋を伸ばす。「……王になります。僕は、そうならなければならない」

「――マリアの言ってることを気にしている? メリエルもだよ。この子に、そんな重荷を重ねないでくれ。マリアの言うこともそこそこで聴いていて欲しいんだよ、私は。あいつは、私を本物の側室に――いや……」

「――マリア父上が、母上を側室として地位を固めたいと思っていること、僕も知っています。それとは別に、僕は王になると決めたのです。僕は王になる。王になって、僕がこれまでの道に捨ててきたものを救いたい」

 ――レオ様のこと、ミュゼ姉上のこと。「捨ててきた」と言うのは、僕の傲慢だ。

 ……でも。

「――僕は、王になります。母上は、それをそばで見ていてください」

 そう言って、久方ぶりに僕は笑った。言葉にして初めて、僕はこの、半年と三週間という時間のなかで、なにを見つめていたのかに気がついた気がした。


「……ロカ様?」

「ロカ様だ……」

 僕が久方ぶりに外に出ると、城内で噂話に興じていた貴族たちの視線を集めてしまった。それもそうだろう、僕が何の用もなく外に出ることなど、半年以上ぶりだったのだ。長く鬱陶しく伸びた髪はあの日切って元の髪型に戻っていたけれど、貴族の方々にしてみれば、その色が問題であるようだった。「……あの髪の色……」

「あれでは、花売りの母と同じではないか」

「みっともない……」

 ――母上の桃色の髪が美しいように、僕のこの髪も、金髪のときより美しくなったと、思う。でも、僕のそんな思いなど、貴族たちには一向に伝わらない。みっともない、と呟かれるのも、いまでは慣れてしまった。用事もなしに外に出てまだ一日も経っていないけれど、それでもその数時間で慣れてしまうほどに、貴族たちはこの髪を非難した。それでも、やはり腹は立つし、一番最初にそう囁いた貴族になどは、本気で殴ってやろうかとも思った。でも――そんなことをしたって仕方のないことなのだと、僕はもう嫌というほど学んでしまった。

「花売りの髪が恋しかったのだろうか……あんな汚らしい色に染めて……」

「ロカ様は少し魔法が使えたらしいじゃないか。それならあの嫌な色に染めることも簡単だという事か」

 くすくす、と忍び笑いが漏れる。はあと息を吐き、僕はちらりとその声の方を向いた。僕の視線に気づいて、会話をしていた貴族たちがそれぞれ別方向へと消えていく。マリア父上に会ったのは、その貴族たちの背が消えるのを見送った直後だった。「ロカ」

「その髪は……」

 僕を呼びとめて、マリア父上はぼうっと僕の髪に目を留めた。母上そっくりの、桃色の髪。「――綺麗な色になったね」

「ミーシャに似てたんだね。顔立ちは僕でも、髪はミーシャだったんだ」

 ふと、こぼれるようにそう僕の髪を褒めて、マリア父上はじっと僕の髪を見つめていた。つい、と言ったように僕の髪に触れて、それからはっとなにかが引っかかったかのように僕の目を見ながら手を離す。

「……綺麗だよ。本当に綺麗だ」

「……父上、どうかされたのですか?」

 感傷に浮かされているような声色に違和感を覚えて、僕はマリア父上を呼ぶ。マリア父上は、いや、と呟いて、いつもの暗い瞳がぱちりと瞬きした。「どうもしてないよ」

「――マリア」

 その声が通ったのは、マリア父上がなにかを隠したすぐ後だった。マリア父上を呼び捨てにしたその声の方を見ると、そこには珍しいことに、ルイヤ様がいた。ルイヤ様は少し戸惑っているような、悩みを抱えている顔をしている。僕に気付いていないのか、ルイヤ様はマリア父上をまっすぐ見てこちらはちらりともせず話し出した。「どういうことだ? 話を聞いたぞ。なんでも、バースキンの長女が……」

「――毒の話ですか? 他の話?」

「他の話に決まっているだろう! どういうことだ? あの女がお前を……」

 お前を、とまで言ってから、はっとルイヤ様はこちらを見た。やっと僕の存在を認識したらしく、「いや」、と前の言葉を撤回する。「ここでは……」

「――リディア様が、どうかされたのですか?」

 僕が話を聞きたがると、ルイヤ様はふらりと視線を泳がせた。それからそのはっきりと強いまなざしを僕に向ける。マリア父上が口火を切った。「リディアを生かすには、これしかなかったんです」

「……ということは、お前がしむけたのか?」

「違います。僕がしむけたというにはあまりにも、結果論でしかありません。それでも、最後にこれくらいしてやりたかった。もう彼女を追わないでください」

「――ロカ」

 マリア父上とルイヤ様の意味深な会話が、どこにつながっているのか全く理解できずにいる僕を、ルイヤ様が呼んだ。僕ははい、と弱く返事をして、ルイヤ様を見る。「メディはいま、どうしている?」

「……メディ様? どうしてメディ様が……」

 突然の名前に、僕は思い切り困惑を顔に出していたらしい。ルイヤ様は再び視線を泳がせて、それからマリア父上に向き直った。「バースキンに二度と戻れなくなるんだぞ。それでもお前はあの女を止めないのか」

「彼女だって、家になど戻りたくないでしょう。意味のない置物になって、いつ首がなくなるかもわからない宙ぶらりんでいさせたくなかった。最後に花を手向けたんです」

「――花を手向けた? なんて馬鹿なことを……」

 なにかがリディア様の身の上に起こっていて、それがメディ様にも傷をつけるようなことである。僕はそれに気付いて、さっと血の気が引くのが分かった。バースキン家の「なにか」を揺さぶるようなことが起きたのだ! 一体なにが……。

「なにが……あったのですか……?」

 僕が顔色を変え、小さな声でやっとそう訊ねたのを見て、ルイヤ様ではなくマリア父上が僕を見た。「――リディアが、駆け落ちしたんだ」

「えっ?」

「駆け落ちしたんだよ。どっかの間抜けな侯爵とね。バースキンも僕も、リディアを追わないと決めたんだ。……それだけだよ」

 マリア父上の声は平静よりも波がなく、それがまるで、本当になんでもないことであり、僕ととても遠い出来事であるかのような感覚を受けた。駆け落ち、と何度もその言葉を反芻して、何度目かでやっと僕はその言葉の大きさに気付く。「……えっ……?」

 ――リディア様が、駆け落ちした?

「ああ、俺たちがいま頭を悩ませてるやつだろう? まさかリディアがそんなことをするなんてね。さすがに俺も考えた事もなかった」

「――本当に、リディア様が駆け落ちしたんですか?」

 混乱した頭で、気づくと僕はメリエル父上の部屋に来ていた。メリエル父上はいつもの通りの落ち着いた表情で、戸惑ってどうしていいかわからない僕に椅子をすすめてくれた。「本当だよ。もう王宮内でも噂になっている」

「そんな……だって、リディア様は……」

「――バースキン家が真っ青になって行方を探すかと思えば、さっぱりだ。バースキンも一枚噛んでいるのだろうね。それか、マリアに探す気がなくてどうしようもないのか」

「いつ、分かったのですか」

「ロカが閉じこもっていた間……とはいっても、まあ、最近の話だ。リディアはマリアのことがとても好きだったようだし、俺としても吃驚してるよ」

「……マリア様が、リディア様のことを……でしょうか。意味のない置物で、いつ首がなくなるかわからないって言っていました。どういう意味でしょう」

「――そのままさね。子を成せず夫と不仲の正室に用はないってことだ。いままで殺されずにいたことの方が、俺は驚くね」

「子を成せず……夫と不仲……」

「リディアは、マリアのことが本気で好きだったよ。でもね。マリアがミーシャに気持ちを入れ過ぎていたのか、原因はなんであったのかは俺には分からないけれど、リディアはもう長い間正室でいる理由がなかったんだ。そんな女が正室にいると、新しい正室を娶ることもできない。こんな風に言うのもだけどさ、……つまり、邪魔になったんだよ」

「でも……! 子を成せなくなったのは……!」

「ロカ。その話をするのはやめておけ。第一、もしリディアがいまだ子を産むことができる体だったとしても、マリアの気持ちが向かなければしようがないと思わないか」

「しようがない……」

 ――ずきずきと、頭が鈍く痛む。

 ――しようがない。子を成せても、成せなくても、リディア様が殺されることは仕方がないこと……――そんなことって、有ってもいいのだろうか? あまりにも、リディア様がかわいそうではないか! なにもかも、リディア様に非はひとつとない。それなのに……――。

「――いまロカが気にすべきは、父上がリディアの生家であるバースキンの娘……つまりメディさね。メディになにをするか、だよ。リディアが駆け落ちしたということは、バースキンが寝返ったとされても仕方ないことだからな。マリアがお咎めなしで済まそうとしているらしいから、メディも安全かもしれないが……それでも、はっきりはまだ何とも言えない」

 そう声を落として、メリエル父上はふうと息を吐いた。その表情に浮かぶのは、とても寂しそうな、そしてつらそうにも見える影だった。

 紅茶を一口含み、メリエル父上はそれを飲み下す。長く黒い前髪を、その細く節だった指で触れた。「いま一番メディの立場を守れるのはマリアでも、メディ自身を守れるのは夫であるお前だけなんだよ、ロカ。夫というのはそういうものだ」

「……僕は……なにをすれば……」

「――それはお前が考えなければならないな。いま言えるのは、リディア=バースキンが王家に歯向かい、その結果その妹の命も曝されているということだけだ。……まあ、マリアがリディアに対して怒りを抱いていないから、メディもお咎めないだろうけどな。――楽観と悲観はどちらもある程度必要だという話だ」

 僕は、僕の表情が硬く強張っていくのを感じていた。


 メディ様の様子は、いつもとさして変わらなさそうだった。いつも通り僕の部屋で、静かに恋愛小説を読んでいる。その赤い髪をさらりと指先で持ち上げ、耳にかけたところで、僕は意を決して声をかけた。「メディ様」

「その……メディ様は、知っておられるのでしょうか。リディア様のこと……」

「――姉さまのことですか? 何のことでしょう」

 ――……知らないのだろうか? それならそれで、無理に言うことも……

 僕の心の内を読んだかのようなタイミングで、メディ様が微笑む。たれ目がすこし細くなった。「もしかして、駆け落ちのこと?」

「そ……そうです。あの、やはり……知っていらしたんですね」

「そうですね、知っています。すぐに早馬が届きましたわ。父さまと母さまがとても驚いていました」

「……」

 淡々と事務的に話すメディ様に、僕はなんと言葉をかければいいのか分からずうつむく。メディ様は続いて、「マリア様が、姉さまを正室から逃がしたのだと聞きました。だから、誰も追いかけるな、処罰するなと」

「――父上が?」

 驚いて、僕は咄嗟にそう言ってあとは口をぱくぱくと開け閉めするだけで、言葉がやはりうまく出てこなかった。メディ様はうっすらと微笑んでいる。――冷たい笑みでも、固まった笑みでもない。どこかほっとしているような――……。

「……メディは、駆け落ちなんぞより姉さまが独りでいることのほうが恐ろしかった。駆け落ちでもなんでも、姉さまが独りでなくなるのなら、それが一番嬉しいの」

 ぱたん、とメディ様は僕が話しかけたせいで読むのをやめていた本を閉じる。それから微笑みではなくにっこりと、はっきり笑った。「本当は、姉さまがずっと想っていらしたマリア様と幸せになって欲しかったわ。それが一番簡単でもあるはずだった。……でも、マリア様は別の方を好きになってしまったんですものね。仕方ないことだけれど、一度はメディもマリア様を恨みました。……姉さまのほうがずっとずっと前からそばにいたのに、マリア様は一度も姉さまを見てくれなかった。でも」

 そこで言葉を切り、メディ様は強い視線で僕の瞳をとらえた。「――「今度の方」は、姉さまひとりをずっと想っていらしたそうなの。姉さまも、ずっとその言葉や話を聴いていて、それでもマリア様が好きだったのだと。なにが心変わりの一番になったのかなんてわからないけれど、きっと時間がそうさせたのでしょう。姉さまの好きな人と、姉さまのことが好きなひとが、一緒にいてくれている。その「今」が一番、メディは嬉しい」

「メディ様……」

 僕は、そう笑うメディ様を知らず知らずのうちに抱きしめていた。ぎゅ、と腕の力を強めると、メディ様もそれに応えてくれる。背中にまわされた細い腕が力を入れたのを知って、僕はメディ様の肩に顔を寄せ目をつぶった。メディ様が好んで使っている香水のにおいがする。

「僕は、……メリエル父上に、メディ様の心を守るよう言われました。でも、なんだか、僕のほうがメディ様に守られているみたいだ」

「それはそうですわ。メディはいつでもロカ様をお守りしているもの」

 けろりとそう言って、メディ様は僕から顔を少し離し、僕の目を見て茶目っ気のある表情をした。それが本当に「メディ様に守られている」ようで、僕は不思議とざわざわしていた心が落ち着くのが分かった。……メディ様が、僕を守っている。本当にそうだったのだ。

「守るなんて言っても、なにもできていなかったけれど。……姉さまのことだってそう。でも、マリア様が最後に姉さまを自由にしてくださったから、メディはマリア様を恨まずにいられている」

「その、父上がリディア様を自由にした、というのはどういう意味なのですか?」

 僕が訊ねると、メディ様は少し間を置いて、「……姉さまが駆け落ちしたいということを、最初にマリア様に言ったそうなの。姉さまがそんなことしたなんて、にわかに信じがたいけれど、きっと気持ちがあふれてしまっていたのね。そうしたら、マリア様は、姉さまの十七年間の償いになるのなら、と言ったそうで」

「……十七年の償い?」

「結婚生活のことですわ。もう十七年も経っていたのね。十七年もあって、一度もマリア様は姉さまに手を触れなかった……姉さまの淋しさが募っても、仕方ないですわ」

「――十七年……」

 ――僕は生れてもうとても長い時間が経ったと思っていた。でも、その僕と同じ時間、いや少しだけ長い時間が、リディア様とマリア父上の上にも流れていたのだ。その間全く手を触れず、顔も見合わせず、冷たい夫婦生活を送っていたということは、一体どれだけつらいものだったのだろう。想像すらできないほど長い年月を、リディア様は独りぼっちで……――

 ――駆け落ちは、しかるべき者のもとで起きたのだ。そのことに、僕はメディ様の言葉で初めて気がついた。いつかくる、しかしこないかもしれない。駆け落ちしなければ、きっといまもリディア様は独りだった。それは、どれだけ重く苦しいことなのだろう。

「少女の頃から、いままで、長い年月が経った。それでも、姉さまはマリア様と心を通じ合わせることが出来なかった。そんな姉さまを見ているのは、とても辛かったわ。メディだって、正室になる前からマリア様のことは諦めろと言っていました。それでも姉さまは諦めなかった。見てるこちらがつらい恋でしたわ。愛になるには幼すぎて、独りよがりの恋。――憧れだったのかもしれませんわね。でも、姉さまが本当に愛せて、愛してもらえるひとができたのなら……」

 ――もしかして、リディア様が服毒したときに「仕方ないことだった」と言ったメディ様の言葉は、この心内にあったのではないか。ふと僕はそれに気がついた。見てるこちらがつらい恋。マリア父上の事を諦めるように言っていた。マリア父上にリディア様への気持ちはないことをメディ様はもうずっと前から知っていて、服毒し子を宿せなくなったときに「ついにこの時がきた」とでも思ったのではないか。それはもちろん服毒で子を宿せなくなることを予知していたというわけではなく、マリア父上の気持ちが、どれだけの時間を過ぎてもリディア様に向くことはないと知っていたということで……。

「……ロカ様?」

 メディ様が、僕の頬にその手で触れる。びくりと一瞬体を竦ませてから、僕はゆっくりメディ様の表情を見た。メディ様は僕の目から流れたしずくを指先で掬って、僕を優しく抱きしめてくれた。「ふふ、どうしてロカ様が泣いてしまわれるの?」

「リディア様は、幸せになれるのでしょうか」

 涙が落ち着いてから、鼻声でそう僕が言うと、メディ様は僕の肩から少し顔を離して、とても近い距離で僕の青い目を見た。赤茶色の瞳はとても優しく僕を映している。

「なれますわ。きっと、いままで以上に。……マリア様が姉さまの幸せを奪っていた分、マリア様が姉さまを正室という立場から逃がしてくれたいま、マリア様が姉さまの幸せを作ったの。きっと、姉さまの生において、マリア様はとても大事な意味を持っていたのね」

 そう笑って、メディ様は僕の肩に手を置いた。僕は再び溢れて来た涙を自分の片手で拭って、しばらくそうして俯いていた。


「マリアの正室がいなくなって、世間ではミーシャが正室になるんじゃないかって言われてるみたいだぜ。実際のところどうなんだい?」

「馬鹿言うんじゃないよ。あんただって面白いってだけで訊いてるんだろう」

「でも、本当にそうなったら、マリア様は満足するのでしょうか」

 メリエル父上と母上の会話に、僕も参加する。当たり前になってしまったリディア様のいない王室では、メリエル父上が言ったような噂が流れていた。母上が眉間を曇らせたように、そんなこと、誰も本気で言っていない。だから僕も、少しからかう――とまではいかずとも、メリエル父上と母上に軽くそう訊ねた。メリエル父上は面白そうに笑い、母上はますます表情を険しくする。「満足しそうだけどね。さすがに王妃殿下が黙ってないか」

「そりゃそうだろう。私としてはむしろ、このまま側室からも捨ててもらったほうが良いんだけどね。もちろんロカも一緒にさ」

「僕は……どうなんでしょう。もうずっと長い間、王になれと言われてきたから、今更他の生活には……」

「そりゃマリアが喜びそうな言葉だな」

 メリエル父上がそう言うと、母上は黙り込んだ。なあミーシャ、とメリエル父上は言う。「本音のところはどうだい? 正室になりたいとか、リディアの席に座りたいとか、ないのかい? 正室になりたいじゃなくてもいいさね、まあ軽く世間からもマリアの本命に見られたいとか――いや、これはもう今更か。みんなマリアが本気で愛しているのはミーシャだって知っているよ」

「頭が痛くなるようなこと言うんじゃないよ。また片頭痛が起きそうだ」

 そんなメリエル父上と母上の言葉遊びに、僕はそっと笑う。このふたりはいつもこうして、どちらの部屋とは決まってなくても、言葉遊びに興じている。今更だけど――マリア父上よりメリエル父上のほうが、母上も話しやすいのではないだろうか。マリア父上と母上の会話はきちんと聴いたことがないから、僕としてもなんとも言えないけれど、僕のその推測は、多分間違ってはいない。

「本当に、祈師様ってのは意地の悪いところがあるんだなと思うよなあ。ロカの髪がもっと早く赤くなっていれば……でも、こうなることが思し召しだったのかもしれないな」

「こうなること?」

「だからさ。ロカが王候補として育てられることとか、まあ、ミーシャが正室に座ることをだよ。正室に座るとはまだ決まってないけど、そうなれば周囲はとても騒ぐだろうな。俺としては、そんな周りを見てみたくてね」

「あんたも大概性格が悪いようだ」

 ことん、と飲んでいた紅茶を置いて、母上は頭に手をやる。「――本当、なにがどうなってこうなったんだろう。私なんてそこらへんに落ちてるガラクタなのにさ……」

「――まだガラクタって言うんだね、ミーシャ」

「なにか悪いかい? 本当のことだろう」

 ふん、と鼻から息をつき、母上は両腕を胸の前で組んだ。メリエル父上は困ったように笑う。「まあ、ただのスラムの娼婦だった時はガラクタだったかもしれないね。でも知ってるかい、ガラクタだっていつの間にか高値がついたりするんだよ。君はそれさね」

「馬鹿げてるね。ガラクタはどこまで行ってもガラクタだよ」

「――リディアみたいな宝石には敵わなくとも、マリアにとっては君は最上級の宝石だろうね。俺としても君はそこそこの宝石だよ」

「そこそこって言ってしまうんじゃないか。そこそこの宝石ってなんだい」

 母上が渋面で言った言葉に、僕はついに噴き出した。こちらを見た母上に、いや、と僕は言葉を紡ぐ。「……母上がそこそこの宝石なら、僕もそこらへんに置いてあるガラクタですね」

「ロカはガラクタじゃないよ。ロカこそ宝石だと思うね」

「――親ばかだなあ。まあ、でも、俺もその通りだと思うよ」

 母上とメリエル父上が真顔でそう僕に返してきたもので、僕は少し頬と首筋が熱くなるのを知った。ただの言葉遊びに興じているだけだけれど、そうやって不意に言われると、大事にされてることが伝わってきて、なんとなしに恥ずかしくなる。

「まあ、その話はここまでにして……」

「――メリエル殿下」

 僕が話を終わらせようと口を開いたのと同時に、部屋にやってきた従者が厳かにメリエル父上をそう呼んだ。メリエル父上は一瞬とても驚いた顔をする。こんな風に母上と話しているときに、その話の腰を折るような従者は、メリエル父上の従者の中には居ない。――なにか重大なことが起こったのだろうか、メリエル父上の耳元で何事かを囁いていた従者の口が耳から離れるのとほぼ同じ瞬間に、メリエル父上の顔色が蒼白に変わった。「……ミーシャ、ロカ」

 低い声でメリエル父上は僕らの名を呼ぶと、「すまない。俺は席をはずす」

「どうしたんだい? あんたがそんな顔を……」

「――話は後だ。行こう」

 母上の言葉をさえぎって、メリエル父上はそう呟き従者と一緒に本当に室を出て行った。

 メリエル父上の部屋なのに、当の本人がいなくなるという頓珍漢な事態に、僕はうすら寒いなにかの予感で自分の背が凍るのが分かった。いつもではありえないことが起こっている! なにが起きたのだろう。メリエル父上が、母上との会話を中断してまで、あんな真っ白な顔をして……。

 それからなんとなしにずっと長い時間、メリエル父上の部屋の応接間のソファにふたり並び、押し黙って座っていた僕ら母子を、マリア父上が呼んだ。メリエル父上の部屋に僕らがいることを聴いて、と前置きし、すうと息を吸って、真っ青な顔のまま――ロカ、とマリア父上は僕の名を呼ぶ。「父上――……いや、……国王陛下が、倒れた」

「えっ?」

「なんだって?」

 僕と母上が、同時にそう目を白黒させる。顔を見合わせ、すぐに僕らはマリア父上の顔に視線を合わせた。マリア父上は、静かな声で続ける。「崩御したんだ。いまなにが起きたのか、緑旗(メディクス)が調べている」

 緑旗、というのは、王宮の騎士団のうちのひとつであり、医療に携わっている軍団だ。なにかが国王陛下に起きて、その結果陛下が崩御した……。そのことを察して、僕は言葉を飲み込む。――そんな、まさか! こんなに急に? どうして……。

「頭の血管が切れたか、心臓発作か……そんなところだろうね。僕が次の王になることに決まった。ミーシャ、君は王の正室――王妃になる」

「はあ? あんた、なにを言って……本気で……」

「――僕を支えてくれ、ミーシャ」

 マリア父上の、切羽詰まったような声を、僕はそのとき初めて聴いた。母上はその声に、困惑し苛立ったような顔から、すっと感情を沈めた。マリア父上の心の声が、そのとき漏れ出たようだった。僕も、すうっと顔から血の気が引いていく。

「母上の傀儡でいるのに疲れたよ……僕を守ってくれているのは、父上ただひとりだったのに……このままでは、僕は人形のまま王座に就く。せめて、君がそばに……」

「――マリア」

 ふらりと足元を揺らして、マリア父上は泣きそうな顔で母上に縋る。そんなマリア父上の平静ではありえない様子に、母上はなにかの決意を固めた顔でマリア父上を見た。「逃げよう」

「母上?」

 僕が驚いて声を上げる。母上は、マリア父上の困惑と対照的に静かだった。「――世を捨てるんだ。ロカ、あんたもおいで」

「世を捨てる……?」

 マリア父上が、母上の言葉を反芻する。僕は驚いて声が出なかった。「……僧になるとでも言うの? 僕が? ミーシャ、君は……」

「そうだよ。僧になろう。私に正室なんて大層な服を着せるより、よっぽど現実的だと思うね」

「本気で言ってる?」

 マリア父上が、母上の目を見つめる。母上の目を僕も見ると、その目はとても落ち着いていた。――本気だ! 本気で、僧になると言っている! 世を捨てる? そんな……。

「ロカ、あんたはどうする? 私とマリアについておいでよ」

「ぼ、僕は……」

 母上の静かな誘いに、僕はうんともいいえとも言えずに言葉を呑んだ。


 夜が更けると、貴族たちの声で騒がしい王宮も静かになる。王族が住まうこの塔も、陛下の訃報でざわついていたのが、しんと静まり返っていた。僕はベッドから体を起こし、ひとり俯いて座っていた。隣で眠っていたメディ様が、僕がベッドにいないことに気付いたらしく、僕の側にそっと座った。僕はそちらを見て、メディ様であることを確認して再び視線を自分の膝に落とした。

「ロカ様、メディは、ロカ様がなにを選ぼうとついて行きますわ」

「……」

 黙り込む僕の手を、そっと小さく細い手が包む。――そういえば、会ってばかりのときは、僕の手とメディ様の手は、形こそ違えど大きさは僕の方が少し大きいかな、くらいだったのに、いまではメディ様の手は、僕より一回りも小さい。

 ――時が、経っている。

 そう、時が経っているのだ。自分の血筋を何も知らず笑って、メリエル父上だけを父として生きていたあの五歳の頃から、十一年も経過している。昔の僕なら、僧より騎士が良い、というだろうか。王なんて、考えもしないだろう。いまなら、マリア父上も母上も、僕が騎士になることに反対はしないだろう。僧になると決めなくとも、王でないなら――……。でも、僕は十一年を、「王になる」と思って過ごしてきた。騎士なんて夢物語だと思っていた。突然、こんななにもかもの際になって、今更のように様々な可能性を提示されて、僕はいささか困惑していたし、怒ってもいた。――今更だ。なにもかも今更。僕の人生にこんな瞬間がくると知っていれば、僕は正室も側室も、王位継承者ということも、なにもかも、自分の人生で諦めてきたあの「瞬間」は訪れなかったのではないか。

「今更……そんな……」

「ロカ様?」

 ぼそりと呟いた僕の声に、隣で優しく僕を見つめているメディ様が反応した。僕はゆるりとメディ様の目に視線を合わせる。赤茶の瞳は、この暗い室で黒く見えた。「僕は、王になると思って生きてきた」

「今更僧になれというのも、他の生き方も、なにもかも今更なんだ。最初から僕に王位を継承させないのであれば、母上もマリア父上もいないのであれば、僕はもっと自分に正直に生きれたのでは……いや……」

「――ロカ様の仰る通りですわ。でも、マリア様はきっと、生きている間人形でいる自分を支えてほしかったのでしょう。だからあんな風に、ミーシャ様に頼り、ロカ様に頼り……最終的に自分が本当に王位に座り、傀儡となって国を牛耳ることに恐怖を覚えた」

「――分かるんです。あんな風に母上に縋る父上なんて、初めてみた。僕だって、そんな想像はつくんです。でも、あまりに今更だ」

 「怖気づいて僕をけしかけるくらいなら、最初からなにも言わないでいてほしかった」と僕が言うと、メディ様は僕の手をぎゅっと握った。温かな体温に、僕ははっとメディ様を見る。「……仕方なかったのですわ」

「僕は……騎士になりたかった。青旗になりたかったんです」

「青旗?……そういえば、ロカ様は魔法が使えたんでしたわね」

「いまはほとんど使っていませんが、十五になってすぐの頃くらいまでは、時々手遊びのように使っていました。でも、そんなのは夢物語だと思っていた。僕は王になって、マリア父上に愛されたいと……そう、意地になっていた」

「――でも、違うのでしょう? 十五まではそうでも、メディの目には、出会った頃から今までのロカ様は、意地とは違うように見えていました」

「僕は……」

 ぎゅ、と目をつぶると、僕がこの道を進むために捨ててきたミュゼ姉上やレオ様の顔が浮かんだ。あの二人も――ミュゼ姉上は王宮に呼んだ後の辛い日々を送らなくても済んだのだろうかと、レオ様は――あんな喧嘩も、その後の極刑も……今頃レオ様も、元気で生きていたのではないかと……そう、思ってしまう事が、僕にはあまりにも辛かった。僕の我儘や、王位継承という服が招いたことが、あまりにも多すぎる。それから今更はい逃がしてあげますよと言われたって、僕の心が付いてくるわけがない。そう、そんなわけがないのだ! マリア父上も、母上も……勝手に……でも……。

「――ロカ様。ロカ様は、夢はありますか?」

「……夢?」

 硬く目をつぶり押し黙っていた僕に、メディ様がふとそんな声をかけた。僕はすうと目を細め、メディ様を見る。「夢ですわ。メディにはあります。メディは、ロカ様の正室として呼ばれる前は、田舎に住むことが夢でした」

「田舎に住むこと……」

「そう。ゆっくりとした時間の流れている、心地のよい気温の田舎に住んで、旦那さまと一緒に笑いながら暮らすの」

「……良いですね。僕の五歳までの故郷も、そんな場所でした」

「いま、メディはロカ様の側にずっといることが夢なの。ロカ様はとても優しくて、私を女だとさげずまず、いつも対等でいてくださる。そんなところが好きなの」

 メディ様の言葉に、僕は目を丸くする。それから再び膝に視線を落とし、僕は俯いた。

「だから、どこにでもついて行きますわ、ロカ様。騎士でも、僧でも――王でも」

「……僕が王になったら、きっと貴族たちはついてこない。無残に死ぬことになるかもしれない。そう言った不安を、考えたことはありませんか」

「ないと言ったら嘘になりますわ。でも、知っていますか、ロカ様? ロカ様は、こっそりだと思っているようですけれど、騎士たちはロカ様が自分たちにあこがれていることを知っているのよ。騎士からの人望が、とても篤いの。ライリオン様も、ロカ様を支えると公言してくださっているの」

「え?」

「驚きました?」

 ばっと顔を上げた僕に、メディ様は微笑む。「メディの冗談でも、なんでもありませんのよ。本当のこと。騎士たちはロカ様について行きたいと言っていますわ。ライリオン様の血筋のこともあって、とても近くに感じているのかもしれませんわね」

「……僕は……」

「――決意は固まりましたか」

 メディ様の言葉に、僕はやっと、メディ様をまっすぐ見ることが出来た。


「ロカ・リメル=キングストーン。君はどうする?」

 マリア父上が、玉座に僕を呼び、たくさんの位の高い貴族や騎士たちの前でそう訊ねた。いま、マリア父上が座っている玉座は、実質空っぽだ。一応はマリア父上が継いだように見せているけれど、まだ儀式も行っていないし、そもそもマリア父上は……。

「――僕は、王になります」

「ロカ!」

 玉座の隣、王妃の椅子に座ることもせず、マリア父上の隣に立っていた母上が驚いて声を荒げる。僕は母上をまっすぐ見て、笑った。「王になります。母上、ごめんなさい」

「――決意は固いのかい?」

 貴族や騎士たちの先頭に立っているマリア父上の代の他の王子たちの一団から、メリエル父上がこちらに声をかける。場はざわりと小さくざわめいていて、僕はひそひそと言葉を交わす位の高いひとびとの中から簡単にメリエル父上を見つけた。その姿を、覚えてしまうほどに見ていたのだから。「はい。そのために生まれてきたのだと、僕はやっと思えているんです」

「――ロカ・リメル=キングストーン」

「はい」

 マリア父上が、厳かに僕の名を呼ぶ。僕は背筋を伸ばし、はっきりとした発音で返事をした。

「僕は、僧になる。この空の玉座に就くのは、君だよ、ロカ」

「――はい!」

 視界の隅で王妃様の顔色が蒼白に変わる。マリア! と、ヒステリックに王妃様が叫ぶのが分かった。「――僧になるなんて、一体何を……!」

「母上の人形でいることに、飽き飽きしたんです。次、ロカの邪魔立てをすれば、そのときは僕があなたを殺す」

 マリア父上の言葉に、王妃様は顔からますます血の気を失くし、ぐらりと体を傾けた。付き人がそばに駆け寄り、王妃様を支える。王妃様はそれきり、その場に座り込んでなにも言えなくなったようだった。

「祝福するよ、ロカ!」

 メリエル父上の声に、僕は再びメリエル父上の方を見る。そして歯を出して笑った。「ありがとうございます!」


 「人柄の王」と言われ、貴族からの反感はまあまああるものの、騎士や下々の者たちからの支持が篤く、なんとか位を保って五年の月日が流れた。

 ――ロカ一世。国王陛下。

 そう呼ばれるのも、なんとなしに慣れてきた。

 いま、メディ様にひとり、女の子と、お腹にもうひとり、子どもがいる。そして、リフレ様にも、メディ様との長女の次に長男が生まれていた。

 ――僕は、いま、とても幸せだ。

 そう。僕はとても幸せに暮らしている。ときどきメリエル父上の領土に行って、僕ではない他の方の子を産んだミュゼ姉上とも親交があった。もちろん、その夫とも。

 マリア父上と母上は、ふたりで僧になり聖界の高位についた。それはそれで幸せそうで、僕らは本当に、この五年の月日を、とても幸福に過ごしていた。

 メリエル父上も例にもれず、今まで通り下町を歩いて楽しんでいる。

 ――僕らは、いま、とても幸せだ!


 王たるべく生まれたわけではない。

 僕は心が弱く、甘えたで、いつも間違った選択をしていた。

 ――それでも。いまが幸せであるのは、間違った選択をし続ける自身を、きっと、認めることができたからだろう。

 間違えても良い。失敗しても良い。その先にあるのは、いつも「幸福」だ。

 ――信じることができたら、その「不幸」は「幸福」となるのだ。いつだって。


 僕は、強くなんてないし、「王」に足る人柄でもない。

 それでも。


 僕は、いま、幸せだ。


(了)2017/06/14.

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