僕が僕らしくない「あんなこと」をしてしまったのは、彼のせいでもあるし――勿論自分を律することが出来なかった僕のせいだ。

 その日、僕は庭園をぼうっと歩いていた。散歩というより徘徊に近いような歩き方で、花々や草の青を楽しんでいたわけでも、踏みつけてさくりさくりと鳴る芝生の感触を確かめているわけでもなかった。僕はぼうっと、本当にぼうっとしながら庭園を歩いており、ふと彼の波打つ黒髪を見た瞬間、一瞬誰だか分からなかった。

 僕は彼のような黒髪の持ち主を四人知っている。ひとりはミュゼ姉上。そして隣国の王女だったというメリエル父上の正室のお姫様。そしてメリエル父上。……、と。

「……? なんだ、誰かと思ったら反逆者殿じゃないか」

「……レオ様」

 下卑た笑いを零しながら言った彼――レオ様の言葉に、僕はぱちぱちと目を瞬いた。それからふうと息を吐き、くるりと方向を変える。彼には、……会いたくなかったのだ。「なんだよ、逃げるのか? ロカ殿下」

 きゅ、と芝生を踏む足を止める。僕はレオ様の方を冷ややかな目で振り返った。「あなたと話すことがないだけですよ、レオ様」

「そんな口を聞くようになってたのか、ロカ殿? リディア様に毒を盛ったそうじゃないか。いかにも下品な血を引く君らしい」

「……」

 僕はレオ様を無視することに決めた――のだけれど、言われっぱなしもこのひとに言われる筋合いもないと思ってしまって、気持ちの整理を上手くつけることができなかった。一言言ってやろう、と息を吸う。「……リディア様は、本当に可哀相です。こんな、血の通ってないニンゲンに毒を盛られるなど」

「なんだと?」

 僕の言葉に、分かりやすくレオ様が顔色を変える。そんな彼をちらりと見て、僕はその場から去ろうと踵を返した。と、突然なにかが頬にぶつかって、僕はざっと音を立てて芝生の上に尻もちをついた。キーンと耳の奥が鳴る。……え?

「――わけのわからないことを言うから、痛い目に遭うんだぜ」

「……え?」

 ぐっと口の端をぬぐうと、そこにはうっすら赤黒いものが付いていた。呆然とそれを見つめて、いまだに鳴る耳鳴りを聴きながら状況を僕なりに整理して、そして初めて――殴られた? 僕が? 誰に?……レオ様に?

 状況を解した瞬間、僕はカッと自分の頭に血が昇るのが分かった。次の瞬間、効き手のこぶしにはっきりと硬い骨と薄い皮の感触を覚える。ど、っと鈍い音が鳴り、レオ様が芝生の上に尻をつく。「っ、わ!」

「……先に殴ったのは、あなたですからね、レオ様」

「――やってやろうじゃないか!」

 にや、とレオ様が笑って口の端を歪めたのを、最後に覚えている。瞬間、気がつくと、僕は芝生の上に倒れ込んでいた。げほ、とお腹を丸める。痛い。痛い――なにがあった? どうしてこんなに腹が痛むのだろう……見ると、視界の端にレオ様の派手な色のズボンの裾が見えた。僕はとっさにそれにしがみつく。わっ、とレオ様が叫ぶ声が聴こえて、聴こえたと思ったら次にはレオ様が盛大に転倒した。がつんと頭をぶつけたらしい鈍い音の後、一瞬静かになり、レオ様はがばりと上体を起きあがらせて僕を睨む。「――喧嘩なんて出来そうにないと思っていたけれど、なかなか楽しめそうじゃないか?」

「……僕を蹴りましたね、レオ様」

 にやり、と僕も笑う。運がいいのか悪いのか、ぼうっと歩いていた僕も、なにをしていたかは知らないけれどレオ様も従者や侍女をつけておらず、僕は一瞬ちらとそれらの姿を探してまた再び口元をゆるめて笑んだ。どちらも従者をつけていないということは、つまり横合いから邪魔立てされることが無いと言うことだ!

 僕はレオ様の脚にまとわりつかせていた片手を解いて、すばやくレオ様から離れようと腰を浮かせる。するとレオ様のほうが一瞬早く、僕の腹を再び蹴飛ばした。げほっ、と僕は胃の腑のものを少し吐きだす。げほ、げほと吐いている間大人しく見てくれるわけがなく、レオ様は再び僕の横腹をがつんと蹴った。僕は情けなくも再びごろりと芝生の上に鈍く転がる。

「……ぇっ、うっ」

「ははは! なんだったかな? 僕を蹴りましたね、だったか?」

 レオ様は屈み、転がって動けない僕の首元を掴んで、僕の顔を覗きこんだ。底意地悪く歪んだ眉をぼうっと眺める。「蹴ったよ、蹴った! はは、それで? 何が言いたかったんだ?」

「……リディア、様に」

 僕は意識が薄れて行くのを感じながら、口を動かす。声が上手く出ない――ああ、二度三度蹴られたお腹が、体のあちこちが痛い。

 レオ様は、僕が呟いたその名を聞いて眉根をしかめる。「リディア様に……毒を、盛ったでしょう、レオ様?」

 ふっ、とレオ様は顔をこわばらせた。僕はその一瞬の隙をついて、ぺっと近づいていたレオ様の顔面に唾を吐いた。運悪く目に入ったらしく、うわっと声を上げてレオ様が僕から引いた。僕はゆっくり起きあがり、こちらを睨んでいるレオ様を睨みつける。「リディア様に、毒を盛ったのは、レオ様、あなたでしょう」

「――何の話を」

「しらばっくれる、気ですか? 僕は聞いたんだ。はっきり、あなたと王妃様が――」

 がつん、と傍の木の幹に頭が打ち付けられる。――レオ様が、僕が言い終わるより早く再び僕の襟元を掴んで頭を打ったようだった。僕は状況をそれだけ整理するのに精いっぱいで、けほっと咳こむ。

「――お前だって、親に恵まれただけのクズだろう?」

 レオ様がそう言ったのを最後に、僕の意識は暗転した。


「――カ! ロカ!」

「……シャ。離れて。いまひとが――」

 次に意識が浮上した時、傍にレオ様の影は無くなって、代わりに何度も見た桃色の髪がふわりと揺れた。桃色の髪を揺らしている女性は僕の目が開いたのを見ると、ぼろぼろと涙を零した。視線を動かすと、僕の意識が戻ったのを見ながら、少し焦っているかのような表情で、金髪の男性がひとを呼んでいた。「――マリア! ロカの意識が」

「……ロカ。平気?」

「……ち、うえ」

「ロカ! 大丈夫かい? 頭を打ってるね?」

 桃色の髪の女性――母上、が、僕の上半身を抱きかかえているようだった。体はずしりと重たく、頭と腹が一番痛むものの、全身が痛い。場所は先ほどレオ様と喧嘩をした庭園の中であるようで、状況を簡単に整理すると、どうやら僕は母上とマリア父上に怪我をして意識を失っているところを見つかったようだった。

 ――ひとりで目が覚めればよかったのに。

 マリア父上と母上の心配をよそに、僕はあまりにも自分が格好悪くてそんなことを頭の片隅で思う。見つかって良かったというのと見つかりたくなかったという気持ちは半々だったから、見つからなければよかったと思う一方で、こんな最悪の見つかり方をしたのなら、その犯人であるレオ様はこれからどんな罰を受けるのだろう、と思うと、少しだけ僕は見つかってよかったなと意地の悪いことを思った。

 ――毒の罪で裁かれることが、ないのなら。

 ――他のどんな罪だっていいから、彼が裁かれるのなら。

「ロカ……! なにがあったんだい? どうしてこんな……」

「ミーシャ、今はロカに喋らせない方が良い」

 なにも考えられないほど混乱しているらしい母上の様子を、僕は遠いもののように思った。とても遠いものだ。こんなにも自分の唯一の母親を心配させるようなこと、していない。していない――だけれど、彼が罪を償わさせられる可能性があるのなら――……。

「……」

 僕は、口を噤んだ。一言言えば良いのだ。レオ様は? と。そう訊ねるだけで、マリア父上と母上にはなにが僕の身に起こったのか、完全にではなくとも理解してくれるだろう。しかし、僕はそれをしなかった。……出来なかった。

「……う、あ」

 ぼろ、と涙がこぼれる。僕はそれを拭って拭って、それでも溢れる涙を零して、母上にもマリア父上にも縋らずに大声で泣き喚く。「あ、あああ、ああああ」

「――ロカ? どうしたの? どこか痛むのかい?」

「――なにしてるの、早く! ロカを僕の私室に――」

 マリア父上と母上が、僕の心配をしている。それでも涙は止まらなかった。


「なにがあったか、ちゃんと話すんだ、ロカ」

「ロカ、こういうことはきっちり話しておくれよ。もし……あんたがまた……」

 マリア父上の部屋のベッドに寝た状態で上体だけを起こし、僕は母上とマリア父上のふたりと対峙していた。僕は大泣きした後にマリア父上の私室に連れて行かれ、怪我が治るまで大事ないようにとこの部屋で過ごすことになったのだけれど、そこで一日経った頃に、そろそろ口を割るだろうとマリア父上と母上が僕の元へ集まったようだった。メリエル父上は、と一瞬思ったけれど、考えてみればマリア父上がメリエル父上を自室に入れるわけがない。僕の怪我があらかた治り、この部屋を出た後の方が、このことを隠すのは大変そうだ――と、僕はふとそれに気が付いた。メリエル父上はきっと、自分の息子のことだからなにか気付いているだろう。それでもマリア父上にも、仲が良かったはずの母上にもなにも言わないのはなぜだだろう? レオ様がうまく隠しているのだろうか。なんだか、レオ様はメリエル父上の息子だけどメリエル父上と違って、そういったことを隠すことには慣れていない気がしていたのだけれど。「なにもありません。ただ、ちょっと転んで」

「嘘だ。腹に蹴られたような痕があったし、頭だって少し血が出ていただろう? 転んだくらいでそうなるとは、とても――」

「――父上。僕はただ転んだだけなんです」

 ――僕がレオ様をかばうのは、「レオ様をかばう」ことが目的なのではなく、「レオ様に喧嘩で負けてしまった僕が恥ずかしいから」隠しているのだった。情けない話だけれど、少し痛い目を見せてやろうと意気込んだのだから恥ずかしくって仕方がない。元々喧嘩なんてする方じゃないし、やり方も分からなかったから、仕方ないと言えなくもないかもしれないけれど。

「……マリア。私とロカを二人きりにしてくれないかい?」

 そんなことを考えながらマリア父上に転んだ転んだと嘘をついていた僕を見かねてか、母上が突然マリア父上にそう頼んだ。マリア父上は一瞬考えた後、「そうだね」

 そう呟いて、マリア父上は従者や侍女を部屋から出し、自分も出て行った。「もしものときのために、部屋の外には今まで通り騎士と従者を置いておくから」

「……ロカ。私には話せない?」

 母上は部屋の中だけでも僕と二人きりになると、そう優しく僕に訊ねた。僕はうっと言葉が詰まる。「話せない?」と言われれば、「話せない」等とは言えない。……分かってやっているわけではないのだろうことが、また僕の罪悪感を揺さぶる。

「話せない、だなんて……」

「――喧嘩したんだろう?」

 母上の洞察に、ぐっと僕は言葉を呑んだ。「喧嘩をしたんだ。それで、負けたんだね。若いから仕方ないことかもしれないけれど、何度もやられるようだったら、ちゃんと言うんだよ。二度目はないからね」

 母上はそう小声で言うと、はあと息をついた。それから再び口を開く。

「……あんたは、昔から喧嘩は上手くなかったから。年頃の男の子なんだ、そういうことがあってもおかしくはないよ。でも、あんたは腹を蹴られて頭を打ちつけられて、意識まで飛ばさせられてたんだ。親に言わなくていい領分を超えているんだよ。分かるだろう?」

「……」

 僕はなにも言えずに下を向く。ぎゅっ、と布団のシーツを握ったこぶしに力が入った。母上はそんな僕の片手に自分の手のひらを載せた。ひやり、と冷たくなっているそれに、僕は一瞬とても驚いて、それからこんなに冷えた手のひとだったろうかと考えた。僕の幼い記憶では、母上の手も、メリエル父上の手もとても温かくて……抱きしめられると安心して――……

「次はないからね。次があったらちゃんと口を割ってもらうよ」

「……はい、母上」

 ――もしかして、母上はこんなにまで手のひらが冷たくなってしまうほど、僕の身を案じたのだろうか? その推測は、間違ってはいないような気がした。勿論、それを率直に訊ねることはしないけれど。

「私はあんたが治るまでこの部屋にいるよ。なにか言いたくなったら、すぐに二人きりにしてもらう。それくらいできるから、ね?」

「はい」

 母上がそう目元を和らげると、僕も少し微笑んだ。マリア父上の嫌いな「作り笑い」だけれど、僕はそれを嫌だとか嫌いだとか思ったことがない。

 僕と一通り会話を終わらせると、母上はそっと立ち上がって部屋の戸を開け、扉の前で警備してくれていた騎士と従者にマリア父上を呼んでくるよう事付けた。それから僕の元へと戻って来て、また冷たい手で僕のこぶしに触れる。「マリアを呼んだよ。マリアにはもうあんたが治るまで、私がこの部屋に居る許可は取ってある。……マリアに何を訊かれても、あんたがマリアに言いたくないと思うことだったら、言わなくて良いから。あいつが出てくると、事が大きくなりすぎるからね」

 母上の言葉に、僕は一瞬きょとんと目を丸くする。それから少し苦笑した。「……そうですね。本当に」

「――ロカ様!」

「リフレイズ殿下、ロカ殿下はいまお体をお休めしているところですので……」

 マリア父上を呼びに行った従者と入れ違いに、そんな声が聴こえてきて、僕はぱっと戸の方を見た。母上の手からこぶしを滑らせて離れ、ぎし、とゆっくり戸の方へ歩く。頭が痛み、腹もずきずきと痛みを宿している。リフレイズ――その名は、もう何度も、飽きるほどに聴いた。

「……リフレ様」

「ロカ様……!」

 僕がそうその名を呼ぶと、戸番に中に入れてもらえずに居た彼女がぱっと表情を明るめた。その瞳の縁に、良く見ると滴が溜まっている。「ロカ様、お怪我の具合は? 大丈夫なの? どうしてこんな……」

「――なんでもないんです。若気の至りで。リフレ様もご心配なさらず――」

 僕がそう言葉を紡ぐ最中に、ぱちんと音が弾けた。僕の片頬がじんと痛む。――叩かれた、と気付いたときには、僕は怒りや呆れよりも驚きが勝った。リフレ様はぼろぼろと涙を零しながら、きっと意思の強そうな目で僕を睨む。「リフ、レ……」

「――何が、ご心配なさらず、よ! 心配するに決まっているでしょう! なんで、こんな、私……う、うあ、あああ……」

「リフレ様……」

 ロカ殿下、と僕の頬の心配をしながら泣きだしたリフレ様を交互に見る戸番をあしらって、僕はリフレ様の肩に触れた。しかし、そんな僕の手もリフレ様はぱしんと跳ねのけてしまう。「わ、たし、ロカ様が大けがしたって聞いて、居ても経っても……」

「――ごめんなさい。ごめんなさい、リフレ様。ごめんなさい……」

 僕はそう何度もリフレ様に謝りながら、震えるその肩をそっと抱いた。リフレ様の華奢な肩はぶるぶると震えており、その手を握ると母上のそれのように冷たくなっていた。僕はリフレ様を抱きしめながら、そうか、と思った。――僕が怪我をするということは、僕の周りのひとを傷つけるということなんだ……

 しばらくそうして身を震わせながら泣いたあと、リフレ様はふと僕を見上げた。泣きはらした顔は良く見ると化粧もなにもしておらず、もしかして彼女は起きて知らせを聞いたあと、仕度もなにもせずに慌ててやってきたのだろうか、と僕はそのことに気が付いた。良く見ると、服も寝巻のままで、いつもの色鮮やかな立派な仕立てのドレスを着ていなかった。

「……ロカ様。もしかして、レオ様ですか?」

 とても小さく、耳元を掠って消えてしまいそうなほどの声量で、彼女はぽつりと僕に訊ねた。僕はちょっと目を丸くする。「えっ……」

「レオ様とロカ様は、一段と仲が悪いと聴いておりました。それに、レオ様は……」

「――リフレ様」

 そ、と僕は僕の口元に、人差し指を立てる。「それは、秘密にしてください」

「どうして?」

「だって、情けないでしょう」

 至って真面目に僕がそう言うと、リフレ様は一瞬ぱちくりと目を見開いた後、なぜだか少しだけ笑った。


 メリエル父上とその後会ったのは、一週間ほど後のことだった。怪我は全快したわけではなかったけれど、一応動けるようにはなっていたから、僕はそのときあのあとから「初めて」自分の私室に戻って、そして体を休めていた。隣にはメディ様が座っており、恋愛小説だと言う本を開いていて、僕はやっと自分の日常に戻った気がして安心していた。

 メリエル父上は、なんだか見たこともないほど暗い顔で、目の中の光も、いまは失ってしまっていた。彼は僕の座っているソファの傍に来て僕の手を取ると、メディ様に、「妹君は席をはずしてくれるか?」

 メリエル父上のその言葉を聞くと、メディ様はなにも言わずにそっと部屋から出て行った。ぱたん、と戸番が戸を閉める音が鳴った後、メリエル父上は戸の方を振り返りメディ様が居ないことを確かめてから、ロカ、と僕の名を神妙に呼んだ。「すまない。まさか……俺も、あいつがこんなことをしでかすとは思わなかった」

「……僕も、悪かったんです。少し、……苛々していて」

 そう言って、僕は目線を落とした。メリエル父上は、いや、となにかを否定してから、それからまたロカ、と僕を呼ぶ。「なにがあろうと、あいつはやりすぎてるんだよ。お前が腹を蹴られて、頭から血を出して倒れてるって聞いた時に、俺はすぐに気付いたんだ。謝りに行かないとと思っていたんだけれど、……何と言えば良いんだろうな。いつもはこんなに及び腰にならないのに、俺は実際あのときお前に会って自分の目でお前を見るのが怖かったんだ。あいつの父親は、俺だから……俺の子が、俺の子に……」

 そこで言葉を切ったメリエル父上を、僕はちらりと見た。メリエル父上はうなだれており、その、レオ様とあの日見間違えた豊かな黒髪が垂れていた。彼の手も、僕の記憶のなかのものと違って冷たく、その緊張が伝わってくるかのようだった。メリエル父上がこんなにも感情をもてあましているのを、僕は今の今まで一度も見たことがなかった。「……父上」

「……俺は、お前にまだ父だと思ってもらえているかい?」

 メリエル父上は、そう僕に小さく訊ねて顔をあげた。その顔はくしゃくしゃに歪んで、泣きだしそうにも見えた――「……当然です。どうして僕が父上を父だと思わなくなるんですか……」

 僕の声も小さく、メリエル父上に聴こえずに消えてしまうほどのか細いものだった。しかし父上にはちゃんと聴こえたらしく、彼はさっと笑みをつくってその髪を掻きあげた。「そうか。そうだな」

「でも、本当に今回は申し訳なかった。俺はマリアにあいつを差し出す気に、まだ、なれないでいるんだ。お前がこんなに怪我をして、辛い目に遭ったというのにな。ごめんな……」

「……悪いのは、父上ではなく僕と彼です。だから、そんな風に謝らないでください」

 そう言って、僕はメリエル父上の手を強く握った。ぎし、と骨がきしむ。メリエル父上はちょっと僕が握りしめた手を見て、また僕に視線を移した。その目は光っていた――……涙?

 しかしそれは一瞬のことで、次の瞬間には涙は無くなっていた。

「ロカ。怪我の具合はどうだい」

「――もう随分良くなりました。あとはこの一週間で無くなった体力を取り戻すだけです」

 そう言って、僕は笑う。メリエル父上も笑ってくれた。実際に、僕はこの一週間ほぼ寝たきりだったために体力が著しく減っていたのだった。衰弱――という言葉が脳裏をかすめて、僕はすぐに頭を振ってその単語を追いだした。

「そうか、良かったな、本当に……。それじゃ、この果物は要り用だろ?」

「え? わっ……」

 そう、さっとテーブルの上に置いていたなにかを僕の目の前につきだして、メリエル父上は笑った。それはかごに入ったなにかで、良く見ると、その他に三つ、同じ大きさの大きなかごが床に置いてあった。それらは全て白い布を被っており、メリエル父上が持ちあげたかごの布をさっと彼が取ると、中に沢山の果物が入っていた。「そのかご全部果物ですか?」

「そうだよ。ロカ、果物好きだっただろう?」

「はい! でも、こんなに沢山貰うのは初めてです。食べきれるかな」

「食べきれなかったらそれはそれで良いんだよ。あの妹君やお姫様と食べてくれ」

 そう言って、メリエル父上は白い歯をにっと見せる。僕はそのメリエル父上が掲げているかごひとつ両手で受け取って、中をしげしげと見た。沢山の色鮮やかな果物は、どれもつやつやと美味しそうに、照明の明かりを受けて光っている。

「メディ様も、リフレ様もきっと喜びます。ありがとうございます、父上」

「いやいや、俺はこんなことしか出来ないからな」

 「ミーシャも好きだったか?」と僕に訊ねて、メリエル父上は首を傾げた。僕も一緒に首を傾げて、それから、「さあ……でも、甘いものはあまり食べなかった気がします」

「ミーシャはだからやつれているんだな。余ったら無理にでも食わせてやれ」

 「足りなくなったら言っておくれよ。もっと大量に贈らせてもらう」と言って、メリエル父上は笑った。僕も笑う。「はい。そうします」

「じゃあな、ロカ。また来るからな。あいつも、もっとよく叱っておくよ」

「――はい。それでは、父上。また」

 そう手を軽く上げて、父上は僕の部屋から出て行った。入れ違いにメディ様が室に戻って来て、再び僕の傍に腰かけ、手に持って出て行っていた先ほどの恋愛小説を開く。「メリエル様からですの? その果物は」

「そうです。メディ様も食べましょう」

「そうですわね、それでは、切らせましょう」

 そう微笑んで、メディ様はかごからひとつ果物を取り、侍女に手渡した。

 一口二口と口に含んで飲みこみ、メディ様は読んでいた小説をぱたんと閉じた。それから立ち上がり、侍女にまだ果物の残っている皿を渡す。「ロカ様。そろそろお休みください」

「え? いえ、僕はまだ平気ですよ」

「だめです。あんな大けがなさっていたんですから。メディがどれだけ心配したか、分かっておられますの?」

 そうちょっと眉をあげ、メディ様は腰に両手を当てて仁王立って見せた。それからふとその表情を緩め、くすりと笑う。「お休みくださいませ、ロカ様。まだ完治なさっていないのでしょう」

「……はい、そうですね。メディ様がそうおっしゃるのなら」

 そう言って、僕も微笑む。メディ様は僕がベッドに横たわるのを見てから、そのベッドの縁に腰かけた。腰辺りで布団がくしゃりと凹む。「メディはここにいますわ。ロカ様、安心なさって」

「なんだか子どもに戻ったみたいだ」

「メディにしてみればロカ様はまだ子どもですわ」

 メディ様の言葉に、僕は目を瞬く。メディ様は微笑んで、「お休みなさいませ、ロカ様」

「お休みなさい、メディ様」

 いつかのようにそう言って、僕は瞼を閉じた。


「怪我は治られたか? ロカ殿下」

 ふてぶてしくもそう言った彼の顔を、睨むように見て僕は彼の名を呼んだ――「……レオ様」

「どうも、ロカ様は運がよろしくないらしい。これからは道を歩くのも気を付けなければ、大きな石に引っ掛かってまた頭を打つぞ」

「動いて話す石を、僕は初めて見ました」

 僕の言葉に、一瞬僕の従者がぎょっと目を丸くしたのを僕はしっかり見た。どういう意味だろう?

 事の大きさは被害者の僕にすら分からないほど大きくなっていて、僕自身がなにも言わないからどうにもなっていないだけで、どうもレオ様が加害者なのではないか――という、噂もあるようだった。それをマリア父上が眉間にしわを作りながら僕に問いただしたこともあったけれど、僕はそれをゆらりと避けた。……僕が避けたからこそ、彼――レオ様は首の皮一枚つながっているのだ。それなのにこんなにふてぶてしくいられるなんて、むしろ凄いことのように感じてしまう。

「……レオ様、ひとつ訊いておきたいことがあるんです」

 僕が彼が過ぎ去ろうとするその袖を引いて言うと、彼はちらりとこちらを見て首を傾げた。その動作が幼く見えて、僕は今更ながら僕が相手にしているこのひとは僕より幼いのだということを認識させられた。

「レオ様、レオ様はもしかして……自分のことをクズだと思っていらっしゃるのですか?」

 僕の問いに、レオ様は一瞬目を丸くした。それから少し考えて、「なんだって?」

「レオ様、あの時仰りましたよね。”お前も親に恵まれただけのクズだ”って」

「……ああ」

 僕の言葉に、レオ様は低くそう声を零して、それから、「そうだな。だからなんだ?」

 僕はレオ様にこのことを問うても、きっとレオ様は認めないだろうと思っていたから、あっさりレオ様が認めてしまったことにふと力が抜けてしまった。――この言葉は、レオ様が、僕を殴って気絶させる寸前に言った言葉だ。「お前も親に恵まれただけのクズだろう?」と、レオ様はあのとき、はっきりそう言っていた。その時の表情は――……

「レオ様!」

 がっ、とレオ様は突然僕の前髪を掴んだ。僕は一瞬状況が読めなくてぽかんとして、読んだあとにはっと顔を強張らせる。レオ様の従者も僕の従者も、あまりのことにあっけに取られたあとすぐに状況を確かめ鋭く叫ぶ。「おやめ下さい!」

「もう一度痛い目を見たいようだな?」

 その言葉のあと、僕はがつんと柱に頭をぶつけられちかちかと目の前が瞬いた。頭を抱えて屈みこむ。「うっ……」

「レオ様! おやめ下さい!」

「なんということを――……ロカ様!」

 僕が再びレオ様を見ると、レオ様は無表情で、レオ様の従者にその僕の頭を打ちつけた手を取られていた。僕の従者が慌てて僕と視線を同じ高さにして僕の顔色を確かめる。僕はさっと従者に手をあげて無事なことを知らせ、ふらりと頭を抱えながら立ちあがった。

「レオ様、自分をクズだと思うのはあまりにつらくありませんか」

 僕の言葉に、レオ様は一瞬息を飲んだ。それからさっと表情を元通り無くして、口元にだけにやりと笑みを浮かべる。「つらい……なんでつらいんだ? わきまえてて結構だと思っているんだろう、ロカ様?」

「わきまえることと、卑下することは違います」

「なんだ? それを俺が認めたところでどうなると? お前はただ俺に説教を垂れようとしているだけだ」

 「違います、僕は」と僕が言うと、レオ様はさっと僕に背を向けた。これ以上は平行線だと思った僕の方も、その先の言葉を噤む。――なにを言ったって響かない相手に、言葉を尽くしたところで……大体、彼にそこまでする義理すら……。

「レオ様、このことはマリア様にきっと報告します」

 僕の従者が、彼の去り際にそう言った。すると彼はこちらを見て、ははっと笑う。「それは面白い」

「安心しろ、ロカ。俺は自分の父上を傘に着たりしない」

「――!」

 その言葉に含まれた意味を知って、僕はかっと顔を赤らめた。僕はなにも言ってない、だけど、僕の周りが当たり前にしていることを、一番恥ずかしい言葉で責められたのだ!

「れ……」

「じゃあな、ロカ」

 僕が声を荒げたのも意に介さず、レオ様はそうひらりと僕に片手を振ってその場を後にした。カツ、カツ、と廊下に響く足音と共に小さくなっていく背中を見て、僕はぐしゃぐしゃになった前髪を手ぐしで梳かした。「……はあ」

「ろくなことがないよ、本当に」

「ロカ様、お怪我は……」

 僕の従者が、そう言って僕の頭に軽く触れる。渇いた指がこすれると痛くて、僕はうっと潰れた声を出した。「痛みますか? すぐに医者に診せないと」

「レオ様はなんであんなにひねくれているんだ」

「レオ様は母君にあまり叱られたことがないと聞きます。王子としては当たり前のことではありますが、乳母も母君もレオ様の相手をあまりしてこなかったのだとか」

「――え?」

 相手を、……してこなかった?

 従者の紡ぐ物語に、僕は眉をしかめた。それは……言葉通りに取れば……

「父君も――ロカ様の前で言うのも、ですが……メリエル様ですし、あまり幼少時から可愛がられている、というわけでもなかったようです。叱りもしない、褒めもしない。しかし、王子としては見ている。つまり、その地位だけ」

「地位だけ……」

「母君が、メリエル様をあまりよく思っていないのだとか。最近はメリエル様と結婚しているという事実だけ、だという噂もあります」

 僕は驚いてそれらの言葉を聞いていた。医者がその傍で僕の傷を治療していて、でもその医者も従者の話す物語に何の反応も見せなかった。……つまり、この話は「常識」、だと……

「――でも、メリエル父上は……」

 ――父上は、あのとき、僕が怪我したときに、レオ様をかばっていたではないか。それがレオ様にも、周囲にも伝わっていないの? そりゃあ、それが伝わってしまえば、レオ様が僕をやったと認めることになるけれど。そんなことって、だって、メリエル父上は、ちゃんとレオ様を愛しているのに――

「……だから、”クズ”なのか」

 ――そんなどうしようもないことが、あっても良いのだろうか。それが許されるの? そんな悲しいことって……

 僕はそれきり口を閉ざし、うなだれた。あまりのレオ様の抱えている事柄の冷たさに、身を震えさせることしかできない。

 元々、僕は「マリア父上に愛されるため」王になろう、としていた。そんな僕だからこそ、親に「愛されていない」辛さも……分かる、と言って良いのだろうか。僕はそれでも、母上とメリエル父上にはちゃんと愛してもらっていたと自負しているし、その「自負」が今の僕を形成するためにどれほどの大きさをしているのかもきちんと知っている。――僕は、愛されていた。愛されていたのだ! しかし、レオ様は自分は誰にも、そう、きっと誰にも愛されていないと思っている。だからこそ自分を「クズだ」と卑下しているのだ。そんな僕から紡がれる「卑下とわきまえることは違います」という言葉は、レオ様にどう響いただろう? 考えるだけで、寒気がする。

「ロカ様、”可哀相”だと思うのは、レオ様に失礼ですよ」

「え……」

 医者のふと零した言葉に、僕は顔をあげた。彼は黙々と作業を続けながら、もう一度はっきり、僕の目を見て言う。「可哀相だとロカ様が思えば、レオ様は本当に可哀相になってしまいます。彼は自分を知っているだけ。それだけなのです」

「自分を知っている? レオ様は、ちゃんと親に……」

「――それはロカ様の預かり知らないことです。ロカ様は、今まで通りにレオ様と接してください」

 「それが、祈師様からロカ様に与えられたことです」と言って、彼は目線を落とした。僕はその言葉を口の中で反芻しながら、あずかりしらないこと、とその言葉になにも返せずに飲みこんだ。


「ロカ様! お久しぶりですね」

 従者と医師にレオ様の話を聴いたそのあとすぐに、僕は気分転換に馬を走らせて、眺めるだけだと心の中で言いながら騎士団の詰め所に来ていた。詰め所のなかはいつきてもざわざわと騎士たちの元気な声が聴こえてきて、門の前でぼうっと馬にまたがっているだけでも元気になれた。――僕は、騎士が好きだ。ライリオン様に憧れていた、幼少時から。

 そんなときに、僕にそう声がかけられて、僕は一瞬驚いて馬上でよろけた。わっ、とその声は短くそう叫んで、僕は横合いから差し出された手のなかに落ちた。僕と一緒に道に倒れた彼と、僕は呟く。「いったあ……」

「すみません、ロカ様。まさかそんなに驚かれるとは……」

「君は――マルタ、だったっけ」

 なんとか起きあがり少し彼から離れて、僕は彼のことをそう呼んだ。彼は途端にかっと笑い、本当に嬉しそうに言う。「名前を覚えてくださっていたなんて! ありがとうございます!」

 ――マルタ=ロイジ。男爵家の息子で、英雄ジン=アドルフの従騎士。……だったはずだ。本当に久しぶりに会ったから、もしかして間違えて記憶しているのではと思ったけれど、彼の喜びようからして、この記憶は合っていたらしい。

 彼は僕と同じ年くらいに見えたから、呼び捨てで構わないかな、と当たり前に考えていたけれど、僕ははっといままでその「当たり前」が、リフレ様やメディ様に対して出来ていなかったことに気付いてカッと赤面した。けれど、彼はそんな僕の心の中に気付くはずもなく、なんとなしに嬉しそうに笑っている。「ロカ様、今日はなにかご用事が? 取り次ぎますよ」

「いや……いや、なんにもないんだ。ただ、気分転換に来ただけで」

「気分転換?」

 マルタはそう繰り返して、ちょっと考えた後、「じゃあ、騎士の打ち合いでも見ませんか? いま、やってるやつらがいると思います」

「――打ち合い?」

「試合、みたいなものですよ。防具を着て木刀で打ち合うんです。そんなに無茶苦茶楽しいものでもないですけど、気分転換にはなるかと」

「うん……見てみようかな」

 僕はそう頷いて、先導して詰め所に入って行くマルタの後を追った。詰め所内の騎士用の厩に、マルタに許可を取って馬をつなぎ――マルタは「良いですよ、良いですよ、分かりませんよ、誰も」とてきとうなことを言っていた――、僕たちは詰め所の建物内に入った。そこからしばらく奥に進むと、段々と騎士たちの声が大きくなっていった。わっと、瞬間歓声が上がる。僕はその歓声に驚き、マルタはそんな僕を置き、平常の表情で、その両開きの扉の片側を開いた。ほらロカ様、と言いながら僕を中に招く。「――鍛錬所です」

「一本!」

 さっ、と、黄色いマントをなびかせている中年の騎士がそう腕をあげた。向き合っているふたりの騎士のうち片方はしゃがみこみはあはあと乱れた息をしながら地面を見つめ、もうひとりはそんな片方の騎士を見てちょっとだけ笑みながら木刀を振った。――あの騎士が、勝ったの?

 それを見ただけで、僕はいままで抱えていた様々な悩み事を忘れ、騎士たちの動きに魅入ってしまった。そのふたりがまわりを取り囲む騎士たちの中に戻って、また別のふたりの騎士が中央に出る。見合ってから、黄色のマントの騎士の相図に合わせて木刀を掲げる。――ばし、という音が何度か鳴って、何度か打ち合って――やがて片方の騎士がもう片方の騎士の胴体に木刀を叩きつけ、一本! と再び中年の騎士の声が響いた。瞬間、またわっと歓声があがる。

「すごい……!」

「どうですか、ロカ様。気分転換になるでしょう?」

 ――いいなあ……

 ふと、僕は騎士たちを見ながら自分がそう思ってしまっていることに気が付いた。王位もなにも関係ない場所で、ただ鍛錬を積んでいる彼らが、なんだか僕には輝いて見えたのだ。――正室も側室も王位もなにもない場所の、「男」の世界。それがとても眩しく輝いて見えた。……そうだ、僕は昔「青旗」という魔法騎士団に入りたいと思っていたのだ。それはもう、叶うことのない願いごと。でも、もしまだ……まだ、それが叶うかもしれないのなら……。

「――ロカじゃないか」

「あっ……」

 そんな夢の世界に入って行っていた僕を止めたのは、僕が憧れてやまないライリオン様だった。ライリオン様は僕の方を見て次に隣に侍っている赤旗の騎士たちに手で合図を送って少し離れてこちらに来る。僕は慌てて頭を下げた。「ら、ライリオン様……こ、こんにちは」

 訳が分からなくなって場面とずれた挨拶をした僕に、ライリオン様はそっと微笑む。金色のマントがライリオン様の歩みにしたがって揺れた。「なにか騎士団に用が?」

「いえ、ただ打ち合いというものを見に来ただけなんです。その、気分転換に」

「気分転換か。それなら丁度良かっただろう。ロカは王宮剣術はやっておられるか」

 ライリオン様の問いに、一瞬僕はぽかんとしたあとはっと気付いて顔を赤らめた。それから俯き、小さく首を振る。「剣術というか……運動全般、苦手で。勉強しかしていません」

「そうか……心得が少しあるなら、打ち合いをしてみても良いかと思ったのだが……怪我をさせたら、マリアにこっぴどくやられそうだな。遠慮しておこうか」

 そのライリオン様の言い方に、僕はちょっとだけつい笑ってしまった。それからはっとまた顔を赤くする。「あっ……いえ」

「ロカ、少し話でもしていくか? 私も丁度、執務を休んでいてな」

「えっ」

 ライリオン様の提案に、僕はすっかり驚いてしまった。それから慌ててマルタの方を見る。マルタはにこにことなぜか上機嫌に笑っていて、僕の背を軽く押した。「ロカ様。せっかくですから」

「俺は戻ります」

「マルタ……でも……」

「なにを遠慮してるんですか? せっかくなんだし、ライリオン様とお話して騎士についてもう少し知って頂けたら、俺も嬉しいですよ!」

 マルタの言葉に、ちょっとまだ迷いながら、僕はおずおずとライリオン様に頷いて見せた。ライリオン様はそんな僕に微笑んで見せて、では、と僕を連れて赤旗の騎士たちの中に戻って行く。鍛錬所の奥に見えていた扉を開いて、僕が鍛錬所へときた道とは別の道を通ってライリオン様の執務室――以前僕が間違って迷い込んでしまった奥の部屋だ――に出た。ライリオン様が戻ってきたのを見て、戸番の騎士がぴしっと背筋を伸ばしてライリオン様を中に入れる。一緒に執務室へと入って行く数人の赤旗の後を追って、僕も執務室へと入った。


 執務室は、広いより先に腰に剣を挿した鎧に目が行った。その鎧は執務室の奥に置かれた大きな執務用だろう机を守るかのように両端の壁際に置いてあり、その中心には大きな一枚の絵が飾られていた。――国王陛下の絵だ。ここに来る前にも、何度もこのような肖像画を見たけれど、ここの肖像画は一番凛々しく描かれている気がした。

 赤旗の騎士のひとりが、すっと机の前に置いてある椅子に、腰かけるよう僕に言った。僕はおずおずとそこに座り、ライリオン様は机を挟んだ向こう側、机と見合ったように置いてある重厚なつくりの椅子に腰かけた。あの、と僕はちょっと震えた声でライリオン様に話しかける。「……僕なんかが、こんなとこに来て……その……」

「ロカとは前から話がしてみたいと思っていたんだ。あのマリアが子を作ったと聞いたとき、私は本当に驚いたんだよ」

「はあ……」

 僕は緊張して、喉がからからになりながらそう呟いて俯いた。ぎゅっと握った握りこぶしが、ふたつ、力を入れているために白くなっている。

「マリアは、娼婦と遊びはすれど子が宿ったらすぐに……いや、こんな話をしたかったわけじゃないな」

「……すぐに?」

 そう困ったように笑うライリオン様に、僕はその先を催促した。すぐに……すぐに、なんだろう。

「いや、君に聞かせるような話じゃないよ。もっと楽しい話をしよう」

「――……父上のこと、僕はあまり知らないんです」

 気が付くと、僕は何故かそんなことをライリオン様に愚痴っていた。こんなことを言ったって仕方ないと、いつもならそう思うし、自制もできるはずなのに――何故だろう。このひとなら、なにを訊いてもきちんと答えてくれる気がした。

「……じゃあ、マリアのことを話そうか。とはいっても、私もマリアのことなんてそんなに知らないんだがな」

 そう笑って、ライリオン様は騎士が用意した茶に手をつけた。僕もそれを真似するように紅茶に口を付ける。芳醇な香りがして、とても美味しい紅茶だった。「マリアと私は、幼少の頃はこれでも仲が良かったんだ。たまに……」

「たまに?」

「いや……」

 言葉を濁して、ライリオン様は視線を落とす。それからすぐにその視線をあげて、僕と合わせた。「君は知っているか?」

 その質問がなにを指しているのかに気付き、僕は頷いた。「知っています。……えっと、父上の、服毒事件のことですよね? 違ったら申し訳ありません」

「いや。違わないよ。そうか……知っているか。その主犯は、私だと言われていた。マリアが毒見もなしに物を食べるのは、私の前でだけだったからな」

「毒見もなしに、物を食べる?」

「意味が分からないか? そうだろうな。いや、もともとマリアは食が細く、ある日……毒見もなしにものを食べたことがあったんだ。沢山の者がいる中でな。それが毒入りで、ますますマリアはそれから物を食べなくなった。みるみるやつれていくあいつを見かねて、俺がある日食べ物を渡したんだ。半分目の前で俺自身が食べて見せて、ほら、毒なんか入ってないぞってな。それを食べてから、マリアは元通り――とは言っても、公には毒見をかならず付けるようになったけれど――食べるようになっていったんだ。……俺の前でだけは、毒見もつけずに。それを知られて、狙われたんだな。俺ももう少し気をつけてやればよかった……」

 ライリオン様が重苦しい表情で綴った物語を聴きながら、ああなるほど、だから王妃様が、と僕はうっすら考えていた。つまり――ライリオン様の前でだけ毒見もなしに食べるようになった幼いマリア父上を見て、王妃様はある日気が付いた。ライリオン様が毒を盛って、マリア父上に食べさせたという話を作り上げれば、皆それを信じることに。

 ……そして、それを実行した。わざと少量にすることで熱が出る程度にとどめた毒をマリア父上に盛り、ライリオン様の失脚を狙ったのだ。

「……それから、マリアは私を避けるようになった。そりゃそうだろうな。マリアにとって、私は毒を盛った裏切り者で……俺は、マリアにとって、もう心を許せる相手ではなくなったんだ。そりゃあそうだよなあ……」

 ――俺、と一人称が自然のうちに変わってしまったライリオン様の言葉は、なんだかそれまで綴っていた過去をさらに現実味のあるものにしてしまっている気がした。いや、現実味、もなにも、現実の、本当にあったことなんだろうけれど、それでもマリア父上が毒を盛られたことがあるなど――それもライリオン様の話からすると二度――、僕には想像がつきにくいものだったのだ。でも、それが「想像のつく」ことになってしまった。

 ライリオン様は、「それ」を後悔しているのだ。でも、ライリオン様は一言も「自分がした」とも「自分がしたようなこと」も言わなかった。つまり、やはりライリオン様は犯人ではなく……

「――それは王妃様が主犯だったと、貴族の間で噂になっていたと聞きました」

 僕が少し声を落としてそう呟くと、ライリオン様は一瞬驚いた表情になってから、ふと微笑んだ。手で顎を支え、紅茶に手を伸ばす。「それはただの噂話だな。真実は分からない。ただ、――俺はやってないな」

「やっぱり……」

「ロカ、終わったことだよ。もう父上もその件について語るなと言っている。でも、俺が知っているマリアのことはこれくらいなんだ。今だけ父上の命に逆らっている。これ以上この件について話すことはできない」

「――でも、ライリオン様は……!」

 僕が激昂してそう叫ぶように言うと、ライリオン様は紅茶の入ったカップを軽く揺らした。ちゃぷ、と小さく音が鳴り、水面に映ったライリオン様の顔が歪む。「そういえば、ロカも毒を盛ったと言われているんだったな」

 そのライリオン様の問いかけに、僕は答えることができずに俯いた。――そうだ。だからこそ、犯人ではないのに毒を盛ったと言われているライリオン様が、不憫でならないのだ。僕のように、毒を盛ったと……それも、身分の高いマリア父上に……

「君じゃないのだろう?」

「……」

 ライリオン様は、紅茶のカップを置いてそう僕の目をはっきり見た。国王陛下そっくりの青い瞳がこちらを射る。

「そんな噂は、マリアがどうかするだろう。それより、君はこの間庭園で倒れていたそうだな。メリエルが真っ青になって廊下を走って行くのを、私は偶然見かけたんだ。メリエル達の住む塔には普段行かないんだが、あの日父上に謁見する機会があってな。あいつがあんな顔をするなんて、君たちは相当愛されているんだなあ。愛、と言っても、もうひとりは気付いてもいないだろうけれど」

「――知っているのですか……?」

 今度は、知らず知らずのうちに、僕がライリオン様にそう訊ねていた。ライリオン様は微笑んで、僕の目を射ぬくように見ているその激しい視線を細く緩めた。「そうだな。知っている。でも、お前はそれを認めないだろう」

「僕は……ただ、恥ずかしくて」

「恥ずかしい?」

「……」

 ライリオン様の問いかけに、僕は眉間にしわを寄せて黙する。そんな僕に、ライリオン様はなにを言うでもなくははっと軽く笑った。「恥ずかしいか。まあ、喧嘩なんてそんなものだ」

「それよりも、自分の身を守ることを考えるべきだよ、ロカ。二度三度あれば、恥ずかしいからと言ってる場合ではなくなる」

「僕は……」

 ――僕は?

「僕は……彼が罰を下されるのを待っているのです」

 ――……本当に?

「ほう。罰が下されるのを?」

 ライリオン様は、身を軽く乗りだしてそう僕に鸚鵡返しした。僕は頷くことも俯くこともできず視線をゆるりとさまよわせる。

「ロカ、君は彼のことが好きなのではないのか? 友だちと思いたいのではないか」

「……友だち?」

「父親もなにも関係ないところで出会っていたら、友だちになれていたかもしれない。そんな風に思ったことはないか」

「……初めて……考えました」

 僕は震える声で、そう呟いた。ライリオン様はそうか、と薄く笑う。

「俺は、何度も考えた。マリアと自分でな。父親も母親も、王位継承権もなにも関係ないところで出会えば、もっと良い関係を築けたのではないか、もっと良い思い出を作れたのではないかと」

「……そのこと、父上は」

「知らないだろうな。俺も、初めて口に出した」

 そう呟くライリオン様の青い瞳は、どこか遠くを見つめていた。ぱちり、と瞬きしてしまうと、すぐにそれは僕を映す。「……君を見ていると、マリアの幼いころを思い出すな。あの頃、あの事件が起きる前にこう言ってやれていたら、なにか変わっていたかもしれない」

「変わっていたと思います……あの、こんなこと言うのも」

「いや、良い。そうだな、変わっていただろうな。もう少し、ちゃんと向き合いたかった。弟としても、ひとりの友人としても」

 ――その機会を奪ったのは、誰なのか。

 ライリオン様は、結局それは一言も口に出さなかった。僕はそれから少しだけライリオン様と騎士の話をして、また来ることを約束して、赤旗の騎士に連れられ室を出た。馬を置いている厩にひとりで行っているとき、ライリオン様が僕の中で、ただただ憧れの遠い存在から、憧れはあれど、ただの伯父に近しくなっているのに気が付いた。――そう、伯父なのだ。ライリオン様はマリア父上とメリエル父上のただの兄であって、絵本や本のなかの偶像ではない。それに、僕はやっと気が付けた。

「……僕は、どうすればいいんだろう」

 呟いた言葉を聴いて、馬が小さく嘶く。僕はその頭を撫でてやって、そっと微笑んだ。

「レオ様と、友だちに……」

 ――友だち? レオ様と?

「――僕はどうすればいい? ねえ」

 僕が困り果ててそう馬に訊ねると、馬はちょっと困った顔で顔を揺らした。


 メリエル父上のもとへ行こう、と思ったのは、ライリオン様と会ったあの日から少し経ってからだった。話すことがなにもなくてもなんとなく行ける場所だったことと、もっと言えばレオ様のことが気になって、僕はメリエル父上のもとを訪ねた。メリエル父上は今日は都合よく部屋に居て、母上と話しているところだったらしい。従者がとりつぎ戸番が扉を開いて僕を中に入れた。ロカ、とメリエル父上は僕の顔を見てちょっと複雑な表情を見せる。

「……いま、ミーシャに詫びてるところだったんだ。レオのことだろう?」

「いえ。ただ、父上と話したくて来たんです。レオ様のこと、僕は気にしていません」

 僕がそう言うと、メリエル父上は頭をがしがしと掻いた。そんな僕らを見ながら、母上がとても静かな口調で言う。

「そのレオのことなんだけどね。ロカ、あんたも聞いた方が良いよ」

「え?」

 母上の言葉に、なんだかとても嫌な予感がした。レオ様のこと――なんだろう。母上が僕に「聴いておけ」というような、レオ様のこと……。「レオはね、極刑になることになったよ。首を刎ねられるんだ」

「――え?」

「マリアが今日決めたんだ。あんたが二回もやられたからね……しかも、二回目はあんたは全く手を出してないそうじゃないか」

 母上の言葉に、僕は棒立ちになってしまった。メリエル父上の方をばっと見ると、メリエル父上は感情を消した顔をしていた。いつだって笑ってたひとなのに――……ああでも、レオ様が一度目に僕をのしたとき、メリエル父上は、これとはまたちょっと違うけれど、こんな顔をしていた……。

「そうは言っても……首を刎ねる? なんで、そんな、そこまで……」

「マリアの子に手を出したんだ。次期国王の、しかもその嫡男だ。レオだって、こうなることは予感してたはずだぜ」

「――父上!」

 僕は、大声でメリエル父上の名を呼んだ。正気に覚めて欲しかったのだ。だって、こんなこと正気の沙汰じゃない。首を刎ねる? 喧嘩をしたくらいで? マリア父上が決めた? だって、メリエル父上の正室の姫君だって、こんなこと――

 瞬間、僕は思いだした。レオ様は、母君に愛されていない――目の前が真っ暗になるような衝動。父親にも恵まれなかった。メリエル父上に愛されていない。こんなことを言うのも、ですが――父上も、メリエル様ですし……いつかの従者の言葉が、頭の中をぐるぐる回って反響する。

「だって、父上は愛していらっしゃったではないですか。レオ様を、あんな暗い顔をするくらいに……――なのに……」

「それとこれは別だ。罰はな、しかるべきものが受けるものなんだよ。レオがそれだったと言う話だ」

「レオ様は、極刑になるほどの罪は犯していません! 僕を殴った? 頭を打ちつけさせた? たったそれだけではないですか!」

「――お前はどうしたいんだい、ロカ」

 僕とメリエル父上が言い合っているそばで、母上がとても静かな目をして僕に訊ねた。たったそれだけの言葉だったけれど、僕はそれまで色々浮かんで来ていたメリエル父上に投げるべき言葉を、全部呑みこんでしまった。

 ――僕は、どうしたい?

 ――……僕は、彼が罰を受けるのを待っているのです。

 いつか、僕が言った言葉だ。罰を受けるのを待っている。そのときがきた。それだけ。たったそれだけのことだ。僕が一番、メリエル父上に殴られて、レオ様に恨まれるべき人間なんだ。だって、僕はこうなるのを知っていて、そしてそれを「待っていた」のだろう? そう言ったじゃないか、憧憬を抱いているライリオン様の目の前で。そんな僕がなにを言ったって、覆るようなことではない。レオ様は次期国王の長男と喧嘩をして、怪我をさせた。しかも二度。一度でも許されない罪を二度。そんな彼だ、こうなることを予感していなかったわけがない。レオ様だって知っていて、僕も知っていたことが起きただけ。それだけなのだ。それをレオ様の父親、メリエル父上に食ってかかって信じられないと罵るだけの資格が、僕にあるのか?

「――レオの極刑は明日。よく考えて、あんたのしたい行動を取りなさい。あんたが一番したいと思うことをだよ。後で後悔したら、あんたが一番つらいんだからね」

 母上の言葉に、僕は顔をあげた。無意識のうちにさげていた頭をあげるだけの意味のある言葉だった。――僕のしたい行動? 後悔?

「……父上は」

「ん?」

 僕がつい呟いた名に、メリエル父上はとても静かに答える。僕はまた様々な言葉を呑みこんで、それからそっと訊ねた。「後悔、していないのですか」

「俺がなにに後悔するんだい? 言っただろう、レオもこうなることを分かっていたんだよ。それを今更どうこうって、言ったって仕方がないのさ」

 メリエル父上の言葉に、僕はぎゅっとこぶしを握った。それを見て、また顔をあげて――「レオ様は、いまどこに?」

「地下牢だよ」

「行ってきます」

 メリエル父上が教えてくれた場所へと、僕はふたりを部屋に残して部屋を出ようと背中を向ける。そんな僕にメリエル父上が言った。「行ったって意味なんかないだろう? 鎖に繋がれた人間を見てどうしようってんだい?」

「第一、マリアがあんたを絶対に入れないと思うよ。どれだけ自由にさせたって、さすがに地下牢は……」

 母上の言葉に、僕は激昂する。「行くんです!」

「――お前の後悔しない選択は、それ?」

 母上が、ふいに訊ねた。僕は母上の顔を見る。その顔には、メリエル父上のように感情がなく能面のように見えた。

「……分かりません」

「できることをしたいなら、地下牢ではなくマリアの元へ行くべきじゃないのかい?」

 母上の言葉に、メリエル父上が母上のほうを見た。それは、僕がこの部屋に来て初めてのことだった。感情のない目が、同じく感情のない目を捉えたその瞬間。母上は、僕に向けている視線を揺らさなかった。「マリアのとこに行きなさい。地下牢に行ったって、妙な気を起こさせるだけだ」

「……」

「――行けない?」

 母上が訊ねる。僕は頷くことも否定することもできず視線を落とした。母上の、膝の上に置かれた両手が、こぶしを作るのを――僕は確かに、見た。

「それじゃあお前は”そういう”選択をしないというわけだ。それでもまだお前が地下牢に行きたいってんなら、私は今ここでお前をこの部屋にでも閉じ込めるよ」

 母上が言う。僕はその言葉に、少し自分の体が震えるのが分かった。――僕は地下牢へ行ってなにをする気だったのだろう。妙な気を起こさせるだけ。その通りだ。僕が「そういう」選択をするのなら、一番に向かうべきところはマリア父上の部屋のはず。僕は……僕は、どうしたいんだ?

「……僕を、部屋に閉じ込めてください」

 メリエル父上が、訊ねる。「いつまで?」

「――レオ様の極刑が、終わるまで」

 そう言って、僕はメリエル父上と母上のほうをまっすぐ見た。


 ――レオ様の極刑は、今日施行されるらしい。

 それは、母上が昨日はっきりと言っていた。「明日、レオの極刑が下される。首を刎ねるんだよ」、と。僕は自分の体が、恐怖からだろうか――震えているのが分かった。ずっとそばにいたわけでも、近くにいたわけでもないけれど、同じ王子でメリエル父上の、血がより薄かろうが、濃かろうが、その子どもで、喧嘩を二度やった相手。そんな相手が今日いなくなるのだ。もう永遠に会えなくなるのだ。それは――レオ様に少しでも、好意や愛を抱いている相手からすれば、どれだけ恐ろしいことなのだろう。僕は昨日寝所で何度もそんなことを考えて、眠れなくなって、ひとりでベッドから起きあがっていた。いまも、また同じことをぐるぐると考えている。

 昨日のうちに、マリア父上の元へと行って、この刑を辞めさせるべきだっただろうか。

 ――僕は、彼が罰を受けるのを待っているのです。

 僕の言葉だ。他でもない僕自身の言葉。そのときがきただけ。その罰の大きさが考えていたものとどれだけ違おうと、そのときがきただけ。それだけなのだ。放っておけば暴力はますます激しくなっていただろうし、もしかしたら僕が言えない言えない言いたくないと駄々をこねている間に僕が殺されていたかもしれない。罰という形ではなく、暴力の被害者という形で。どちらが先か、そんな問題だったのかもしれないのだ。それでも、僕はこうなってしまったことが恐ろしくて仕方なかった。

「……刑の施行は、いつ?」

「もうすぐ始まると思います」

 僕の傍にいてくれているいつもの従者は、少しだけ悲しそうな顔をしていた。誰にせよ、誰かがいなくなる、殺されるというのは気分の良いものではないのだろう。

「――ロカ様」

 コンコン、と、戸番が僕の私室の扉を叩いた。誰? と僕は気のない声で返す。戸番はちょっと間を置いて、「……レオ様の従者です」

「レオ様の?」

 僕が鸚鵡返しすると、戸番は僕に開けても良いか訊いた。僕は、「いいよ。良いけど……」

「ロカ殿下。これを」

 戸を開いてレオ様の従者だという男を中に入れると、彼はそう言って僕の従者に手紙のようなものを差し出した。僕の従者がそれを受け取り、僕のもとへと持ってくる。僕はそれを貰って、よく確かめた。それはたしかに、レオ様からの僕への手紙のようだった。……持ってみた感じ、分厚さはない。

 それを僕が受け取ったのを確かめて、レオ様の従者だという男は僕に一礼し僕の部屋から出て行った。僕はその手紙をペーパーナイフで開封すると、なかに入っている一枚の紙を取り出した。

 その紙はふたつに折られ、それを開くと――「!」

 僕は驚いて、ついその紙をぐしゃりと手で潰してしまった……それには、一言、こう書かれていた。

 ――ありがとう

「……僕を部屋から出してくれ!」

 僕は気が付くと、その握りつぶした紙を床に捨て大声を出していた。従者が驚いた様子で僕を見る。僕は続けて叫んだ。「マリア父上の元へ行く! 僕を部屋から出せ!」

 コン、と、そんなとき、渇いた扉を叩く音が再びした。僕はひゅっと息を呑む。――嫌な、予感がした。

「ロカ様、レオ様の刑が施行されました」

 それは僕のもうひとりの従者の声で、彼はそう短く告げると戸番に戸を開かせた。僕は彼の顔を見て、さっと僕の顔の血の気が引いていくのを感じた。「なんだって……?」

「レオ様の刑が終わったのです。ロカ様は、もう部屋から出ても良いと、メリエル様からのお達しが」

「刑が、終わった……」

 がくん、と僕の両足の力が抜ける。へたり、と僕はその場にへたり込んだ。

 ――レオ様が、死んだ。

 ――ありがとう

「あ、ああ……」

 僕は力なく、そう、僅かに泣いた。


 それから一ヶ月の時が過ぎて、僕は一ヶ月ぶりに部屋から外に出た。もちろんメリエル父上も、母上も、一ヶ月も僕を部屋に閉じ込めていたわけではなく、僕は僕自身の問題、つまりレオ様の「ありがとう」というただそれだけの例の手紙にショックを受けて、一ヶ月自分で自分の部屋にこもっていたのだった。

 その間に訪れたリフレ様が少しでも僕を元気付けようと他愛事で言ったのだけれど、どうも僕の髪が赤みを帯びてきているらしい。僕があまりにも姿を見せなかったからか、マリア父上も僕の部屋にやってきて、髪の色がミーシャに似てきたね、綺麗だよ、と言っていた。僕はその間に見る影もなくやせこけて、ほめるところや元気付ける言葉が、髪の色しかなかったのかもしれない。でも、髪の色は確かに赤みを帯びてきていて、母上ほど綺麗な桃色、とまでは言えずとも、薄紅にはなっていた。それに気付いたのは、一ヶ月ぶりに外に出ようと思ったその日、鏡を見たときだった。

「――僕を殺したいくせに!」

 そんなヒステリックな声が響いたのは、メリエル父上の部屋に訪れたときだった。久しぶりに顔を出してみようと思っただけだったのだけれど、メリエル父上も落ち込んでいるだろうとは思っていたから、そんな男性の声が聴こえたのには、僕はとても驚いてしまった。心臓がばくばく言うのを聴きながら、誰の声だろう、メリエル父上がこんな声を出すはずがないと、メリエル父上の部屋の扉の前で突っ立って中の様子を聴いていると、どうも驚くことに、その声はマリア父上のものだったらしい――「……マリア」

 メリエル父上がそう、その名を呼んだのはとても小さな声量で、僕はそれを聞き逃さなかった。マリア父上? と思って、メリエル父上と対している人物の声を聴いていると、それは確かにマリア父上であるようだった。

「僕が憎いでしょう? 貴方の息子を殺したんだ。なのになぜなにも言わないのですか」

「お前は俺に憎んで欲しいのか? それなら無理だな。あれはレオが悪かった。それだけだよ」

 マリア父上の激情走る話し方に対して、メリエル父上はとても静かだった。その静かさは、なんだか――怖い、とさえ思えるほどのものだった。人間味がない。彼はこんな話し方をするひとだったか?

「……お前が憎んで欲しいと思ってるうちは、俺は絶対お前を憎まないよ。お前は憎まれることで救われようとしている。お前はレオを自分が殺したことが怖いんだ」

「――僕は」

「そうだろう? それなら俺はお前を救ったりしない。そんなことができるほど、人間ができていないんだ。お前の考えは読めてるんだよ。言い返せるか? マリア」

 メリエル父上がそう言うと、中からがしゃん、という激しい音が二、三度した。僕が驚いてびくりと肩を飛び跳ねさせる。なにが起こったのだろう、と思っていると、侍女や従者の「マリア様! おやめください!」という声が聴こえた。

「――暴れることしかできないのかい?」

「黙れ! メリエル・アージー=キングストーン!」

「激情することしかできないかい? そうだろうね。お前は救われたいんだ。殺した人物の親に憎まれれば救われると思ったのだろう? まったく無関心な今より良い、そう思ったんだ。違うか?」

 ――心臓が、どくどくと跳ねる。

 マリア父上が救われたがっている? 殺した人物――マリア父上はレオ様のことを「自分が殺した」と思っているのか? そんな――だって、マリア父上は……。でも……。

 気がつくと、僕は庭園まで走って出てきていた。あの場に、これ以上いることができなかった。マリア父上の、メリエル父上の、一番誰にも見せることができない部分に触れてしまった気がした。ただの兄弟げんか以上に傷つきやすい部分を晒しあっているような、そんな喧嘩だった。マリア父上は、レオ様を極刑にしたことを後悔しているのか? だから許されたがっている? メリエル父上に「恨まれる」ことが、マリア父上にとっての「赦し」なのか? そんな、そんな……

「……うっ! うえっ……」

 げえげえとその場にかがみこみ、胃の中のものを全部吐き出して、僕はその場に崩れ落ちるようにかがみこんだ。腹を押さえ、地面を見る――あの日レオ様に蹴られたところが、またひどく痛むようだった。事実そんなことありえないけれど、僕はじくじくと腹が痛むのを知った。

 ――怖い。

 ――怖い……。

「……ロカ様?」

 かさ、と茂みを分け入って、彼女は僕の名を呼んだ。「――メディ様……」

「どうなさったの? 吐いてしまわれた? まあ、ひざをついて……部屋に戻りましょう」

 優しくそう僕を介抱してくれるメディ様に、僕は顔を向けられなかった。地面を見つめたまま、彼女に答える。「放っておいてください。僕は……」

 ――誰かに優しくされるほど、できた人間なんかじゃない。

 ――僕が……僕があのとき、自室にこもるのではなく、もっと別の選択をしていれば。マリア父上も、メリエル父上も、……つらい思いなど……あんな喧嘩など……

 ぼろぼろ、と涙がこぼれる。拭っても拭っても、それは止まらなかった。視界の隅で、メディ様が侍女か従者かに手を上げて指図した。従者が僕の傍に寄ってきて、僕の脇に手を入れ、僕を立ち上がらせる。僕は彼にされるがまま体重を預け、ゆっくりと、メディ様と一緒に庭園を離れて自室に戻った。メディ様は室に戻っても僕になにも訊かず、体調を訊くだけで、すぐにひとりにしてくれた。僕はベッドに腹ばいになって、声も出せずにすすり泣いた。


 あれから僕はまたしばらく、自室にこもっていた。あんなに頑張っていた勉強もする気が起きず、会うひともほとんどなかった。久方ぶりに鏡台の前に立ち鏡を覗くと、髪は長くばさばさと伸びており、いよいよ赤みをもち始めていた。一番親しい従者に風呂へと連れられ、そこで髪をばっさりと切った。そのあと再び鏡台を覗くと、元の髪型には戻ったものの、僕の顔は生気をなくしており、髪は桃色に変化していた。暦を見てどれだけふさぎこんでいたのだろうと調べると、半年が経過していた。

 メディ様とリフレ様、母上とは会っていたのだけれど、母上は僕の顔を見るたび泣きそうな目をしていた。心配なのだろうことは分かっていたけれど、それでも僕は外に出ることが出来なかった。レオ様がいなくなっても僕の日常はきっとつつがなく行われる。それが耐えられなかった。そこまでレオ様のことが好きだったわけでは、きっとないと思う。それでも外に出れなかったのだ。僕がそこまで傷ついた理由は、――言いたくない、けれど、マリア父上とメリエル父上のあの衝突が原因だろう。あれを聴いてしまった僕は、ますます外に出れなくなった。衰弱していくのはなんだかとても心地が良いような気もしていた。このまま死ねないだろうか、と考えていると、夢の中に飛び立つ切符を手に入れれそうな、でもそのまま墜落して死ぬような、そんな矛盾した気持ちを孕んでいた。

「ロカ様、髪をお切りになったのですね。そちらのほうが良いと思いますわ」

「ありがとうございます」

 メディ様が、髪を切った僕と最初に会った人物だった。メディ様はいつもどおり僕のそばに座り、小説を開いた。僕は久々に鏡をじっと眺めていて、そこに写った骸骨のような自分に笑う元気すら沸いてはこなかった。赤みをともした髪は美しいのだろうけれど、それすらなんだか皮肉めいている気がする。……この髪が、もっと早く、あの五歳の頃に赤くなってさえいてくれていれば、きっとこんな未来はなかった。メリエル父上と母上の子として、あの幸せな年月をずっと過ごせていただろう。……なにも、マリア父上が僕を不幸にした、なんていうつもりはないけれど。それでも。

 そういえば、僕はもう十五歳を卒業し、齢十六を数えるようになっていた。十五の頃より背丈が伸び、足も大きくなったから、髪を切った今日この日に、僕は新調した服を身に着けた。寝巻きのまま過ごしていた半年間の僕と、服とブーツだけで変われたような気もしたけれど、それにしてもやはり表情は暗い。笑い方が分からなくなって、もう何年も過ぎ去ったような気がした。

「ロカ、髪を切ったのかい? よく似合ってるよ。少し前に戻ったみたいだ。……いや、少し大人びたかな」

 夕方に、母上が僕の部屋に来てくれて、そんなことを開口一番に言ってくれた。僕は薄く作った笑みをこぼして、自分の髪に触れた。母上がうっすらと目を細めて、僕のように僕の髪にそっと触れる。「……赤くなったね。私の髪に似ていたんだね、あんたは」

「……もっと早く、赤くなって欲しかったです。そうしたら……」

 僕がそう呟き続く言葉を飲み込むと、母上は困った顔をした。それから、子どもにするかのようにぎゅっと抱きしめてくれる。「そうさね。もっと早く、赤くなって欲しかった。でも、そんなことを言ったって仕方ないんだろうね」

「メリエルは、あんたに会えないのを寂しがっているよ。メリエルに会う気には、まだなれない?」

 ――母上は、僕がメリエル父上に会わない理由を、きっと「レオ様の父親だから」と思っているだろう。

 ――僕もそれを、否定する気はない。でも、そうではないのだ。僕がメリエル父上に会わないのは、会ってなにを言えば良いのか分からないし、会おうと思うとあのマリア父上の怒声がよみがえって気分が悪くなってしまうから、僕はそういった理由でメリエル父上とマリア父上には顔を合わせることを厭った。嫌がったって、いつかは顔を見せなければならない。分かっている。

「……まだ、メリエル父上には会えません。もう少し、元気になってから顔を見せないと、このままではさらに心配させてしまうだけです」

「無理はしなくても良いけど、いつかまた三人で顔を合わせたいよ。昔のように、何の用事がなくても三人で話したい。あんたが無理だって言うなら、もう言わないよ。でも」

「はい。ありがとうございます、母上」

 僕がそう言ってにこりと笑って見せると、母上はその僕を見てまた目に涙を溜めて、再びぎゅっと僕を抱きしめた。母上の石鹸の香りがして、僕は目を閉じる。そうすれば、あの幸せな五年間に戻れる気がした。

 ――でも、そんなの幻想でしかない。

「……ロカ様、もう少しお食べください。このままでは、餓死してしまいます」

「半年生き延びたから、大丈夫だよ。それにしても、もう半年も経っていたんだね」

 母上があれから室を出て、少ししてから、僕は食事についていた。食事は気が滅入る。食べるという行為が生きるという行為そのままを現しているようで、それが嫌だったのだ。僕は、生きる価値など無い。なんとなく、でも、確かに僕はそう思っていた。生きる価値の無いいのち。それが僕だ。だから、僕の生を伸ばす「食べる」ことは嫌悪していた。

「少しだけ、散歩してみませんか? 髪を切ってから、少し元気になられましたので」

「散歩……」

 僕はそう従者の言葉を反芻すると、かたりと席を立った。窓に下げられたカーテンを引いて外を覗いてみると、外はもう暗くなっていた。この時間ならば誰にも会わないだろうな、と考えて、僕はうなずく。従者が少しだけ、安堵したようだった。

「夜風が冷たいね」

「星が綺麗ですよ、ロカ様。メディ様をお誘いすれば良かったですね」

「そうだね……喜んでくれていたかもしれないね」

 僕と従者はそう話しながら、渡り廊下を歩いていた。びゅうと吹き込む風が冷たく、夜空には星が輝いていた。従者も僕も口数少なく、ただ歩く。そのうち、僕たちは騎士団の詰め所のほうに来てしまったようだった。何度も見て、何度か入ったその詰め所の堂々とした建物を眺めながら、ぼうっと僕が考えていたのは、ライリオン様の「立場が違えばレオ様と友だちになれたのではないか」という言葉だった。

 ――友だちに、なれていただろうか。僕が王位継承者などではなく、レオ様もただの貴族の息子であれば、僕たちはもっと違う未来を歩んでいただろうか。

「……風が冷たいね」

 そう、零れるように呟いた僕の言葉に、従者が詰め所に合わせていた目を僕に合わせる。それから少し驚いた顔をして、そして下を向いた。……僕は、静かに泣いていた。

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