「舞踏会に出てみませんか?」

 従者の言葉に、僕は顔を向けた。従者は少し笑んでおり、僕の不思議そうな、なんとも言えない表情を嫌な気持ちもせずただ見ているようだった。僕は彼から目をそっとそらし、小さく息をつく。

「いや、いい……僕には、そういうのは向かないよ」

「いつもそう言われるじゃありませんか。一度くらい出てみれば良いものを。意外と楽しいかもしれませんよ」

 従者の言い分に、僕は自分の前髪を掻き上げた。最近ちゃんと髪を切っていなかったから――髪を切ることなんて気にしていられないくらい学問に打ちこんでいたからだ――、前髪は長く鬱陶しく伸びており、まずこの手入れからだななんて僕は呑気に考えていた。なんにせよ、僕が舞踏会に出るなんてそれこそ貴族のみなさんに話題を提供するようなものだ。噂されるのはどうでも良いとしたって、自分から話題になる必要はないだろう。

「楽しいなんて有り得ないよ――貴族の世界は僕には向かないんだ」

「それでは、まず服を準備しましょう」

 頓珍漢な従者の受け答えに、今度こそ僕は妙な顔をする。従者は少し笑いながらほら、と言葉をつなげた。

「ロカ様も、王になるのならこういう場に出ることも覚えなければなりません」

「――僕に拒否権はないってこと?」

「まともに受け答えすれば、まあ――そういうことですね」

 従者の言葉に、僕ははあと大きなため息をついた。負け惜しみのように呟く――「その前に、髪を切らせて」

 舞踏会は、大きくそして立派なものだった。誰誰の王子の誕生日――という名目で行われたそれは、我が国の王宮の一番大きな部屋に、大きないくつものシャンデリアに火をともして、きらきらと輝く舞踏衣裳であふれかえっていた。王子の名前は聞き覚えのないものだけれど、王宮の一番大きな広間を使っているのだから、隣国だとか我が国に属する小国だとか、一応は我が国と関係の深いところの王子なのだろう。近代史に手を出せるほどにはまだ勉強していないから、僕がその王子の名に聞き覚えがないのもある程度仕方がない。情けない話だから、話しかけてきた貴族のみなさんには内緒にするけれど。

「ロカ」

 名を呼ばれ、ふいに振り向く。そこには無表情のマリア父上がいた。

「父上――と」

「ロカ様、ご機嫌よう」

 その隣で恥ずかしそうに微笑んでいるリディア様を見て、僕はちょっと後ろに下がった。こんな風に機嫌の良さそうなリディア様は初めてかもしれない。いつも何か悪いことをした後のように遠慮がちにしている印象しかなかった。

「リディア様。ご機嫌麗しゅう」

「……ロカ様が……、舞踏会にご出席なされるなんて、珍しいわ」

 そういってリディア様は微笑んだ。その隣で仏頂面をしているマリア父上は、すぐに僕に背を向ける。

「僕は向こうにいるよ。……珍しいものを見た」

 その言い方がちょっとからかっているような不思議なものだったこともあって、僕はそのマリア父上の言葉にぱちぱちと目を瞬いた。手に持っていたグラスの中身が半分ほど減っていたから、マリア父上ももしかすればリディア様も――少し酔っていたのかもしれない。

「リディア様。リディア様もマリア父上について行かなくても――」

 そこまで言って、僕はハッといらないことを口走ったなと唇に手を当てた。リディア様は苦笑する。

「いいんですの。マリア様についてまわるのも……嫌がられてしまいますから」

「嫌がられるなんて……」

 僕の言葉に、リディア様はその赤い顔を少し傾ける。長くひとつにまとめた赤い髪が揺れる。

「ロカ様、ロカ様は王になろうとされているのだとか」

「あ……、はい、そうです」

 リディア様にそう切りだされて、僕はちょっと驚いた。貴族たちの噂の種になっていたことは知っていたけれど、まさかリディア様からそんな風に言われるなんて思わなかった。僕の顔を見てリディア様は再び苦く笑う。

「そんな顔をなさらないで。純粋に、わたくしはロカ様を応援しておりますの――応援、だなんて言うと上からですわね」

「いえ、そんな……嬉しいです。ありがとうございます」

「わたくしは、子を身ごもれなかったから……ロカ様を見ていると、まるでわたくしの息子のようで」

 そのリディア様の言葉に、僕は頭を下げる。リディア様が僕のことをそんな風に見ているなんて知らなかった。

「ありがとうございます。……その、なんと言えば良いのか――」

「……なんだか、少し酔ってしまっているみたい。突然こんなことを言われても、ロカ様は困ってしまわれるだけね」

 そう言って、リディア様は少し声をたてて笑った。それから自分の口元に指を一本立てて声を低くする。

「――マリア様には内緒に。ミーシャ様にはよろしく伝えておいてくださいませね」

「はい――はい」

 僕がそう答えると、リディア様は笑って僕に背を向け、ゆっくりと人混みに入って行った。赤い髪と豊かな腰下が群衆の中でもひときわ目立っている。リディア様は美しい姫君だ――と、僕は初めてそのことに気がついた。母上はもっと細くて、肉付きが浅くて……リディア様と比べると、些か見劣りがするかもしれない。けれど、マリア父上は母上を選んだのだ。マリア父上には外見など女性を見る上でさして重要なことではなかったのかもしれない。

 僕は従者が持ってきた酒に少しだけ口を付けながら、壁に背をもたせかけた。くるくると回るように踊る女性や、その女性をエスコートする男性の貴族を外から眺めるのは舞踏会こそ初めてだったとしても珍しいことでもなく、僕は退屈に目を細めた。くらりとアルコールが僅かに回る。僕はアルコールに強くない。母上もあまり飲んだことはないだろうし、マリア父上が飲んでいるところを見たのなどさっきが初めてだ。どちらも酒に多分強くないのだろう。実際僕も酒には弱い。僕はぼうっと貴族の美しい衣装を着た女性たちを見ながら、僕の元から去ってもう一カ月は経つだろうミュゼ姉上のことを考えていた。勉強に忙殺され時間をただ流してきたけれど、僕の中でミュゼ姉上が去ったことは――例えそれが僕から招いた事だったとしても――辛く悲しいことだった。今頃、僕が五歳までを過ごしたあの土地で、ローラ様と仲良く暮らしていてくれているだろうか。だとしたら、この胸の痛みも少しだけ紛れるのだけれど。

「あなたはだあれ?」

「……え?」

 そうやって考え込んでいた僕を現実に引き戻したのは、少女の問いかけだった。この場の誰よりも飾り付けた格好に一瞬気を取られて、それからすぐにまた現実に意識を戻す。そうこうしている僕をただ眺めていたその女の子は、僕の顔をじっと見つめて、それからマリア父上のいる方を流し見た。

「マリア様? でも、マリア様は……」

「マリア様ではありませんよ。僕は――」

「リフレ!」

 リフレ、と名を呼ばれて、彼女は名を呼んだ少年の方を振り返る。僕もその少年の方を見た。

「……! ロカ様。妹が申し訳ありません」

 彼は僕の方へと小走りによると、そう言って少し頭を下げた。利発そうな顔立ちに茶色の髪。その胸につけた勲章で、僕は彼がある小国の要人だと気付いた。

「あなたは……」

 僕がそう彼に名を訊ねると、彼は眉尻を少し上げて、

「グラーズ・D=アンデリア。アンデリア王国の第一王子です」

「アンデリア? アンデリアというと……南の方か」

 いささか日に焼けたような黒い肌と国名で、僕は彼をそう推理した。僕の言葉に、彼は首を縦に振る。……というか、その名前は聞き覚えがあった。僕の記憶が確かなら、彼は……。

「……君がこの舞踏会の主催か」

「まさか、ロカ様に会えるとは思いもよりませんでした。こっちはリフレイズ・S=アンデリア。僕の双子の妹です」

 十五の双子の妹、だと言うことは、僕と年子になるのだろうか。

「……ほら、リフレ。ロカ様に挨拶しろ」

「お兄様、この方と親しいの?」

 彼女はグラーズ王子の背中にまわってこちらをおずおずと伺いながらそう訊ねる。僕は苦笑した。

「今初めて会ったばかりですよ。僕はロカ。マリア父上の第一王子です」

「マリア様の第一王子? と、いうことは……」

 彼女はその赤い唇で、ぽつりとつぶやく。

「……花売りの?」

「リフレ!」

 花売り。一瞬その侮蔑に驚いたけれど、僕はすぐに気を取り直して微笑んだ。グラーズ王子が困ったように頭を掻く。

「申し訳ありません。妹はその――」

「いや、いいですよ。そうです、花売りの息子です」

 僕のその自己紹介に、彼女とグラーズ王子は目をしばたかせる。

「――あなたがあのロカ様なのね」

「はい」

 僕の返事に、彼女は一瞬考えた後――にっこり笑って、こう言った――「お兄様。私、この方と婚約しますわ」

「――はい?」

「――なんだと?」

 僕とグラーズ王子が同時に言葉を発する。彼女は笑った顔のまま、こうつなげた――「この方、とてもおもしろそうだと、私ずっと思っておりましたの。だから、この方の正室になりたいわ。いいでしょう?」

 あっけにとられた僕の顔をじろじろと見ながら、彼女は言った。グラーズ王子がくらくらと自分の頭を手で支える。「面白そうだとか、お前は――またそんな……」

「……えっと」

 僕がなにか言葉を探そうとしている間に、彼女は再び言葉を発する。

「大臣とお父様にはお兄様から説明して。私そういうの、苦手なんですもの」

「リフレ!」

 彼女の兄が彼女を律する声も遠く届かず、彼女は僕に抱きついた。女性からそんなことをすることにも、今までの言葉にも驚いていた僕は、情けなくも「わっ!」と声を上げることしか出来なかった。

「リフレ、はしたないぞ! それに――」

「難しいことは考えず、お前はお前でするべきことだけを考えろ。お兄様の口癖ですわ」

「するべきことだけをしろ、だ! ロカ様、申し訳ありません。妹はその――些か……」

「ロカ様。私をお嫁にもらってくださいますよね?」

 返事に窮した僕は、おろおろとマリア父上の背中を見た。マリア父上は周りと同じく、驚いた顔でこちらを見ているだけで、こちらの喧騒の中に入ってこようとはしてくれなかった。


 あの騒ぎは、なかなか収まってくれなかった。噂が噂を呼びもはや真実など誰にも伝わっていない状態で、僕はすでに彼女――リフレ王女と婚約をかわしたことになっていた。しかし、そんなはずはもちろんない。マリア父上はあの喧騒のあと僕のところに正式にリフレ王女から婚約の申し込みが来たことだけを伝え、彼女を相手にすることはないと呟いて部屋から僕を追いだした。どうもマリア父上も彼女に手を焼いているらしい。噂は好きではないけれど、侍女や従者たちの話で、僕は彼女が彼女の国でもおてんばで悪戯好きのまだまだ幼い姫君として知れ渡っていることを知った。彼女が十五にしてはとても幼いことは一度目にしただけの僕にもすぐに分かるようなことだったとはいえ、噂とはおひれのつくものだから僕はあまり取り合わないことにしていた。とはいえ――グラーズ王子が持てあましていることも、僕が見ただけでも分かったことであって、その噂はどうもその通りであるような気もした。だからマリア父上も、僕と彼女の婚約を厭うのだろうか? 多分、そうではなく、政治的な面でマリア父上が婚約したいと思っているのとはリフレ王女は違うのだろう。

 ――ロカ様へ。

 僕は窓辺に座って彼女からの手紙を読んでいた。それは赴きこそ恋文と同じだったとしても内容はとても幼くまるで恋をしているようには思えないような手紙で、ああやはりあのとき彼女自身も言っていた通り僕が「面白いから」彼女は気になっているのだろうなと察することが出来た。自分のことをつらつらと書きつづった手紙――とはいえ、気分が悪いものではない。その中のエピソードには面白いものも確かにあったし、彼女がわざわざ手紙にそれを書いたのも自分を知ってもらうためだと分かったからだ。僕らはあまりにも遠くて――そう、遠いのだ。全く存在すら知らなかったようなお姫様、それもとても小さな南の国のお姫様など大国の王子である僕が知らないのはある意味当然だったし、彼女が一方的に僕を知っていてその存在を面白そうだと考えていたことなど僕に察せるはずもない。……まあ、でも、僕の存在が彼女のような王族や貴族にとって面白いものであるのだけはなんとなく分かるような気もする。事実とても――なんというのか――話題に困らない存在だろう。王族と娼婦の、しかも第一王位継承者なんて大層な名のついた王子との相の子。ミュゼ姉上も王族と娼婦の相の子だけれど、メリエル父上はあくまでも普通の王子だ。王子が「普通」、だなんてそうそう言えることではないけれど、普通の……「普通の」王子との間なら、まだ娼婦と繋がって子を産ませたと言ってもちょっと気をそそられただけと思われることもあるだろう。しかしマリア父上は母上と会う前も娼婦と遊んでいたとはいえ次期国王だ。娼婦とちょっと遊んで子どもが出来ちゃいました、で済まされるような身分ではない。それで済ませてしまったから僕が王宮でマリア父上の次の王として過ごさせてもらっているけれど、それも例外中の例外だろう。男だったから。それがどれほどの幸運で、どれほどの不運かは、僕にはまだ分からないけれど。

「ロカ様。リフレ王女から、贈り物です」

「贈り物?」

 手紙を膝に置いてぼうっとそんな考え事をしていた僕は、従者のその言葉で現実に引き戻された。贈り物だという大量の箱を部屋に入れひとつずつ開くと、中には沢山の衣装が入っていた――こういうことをするには、あの小国は小さすぎるのではないのか? 僕の疑問を聴こえてないはずの従者が苦笑する。

「これは、また――あの国にしては、思いきったことを」

「やっぱり、これは凄いんだね」

 部屋中に溢れかえったプレゼントの山を、僕はそう呟いて眺めた。ぱっと見ただけでもとても仕立ての良いものだと分かる男物の衣装が部屋中溢れているのだ。こんなことを出来るのは、せめて大国の王女か王子だろう。アプローチしているだけの他国の王子にするにはあまりにもやりすぎているし、そもそもそれだけのお金があの国にあるのか? と思えば、従者の言葉はこうだ――「あの国にしては相当の痛手になるでしょう。まだ婚約もしてないうちからここまで施していれば、いつかしっぺ返しが来ますよ」

「そうだよね……僕もそう思うよ」

 僕の控えめな言葉に、従者はでは片付けましょうと侍女たちに指示を出した。贈り物も手紙も別にしたいだけすれば良い話なのだろうけれど――今からこんな風に大量の贈り物を用意していれば、いつか国民の税金を食いつぶしていると言われるのがオチだ。

 ――ロカ様はお元気でしょうか。私は遠すぎて中々来れないのですが――

 また別の日に届いた手紙には、そう書いてあった。暖かくリゾート地として裕福な南の国、アンデリア。その小国の王女からの手紙はもう優に十を超えていた。その中でも「好きだ」とか、「婚約したい」とか、そういった旨を書いたものはほとんどなく、大部分が自分の日記のような、その日あったことを書いている僕が読むに足りないようなものばかりだった。それでも僕は全部読んだ。彼女のことが気になっていたからではもちろんないのだけれど、そうやって毎日のように来る手紙を読まないのも悪い気がしたのだ。彼女の熱意だけはなんとなくでも分かっていたし。どうして面白そうという理由でここまで熱くなれるのかが分からないのだけれど、それでも――彼女は一応は本気らしい。マリア父上の方にも何度か文が届いたという話もあった。

「少しはお返しするべきかな? どう思う?」

「返事をしたら最後だと思ってください、ロカ様。ここまで熱心だと、ひとつの返事できっと舞い上がって向こうの国で婚約発表だなんてことになりかねません」

 従者の言葉に僕は深い息を吐く。頭が痛い。

「ロカ、リフレイズ王女に何かしたの? このところ彼女の文ばかり届くんだけれど」

 ついにそうマリア父上が僕に話を持ちかけたときには、僕のところに届く手紙もニ十を超えていた。ここまで届くと僕も丁度偏頭痛が起きているところだったから、マリア父上がこの問題についてやっと腰を上げてくれたのは嬉しいことでもあった。

「何も――何もしていません。彼女は僕の出生を面白がっているだけで」

「出生が面白い? そんなことを言うような女にこんな時間を取られているなんて……」

 マリア父上はつい、というようにぽろりとそう言った。それからハッと気付いて僕から顔をそらし、こほんとひとつ咳払いをする。

「……まあ、いい。ロカ、お前も相手をしないように。アンデリアなんて小国の姫君なぞ、君の正室にふさわしくない。君の正室は僕が決める」

「……はい、父上」

 僕がそう返事をすると、マリア父上は僕を部屋から出した。部屋から追い出された僕は再び息を深く吐き、マリア父上の私室の扉に背を滑らせる。

「……はあ」

 ――頭が痛い。

 本当に、そう言うしかない。リフレ王女はどうしてこんなにも僕に情を燃やすのだろう? 僕なんて、出生がいくら面白かろうが、そこら辺の青年に過ぎないのに。面白味もないし、噂も嫌いだし、することと言えば勉学と乗馬、読書だけで、特別優れたところもなく、出生のこと以外に噂になることもない。そんな王子に――もしかして、彼女の裏でアンデリア国王が一枚噛んでいるのだろうか。この国の姫君、果ては王妃になれるのなら、アンデリアなんて小国は小さすぎるけれど、その分アンデリアへの利は大きいだろう。

「アンデリア国王? まさか――と言いたいところだけどね。でも、彼女はどうも親にさえ見離されているらしいよ。彼女が本当にロカの正室になれればアンデリア国王としては棚から牡丹餅だろうけど、期待はしていないだろうね」

「そうですか。それにしては……いささか彼女自身も熱心すぎると思うのですが」

「まあ、熱心すぎるきらいがあるのも本当さね。でも国王は多分何もしていないよ。そんなこと勘ぐっても仕方がないさ」

 メリエル父上と部屋で茶を飲みながらそんな話をした。メリエル父上の隣で母上が不器用に笑う。

「ロカ、あんまり迷惑だったらちゃんと言うんだよ。マリアもそれくらいしてくれるだろうしさ」

「はい、母上。……でも、僕は僕でなんとかできます。多分、ですけど」

 そう最後を小さく呟いた僕に、母上は僕の頬を撫でる。

「ロカ、あんたには本当に苦労させてしまって……こんなことだけれど、こうやってなにか問題が起こったって聞くたびに、私は肝が潰れる思いがするよ」

「すいません、母上。僕は……」

 ――僕は、……なんだ?

 なにも言うことができず、僕はゆるゆると視線を地面に落とす。リフレ王女のこと、ミュゼ姉上のこと――レオ様のこと。僕の周りは問題ばかりだ。……母上には、――本当に申し訳ないことをしている。

「ロカ。ひとりで抱え込みすぎないようにね。あんたが出てきて辛い思いをすることはないんだ。こんなことだけれど、ゆくゆくは大きな問題になってくるかもしれない。そんなときは、迷わずマリアかメリエルに頼むんだよ」

「はい、母上」

 僕はそう言って苦く笑って見せ、飲み残した紅茶を置いて部屋を後にした。


「――リディア様が?」

 僕の耳にその噂が入ってきたのは、ことが起こってから二~三日後のことだった。リディア様が倒れたとなんだか慌ただしそうなリディア様の周りの従者に聞いた話なのですが――と、僕の従者はどこか落ち着きなく僕にことの次第を告げた。それによると、リディア様はただ倒れたのではなく誰かからの毒を服毒したせいで倒れたということらしく、医者の見立てではもう子どもを宿せなくなったらしい。そして――その服毒させた主犯が、僕ではないか、と。

「なんだ、それ? どういうこと? どうしてそこに僕の名前が出てくるの」

「それが……どうも、リディア様は舞踏会のときに服毒されたのではないかと言われていまして。そして、舞踏会のときにロカ様と二人で話している姿を幾人もの貴族や王妃殿下が見られているそうで……」

「舞踏会だって? もう何日前になると思ってるんだ」

 僕の言葉に、従者は頭を下げるだけだった。どうして――なんでこんなことに? リディア様の体調の話は本当なの? 僕がやった――僕がやっただって? なぜ舞踏会だなんて何週間も、何カ月も前のことを――王妃様がなぜそこに……。

「なんであれ、今はどうすることもできません。ロカ様は、出来る限り大人しく……」

 従者はそう言いにくそうに言葉を続けると、僕に本当に可哀相なものを見るような目を向けた。彼の同情も今は有難くない――僕が犯人だと? 誰がそんな噂を。王妃様……どうしてそこに王妃様が出てくるのだろう。舞踏会なんて幾日も前のことを引っ張り出して、それでは僕が主犯でないか、なんてよくもまあ言えたもんだ。どれほど遅れてくる毒だったとしても、いくらなんでも舞踏会なんて昔の話すぎるだろう。それくらい、毒に詳しくない者が考えてもすぐに分かる。なのに僕が疑われているのだ! 僕だって? 第一僕にそうする理由が……。

「ロカが王になるために一番邪魔な赤毛のお姫様をやったって噂だよ。あんまり出歩かないようにしておくれ。今は何が起こるか分からないからね……実際、私も出歩くなってマリアとメリエルがうるさくてね」

「……」

 母上の言葉に、僕は紅茶を一口含んだ。場所は母上の私室だ。母上が呼んだわけでも、僕から出向いたわけでもないのだけれど、メリエル父上の元へ行こうとしたときにばったり母上に出会ったのだ。そして丁度良いからと部屋に行くことになり、いまこうして向かい合って渋面をしている。マリア父上もメリエル父上も母上に外に出るなと言っているのか……それはつまり、もちろん当たり前なのだけれど――マリア父上もメリエル父上もリディア様の服毒事件の主犯ではないのだ。

「どうしてこんなことになったのでしょう。僕はただ王になろうとあがいてるだけの小石に過ぎないのに、その小石がリディア様に毒を盛るなど……一体誰が、そんな奇妙な物語を思いつくのでしょう」

「誰だろうね……なんとなく、分かるような気もするけれどね」

 母上の言葉に、僕は母上の目をぱっと見る。母上はつい零してしまっただけらしく、こほんと咳をしていや、と言った。

「なんでもないよ。……こんなとこで噂話するには、些かデリケートすぎる」

「……そうですね。僕もそう思います」

 では、と言って僕は席を立った。母上がロカ、と再度僕の名を呼ぶ。

「なにかあったらすぐ言うんだよ。マリアもメリエルも今度の事件に何のかかわりもない。私じゃ役不足だからね……」

「――はい、母上」

 僕はにっこり笑ってみせる。それから頭をぺこりと一度下げて、母上の部屋を後にした。すれ違う貴族たちの視線で、ふと母上の状況も良くないんじゃないかとそれに気がついた。出歩くなと言われていると母上自身もおっしゃっていたように、母上の立場もいままで以上に危ういのだ。僕がリディア様に毒を盛ったのが事実で、それでリディア様が子を宿せなくなったというのなら、母上が立場を追われる可能性も無きにしも非ずなのだ。なきにしもどころか、大いにあり得るだろう。マリア父上がそんなことをするはずがない――メリエル父上も――リディア様が勝手に? まさか。母上は誰を主犯だと……。

 ――ロカ様へ。

 そんな殺伐としてきた僕の周りを無視して、リフレ王女からの文はまだ僕の元に届いていた。これを辞めさせる時期が来たのかな、と思った僕は――リフレ王女が加担したと思われないようにだ――、従者に相談してから筆を取った。リフレイズ王女へ――冠はなにもない――僕はいま危機的場面に直面しています――そしてその詳細と、もう文は送らないで欲しいことを書く。返事はもうないだろうと思っていた僕の元に、彼女はついにやってきた。僕の意向なんて、文すら無視して。

「ロカ様!」

「……えっ?」

 僕が彼女の姿に驚いて目を丸くすると、彼女はその頬を丸くして僕の胸板を少し叩いた。

「酷いですわ。あれくらいのことで、私に文を辞めろだなんて。私、これはなにか言わないととこうして飛んできましたの」

「何か言わないとって……僕の意志は無視してしまうんですね」

 僕のうらみがましい言葉に、彼女はその茶色い髪を振った。

「意志にそむいてはいませんわ。私もリディア様に毒を盛っただなんて思われたくありません」

「それなら……」

 僕の言葉に、リフレ王女は少し微笑む。その微笑みに、僕は一瞬魅入った。こんな場面だったからこそ、僕はひとの微笑みに飢えていたのだ。彼女の日に焼けた南国の肌と相余って、その一瞬は切り取られたように輝いて見えた。

「私がなんとかしてみます。何か策があるはずだわ。お兄様にも訊いてみます」

「――あなたが策を持っているわけではないんですね」

 僕の言葉に、彼女はちょっときょとんと眼を丸くした後、にっこりと笑った。今度は微笑みでなく、きちんとした笑み。自信を感じさせる笑い方――僕に無いものだ。

「お兄様はとても頭が良いの。なにかあるはずだわ」

「そうですね……何かあることを、祈っています。でも」

 僕は言葉の先をとがらせる。

「あなたの国が加担すると、僕にとっても、あなたの国にとっても良くないことが起こります。戦争にでもなったらどうするおつもりですか。どうか、今はこのまま帰ってください」

「……帰れと仰るの?」

 彼女は今度こそ目を丸くして、そのふちに見る見るうちに涙が溜まって行く。しかし僕はそれをとても冷めた気持ちで眺めていた。

「ご帰国なされるよう」

「……いやよ!」

 彼女は激昂する。僕は無心のままだ。ここはどうしても強情を張らなければならない――彼女はことの大きさを知らなさすぎる。こんな風に僕に会いに来ることも、僕に加担することも、全部彼女の国にとってほかならぬマイナスだ。だってこれを機に戦争なんてことになったらどうする? 第一王位継承権を持つ王子の妃に手を出したかもしれない、ということは、国内で起きたことでも僕が武力を持っていたら戦争になるようなことだし、実際に武力をもつ一国の姫君が加わっていたとなると、問題がどこまで膨れ上がるのか――僕はそれを見る気はない。

 そんなこと、わざわざ説明せずとも、齢十五ともなる王女ならすぐに分かることだろう。それとも――そんなことすら分からないほど……。

「いやよ、私はロカ様のために動きたいの。ロカ様が立場を危ぶまれているところに、ただ座って見ているだけなんて嫌よ!」

「感情論はお控えください。その気持ちはとても有難いですが、貴国が危なくなるのです。僕の国とあなたの国では大きさがまず違う。武力も違う。争いになったら間違いなく貴国は潰れてしまいます。僕はそんなあなたの国を見ることも、負けた国の姫君になるあなたを見ることも避けたい」

 僕の言葉に、彼女は呆然と僕を見つめる。

「……負けた国の姫君? 争い……?」

「――まさか、あなたがリディア様に手を出したとなったあとを想像してみなかったと?」

 僕が鋭くそう言うと、彼女はゆるゆると俯いた。ぼろぼろ、と大粒の涙がこぼれる。それをぬぐって、彼女は僕をきっと睨んだ。

「……想像しなかったわ」

「……睨みながら言うことですか」

 呆れた僕に、彼女はふと笑う。

「わかりました。ロカ様の言うとおり、私はこのまま帰ります」

「はい。そうしてください。お気持ちだけ、有難く受け取ります」

 僕が自身の胸に手を当ててそう言うと、彼女は気持ちよく微笑んだ。この王女様はとてもよく笑う人だ――と、僕はふとそのことに気がついた。

「それでは、ロカ様。ロカ様がなにもしていないこと、きっと周りは分かっていますわ。事の次第は――どうなるか分からないけれど――きっとロカ様に良いように傾くでしょう」

 予言めいたことを、彼女は言って、帰って行った。帰る間際に僕の部屋に来て軽く手を振って、彼女は行ってしまった。

 僕は、彼女のその言葉に、なんとなく現金だとは思いつつも少し気持ちが安らぐ気がした。誰も――従者や母上、マリア父上やメリエル父上以外のにんげんたち――、周りは誰も彼もが僕に冷たく僕を疑っているようだったけれど、彼女だけは違うとその事実が僕にとってとても有難かった。彼女の来訪は僕に何ももたらさないどころか彼女の立場自体を危うくしてしまう可能性があるとても危険なものだったけれど、僕はそれでもこちらへ会いに来てくれた彼女に感謝した。


「ロカ様が盛ったと持ちきりだよ。今日もね……」

「まあ、ロカ様が? いったいなぜ?」

「王になりたいとは言っていたらしいけれど、まさかリディア様に手を出すとはね……」

 こそこそと噂話が、張本人である僕の耳まで届く。本当にリディア様に「手を出した」のであればその全てを受け取っても良かったかもしれないけれど、こちとら無関係も甚だしい。僕は俯くのが嫌で無理にでもいつも前を向いて歩いていた。そんな僕の姿を「いけすかない」と揶揄する貴族も居たけれど、大体はそんな僕に今まで口先でつまんでいた噂話を下げてしまうひとたちばかりだった。誰も確証など無いのだ。しかし噂はとても早く宮内に広まっている。

「ロカ様、リディアの件ですが。もう起こってしまったのは仕方のないこと、こちらからひとつお願いがあるのです。お願いと言うか、これは交換条件です。これを呑んで頂ければ、私たちはこの噂から立ち退きましょう」

 ――リディア様のお身内がそう僕に言ってきたのは、その噂がますます広がってしまった、リフレ王女の来訪から何週間もあとのことだった。

 僕は前をじっと見据えていた――リディア様のお身内の方々は、リディア様そっくりの赤い髪をしていた。その髪を見つめていたのだ。リディア様は本当に美しいお姫様だ――そう思った舞踏会のことが、もう遠い過去のようだ。こんなことになるとは思わなかった。従者にそそのかされて出たとはいえ、誰がそんなことを信じてくれるだろう。ロカは自分で出てきた。そして、リディア様に毒を盛った。それはもしかしたら、ロカが舞踏会に出た本当の理由かもしれない――ここまでが噂だ。全て噂の中でありそれ以上ではない。しかしここまで噂は広がっているのだ。あるときはそれにもう少しおひれをつけて。またあるときは事実をありのままに。それはつまり、舞踏会でリディア様と飲んでいたことを言われているということだ。

「……交換条件とは? 僕はこの件を認めたつもりはないのですが」

 僕はらしくないと思いながらもそう言葉をつないだ。それを言っておかなければ認めたも同然になってしまうことを知っていたからだ。それだけはどうしても避けたい。リディア様が子どものように思っていてくれていると、あのとき言った言葉が本当だったのなら、そんなリディア様に報いる方法がこんなものだったと思われるだけで僕はもう辛いばかりだ。それに、これから先王になるに至って、この件はまた僕をどこかで深く突き刺すだろう。それくらいの予測は簡単に立てれる。

「条件はひとつだけ。リディアの妹、メディを正室にしていただきたく思っておるのです」

「……メディ様を?」

 メディ・アール=バースキン。言葉のとおり、リディア様の妹君だ。お相手は誰だろうとずっと噂されていて、しかし本人に誰が当たってもその気はなさそうだった気難しそうなお姫様。公爵令嬢という身の上の派手派手しさとは裏腹に、とても落ち着いた方だ。だけど――僕はこの方と話したことも、顔を見たこともない。そんな方を正室にすると? マリア父上が蹴ってしまうだろう話だ。僕自身に持ちかけて先に約束させてしまえば簡単だとでも思ったのだろうか。僕は用意された通りに答える。

「正室の姫君は、僕ひとりで考えられることではありません。父上にお話を通してくださらなければ」

「マリア様にはもう話してあります」

「……なんですって?」

 あまりの衝撃に僕は眉をひそめた。このひとは何を言っているのだろう――マリア父上に話をした? マリア父上が了承したということか。マリア父上がこんな不条理なことを許可したと言うのか!

「……そうですか。では、私からも確認してみます。お話は、それからまた……」

「――今御答えを頂かなければなりません。そうでなければ、私たちはあなたに不幸を呼ぶでしょう」

 リディア様のお身内の言葉に、僕は目を丸くした。不幸を呼ぶ? 僕と戦争しようと言うのか。僕は一瞬で様々なことを考えた――戦争だったら僕の方も武力を用意しなければならない。娼婦の子の僕にどれだけの騎士がつくだろう。戦争じゃなくても王になることの邪魔立てもきっとリディア様のお身内となれば簡単にできる。どう転んでも「不幸」は簡単に起こせるのだ。僕の運命などこの方々の手のひらの上なのだろう。

「……それでも、僕は今ここで答えることができません。正室は僕一人では決められないし、あなた方の言うことも――こう言ってはなんですが、まだ信じられない。父上に直に訊いてからにします。それくらいの時間は与えられてしかるべしだ。第一、僕はリディア様に手を出していない! なのになぜ交換条件など出されなければならないのです?」

「リディアに手を出していないというあなたの答えは聴けません。どれほどの貴族がそれを噂していると? 最近は下々の者にも伝わっている。それを覆すことなどあなたには出来ないでしょう。あなたはメディを正室にするしかない。これはもう決まったことなのです。あなたに御答えを訊ねていることこそこちらの譲歩です」

「――譲歩だって?」

 僕がするどく切り返す。しかし彼らは揺るがなかった。本気なのだ。本気で――本気でメディ様を正室にしなければ、僕に報いると言っている。そんなことって。そんなことってあっていいのか? どうしてこんなことに――誰が僕に刃を向けているのだろう。何もかもこのひとたちが企てたのか? まさか。リディア様は、血がつながった我が子だ。まさかそんなことはしないだろう。それならば、誰? このひとたちはリディア様の服毒を良いように使っているのだろうか。そんな罪深いことって、祈師様は許してくれるのだろうか。本当に……本当に、この人たちが僕の影に隠れてリディア様に毒を盛ったのでは……。

「そう。譲歩です。聡いロカ様なら、ここまで言えば分かるでしょう」

「……僕に答える権利はなさそうですね」

 僕の言葉に、彼らは低く笑う。その笑いがとても下卑たものに見えて、僕は渋面をした。しかし悟られる前にすぐ表情を戻す。ここで僕の感情の機微など見せたらもう終わりだ。ますます僕の状況が悪くなるだろう。

「メディを正室にしてください。あなたにはもう、それしかないのです」

 そう言って、彼らは部屋を出て行った。僕は椅子の背もたれに背中を滑らせ、ふうと息を深く吐く。頭の中をぐるぐる回っているのは、メディ様のこととリディア様のことだった。こんなことになるなんて、思いもしなかった。しかし、これくらいで済んだと取るべきなのかもしれない。大事にならずに、彼らはメディ様を僕の正室にするだけで済ませてくれようとしている。僕に答える権利など存在していないということだ――なんということだろう。

「……頭が痛いよ」

 僕はそう呟いて、木製の机の天板に頭を伏せた。


「リディアの妹だろう? 正室としては立派なところについたと思っているよ。第一、これくらいで済んでよかったんだ。追放されてもおかしくなかったんだよ、ロカ」

「そうは言っても……僕は何もしていないのに……」

「もっと単純に訊こう。君はメディを正室にしたくないの?」

 マリア父上に単刀直入に訊かれ、僕はうっと言葉を飲みこんだ。なにを言っても平行線なのは分かり切っていたことだけれど、もう少し僕の意見も聴いてもらいたい。しかしそんな言葉は通用しないのだ。何を言っても、本当に――本当に、バースキン公爵家から直訴を受けて僕を追放したり、戦争を起こしたりしてもおかしくないような話だったのだから。

 リディア様に毒を盛ったという噂は、いまだ貴族たちの話の種だった。リディア様のお身内の方々が言っていた通り、最近は下々の――民衆、という意味だ――人間にも伝わっているらしい。なぜロカ様はそんなことを? 王になるためにリディア様が邪魔だったようだよ。あの方が子を産むと厄介だからね――と、こうだ。

 そうなのだ。こうなるまで僕は全く気付かなかったけれど、リディア様が子を産み、さらにその子が男の子だった場合、僕は成すすべなく「王になる」ことはできなくなっていただろう。それは僕の意向と反することであり、こうなった今一番疑われるのは僕なのだ。僕にとってリディア様とマリア父上の、未来出来るかもしれない子どもはとても邪魔だ。しかし僕はそれに気付いていなかったし、思いもしなかった――もしかしたら本当に男の子が出来ていたとしても、僕は諸手を振って喜んでいたかもしれない――しかしそれをうかつだとは僕は思わない。子どもが出来ると言うのは、本当に、リディア様にとってこれ以上ない喜びだろう。女の人にとって我が子がどんな存在なのかは、僕を育てる上で母上が――言葉にしてくれたわけではないけれど――教えてくれた。それを奪うだなんて。僕が? 僕がそんなことを? そんなまさか。有り得ない。しかし有り得ないと思ってるのは当人だけ。なんて無情なんだろう。

「メディ様を……正室にしたくない、などとは、思っていません」

「なら問題ないだろう。何度も言うけれど、それくらいで済んでよかったと思うべきなんだよ、ロカ」

 マリア父上の言葉に、僕は俯く。それくらいで済んでよかった。本当に、そう言うべきことなのだろう。妹を正室にするだけで、リディア様が子を産めなくなったことを水に流そうとしてくれている。貴族としても、立派というべきなのかもしれない。本当なら激怒して、なにが起こっていても「仕方ない」というしかないようなことだ。……分かっている。分かっている、けれど。

「正室にしたがっていたミュゼも王宮からいなくなったし、君にとっていま正室の座は空席なのだろう? 何の問題がある。メディを正室にすることは、一番大きい家であるバースキン公爵家からの反逆も無くなるという利点があるんだ。分かるだろう」

「……分かります」

 言う。分かる。分かっているのだ、僕だって。

「じゃあ、もうこの問題は終わりにしよう。僕だって頭が痛いんだ」

「はい……」

 マリア父上が顔をしかめて頭を押さえたのを見て、僕はマリア父上の私室から出て行く。戸番に扉を閉められてから、僕は頭を扉に持たせかけた。はあ、と息を吐く。

 ――なんでこんなことになったんだろう。

 誰が真犯人なのか、調べることもできず、ただ成すすべなく流されて行く自分が馬鹿らしい。けれど仕方ないのだ。そうなってしまったのなら仕方ない。顔もまともに見たことがないメディ様を正室にする。それが嫌なわけではない。勿論抵抗は少しあるけれど、それでも「嫌」ではない。僕が嫌なのは――メディ様を正室にすることで、僕がバースキン家や他の貴族たちの言うように「リディア様に毒を盛った」ということを認めてしまうことだ。

「……ミュゼ姉上」

 名を呟く。彼女を僕から早いうちに離していてよかった。この件に巻きこまれていたら、さすがのメリエル父上も手を余してしまっていただろう。口が達者なだけではどうしようもないことなのだ。弁舌に立ち会った数人を論破したところで、どうにもならない。噂している貴族や民衆の数が多すぎる。数に負けてしまっているのだ。メリエル父上ひとりが、貴族を論破したところで「論破した」という事実は誰も扱わないだろう。ひとは面白い方へと流れていく。それが常で、仕方のないことなのだ。

「ロカ様、メディ様はとても美しいですよ」

 驚くほど首尾よく整えられた結婚式までの日付は、本当に驚くほど早く過ぎた。別室で飾り付けられたメディ様と会うことは結婚式だと決められたこの日まで全く無く、しかし僕はいままでしていた帝王学等の勉強を一時取りやめにするほどこの件に忙殺された。メディ様は別室で、先述したように美しく飾り付けられたらしい。メディ様が美しい姫君であることは、リディア様が美しかったことで予想出来てはいるものの、僕の中で少しだけ楽しみだと言う感情が――僕も驚いたけれど――湧いていた。僕は白い服を着て、そのままメディ様と会わせてもらえることもなく飾りたてた王家の紋章の入った馬車に乗り込んだ。あとから、華やかで色鮮やかなドレスを着た花嫁が乗る。ベールで隠された面持ちを覗くことが出来ないまま、式の一部だというパレードが始まる。王都の中心の大通りを馬車とたくさんの騎士たちが縦横無尽に歩いて行く。式用の騎士たちの見せ場はとても華やかで、様々な色の薔薇の花びらを撒いた。青旗の騎士はその魔術で美しく幻想的な風景を産みだす。それを見て、僕はとても自分が遠くなる気がした。青旗になりたいと思っていた過去の幼い自分が離れて行く。王になると決めた自分が近くなっているのに、それすら遠ざかっていく気がした。僕がなりたかったのはなんだったのだろう。結局僕はこんな馬車に乗って何をしているのだろう。

「……ロカ様」

 隣に座って、黙って民衆に手を振っていたメディ様が、初めてそう僕の名を呼んだ。僕はぱっと頭を切り替えることの出来ないまま、暗い表情で、え? と彼女を振りかえった。彼女のベール越しの口元が笑っているように見えたのは、気のせいだろうか。

「メディは、ロカ様の妃になれて幸せです。ロカ様も、このメディを娶って幸せだと、そう思える日が来たら嬉しい」

「……メディ様」

 メディ様の言葉に、僕はちょっと驚く。幸せ? リディア様を犠牲にしてこの座に就いたのに? しかしメディ様を責めるすべを、僕は持たない。それ以上にその言葉の美しさに魅了されて、僕は一瞬リディア様のことを確かに忘れた。メディ様の名を呼び、こちらを振り向いた彼女のベールを軽く持ちあげる。突然僕にそうされても、ベールの下の面持ちは崩れなかった。美しい、どこかリディア様と似た雰囲気の、垂れ目の少女がそこにいた。そのまっすぐな視線に心が揺れる。

「ロカ様」

 彼女が僕の名を呼ぶのを、その日から僕は心の底で許してしまっていた。ミュゼ姉上のことも、リフレ王女のことも――リディア様のことも。全てを忘れて良いのだと、暗に言われた気がした。そんなの、僕の勝手な感傷だろうけれど。それでも確かに、僕はその瞳の中に救いを求めた。息が苦しくなるばかりな今を、塗り替えてくれるもの。

 そっと唇を触れさせたのと同時に、パアンと外で高い音が鳴った。打ち出した花火であることはもう明白で、僕はそっと顔を離して、メディ様越しに窓の外を軽く覗いた。きらきらと、花火が散っていく。昼の花火も美しく空を彩っていた。

 ――式が終わり、僕らは夫婦用の大きな部屋に詰め込まれた。夜は過ぎて行く。この部屋に通された理由が、時間が過ぎて行くほどに僕らを責め立てる。……僕らは夫婦になった。だから、初夜を迎えなければならない。それは過去マリア父上が無視したものであり、母上が頭を抱えた問題だった。初夜を迎えるために通された夫婦用の寝室で、僕らは向き合ったままどちらも動こうとしなかった。方法が分からない以上に彼女にそんな欲を抱くことができなかった僕は、過去なぜマリア父上がリディア様に手を出さなかったのか今になってやっとよく分かった気がした。

「……寝ましょう、メディ様。僕はあなたに手は出しません」

「ロカ様は、メディがお嫌い?」

 ちょっと首を傾げて、メディ様は僕に率直に訊ねる。僕はちょっと言葉を飲んだ。

「……メディは、ロカ様になら何をされても良い。ロカ様は、メディのことをそう思ってはくださらないの?」

「……女の人が、そんなことを言うものではないですよ」

 僕は困ったようにそう逃げる。メディ様は少し笑った。

「……寝ましょうか。明日から、よろしくお願いしますわ、ロカ様」

「はい。よろしくお願いします」

 僕とメディ様の、誰が望んだのか分からない初夜は、そうやって過ぎて行った。


「――このたびは、メディ様の正室のご即位と、リフレイズ王女の側室ご即位をお祝いしまして……」

 バースキン家ではない公爵家や、侯爵、男爵家など様々な貴族たちからの祝いの品がそうやって僕の元へと贈られてくるようになった頃と同じくして、リフレ王女も僕の側室――後宮へと入ってきた。後宮と言うと彼女は嫌がるだろうか、と思っていたけれど、むしろ彼女の国柄として、後宮という言い方のほうが彼女はしっくりくるようだった。メディ様へとお目通りをした彼女の第一声は、「あなたより位が低くなってしまったわ」と冗談じみた本音だった。

 戸番が誰が来たかを述べ、がちゃり、と僕の部屋の戸が開く。リフレ王女が戸の先で笑っていた。彼女は僕の目の前までくると、戸番が戸を閉めてしまうのを確かめてから、ロカ様、と低く言った。僕は何の用だろうと目を瞬かせる。

「……マリア様のことなのですけれど。ロカ様の、リディア様の服毒事件を兄が調べていると、ちょっとしたことが分かりまして」

「――父上?」

 僕が彼女が開口一番に言った人物の名前を復唱すると、彼女はちょっと口元を隠してその続きを述べた。「マリア様も、服毒なさったことがあるらしいの。なんでも、その主犯は――ライリオン様だとか」

「ライリオン様?」

 僕が眉根を寄せると、彼女はそんな怖い顔なさらないで、と僕をいさめた。僕はずきずきと痛みだした頭を抱えて彼女に片手のひらをひらりと見せて少し待ってくれるよう身ぶりした。彼女は少しその瞳をぱちぱちと瞬いて、ロカ様、と僕を呼ぶ。

「ライリオン様が主犯になって、まだ幼いときの話なのだけれど――マリア様に毒を盛ったと。マリア様は幸い高熱を出しただけで済んだそうですけれど、その当時は大きな事件になったとか。ライリオン様も、後少しで打ち首だったと」

「打ち首……どうして、そうならずに済んだのですか」

「それが、王様が口添えしたそうで。その事件を覚えている貴族からしてみれば、マリア様と王妃様が可哀相だと」

「そして、その事件を陛下が隠ぺいしたと?」

「隠ぺい……そこまでのものかは、分かりませんが。もう誰もその事件について言ってはならないと、当時は御触れが出たそうなの」

 リフレ王女の紡ぐ物語があまりにも突拍子もなくて、僕は疑問符を浮かべてばかりだった。ライリオン様がマリア父上に毒を盛った? マリア父上と王妃様が可哀相? 王様が御触れを……? 一体なんの話なのか掴みがたくて、僕は眉間に手を添える。机にそうして数秒伏せったあと、僕は再度リフレ王女の瞳を見据えた。「それとリディア様の毒の事件が、どう関係あるんですか」

「それが――その事件の主犯が、実は王妃様なのではないかと」

「王妃様?」

「貴族の間でにわかにささやかれ続けているそうなの。それが本当かどうかは分からないわ」

「王妃様が、自分の息子に毒を? そうして、なにが目的で……」

「わざと高熱が出るだけにとどめる毒を盛ることで、ライリオン様を――」

「……失脚、させようと?」

 僕の綴ったリフレ王女の言葉の続きに、彼女は頷く。それが、それがもし本当なら――

「……でも、リディア様がお子をうめなくなるのは、王妃様にとっても……」

 ――王妃様は、僕が即位することを嫌がっていた。レオ様が即位するのもそうだ。なら、リディア様とマリア父上との間に出来る子どもを期待するはず。まともに考えればこれが筋だ。王妃様がリディア様がお子をうめなくなるような毒を盛ったところで、王妃様に何の利があるのか。全く見当もつかない。

「……ロカ様、全ては噂ですので」

「……そうだね。リフレ様、お下がりください。僕は少し、頭を冷やしてきます」

 リフレ王女の小さなつけたしに、僕は頭を振る。そうして少し、冷静になろうと厩に行った。がさり、とその途中の庭園内で音がした。僕はそちらを振り向く。と――渦中の人物、王妃様、と……レオ様が、木陰の中に身を隠していた。

「――まさか、王妃様が……」

「全ては――あなた――レオを思ってのこと」

「そんなことを言って。リディア様以外の貴族の娘を連れてくるご予定だとか」

 くすくすと、忍び笑いが漏れる。僕はそれらの信じがたい言葉を聴いて、己の頭にかっと血が昇るのを知った――ざっと砂埃が足元を舞い、僕は腹に力を込める。そして――「ロカ!」

「……っ」

「よせ!」

 僕の腕を取ったのは、メリエル父上だった。僕は突然のその登場と、いま聞いたばかりの王妃様とレオ様の会話がちらついて、ちかちかと目を瞬く。メリエル父上はそっと自分の指を口元に当て、僕に静かにするように言う。

「……移動しよう。おいで」

 そっとそう囁くと、メリエル父上は王妃様とレオ様に気付かれないよう足音を静かなものに変え、僕の腕を取ったまま庭園を出た。そのまま僕を引きながら、メリエル父上は自室へと歩いて行く。僕は――僕はなにも言えず、痛む頭を抱えてその後をついて行った。やがて部屋へとたどり着くと、僕を中に入れ、自身も室へと入って戸番に戸を閉めさせ、人払いをする。二人きりになったところで、さて――とメリエル父上は口火を切った。

「……王妃様のこと、お前はさぞかし驚いただろうな」

「本当に、驚きました。でも、ある程度は……ちょっとだけ、耳にはしていました」

「――マリアの服毒事件を知っているか?」

「知っています」

 そう僕が頷くと、メリエル父上は苦く笑った。「そうか。お前は耳が早いな」

「いや……耳が早い、だなんて、噂嫌いのお前には侮蔑になるな」

「いえ、そんなこと……ただ、あまりにも王妃様が……」

「――王妃様は、ただ自分の周りを綺麗にしておきたいだけなんだ。お前はこれ以上首を突っ込むな。打ち首になっても俺はなにもできない」

「……父上」

 僕が呼ぶと、メリエル父上は僕の頭に手を載せ、少しだけ撫でてくれた。それが幼い時の記憶と重なって、僕はなぜか泣きそうになる。「お前には、本当に苦労ばかり」

「母上も、そんなことを言っていました」

「そうか。そうだろうな」

 メリエル父上はそう言って目を細める。僕は頭を振って、王妃様のことを追いだした。冷静になろうと厩に行こうとしたはずなのに、どうしても事態は僕を「冷静」から遠ざける。

「ロカ。バースキン家がメディを娶るだけで事を済ませてくれたこと、有難く思え。追放されても打ち首にされても、文句は言えなかったんだ。俺も成すすべなかった。力になれなくて……申し訳ない」

「いえ、そんなことは……何もかも、僕の不徳のいたすところです」

 形式ばったことを言って、僕はメリエル父上からも逃げようと殻に閉じこもる。しかしメリエル父上は、そっと微笑んでその僕の殻を打ち破ってしまった。「――泣くなよ」

「泣きません」

 僕がそのメリエル父上の冗談に笑うと、メリエル父上も少しだけ笑ってくれた。


 なみなみと、僕の杯に酒がそそがれる。僕はその果実酒の目の覚めるような赤を見ながら、ちょっと微笑した。こういう場は好きじゃないし、顔を出している方々も会いたくないひとばかりだけれど、この会の主催はメディ様のご両親なのだから仕方ない。

 ――そう、僕はいま、メディ様と一緒にメディ様のご実家に行っていた。そして親族の方々たって、僕の来訪を喜ぶ会をしてくれていたのだった。しかし、僕がこの場に居づらさを感じているのも、その親族の方々の目線のせいなのだ。

「……リディアに毒を盛って……」

「……きっと全て、メディを娶るためのことだったに違いない。我らは罠にはまっているのだ……」

 僕はリディア様に毒など盛っていない。しかし、それをここで叫んだところで、なにも変わらないのだ。ただ狂人がますますとち狂ったと思われてお終いだろう。本当に、どうして貴族ってのはこうも噂を真正面から信じてしまうんだ? 僕が毒を盛ったのではないことなど、舞踏会がいつだったか、その場で僕とリディア様が話していた時間がどれほど短かったか、そんなことを考えてみれば簡単に、僕が犯人でないことなど分かるだろうに。

「ロカ様、少し庭に出ませんか?」

 鬱々としていた僕に声をかけたのは、メディ様だった。彼女はその赤く短い髪を揺らして、垂れ目を少し細め口元ににっこりと笑みを作っていた。僕は頷き、彼女と共に庭園へと出る。このリディア様とメディ様の生家はさすが公爵一族の本家と言うだけあって、その広さはマリア父上の離宮よりも少しだけ大きいほどだった。庭園は色鮮やかに花が咲き誇り手入れも行きとどいており、とても美しかった。僕は外の空気を少し吸って吐きだし、メディ様に許可を取ってから、なみなみと揺れる杯の酒をそっと庭園の土に流した。赤がどくどくと流れて行く様はまるで血のようで、少し僕は身震いした。リディア様は、この赤のような毒を呑んだのだろうか。ただ、これだけは確かなのだ。リディア様は服毒し、そして子を宿せなくなった。王子妃としての務めを果たせなくなったのだ。彼女のこれからの運命を、僕は、知らない。……知らない、分からないのだ。

「……メディ様は」

 僕は、ぽつりと呟いた。メディ様はその髪を揺らして僕を見る。「メディ様は、リディア様が毒を盛られたこと、どう……思っているのですか」

「どう、とは?」

「だから……いえ」

 僕は首を振り、斜めに傾けた杯を持ち直して立ち上がった。さあ、と風が吹き、この庭の花々と共に僕とメディ様の髪を揺らしていく。

「……メディは、姉さまのこと、こんな日がいつかくるだろうと思っていました」

「え?」

 メディ様の言葉に、僕は彼女の赤茶の瞳を見た。彼女は、なにを考えているか分からない瞳をしている。それはいまこの場で初めて感じたことではないものの、僕にはこのときとても不気味に映った。

「姉さまは、こうならなくとも、きっとマリア様の子を成せなかったでしょう。こうなってしまって、私がロカ様のもとに侍ることになって……それが、きっと祈師様のご意志だったのですわ」

「……」

「私がロカ様のもとに侍ることになって、我が一族は安心しています。それで良いのです」

「メディ様……僕が訊きたいのは」

「ロカ様」

 つ、とメディ様はその口元に人差し指を当てる。そして目を細め、それから僕から目をそらした。ふわふわと波打つ赤毛はリディア様とそっくりで、その体つきはリディア様より些か肉付きが浅い。僕らは一度、これも務めだと言う従者の言葉にしたがって裸で抱き合ったのだけれど、メディ様の体も固く強張っていて、僕の方も欲を掻きたてられなかった。僕らはまだまだ遠く、互いに知らないことも多く、その中で特別「人格」を知らなかったのだ。そんな相手に、情欲を掻きたてられるほど、僕はまだ成熟しておらず、メディ様もそうだったということだろう。

「ロカ様は、そこに立っておられるだけで良いのです。きっとマリア様が王に即位なさったときには、こんな噂をすることすら禁じられて、あとは忘れられていくでしょう。ロカ様はなにもご心配なされなくて良いのです。全て、なるようになるのですから」

 ――「冷たい」。

 僕がそのメディ様の言葉で思ったのは、そんな一言だった。肉親であるリディア様の不幸を嘆く様子もなく、淡々と次を見据えているらしい彼女が冷たく感じた。僕は血のつながった兄弟がいないから分からないけれど、それでも彼女とリディア様のように「血のつながった」姉妹というのはもう少し、温かみがあるのではないのか。しかしそれを訊ねるだけの勇気が出なかった。メディ様を嫌いたくないという僕の弱い心が、表に出てきている証拠だ。メディ様をそれ以上知ったら嫌う、なんてこと、あるのかも知らない癖に。

「……メディ様。中に戻りましょう」

 僕はそうメディ様に言って微笑んだ。メディ様も微笑み返してくれた。メディ様はそっと僕の腕に自分の腕をからませ、ちょっと見上げるように僕を見た。「ロカ様」

「はい?」

「メディは、ロカ様が好きですわ。真面目なところも、強いようでもろいところも」

 ――脆い?

「……僕も、メディ様は嫌いではないです」

「いつか好きに変わってくださるかしら?」

「変わりますよ、きっと。きっと、変わります」

 ――きっと。本当に?

 僕は本当にメディ様を、心の底から、それこそミュゼ姉上のときのように好きになれるだろうか。この冷えて頭の回転の速い姫君に慣れることがあるのだろうか。……慣れることができたときには、それは一体僕にどんな様相を呈するのだろう。


 メディ様と室内に戻ると、メディ様の父君が僕にもう集まりから抜けてゆっくりしても良いですよ、といったことを言ってくれた。僕はその言葉に素直に頷き、では、と親族の集まりの場から抜け出した。メディ様も僕についてきて、僕たち夫婦のために空けてくれた部屋に入った。そこはとても広い部屋で、二人で泊っても充分くつろげる場所だった。室内には広い応接間があり、そこには重厚なソファとその前に小さな低い机が置いてあって、僕らが室に入ると、メディ様の父君と母君がつけてくれた侍女によりそこに紅茶がことんと置かれた。僕はその紅茶に手を伸ばし、ふと考えてしまった。

 ――もし、この紅茶に毒が入っていたら。

 さっと顔色を変えた僕に気が付き、メディ様はちょっと首を傾げた後、それからなにかに気が付いて微笑んだ。ロカ様、とメディ様は僕が手を伸ばしたカップを手に取り、どうぞ、と勧める。

「なにも入っていませんわ。ロカ様に毒を盛って、痛い目を見るのは私たちです」

「……ありがとうございます」

 メディ様の言葉に、そうメディ様が紅茶を勧めてくれたことにだけ礼を言い、その手からそっとカップを受け取る。メディ様は快く笑い、自分も自分用に出されたカップを手に取る。紅茶は良い香りがして、その味も一等品らしく美味しかった。

 お茶受けには、小さな菓子が用意されていた。それには手を付けず、僕は室から繋がっている扉から寝室に入った。寝室には大きなキングサイズのベッドがあり、花模様の、生成りのカーテンが天井から吊るされていた。ふかふかと寝心地の良さそうなその布団に身を沈め、僕はカーテンを見上げた。それから目をつぶり、額に手をやる。――……疲れた。

「ロカ様」

 かちゃ、と戸を開いて、メディ様が中に入ってきた。メディ様は僕の姿を認めると、そっと傍に寄って、僕の隣に腰を下ろした。淡い色のドレスの、裾が広がる。「もう、今日は寝てしまいましょう。ロカ様も、お疲れでしょう?」

「……はい。なんだか、少し疲れてしまったみたいです」

「ロカ様は、ひとの多い場所は苦手でしたものね。メディも、あまり好きではないのです」

 そんな言葉を紡ぐメディ様に、僕は額にやった手を自分の腰に下ろし、上半身を起きあがらせた。きし、と少しだけベッドがきしむ。「メディ様は、幼いころからああいう場にはよく出ていたのですか」

「……舞踏会のことかしら? 舞踏会ならば、もう数えられないほど出ましたわ。公爵家の人間なのだから、と父さまと母さまに言われると、口答えが出来なくて」

「僕は、子どもの頃を王宮とは違う場所で過ごしました。舞踏会に出たのも、まだ片手で数えられるくらいで」

「舞踏会なんて、良いものではないですわ。嘲笑に溢れていて」

 「嘲笑ですか」、と僕が呟くと、メディ様は目を細めた。それから手で軽くその赤い髪を梳いて、その手をそのままドレスのふくらみに置く。そして僕を再び見て、にこりと微笑んだ。

「ロカ様、お休みなさいませ」

「……おやすみなさい、メディ様」

「そうですわ、ロカ様。メディのことを、そんな風に様をつけて呼ばないで。メディのことは呼び捨てにしてください」

 メディ様が立ちあがり、室から去ろうとした間際、そう改めてメディ様に言われて、僕は一瞬目をまたたいた。それからハッと何を言われたのか気が付き、顔を赤らめる。……呼び捨てに、夫婦になったのだからするべきだとは思っていたのだけれど、どうもその機会がなく伸ばしのばしにしていたのだ。

「おやすみなさいませ、ロカ様。メディはもう少し起きています」

 そう言って、メディ様は衣擦れの音を微かに立てながら寝室を後にした。

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