第二部

 ――そして、十年後。

「ロカ殿下!」

 僕の耳に飛び込んできたのは、何だか慌てている従者の声だった。僕は馬の手綱を引き、くるりと方向を変える。少し視線より下の位置に従者の顔。その顔に視線を合わせて、僕は微笑んで見せた。

「どうしたの?」

「メリエル殿下です。どうなさいますか?」

「父上? 通して!」

 飛びつかんばかりの声で僕はそう言う。僕の顔全体がにやけてしまっているのが分かって少し照れくさいけれど、マリア父上ではなくメリエル父上の来訪というのは割と珍しい。母上の方にはよく行っているみたいだけど、メリエル父上は僕と会うのがなんだか僕と同じで照れくさいようだった。それに、メリエル父上には、本物の男の子ども……王子がいるし。

「ロカ! 大きくなったな」

「また背が伸びたんです。きっと父上を追い越しますよ」

「そりゃ無理だろ。マリアは俺より小さいしな」

 からから笑ってメリエル父上は僕の本当の父の名を言う。大きくなってみて改めて分かったことなんだけれど、メリエル父上はどこか人を食ったところがあって、こちらが遠慮していることも簡単に飛び越えてしまう。

「それで、今日はどうなさったんです? 王宮に顔を出すなんて珍しい」

「ん? いや、ロカの離宮の話はどうなったのかなってさ」

 そのメリエル父上の言葉に、僕は頭を掻く。

 十五の誕生日に、僕に離宮をプレゼントしようとマリア父上がしたんだけど、そこに母上がついて行こうとした瞬間、マリア父上は僕への贈り物の話をぱったり辞めてしまった。メリエル父上はそれを知らないのか。知っていて話しているならものすごい食わせ者だ。

「白紙になりました、母上がついて行くと言った瞬間に。マリア様は母上にべったりで……」

 そこまで言って、僕ははっと口をつぐんだ。庭園の中とはいえ、ここは王宮だ。リディア様が近くを通らなかったか目だけで周囲を確かめて、ほっと息をつく。メリエル父上はその僕の様子を見て、座っている一人用のガーデンチェアの肘かけに肘をついた。

「――マリアがミーシャにべったりか。お前も言うようになったなあ」

「よしてください。自分でも失言だったと思っています」

「失言なんてことはないさ。事実だ」

 そう言って、メリエル父上は紅茶を口に含む。それを呑み下して、うっすらと僕向けて目を細めた。

「ロカは、本当に立派な王子に育ったなあ。俺の方が王宮で暮らしているのを疑われそうだよ」

「そんなこと……僕は、五歳の頃までを過ごしたあの家のことを思い返してばかりです」

 マリア父上があの家を訪ねてからすぐに行われたパレードは、マリア父上の弟王子、つまり僕の叔父にあたるセルフィウス様の誕生日のパレードだった。そのパレードのついで――マリア父上によればそれが本当の目的――にマリア父上が僕の家を再び訪れて、僕と母上をあの家から王宮へと引っ張り出した。それからの十年は僕は王子としての教育に、母上は側室としての礼儀作法に当てられた。母上の様子は良く分からないけれど、僕が母上に謁見する機会は意外と多く作ってもらえて、そのおかげもあって幼かった僕は王宮で独りきりになって泣く、なんてこともあまりないままでいられた。メリエル父上は王宮に入ってすぐに、マリア父上と激突して無理やり僕と母上に会えるように手筈を整えた。あの時何と言ってマリア父上をメリエル父上が言いくるめたのかは詳しく覚えていないものの、その勢いの激しさは今も思い出してこの父上が? と自分の記憶を疑わずにいられない。

「あの頃は良かったなあ。お前も俺ももう少し自由だった。毎日のように会いに行って――お前はライリオン兄上に夢中になっていたな」

「ライリオン様は今でも尊敬しています」

「はは。武術でもしてみるか? 王宮剣術は習っただろう?」

「実は、その手のことはあまり。でも魔法については少しだけ習いました」

 そう言って、僕は椅子を少し引いてテーブルとの隙間を少し開けて、その隙間に手を広げる。ぼこぼこ、と音を鳴らして、何もないはずの手のひらから水があふれてくる。これをすると母上が嫌がるのだけれど、メリエル父上は僕がこうすることにとても興味を持ってくれた。

「へえ、魔法か。相変わらず、お前は器用だな」

「こんなことしか出来ないんですけどね」

「それを武器にするんだろう? それだけ出来たら立派さ。剣を振りまわすのもそこそこの俺から言わせればお前は立派だよ」

 僕はその溢れた水を昔良く読んだ絵本に出てくる龍の形に成形して、メリエル父上の横をすっとかすめさせた。ぴしゃり、と水が弾ける。それに日の光が反射してきらきらと光り、小さな虹が出来る。お見事、とメリエル父上は手を打った。

「水と光は少し操れるんです。それだけですが」

「いやはや、立派立派」

 ぱちぱち、とメリエル父上は本当に上機嫌に拍手する。この人にこういうことを見せるのは好きだ。何をしても嫌な顔をせず、喜んでくれるから。母上は何か仕掛けがあるんだろう、と低い声で訊いてくるから、これの仕組みを教えるのは簡単なことではないし、それにもし僕がきちんとした手順を踏んで仕組みを教えても魔法を根本から否定する母上に理解できるものではないから、母上には見せない。母上は魔法を毛嫌いしているのだ。

 魔法と言うのは、簡単に言えば自分の体の中の気を操って自然界のあらゆる仕組みに乗っ取った動きをするものだ。だから、魔法が使える薬というものも存在しないし、魔法が使えない人はその仕組みと使い方のコツを掴むまで絶対に使えない。逆に言うと、コツさえ掴めば自分の気を操れるってこと。妙薬を飲んでコツが掴めるようになる、なんてそれこそお伽ばなしのような話は絶対に存在しないのだ。だから、魔法を売りますよ、という宣伝には気を付けた方が良い。

「で、お前は青旗に志願するのか?」

「しません。僕には僕の責任がありますから。ライリオン様には今も憧れているし、あの方のように将軍職に就けたらとも思うけれど――僕は王にならないといけないから」

 そう僕が言うと、メリエル父上は一瞬その笑みを崩して真面目な顔をした。

 だって、そうでしょう? マリア父上が僕を欲しがったのは、母上をしっかりとした土台のある側室にしたいがためで、つまりそれなら僕は王にならなければ意味がないと言うことになる。実の父の願いをかなえるくらいしか、僕はあの人に愛される方法を知らない。あの人もそうでなければ僕なんて簡単に捨ててしまうだろう。母上だけ。母上だけが僕とあの人をつなぐものなのだ。

「王か――お前は本当に、王になりたいと思っているのか?」

「……」

 メリエル父上の問いに、僕は答えられなかった。ぐっと息を呑む。王になんて、本当は、本当は――。

「まあいいさ。お前の人生なんだ。お前はお前らしく生きればいい。……さて、俺はそろそろ行こうかな」

「はい。庭園の外まで送ります」

 がた、とメリエル父上と共に席を立って、僕はメリエル父上の隣に並ぶ。こうやって肩を並べて歩くなんてことも、マリア父上はさせてくれなかった。いつも線を引いて、高みからこちらを見下ろして――君は僕の子どもなんだ、ミーシャと僕の子どもなんだ――と呟く。いつものことだ。もう慣れた。愛してもらおうとしてるだけ、まだ諦め切れてはいないのかもしれないけれど。

「それでは、父上」

「ああ、じゃあな」

 そう言って、メリエル父上はぽんと僕の頭を軽く叩くようにして撫でてくれた。十五になった僕にとってはあまりにも幼稚に思えるけれど、それがメリエル父上の素直な、五歳までを過ごしたあの別邸での愛情表現そのままのようで、僕は少し涙が出そうになってしまった。

 そう言えば――もう一つ、言っておかなければならないことがある。

 メリエル父上の血を引いた、実の娘。僕とも少し血のつながりがある、従姉とも言うべき存在であるミュゼ姉上は、僕より少し遅れて王宮に入った。詳しい経緯を話すと少し長くなるかもしれない。

「ロカ様」

「……あ」

 そんなことを僕が考えていると、丁度よくミュゼ姉上が僕の傍に近寄ってきた。王宮の吹き抜けの廊下を抜け、庭園へと入ってくる。茂みを抜ける時にはきっちりドレスの裾を上げ、こちらまで歩いてきた。その笑みはメリエル父上ととてもよく似ていて気持ちが良いもの。心の底から笑ってる顔だ。

「ごきげんよう。お時間はあって? 向こうの椅子に座りませんこと? お話がしたいの」

「話ですか? ええ、大丈夫です」

 そう言って、僕のエスコートで先ほど僕とメリエル父上が談笑していたガーデンチェアとテーブルのところまで行く。ここは僕の気に入りの場所で、円形に縁取られた薔薇とアイビーのツタが眩しい色彩を放っている。その中心に置かれた椅子に腰かけ、ミュゼ姉上は僕を見て微笑んだ。

「ロカ様は相変わらずのご様子で。何か縁談はありました?」

「ほとんど断っています。……僕がなんで断っているか、その、ご存じでしょう?」

 僕はまっすぐミュゼ姉上を見ながら、首筋が熱くなるのを感じた。ミュゼ姉上は困ったように笑う。

「ロカ様、私のことを気にかけて下さるのはとても有難いけれど、何度も言うように、私は妃になるような器じゃないんですのよ」

「そんなことないです。ミュゼ姉上は、とても美しいし、快活で気も効いて……貴族の方々も、きっと受け入れてくれる」

「でも、ロカ様……今日は、そのことについて話し合いに来たの」

 ミュゼ姉上は椅子に座りなおして、こちらを射るように見た。僕は唾を飲み込む。

「そうは言っても、私もあなたも出生は隠せない。ロカ様だって、その……こう言ってはなんだけれど、貴族の方々から、良くは思われてないようだし……私もそうなの。それはどうしたって覆らないのよ。せめて妃殿下だけでも……」

 そう言って、ミュゼ姉上は視線を落とした。僕はそんなミュゼ姉上の手をテーブル越しに少し腰を浮かして握る。

「姉上……良いではありませんか。いつかきっと、僕らのことも受け入れてくれます。マリア様が僕の母上を受け入れたように」

「マリア様は正統な次期国王陛下ですもの」

「それが何ですか。僕だって、母上の血筋がいかなるものだったとしても、正統な王子です。あなただって、半分は王子の血筋だ。何を恥じることがありますか」

 そう……僕は、ミュゼ姉上を恋焦がれて、王宮にまで招いてしまったのだ。まるでマリア父上のように。僕らはそんなところまで似通っているらしい。顔立ちと髪の色だけじゃなくそこまで似てしまえば、今更とはいえもうメリエル父上の子とは言えない。

「それに、血筋なんて人間性に何の関係もない。僕の母上は確かに卑しい出身ですが、立派な方だ」

「ミーシャ様が立派なのは私も知っているわ。だけど……」

 そこまで言って、ミュゼ姉上は息をついた。僕の手をゆっくりとほどき、かたんと席を立つ。

「……今日のお話はこれまでにしましょう。また後日」

「姉上!」

「聞き分けてください、ロカ様。私とあなたでは血が違いすぎる」

 どうして。半分が娼婦で半分が王子なのは同じなのに。ミュゼ姉上は僕自身を嫌っているのではなく、マリア父上の血筋を疎遠しているようだった。何故? しかし本当は分かっている。次期国王陛下であるマリア父上と単なる王子のメリエル父上では、その位の差は歴然だ。

「ミュゼ姉上……」

 ミュゼ姉上が出て行った庭園に一人残って、僕はそう名を呟いた。王宮にまで招いた僕はしつこかった単なる邪魔者だろうか。分からない。……分からない。

 マリア父上も……母上を王宮に招いてから、また招くまでに、こんな気持ちを体験していたのだろうか。

 僕は立ち上がり、従者を呼んでその場を後にした。薔薇のアーチが美しく、僕を慰めようとしてくれているかのように見えて、深い息を吐きながら。


 マリア父上は、厳しく、人の親になるには少し傲慢すぎる気質だと、僕は思う。母上に対してはとても優しいのだけれど、僕に対してはとても、なんというか、冷たい人だ。贈り物の数とか、会った回数だとかは関係ないと思う。マリア父上は事実沢山の贈りものをしてくれたし、週に何度も僕と会ってくれた。それでも、メリエル父上と過ごした時間と比べれば、その中でマリア父上が僕にとった態度は冷え切ったものだったと思う。君は僕の子だ、が口癖で、もうひとつ、ミーシャとの子どもなんだよ、も癖のように呟いていた。それだけだった。話すことと言えばそれだけ。そして僕がどうやってこの世に生を受けたのかと、僕のマリア父上の上での生きている理由とやらを語るだけ。生きている理由、というのは、君は王になるべきだ、王になって母上をもっと安定した立場にさせるべきだ、というお説教だ。もう何度も聞いて耳だこだけれど、冷たい態度とは裏腹にマリア父上が僕に求めるものはそれだけだったから、僕はそれを精一杯叶えようと努めている。理由なんて簡単だ。ただ愛されたい。それだけ。

 コツ、と王宮の床を靴底が叩く。コツ、コツ、コツ。王宮は貴族たちの声であふれかえっている。あっちでもこっちでも噂話。僕はそれよりも乗馬と狩り、そして読書を好んだ。僕に近寄る人間も少なくはなかったけれど、噂話を好きなひとはあまり近づいてこなかった。僕に何を話したところで意味がないと知ったのだろう。事実僕は噂話を語るひとには冷たく接した。その内容の中には僕への冷遇や母上が側室であることへの不満が含まれていることを、僕は知っていたから。

「……あの子を王にするなんて! 本気で言っているの、マリア!」

 と、僕の耳に王妃様のそんな叫び声が聴こえて来た。いつものことだ。僕は立ち止まらず、王妃様の部屋の前を過ぎて行く。ぼそぼそと父上の声が聴こえた。父上は冷静にいつも通り、そうです、とだけ答えているのだろう。何度も、僕の目の前で、このやりとりは繰り返されていた。僕がいないところでも、今回みたいにそれは行われている。

「ライリオンが黙っていないわ……貴方はそれを分かっていない!」

「母上!」

 王妃様のヒステリックな声に被るように、マリア父上の激しい声が聴こえて来た。マリア父上はライリオン様を嫌っている。何故だろう。僕はこんなにも好きなのに。色々な面から導き出した答えなのだけれど、僕とマリア父上の思考は似ているはずだ――だから、マリア父上もライリオン様に憧れを抱いて居てもおかしくないのに。何故だろう。それを僕はマリア父上に訊ねるのを、自分の中で禁忌としていた。何か、それは触れてはいけないものなのだ。それくらいなら僕でも分かる。

「あの子が王になったら、ライリオンはきっと……」

 王妃様の声が遠ざかる。コツ、コツ、コツ。僕は一定のリズムで靴底を鳴らす。きっと、ライリオン様が将軍職では黙っていない様になって、王になろうとする、とでも言いたいのだろう。王妃様は、僕の目の前でも、時々、マリア父上に向かってそう叫んでいたし。

 数ある武勇伝を読んできて、僕はライリオン様のことを将軍の中の将軍のような人だと思っていた。だから、そんなひとが、王なんかに興味があるとは思えなかった。騎士の中の騎士。騎士であることに誇りを持っていて、その人望はとても篤い。そんな人が、王様なんて――僕が王というものを冷たく認識しているのは、もう隠しようがないね。

 王妃様は、市井の出であるライリオン様を嫌っているのと同じように、娼婦から生まれた僕を嫌っているようだった。娼婦とはいえ、母上はとても立派な方だ。少し泣き虫で、笑うのが下手で、疑いやすくて……そりゃあ、欠点も沢山あるけれど、それを補って余りあるほど暖かいひとだ。しかし、王妃様は、ミュゼ姉上のことはなんとも思っていないようだった。自分の子が、娼婦と繋がって僕を産ませてしまったことだけがどうも嫌で仕方ないらしい。王妃様の立場になれば、それも仕方ないことのようにも思えるけれど――一応は僕のおばあさまだ。やっぱり、どうしてもとは言わないけれど、少しだけで良いから愛して欲しいと思う。メリエル父上のような、母上のような、分かりやすくて暖かい愛じゃなくて良い。王としてだけでも良い。だから、それもあって、僕は王になろうと思っていた。なりたくはない。しかし、なろうとしている。矛盾だ。分かっている。

「――ロカ」

 名を呼ばれ振り向くと、そこには王妃様の部屋から出て来たばかりのマリア父上がいた。僕は少し笑って見せる。

「はい、父上」

「何か聴こえた?」

 神経質に、マリア父上は僕にそう訊ねる。僕は首を振った。

「いいえ、何も。何かあったのですか?」

「いや――いや、何もない」

 マリア父上はそれだけを呟いて、早々に王妃様の部屋の扉を閉め、僕とは逆方向に歩いて行った。小さくなっていく背中を見送って、僕は再び歩き出す。行先は私室だ。留守だった母上の部屋から出て、リディア様の部屋、マリア父上の部屋、とその前を通り、僕の部屋まで。だから、その途中にある王妃様の部屋の前で起こる喧騒を、何度も聞いたことがあるのだ。しかしその事実をマリア父上に言ったことはない。だけど、きっと父上は気付いている。

「……はあ」

 僕の口から大きなため息。王宮は窮屈だ。五歳の頃まではあんなに楽しかったのに。部屋に戻って本を読もう。それが一番だ。ライリオン様の武勇伝が良いな。あれは、どれもとても気分がスカッとする。戦争に行ってみたいとは思わないけれど、でも青旗に志願はしてみたい。叶わない僕の夢だ。そしてミュゼ姉上を奥方にする。姉上は僕の妃になることを好まないから、この夢も夢で終わってしまうかもしれない。事実、ミュゼ姉上は幼いころ姫になることを望んでいたそうなのに、今はいつメリエル父上の領土である田舎に戻ってしまうか分からないところがあった。

 メリエル父上の領土である田舎、というのは、僕が五歳までを過ごしたあの心地の良い町だ。マリア父上は母上と僕を王宮に呼びだすまでしかその土地に興味がなかったらしく、メリエル父上によれば僕らが王宮に入ってすぐにマリア父上はメリエル父上に領土を返したらしい。金は一銭も請求することなく、条件すらなかったらしい。そういうところは本当に潔いというか――マリア父上は母上にべったり。まさにそれだ。

 メリエル父上の元へ行こう。今は、その顔が見たくて仕方がない。母上もきっとそこにいるはずだ。

「メリエル殿下、ロカ様です」

 メリエル父上の元へと行くと、戸番が僕を見て扉をノックし、中にいるだろう父上にそう訊いた。中から大きな声で、メリエル父上がロカだって? と言った。

「お入りください」

「ありがとう」

 戸番に礼を言い、扉を開けてもらって中へ。中には、やっぱり母上がいた。母上は僕を見て少しその表情を和らげる。

「ロカ。どうしたんだ」

「どうしたんだい? こちらへおいで」

 メリエル父上が己の腰に手をあて片足を崩して扉を開けてすぐの応接間の椅子から立ち上がり、母上が椅子に座ったままこちらへと手を振る。僕は二人に軽く頭を下げ、母上の言うとおりに母上とメリエル父上の傍へと寄った。

「ちょっと気分転換に。二人はどうしてお揃いで?」

「俺たちも気分転換だよ。劇でも観に行かないかと誘っているんだが、ミーシャがどうも了承してくれなくてな」

「劇なんてうんざりだよ。それに、マリアにまた何か言われでもしたらどうするんだい」

「そう言わずに。マリアが何を言おうが、また俺が打ち負かすさ。そういった類の場数は俺の方が踏んでいる」

「確かに打ち負かしてくれるだろうけれど、気分が良くないよ」

 母上とメリエル父上の相変わらずの掛け合いに、僕は笑った。此処に居ると心が温まる。王妃様の言葉を聞いたり、マリア父上と会ったあとは特に。

「劇、良いですね。僕も観に行きたいです。母上は、僕に連れられたと言えば良い」

「……ロカ。そんなこと出来るわけないだろう」

 母上が低い声を出して眉根をひそめる。僕はちょっと肩を上げた。

「大丈夫です。マリア様は、僕に怒ることはないから」

「俺には怒るけどな」

 メリエル父上が何故だか楽しそうに僕の言葉に反抗する。僕はそれもメリエル父上なりのジョークだと心得て笑い飛ばした。

「マリア様と父上は仲が悪いから」

「そう。険悪さ」

 そう言ってメリエル父上はけらけらと笑った。僕もちょっと笑う。

「さて――二対一だよミーシャ。観に行こう!」

「嫌だよ」

 ずばりと母上が切り捨てる。僕は困った顔をした。

「たまには良いではありませんか、母上。母上も王宮に籠りっぱなしでは退屈でしょう」

「王宮は嫌いだけど劇も嫌いなんだ。良い思い出が無いからね」

 そう言えばそうだったか――母上は、王都にメリエル父上と暮らしていた時にマリア父上と劇場で鉢合わせしてしまったことがあったらしい。その時のことをあまり話してはくれないから僕はよく知らないのだけれど、メリエル父上によれば、なんだか嫌なことを後で言われたらしい。なんだろう? メリエル父上は肝心なことはいつも話さない。

「さて、この話はお開きだ。他の話をしよう。チェスでもなんでもあるものを持ってきなよ、メリエル」

「おやおや、これはまた」

 そう言いながら、メリエル父上は従者にすばやくことづける。言われた従者はしずしずと駒と盤を持ってきた。

「ほら、ロカ、お座り。私は見ていることにするよ」

「僕がやるんですか? 弱ったな」

「弱ったのは俺だよ、ロカ。お前に勝てるとは思えない」

 悪戯っぽいメリエル父上の言葉に苦笑い。母上が椅子から立ち、僕に席を譲ってくれたので、僕はそこに座った。盤の置かれたテーブルを挟んで、メリエル父上が先ほど立ちあがった椅子に再び座る。メリエル父上は僕と向き合い、従者がもう一脚椅子を真ん中に持ってきて、母上はそこに座った。

 そうしてチェスをしながら、僕は色んな事を考えた――王妃様のこと。ミュゼ姉上のこと。母上のこと。マリア父上のこと。メリエル父上のこと。そして……王になること。

「よし、ここまで。続きは明日にしよう」

 僕がハッと気付いた時に、メリエル父上は笑ってそう言って、従者に駒が動かないように慎重にチェス盤を引かせた。僕は目をぱちぱちと瞬かせる。

「考え事をしてました」

「だろうな。打つ手打つ手穴だらけだったよ。あれでは俺が勝ててしまう」

「いっそ勝ってしまえばよかったのに」

 僕が言うと、メリエル父上はからからと笑った。お前に勝つのは趣味じゃないんだよ、と明るく言う。

「趣味じゃないのかい。だから一度もロカには勝てないんだね、メリエルは」

「それだけじゃないけどね。本調子のロカには本気を出しても勝てないさ」

 そうあっけらかんと言うメリエル父上を流し見て、僕はこっそり沢山の抱えごとにため息をついた。


「リディア、貴女がその気になってくれさえすればいいのよ。お願い、マリアの目を覚ませて」

「わたくしは……」

 がさ、と音を立てる。しまった、と思った時にはもう遅い。王妃様とリディア様の視線は僕の元へと集まっていて、僕は苦笑しながら頭を掻いた。

「申し訳ありません」

 そう言って僕は頭を下げ、その場から逃げ出そうとする。それを止めたのは、意外にも王妃様だった。

「待ちなさい、ロカ」

 僕は足を止め、王妃様の方をしげしげと見つめる。何の用だろう? こう言う時は、いつも王妃様は僕の方なんて見向きもしないのに。

「庭園で話していた私たちも悪いけれど……貴方にも言っておくことがあるわ」

「はい、王妃様」

 僕は背筋を伸ばして王妃様と対峙する。王妃様は息を一つ吐くと、簡単に僕に話した。

「貴方が王にならないとマリアに言えば良いのよ。そうすれば、きっとマリアもリディアとの間に子を作ろうと考える」

「……はあ」

 それはないだろう、という僕の思いは口に出さず心のうちにとどめて、僕は言う。リディア様は王妃様の横でなんだかもじもじと落ち着かない様子だった。引っ込み思案なこのマリア父上の正室様がはっきりと喋っているところを僕は見たことがない。

「それでは、僕はもう行きます」

 早々と立ち去ろうと試みる僕に、王妃様はそれ以上何も言わない。ふいとリディア様の方を向いてしまって、後は僕のことを無視するつもりらしい。王妃様はとことん僕に冷たかった。王にしたくもない、でもメリエル父上の第三子、レオ様――ミュゼ姉上ともうひとりの女性の次に生まれたらしいメリエル父上の一番最後の子だ――を王にもしたくない。そんな王妃様の思惑は上手く運ばない。そりゃそうだ。マリア父上は僕を王にしたくて仕方がないのだから。僕が王になりたくないとでも言ったら、きっと僕を折檻するか母上にまた新たな子を産ませるかするだろう。それくらいに、マリア父上は母上を正式な側室として王宮に認めて欲しくて仕方がないのだ。リディア様には可哀相だけれど、マリア父上がリディア様との間に子を作ろうとするなんて夢物語にもならない。

 僕は二人から離れて馬小屋へと行き、愛馬の顔に自分の顔を近付ける。王宮には色々なものがあって、僕を癒すものが沢山あるように僕を傷つけるものも沢山あった。王妃様とマリア父上は僕を傷つけるもの。愛馬とライリオン様の武勇伝とメリエル父上、そして母上とミュゼ姉上は僕を癒すものだ。ライリオン様の武勇伝は僕の部屋にこっそりしまってある僅かな分しかないけれど――王宮ではライリオン様は嫌われていた――、それでも僕はライリオン様の武勇伝を読むとまるで子どもの頃に戻ったような気持ちになった。五歳のあの頃、あの輝いていた日々に、ずっと手放さなかったもの。メリエル父上は僕と母上が王宮に来てからしばらくも、僕たちが王宮に居るなんて知らずに本を送り続けていたらしい。それらを全て集めて僕の部屋に持ってきてもらったのはそれから一年後か二年後か。小さい頃の話だから、そんなによくは覚えていない。でもまだ僕が小さい頃だった。その証拠に、僕の書斎の本は子ども用の本が多かった。

 と、ぞろぞろと従者を従えたレオ様が、馬小屋にやってきた。レオ様は僕の顔を見ると一瞬嫌な顔をして、それからつんとすました様子で白い立派な愛馬の元へと行った。レオ様、と僕はわざと声をかける。

「なんだい?」

「乗られるんですか? 一緒に乗りましょう」

「遠慮しておくよ。君と一緒に居るところなんて見られたら、俺の評判まで落ちてしまう」

 口調はメリエル父上そっくりだけど、いかにも我儘そうな眉はメリエル父上の正室のお姫様そっくりだ。僕はそうですかと笑ってながし、僕の愛馬の手綱を引いて厩から外へと出した。

「それでは、僕はお先に」

「さっさと行ってしまえ」

 本当に嫌そうに眉根を寄せて、レオ様はしっし、と僕に手を振る。僕は愛馬にまたがり、レオ様からすぐに退散した。レオ様は好きじゃないけれど、メリエル父上の子どもということで、なんとか仲良く出来ないかと思っている。しかし、最近つまらない噂ばなしをしている貴族たちに出会った。レオ様がミュゼ姉上を王宮から追い出そうとしているらしい。僕の方が位は高いから、貴族たちからの人望はなくとも、そんなことはきっと止めてみせる。まあでも、僕の嫌いなくだらない噂話というやつだ。大体、レオ様がミュゼ姉上を追い出して何の意味がある? 腹違いとはいえ、同じ父親の子ども同士なのに。

「……あ」

 と、僕は手綱を引いて走る馬を止めた。一歩二歩と下がり、草陰に隠れる。そこには、騎士を二人連れたライリオン様がいた。考え事をしながら走らせたせいで、どうも騎士たちの詰め所の辺りまで来てしまったらしい。まずかったな、と苦い思いをかみしめながら、僕は憧れのライリオン様を見つめていた。短く切られた黒髪はカラスの濡れ羽色をしていて、瞳は青。銀の甲冑は逞しい体によく似合い、風にはためく金色のマントがその位を表している。

「ライリオン殿下、これを」

「ああ」

 騎士の一人がしずしずと何か巻物をライリオン様に手渡す。ライリオン様はその中身をちらりと見て、すぐに巻物をもう一人の赤いマントの騎士――赤旗の現騎士団長だ。赤旗の団長は僕が王宮に来る前に一度変わった――に渡した。彼は頭を垂れてそれを受け取ると、では、と低い声でライリオン様に向かう。

「ライリオン殿下、行きましょう」

 ライリオン様の様子を見れたのは、それだけだった。久しぶりに見た、と僕は逸る胸を抑える。ライリオン様はいくつになっても、男の僕から見ても美しいひとだ。母君の肖像画も一度だけ王様の部屋で見たことがあるけど、ものすごい美人だった。ライリオン様の青い瞳は王様似だ。母君は黒い瞳だった。そういえば、マリア父上の瞳も王様似だ。僕の瞳も王様に似たということか。それならば、僕はあの時あんなにまで思いこまなくても――いや、やはり黒い瞳だったメリエル父上と、茶色の瞳の母上からはそれは想像できないか。まだ五歳だ。仕方ない。あの時のことは割と繊細に覚えている、と思う。母上に泣いて縋ったあの日。それだけ印象深く苦しかった思い出なのだ。

 ライリオン様のように、僕は父上が第一王位継承者で母上が娼婦だ。親近感なんて大それたもの抱けるはずもないけれど、ちょっとだけ……ちょっとだけ、似ているのだと思うことが出来た。

 周囲に人の気配が無くなったことを確かめて、僕は方向転換する。元来た道を戻ろう。騎士の詰め所に来たところで何の意味もない。そんな僕の目の前に、何か茶髪のものが飛び込んできた。

「わっ!」

 僕は慌ててそれを回避しようと手綱を引く。それは俊敏に動くと、すっと僕めがけて刃を出した。銀色に光る剣筋――騎士だ、と思った後に、僕はそれを頭の先からつま先までじろじろと見る。騎士の方は僕の突然の出現に驚いただけらしく、あ、とかいや、とか言って、そそくさと剣を腰にかけた鞘に戻した。

「……君は?」

「ロカ殿下! 申し訳ございません!」

 慌ただしい様子で僕にこうべを垂れると、それ――そのひと――は背筋を伸ばして僕を見据えた。柔らかくて暖かな瞳。僕を嫌ってる貴族たちとは違う瞳だ。僕はそれに好意を抱いた。こんな瞳を僕に向けてくれる人は本当に少ない。

「大丈夫だよ。君の名前を教えて」

「私はしがない騎士です」

「でも――赤旗なんでしょう?」

 僕がそう言って騎士が着ている服の色を指摘すると、彼はあっ、いえ、と言ってもじもじと服の裾を引っ張った。

「まだなったばかりで。新米です」

 そう言って、彼は頭を掻く。その瞳は今度は暗く濁っていた。何か隠しているのだ、とマリア父上が見せる瞳によく似たそれに、僕は直観的にそう感じとった。

「ジン様!」

 と、そこにもう一人、今度は黄旗の服を着込んだ騎士がやってきた。彼は赤旗の騎士――今まで僕と話をしていたほうの騎士だ――の前に止まると、頭にびしっと手を当て敬礼のポーズを取る。

「ライリオン殿下のご帰還です。グレイル様から帰ってくるようにと」

「グレイル様? 彼は赤旗の新米騎士ではなかったの? グレイル=デマンドは赤旗のトップでしょう」

 グレイル=デマンドは赤旗の現団長。僕の記憶ではそうだ。つまり、先程ライリオン様に巻物を手渡されていた騎士がグレイル=デマンドのはず。

「あなたは……」

 僕の言葉に、黄旗の彼はようやく僕の存在に気付いたように目を丸くした。そんな黄旗の彼に、赤旗の騎士が頭を鷲づかんでぐっと無理やり下げさせる。

「わわっ?」

「馬鹿! ロカ殿下の御前だぞ!」

「えっ? ロカ殿下? ロカ殿下って……」

 彼は無理やり頭を下げさせられながらも、目だけはこちらを見つめる。そこにありありと写るは好奇心。

「ライリオン殿下と同じ王子様だ!」

「おい! 黙れ!」

 黄旗の騎士の言葉に、慌てた様子で赤旗の騎士がその口をふさぐ。ふがふがと言葉にならない声を上げている可哀相な黄旗の騎士に、僕はへらりと笑ってみせた。

「そんなに立派なものではないよ」

「ロカ殿下、申し訳ありません。こちら、新しく入ったばかりの騎士でして……」

 赤旗の騎士の言葉に、黄旗の騎士はがばりと頭にかかる力を跳ねのけて顔を上げた。

「教会との戦いに勝利をもたらした、ジン=アドルフの従騎士です!」

「余計なことを!」

「ジン=アドルフ? もしかして、君が?」

 赤旗の騎士の言葉にかぶせて、僕は興奮して口早に言う。赤旗の彼は弱ったように眉尻を下げて、はい、とだけ答えた。黄旗の騎士がなんだか嬉しそうにしているのを見て、ああとてもこのひとは慕われているんだな、と僕は思った。

「それは素晴らしい。新米だなんて、また」

「新米です。まだ赤旗になって十年そこらです」

「十年も経てば立派な赤旗の騎士だって、俺はいつも言ってるんですけど」

「お前は黙ってろって……」

 黄旗の騎士の言葉に、赤旗の騎士は困った表情を見せる。なんだかこれ以上それについて触れて欲しくなさそうに見えたから、僕はそれ以上は追及せず、いやいや、と言った。

「それじゃあ、またどこかで。僕は退散するよ」

「はい、殿下」

「はい、殿下!」

 二人の騎士が声をそろえる。僕は笑いながらその場を後に、騎士たちが来たのと反対方向に馬を走らせた。今日は良いものが見れた。十五年前――になるのだろうか?――の対教会戦争で、王が勝ち星をあげる決め手となった騎士。ジン=アドルフ。英雄だ。ライリオン様の後に見れたなんて、こんなについてることがあっても良いのだろうか。

 僕は馬小屋に戻り、愛馬を厩に入れて王宮へと庭園の中を進んで行った。空はもう暗くなり始めている。部屋に戻ろうとしたところに、またうわさ好きな貴族たちとすれ違った。ミュゼ姉上をレオ様が追い出そうとしている。

「……させるものか」

 呟く。嘘でも本当でも、僕はミュゼ姉上を手放す気はない。元の日常につつがなく戻って行くのを心の隅で悲しく感じながら、僕は私室に戻った。


「ロカ、話があるんだ」

「はい、父上」

 マリア父上に呼びだされて、僕はマリア父上の後ろをついて歩き、マリア父上の自室の前で足を止めた。戸番が僕ら二人を見て厳かに姿勢を正す。戸番に促され中に入り、戸番が僕ら二人を部屋に入れて扉をぴったりと閉めてしまったのを音で確かめてから、マリア父上は僕をまっすぐ射ぬくように見た。冷たい瞳。何を考えているんだろう――マリア父上の思考は読めるようで読めない。母上には分かるのだろうか? 母上には、マリア父上は僕と対している時より何倍も柔らかい。もしかしたら、感情を呟くなんてこともあるかもしれない。そんな姿は、マリア父上の僕に対する姿を見ていると想像も出来ないけれど。

「君の正室の話だ――君は、ミュゼを正室にしたいと思っているらしいね」

 マリア父上の言葉に、なんだか嫌な予感がして僕はマリア父上の僕と同じ青い瞳を凝視した。僕の表情はきっと、かちこちに固まってしまっている。僕はうんともすんとも言えず、マリア父上の言葉を黙って聞いていた。

「君の正室には、セルフィウスの第一王女を迎える。母上が何と言うか分からないけれど、だめならルイヤ兄上の第一王女だね。ミュゼには出番はない。心しておきなよ」

「セ――……」

 僕からはか細い声。マリア父上はちょっと首を傾げた。僕は渇いたのどに体温と同じ温度の唾を通し、言葉の先を続けた。

「セ、セルフィウス様の姫君は……確かまだ二歳のはずでは……ルイヤ様の姫君ならまだしも……それに、僕は……」

「二歳だろうが何歳だろうが、正室というのは年齢なんて重要じゃないんだよ。血のつながり。高貴さ。評判の良さ。そして、政治的な意味。それら全てがそろったものにしなければならない――特に、君のようにじきに王になるような器には」

「僕は……ミュゼ姉上を、正室にしたい……です」

 絞り出した声はみっともなく、マリア父上に響かずに消える。セルフィウス様の姫君は小さすぎるし、ルイヤ様の姫君には会ったこともその噂を耳にしたこともほとんどない。なにより、僕はもうミュゼ姉上を正室にすると決めているのに。マリア父上の言うとおりにするのは、王になることだけ。そう決めているのに――こんなのは酷過ぎる。なのに、僕からは細い、本当に小さな抗議しか出なくて、マリア父上はそれじゃ、と言って戸番に扉を開けさせた。

「話はそれだけだ。君は王になるべきなんだ。それを本気で考えてくれないと」

 その言葉を最後に、僕はマリア父上の部屋を脱力した状態で出た。頭の中にはぐるぐるとミュゼ姉上の姿が浮かんでは消える。こんなことって、会っても良いのだろうか。なにもかも僕の人生はマリア父上のてのひらの上で行われなければならないのか? そんな疑問がぽつんと取り残される。王になることも、正室も。本当は、僕は王になんて――正室、なんて片っ苦しいものもいらない。奥方、それで良い。側室なんていらない。ミュゼ姉上だけで良い。なのに。

「ロカ様」

 気付くと厩に来て愛馬をぼうっと撫でていた僕に声をかけたのは、ミュゼ姉上だった。ミュゼ姉上は何も知らないままで、いつもの清らかで優しい笑みを浮かべてくれている。

「ロカ様、ロカ様の愛馬はいつ見ても綺麗ですのね。まるでロカ様のように、心なしか表情も優しいような」

 触っても? ミュゼ姉上は僕に訊ねる。僕は首を縦に振った。ミュゼ姉上はそのシルクの手袋を片手だけ脱いでその手で僕の愛馬に触れる。ふふ、と笑って頬ずりまでした。あら、とその後ちょっとおどけた顔をしてまた素手の方で愛馬の顔に触れる。

「私のお化粧が少しついてしまったみたい。ごめんなさいね」

 今拭ってあげるから、とミュゼ姉上は懐から絹の上等なハンカチーフを出して愛馬の顔を優しく拭った。そのハンカチーフは少し――と言うのは僕の遠慮――、派手なもの。メリエル父上が好きそうだ。こういうところに、どうしたってメリエル父上の面影を感じてしまう。事実、ミュゼ姉上はメリエル父上の子どもなのだ。同じ「いとこ」なら、ミュゼ姉上が正室だって良いはずなのに。どうして。娼婦の血というのがそんなに悪いのだろうか。僕にだって流れているのに。マリア父上かメリエル父上かという血筋がそんなにも重要だろうか。セルフィウス様の第一王女様は実際マリア父上のように王妃様と、そしてセルフィウス様の正室のお姫様の血筋の正統なお姫様だ。ルイヤ様の第一王女様だって、ルイヤ様という王の血筋と、その妾とは呼ばれようと貴族出身のルイヤ様の母君、そしてルイヤ様の正室の貴族のお姫様の子。僕の血が半分母上の卑しい血と混ざっているからこそ、もしかしたらマリア父上は正室をより良い血筋の評判の良いお姫様にしたがっているのかもしれない――ふとそんなことに考えついて、僕はあまりのやるせなさにくらくらした。目の前のミュゼ姉上のきらきらした笑顔が歪む。……気付くと、僕は涙を流していた。

「ロカ様?」

 ミュゼ姉上が不思議そうに僕の顔を覗きこむ。ミュゼ姉上の心配そうな声音に、ますます自分が情けなくなって涙が出た。止まらなかった。ぼろぼろと出る涙をむちゃくちゃに腕で拭って、拭って、僕は声を押しつぶして泣いていた。

「なんでも……なんでもありません。ミュゼ姉上」

 少し落ち着いてから、僕はそう言って顔を上げた。ミュゼ姉上の、困ったような眉尻に、僕は苦笑する。ミュゼ姉上は訳が分からないだろう。でも、僕は今この場をなんとか切り抜けなければと思って、両手をここに広げてください、と僕は僕の胸の前でお手本のように両手を開いて見せた。不可解な僕の行動に戸惑いを浮かべながら、ミュゼ姉上は素直に僕の手のひらの上に両のてのひらを広げる。

「……ほら」

 ぼこぼこ、と僕の手のひらから溢れた水が、一輪の大きな薔薇の形を描き、きらきらと虹を反射する。僕の得意な魔法だ。虹と水を操って成形すること。ミュゼ姉上は、まあ、と言って目を大きくした。輝いた瞳で僕の目を見て、にっこり笑ってくれる。

「素敵ですわ」

「一瞬のものですが、ミュゼ姉上にプレゼントです」

 そう言って、僕は一瞬だけ、本当に刹那の間だけミュゼ姉上の手のひらにそれを乗せた。僕が手を離した瞬間に、それはぱちんと弾けるようにして泡となって消える。少しミュゼ姉上のシルクの手袋が濡れてしまったけれど、それでもミュゼ姉上は気にするそぶりも見せず、ぱちぱちと手を打って喜んでくれた。まるでメリエル父上がするように。

「ありがとうございます、ロカ様。とても素敵でしたわ」

「喜んでもらえて嬉しいです」

 にっこりと、僕は笑う。心の底からの笑顔ではないそれは、いつか母上が呟いていたマリア父上の嫌いな作り笑いだけれど――ミュゼ姉上は、その僕の笑みに安心したように眉尻を上げた。

「ロカ様、今度あなたの馬に乗せてくださいね」

「はい。喜んで」

 僕の涙の理由は訊かず、ミュゼ姉上はそういって手を後ろにやって目を細める。僕も目だけで笑ってそう答えた。僕の目尻はいまや赤くなってみっともないだろうけれど、ミュゼ姉上はそういったことには全く触れようとしないという風に気を使ってくれているようだった。それでは、とミュゼ姉上は僕に背を向ける。

「ロカ様がいるかと思って、ここに来たの。私はもう自室に戻りますわ」

「はい。……僕もひと走りしたら部屋に戻ろうかな」

「ふふ。ライリオン様の武勇伝でも読まれるんですの?」

「そうです。面白いですよ。読んでいると、とてもわくわくするんです」

 そう言う僕に、ミュゼ姉上は嫌悪感も抱かずに素直に振りかえって笑ってくれる。では、と軽く僕に手を振って、ミュゼ姉上は本当に厩から庭園に出て行った。その背を見送って、僕は手綱を引いて厩から愛馬を外に出す。

「良いじゃないか、ミュゼも正室になるのを嫌がっていただろう? この際側室にしてしまえば良いんだよ。そうすれば、ミーシャのこともあるし、マリアも文句は言えないだろう。もしかしたら、マリアもそうするように仕向けてるのかもしれないぜ」

 メリエル父上の部屋を後日訊ねて、鬱々としたままマリア父上に言われたことを告げると、メリエル父上は意外にもあっけらかんとそう言った。僕は目をぱちぱちと瞬く。

「そうとは言え、いきなり二歳の女の子を正室にしろと言うのは……」

「正室なんてな、ロカ、何歳だろうが構いやしないんだよ。本気で王になろうって言うんなら、マリアの言うとおりセルフィウスかルイヤ兄上の娘にしておこうぜ。ミュゼは側室に迎えてやっておくれよ。そうすればミュゼの肩の荷も下りる」

 肩の荷が下りる、というメリエル父上の言葉に、僕はぐっとこぶしに力を入れた。肩の荷が下りる。そうだ。メリエル父上の言う通り、ずっとミュゼ姉上は正室になりたくないと言っていたのだ。側室に迎えると言った方が、確かにミュゼ姉上は楽かもしれない。でも。……でも。

「マリア父上が何と言おうと、……僕はミュゼ姉上を正室にします。ミュゼ姉上だけを正室にして、側室なんて要りません」

「王になるってのはそんなに甘いことじゃないんだよ、ロカ。お前の気持ちもミュゼの父親としてすごく嬉しいけどさ、王になるなら土台をしっかりとしたものに作り替えなければいけない。ミーシャは良い奴だけど、娼婦だっていう出身も、貧しかったということも隠せない。今のお前は宙ぶらりんなんだ。分かるかい? 正室ひとりに絞るのも、そこにミュゼを入れようとするのも素敵なことさね。でも、お前にはレオっていう好敵手も居るんだ。しっかり頭に叩きこめ。レオの周囲は過激だぜ。父親の俺が言うのもなんだけど、どうもレオは我儘だ。我儘で王になりたがってるときてる。多分周りがいけなかったんだろうとは思うけれど、過激なのは今更覆しようがない。俺の正室もそれで満足してるし、口がはさめないんだよ。そもそも俺もレオに立場的にも王になるなって言えないしな」

「レオ様ですか」

「そうだよ。レオだ。レオがいる限り、お前はミュゼを正室にしてそれだけでおしまいにするなんて出来ない。ロカ、ここはマリアに従って正室にセルフィウスの娘かルイヤ兄上の娘を迎えよう。それしかない。お前が王になりたいならな」

「……」

 僕は頭に手を添えた。なんだか痛む気がする。王になりたいなんて、と言ったところで、マリア父上に愛されたいなら王になるしかないのだ。僕が僕である理由もそこにしかないのだ。分かっている。正室にミュゼ姉上を迎えることも、ミュゼ姉上の重荷になることだ。……知っていた。僕は、知っていたのだ。それでもと食らいついたところで僕にもミュゼ姉上にもなにもない。それならば――二歳の正室だろうが、会ったことのほとんどない顔見知り程度の女の子だろうが……マリア父上の言うとおりにするのが一番なのかもしれない。王になると言うのは本当に窮屈なことなんだ。

「政治的な意味で正室を選んできたのは俺たちもだ。王子の宿命だよ。諦めようぜ」

 メリエル父上はちょっとさびしそうな顔でそう付けたすと、ぽんと僕の肩を優しく叩いた。その表情にぼんやりとミュゼ姉上が浮かんで、僕は少し泣きそうになる。しかしこらえて、はい、と本当に小さな声で返事をした。


 セルフィウス様は、マリア父上の母君が同じの兄弟らしく、マリア父上と王妃様に顔立ちがとてもよく似ている。女性よりの甘ったるい顔立ちに白い陶器のような肌、そしておかっぱに切られた金の髪。きっと僕ともよく似ているのだろう。服装もマリア父上と遜色ないくらい立派な仕立てのもので、僕は対峙している今の現状をまるで夢か何かかのように思った。それほどまでに遠い存在のひとだったのだ。第二王位継承者――メリエル父上は第四王位継承者だ。位の差は歴然であり、その気品の差も同じく。セルフィウス様は女遊びはしない。娼婦を嫌っているというわけではないらしいけれど、マリア父上よりもよりよく王妃様のお気に入りらしい。御年は確か今年で数え二十六。まだまだ若々しい表情に、くっきりと浮かんだ王妃様の面影。

 セルフィウス様の正室のお姫様は、隣国の王族だ。政治の道具に使われたのはこのお姫様とセルフィウス様も同じらしい。

「ロカくん、久しぶりだね」

「お久しぶりです。セルフィウス様はお元気でしたか」

 僕の言葉に、セルフィウス様はちょっと照れたように笑う。人見知りしているのだろうか。実際、僕らは会ったことはほとんどなかった。僕も緊張してしまって何を言えば良いのか分からない。セルフィウス様の隣で微笑む隣国のお姫様の膝に乗った小さなお姫様が、ぱたぱたと足を振る。その腕には大きなくまのぬいぐるみ。

「僕の娘のアイサだよ。君から婚約の申し込みがくるとは思わなかった」

「王妃様は――なんと?」

「なんとも。まだ伝えていないんだ。ここで会ったことが露見したら大目玉を食うかもね」

 セルフィウス様はそう言って、その金髪を揺らす。僕は苦笑した。

「僕からの返事はイエスでもノーでもないよ。この話は白紙にさせてもらう。君もきっとその方が良い。これ以上僕らの母上に睨まれても仕方がないだろう」

「僕は……」

 ――ミュゼ姉上さえいればそれでいい。だから。そんなことは言えるはずもなく、僕はそこで言葉を切った。俯いた視界に編み上げの皮のブーツが見える。

「兄上にはもうそう伝えておいたよ。君の正室にはルイヤ兄上の姫君がくるかもね。なんにせよ悪くは思わないで」

「はい……」

 からっぽの、渇いた返事を返す。セルフィウス様の顔を見上げると、セルフィウス様は薄く苦笑していた。その横に座っている正室のお姫様は無表情。ぱたぱたと足を躍らせるセルフィウス様の第一王女様はなんだか僕を見て逃げるように正室のお姫様の襟元を掴んでいる。そりゃそうだろう。会ったこともない僕みたいなにんげんが、鬱々とした表情で呆然と自分を見つめているのだから。これで怖がらない二歳の女の子などいないだろう。

「――セルフィウスから断りの返事がきたよ」

 なにか面白くもなんともなさそうな顔で、マリア父上が僕にそう告げたのはセルフィウス様との密会から数日経ってからだった。どうしてマリア父上は日付を開けたのだろう? 言いづらかったのだろうか。自分から言い出した話だから。僕の血筋を感じさせる話だから。僕――引いては母上の血を感じさせるから? 理由なんてきっといくらでもあって、その中には単に面倒だったという理由もあるだろう。マリア父上は何を考えているのかまったく分からない。

「母上が一枚噛んでいるのかもしれない。なんにせよ、これ以上の深入りも、して損するだけだ。ルイヤ兄上からの返事はまだないよ。悩んでいてくれてるのなら有難いけれど」

 一瞬息を吸い、マリア父上は続ける。

「レオがセルフィウスとルイヤ兄上の娘に婚約の申し込みをしたらしい。それもあるかもね。君とレオ、どちらがより王になりやすいか考えているのかもしれない。王には君がなるんだよ、ロカ。レオなんて早く蹴散らしてしまえ」

 それは、マリア父上からの分かりづらい激励に聞こえて、僕は一瞬耳を疑った。きょとんとした顔の僕に、マリア父上は無表情だ。よく聴こえなかったと思ったのか、マリア父上はだから、ともう一度言葉にした。

「レオなんて邪魔なだけだよ。君が王になるんだ。君は事実上僕ら兄弟の次の王位継承者なんだから。僕が死んだらセルフィウスか君に王位継承権が行くんだよ。よく覚えておいて」

「それは……」

 ――応援しているのですか。

 訊けるはずもない。僕は少しだけ嬉しくなって、話の内容なんて些かどうでもよくなった。王になりたくないと思っていたけれど、マリア父上から分かりにくくも愛情も薄い激励があるなんて思いもしなかった。

「メリエル兄上やライリオン兄上には無いだろうね。僕が王になった瞬間、兄上たちは皆公爵家として分家扱いだ」

 君は――とマリア父上は言う。

「僕の血を引いていて良い思いをしたということだ。……それが良い思いかどうかは知らないけれど」

「……どういう意味ですか?」

 マリア父上から、また思いもよらない言葉。王という地位を否定しているかのような。いつも僕には王になれ、王になって母上の地位を確立させろとしか言わないのに。僕の問いには答えず、マリア父上は目をつぶって肘かけ椅子の背に深く持たれた。柔らかく赤いその一人掛けソファの間にはガラス製の足のふっくらとした低いテーブルが一脚、僕らの間に挟まって置かれている。この場所はマリア父上の離宮の一室だった。応接間。王様と王妃様、マリア父上のそれぞれの大きな肖像画に、リディア様の比較的最近な肖像画も壁にかけられている。あれはなんだろう――暖炉の上に置かれた空っぽの丸いフレーム。肖像画を入れるタイプの奴だ。そこには何も入っていなかった。

「父上、あれは」

「君には関係ないよ」

 僕の視線の先に気付いて、僕が訊ねるより早くマリア父上はそれを遮る。訊かれたくないこと? まだ僕が生まれる前のこと、母上が離宮……此処にいたときに、母上の肖像画でも飾っていたのだろうか。しかしマリア父上が注ぐ愛情の量を考えると、そのフレームはあまりにも小さすぎる気がした。しかし、マリア父上が訊ねるなと言うのなら訊ねたって仕方のないことなのだろう。

「ロカ、話はおしまいだ」

「……はい、父上」

 暗に出て行きなよ、と言っているのだろう言葉に、僕は席を外す。マリア父上を残したまま応接間から出て、戸番が扉を閉めたのを確認してから髪を掴んでため息を吐く。吹き抜けの廊下まで従者を連れて歩き、そこから見えるこの離宮最大の特徴である庭園を眺めた。美しい庭園は僕のすさんでしまった心をいやしてくれる。母上もここに居た時はこの庭園を眺めて心を休めることがあったのだろうか。王宮の庭園も美しいけれど、此処ほどではない。いつも手入れが行きとどいていて広いのはもちろん王宮もだけれど、ここは木々の配置や花達のあしらわれ方がとにかく素晴らしい。

 ――ミュゼ姉上を連れて来て上げたら、喜ぶかな。

 そんな想像は安易に出来て、また、そんなことは無理なことがすぐに分かった。ここは僕の離宮ではない。マリア父上の離宮なのだ。ミュゼ姉上は足を踏み入れることを許されないだろう。

「君はいつもマリア様の後ろにくっついている。まるで金魚のフンだ」

 王宮の庭園でぼんやりとガーデンチェアに座っていた僕にそう話しかけてきたのは、僕がちょうど考えていた人物、レオ様だった。レオ様はメリエル父上と同じ黒髪を掻き上げ、ふんと鼻から息を吐く。

「マリア様がいなければ何もできないのだろう。王になると言うのも口だけのようだ。そうだ、セルフィウス様の姫君は俺の正室に迎えることになるだろう。王妃様の後ろ盾がつくのは俺の方だ。君にはあり得ないだろうね」

「……何が言いたいのか、よくわかりませんが」

 僕は息をつき、曲げていた背筋を伸ばしてレオ様の方をまっすぐ見た。

「どちらの位が上か、よくわかっていらっしゃらないようですね、レオ様」

「……!」

 僕の言葉に、カッとレオ様はその顔色を変える。地雷を先に踏んできたのはそちらだ。こちらも踏んで何が悪いというのだろう。しかし、これ以上ことをややこしくしたって何も面白くない。僕は立ち上がり、では、とレオ様の横をすり抜けた。

「逃げるのか、ロカ!」

「歳の差も、位の差も、あなたは私より下だ。口には気を付けてください」

 疲れた表情で僕は言い、レオ様に背を向ける。向かう先はどうしようか――騎士団の詰め所に行くのも良いけれど、やはり自室にこもるべきだろうか。ライリオン様の武勇伝でも読んで、少し気持ちを落ちつけたい。

「……ロカ」

 自室に戻ろうと踵を変えた僕に、声がかかる。僕はその声の方をはっと向いた。そこには、眉間にしわを寄せた母上と、マリア父上が立っていた。僕の名前を呼んだのは母上の方。母上は不機嫌そうな顔でレオ様を見る。マリア父上は侮蔑の表情でレオ様を見た。マリア父上の登場でレオ様は息を呑み、この場から退場することも勢いづくこともできずに立ちすくむ。恐怖に満ちた顔――そりゃそうだろう。金魚のフンだったか。そんなことを言った直後に、自分よりも、自分の父上よりも位の高いマリア父上に会ってしまったんだから。

「今のはなんだい? あんたに対して随分な言いざまじゃないか」

「ミーシャ。僕に任せて」

 レオ様を睨みながら言う母上を制して、マリア父上がレオ様の前に出る。さて――とマリア父上は薄く嗤った。

「どうしてほしい? 首を刎ねようか? 金魚のフンとは、僕の子に随分な言いようだね」

「あ……」

 レオ様はまともな声も出ない状態で、がたがたと震えている。その顔は真っ青だ。あまりにもな状況に急にレオ様に対して可哀相という感情が浮かんで、僕はマリア父上に、レオ様の代わりに頭を下げた。

「父上。申し訳ありません。若気の至りで喧嘩してしまっただけなんです」

「……口に気を付けるようにしてもらわないと。メリエル兄上にもよく言っておくよ」

 ミーシャ、行こう、とマリア父上が母上に声をかける。母上は僕の傍によって、僕の袖を軽く掴んだ。僕は母上の心配そうに曇った顔を見る。少し微笑んで見せれば、マリア父上が視界の隅で嫌な顔をした。きっと作り笑いだというのが分かったのだろう。

「本当に大丈夫なのかい」

「大丈夫です。もう解決もしていました。母上、今日は僕の部屋で話しませんか」

「それはいいけど……ロカ……」

「ロカ。ミーシャはこれから僕と予定が入っているんだ」

「マリアは少し黙っていておくれよ」

 母上がマリア父上に言う。不思議なことで、マリア父上はここでは王様より下とは言えその他の人には皆かしずかれているのに、母上にだけは頭が上がらないようだった。マリア父上は頬を掻く。

「じゃあ、三人で話そう。ロカ、ミーシャ、僕の部屋においで」

「あんたの部屋で? 槍でも降りそうな話だね」

「それでは――レオ様」

 もうレオ様のことを忘れたらしいマリア父上の提案に、僕は乗ることにして、レオ様を振りかえった。レオ様はマリア父上の背中を凝視したまま動かない。

「僕とあなたの位の差、よく考えてみてくださいね」

 こういうところは、メリエル父上と似ていないな。そんな僕の頭の中に浮かんだ言葉に気付く様子もなく、レオ様の視線はマリア父上にくぎ付けになったまま、僕と母上とマリア父上の三人はその場を後にした。


 マリア父上の部屋は、メリエル父上の部屋と構造がとてもよく似ていて、そしてひとつひとつが倍以上ある。離宮のとっておきの客人室と似た形のそれは、入ってすぐに応接間があり、入って左奥に書斎、右奥に寝室に続く扉がある。僕は応接間に据え置かれたソファに座った。マリア父上は従者に外套を脱がしてもらってからゆっくり僕の前に座り、その隣に母上が座る。侍女が静かに紅茶と茶菓子を用意し、ワゴンの方へと戻ったところで、さて、とマリア父上は言った。

「こんな面子は珍しいね」

「本当だよ。まさか本当に槍が降ったりしないよね?」

 嫌そうに言う母上に、僕は苦く笑った。マリア父上は僕とは違った風に笑う。本当に幸せそうに笑うんだ。こんな顔は見たことない。母上といるときと、僕といるときとはこうも違うのか。その違いの差に僕は僕がなんのためにここにいるのか分からなくなってしまいそうだった。まあ、なんのため、と言っても、そんな大層な理由なんてないんだけど。誘われたから此処にいる。それだけだ。でもマリア父上が母上と過ごす時間に僕を混ぜてくれるなんて、本当に槍でもなんでも降ってきそうな話だった。

「親子水入らずというわけだ。ミーシャ、そんな嫌そうな顔しないで」

「嫌そうな顔するに決まってるだろう。あんたはメリエルと違うんだから」

「ロカの本当の父親は僕だ。メリエル兄上との三人の時間を過ごしてるほうがおかしいよ」

 母上の言葉に、マリア父上は渋い顔。僕は笑うだけ。二人の会話には他者が簡単には入り込めない妙な親密さがあって、それは多分マリア父上が他の人に対するときより母上に何十倍も優しいからで、つまり僕には用はないってことだ。

「そうは言ったって、実際メリエルの方があんたより何倍も父親らしいよ」

「そうかな?」

「そうだよ。あんたは何年経っても父親らしくならない」

「僕は僕で充分父親らしいと思うけどね。自分でも時々思うくらい、僕は母上とそっくりにロカを育ててる気がするよ」

 そう言うマリア父上の声は酷く冷めきっていて、マリア父上の顔を反射的に見ると、にごった瞳をしていた。隠し事や暗い何かを考えているときに、マリア父上がする冷たい瞳だ。母上とそっくり……王妃様と似ている。王妃様は毎度のようにマリア父上に王になるべきだ、王になって誰かの立場を安定させろと言ってきたのだろうか。それは誰なのだろう。まさか王様と言う訳でもないだろうし――普通に考えたら自分自身の立場を、だ。王妃様はそこまで強欲なのだろうか。

「――父上、母上、僕は馬にでも乗ってきます。突然乗りたくなりました」

 僕が本当に突然そう言うと、マリア父上と母上はこちらを見た。母上は少し呆然とした後、ああ、と苦虫をかみつぶしたような顔をして、父上は暗い瞳をしていた。母上と話しているときに見せる顔じゃない。この人はこんなときまで僕に冷たい。

「そう」

 マリア父上がそれだけぽつりとつぶやいたのを合図に、僕は席を立った。口を一度も付けられなかった紅茶がちゃぷりと表面を揺らす。そこに映ったマリア父上そっくりの僕の顔がぐにゃりと歪んで、母上がロカ、と僕の名を呼んだ。

「気を付けるんだよ。馬から落ちたりしないように……」

「大丈夫です。乗馬は慣れているから」

 そんな僕の言葉に、母上はちょっと心配そうな顔をしたあと、ふと疲れた顔をした。笑ってくれている顔だ。母上は笑うことが下手だ。この疲れた顔が笑っている顔だと気付いたのはいつのことだったか。花を持って行くと決まって母上はこんな顔をした。だからだったかもしれない。時々泣くことさえあった。

 心配そうな母上と暗い表情のマリア父上を残して、僕はマリア父上の私室を出た。戸番が扉を閉めたのを振りかえって確かめて、僕は今の絹の服と編み上げのブーツといういつもの格好から乗馬用の格好に着替えるため、自分の私室を目指した。壁に飾られた絵や、置かれた生花などを見ながら廊下をゆっくり歩く。僕付きの従者は何も言わずに僕の後ろを付いて来ていた。僕は金髪を掻き上げ、はあと息を吐いた。頭が鈍く痛む気がする。

 ――マリア父上は、僕のことが嫌いなのだろうか。

 そんなことを考えるのは、とてもつらいことだけれど――リディア様のように、興味の対象に映っていないのかもしれない。そんな可能性も考えて、母上へのマリア父上の溢れそうな愛との差にめまいがした。愛されるために王になる。それは果たして正しいことだろうか? 分からない。……分からない。正しいことのようには、どうしても思えないけれど、マリア父上の言うとおり、僕が王にさえなれば、母上はマリア父上の言うとおり確立した居場所をこの王宮の中で手に入れることになる。それこそがマリア父上の望みであって、その他はきっとマリア父上はどうだっていいのだろう。僕が王になることでこの国がどうなるかとか、正室がどうだとか、そういったことは母上の前では二の次三の次で、だからこそセルフィウス様から縁談を断られても表情ひとつ変えることなく次――ルイヤ様の姫君――に行くことが出来るのだろう。僕はそうはいかない。ミュゼ姉上を正室にして側室は取りたくないというのは今でも僕の考えの根本にあって、そこに別の人を正室にしてミュゼ姉上を側室に迎えるというメリエル父上やマリア父上の考えは僕にとってなじめないものだった。王になることだってそうだ。僕だって、僕なんかに国王陛下なんて位が似合うとは思えない。娼婦の血とか、マリア父上が王妃様から生まれた正統な王子だとか、そんなことはどうでも良くて、この国を支えるだけの度量が僕にあるとは思えない。しかしマリア父上がそれをどうでもいいことだと思っている間は、僕はそんなことを呟くことすら許されないだろう。王になるしかないのだ。それしかない。「愛されたい」。それだけの理由だったとしても、僕は王になるしかないのだ。レオ様はどうなのだろう――王という最高の位が欲しいだけだろうか。それもそれでどうだろうと思うけれど、愛されたいという僕の欲求よりは何倍も重い気がした。位から行けば僕の方が上。年齢も年子とはいえ僕の方が上だ。しかし――しかし、なんだって言うんだろう。

 従者に手伝ってもらって乗馬用の服に着替え、ブーツを履き換えて愛馬にまたがった僕は、気付くと騎士団の詰め所の前まで来ていた。ここにはこうして時々無意識のうちに足を運んでしまう。ライリオン様が憧れの人物だからだろう。

「……あっ!」

 と、そんな僕を見て目をまんまるにする人物がいた。詰所の前で、馬から降りたばかりらしく、その隣には茶色の毛の立派な馬。彼は黄旗の服を着た格好のまま僕の前まで馬を放っておいて走ってくると、ロカ殿下! と僕の名を呼んだ。

「お久しぶりです! もしかしてジン様に用事ですか? 取り次ぎましょうか」

「久しぶりだね。君は――そういえば名前を訊いてなかったね」

 僕がにっこりと笑うと、彼はへらりと一緒に笑ってくれる。ジン=アドルフの従騎士。そう、記憶している。もうどれくらい前になるか分からないけれど、そんなに前じゃないと思う。一度会ったことがあるきりでそれ以来会うことはなかったけれど、今日ここで会えたのは何かの縁だろうか。

「マルタ=ロイジと言います」

「ロイジ家? ロイジ家というと……」

「男爵家です。ロカ殿下の頭になくても仕方ないと思います」

 そう言って、彼は照れたように頭を掻く。男爵家ならいくらでもある。ひとつひとつ記憶していてもキリがない。

「ジンくんは? 今忙しいのかな」

「今は……あっ! そうだ、重要な書類を持ってくるように言われてたんだった」

 すいません、失礼します! と大声で言って、彼は慌ただしく馬の元へと戻ると、騎士団の詰め所の門をくぐって去ってしまった。僕は急に暇になって、愛馬から降り、彼の行った方向を眺めた。詰め所の前をうろうろしていた騎士たちの視線が痛い。彼らは僕をじろじろと眺めたり、ぼそぼそと何かを言ったりしながら、それぞれの目的の場所へと足を進めていった。

「ちょっと待ってて」

 僕は愛馬を門の前につなぎ、門をくぐって詰め所の中へと入った。どきどきと高なる胸。さまよい歩いてみると、詰め所の中は王宮やマリア父上の離宮ほどではないにしろ結構な広さのようで、旗の色で区切られた宿舎のようなところと、それぞれの修練をする場所が設けられているようだった。奥へ奥へと進む。奥へ進めば進むほど若い騎士たちは見られなくなって、ずっと奥へと入ると厳重に見張りが守っている部屋ばかりの場所へと出た。部屋の見張り番の騎士のひとりが僕を睨む。僕はびくりと肩をすくめた。

 と、扉のひとつがばんと観音開いた。中から、きりっと前を見据えている金色のマントの騎士と、その従騎士たちが出てくる。僕はその顔に驚いて、色んな言葉を呑みこんでしまった。

 ――ライリオン様!

 ライリオン様は僕を見るよりも先にさらに部屋の奥から出てきたひとりの貴婦人をいとおしそうに眺めて、彼女が隣に並んだのを確かめてから僕を改めて見た。僕は瞬間、背筋をびしっと正す。

「……ん?」

「あら」

 婦人とライリオン様が同時に言葉を発する。貴婦人の方はライリオン様と違って金色の髪をしていて、その両端を丸い透き通ったガラスのような髪飾りで留め、ふっくらとお腹に命を宿しているようだった。ライリオン様のほうは、いつもの厳しい様子とちょっと違って、どこかくだけたような様子も見えた。

「君は……まさか、マリアの……」

「ろ、ロカと……言います」

 憧れの人物とあって、僕はまっさらになってしまった頭を掻きながら自分の名をライリオン様に告げた。僕の名前だけで僕が何者なのか分かったらしく、ライリオン様はその切れ長の目を少し大きくする。

「そうか、君が」

「ロカ様、というと、マリア様の第一王子の? そう言えば、面立ちがとてもよく似ていらっしゃるのね」

 透き通った声で貴婦人がふふと笑う。それだけで僕はもう上がってしまって、ちかちかとする視界と戦いながらその場に立っているのがやっとになってしまった。

「何か用事があったのか? マリアから君が来るという話は一度も聞いたことがなかったが」

「い、いえ……あの……」

 どもってしまって、そのまま僕は言葉を呑みこんで俯く。そんな僕の様子に、ライリオン様は一瞬黙って、それからははっと軽く笑い飛ばした。

「まあいい。私たちは今から行くべきところがあるから席をはずすが、良かったら詰め所の中を見て行くといい。しかし、ここは団長たちの執務室ばかりだ。訓練所はここから遠いから、そこまで送ろうか」

「い、いえ。もう帰ります」

「お帰りになられるの? せっかくいらしたんですから、訓練を見ていってくださればいいのに」

 婦人の顔を見ると、ほほえましいものを見るかのような、優しい笑みがあった。ライリオン様は付き人の騎士をひとり僕につけて、訓練所まで案内するように、とことづけた。

「……あの方は?」

 ライリオン様と婦人が行ってしまった後にライリオン様がつけてくれた赤旗の騎士に訊ねると――今思い返してみると、ライリオン様の従騎士たちはみな赤旗だった――、彼は簡単に彼女の説明をしてくれた。それによると、彼女はあの戦争が終わったあとにライリオン様の正室になった聖女様らしく、その名をローディアと言うらしい。お腹には、僕が思った通りライリオン様の子どもがいるんだとか。幸せそうな夫婦の姿はマリア父上と母上と何か近いものを感じて、それと同時にとても遠いもののように思った。

「ライリオン様とローディア様は、騎士のみなさんに慕われているんですね」

 ライリオン様とローディア様の様子を語る赤旗の騎士の嬉々とした様子に僕がそう言うと、彼はちょっと不思議そうに僕を見た後、満面の笑顔でええ、そうです、と胸を張ってくれた。


「ローディア殿下? ああ、聖女様のことか。あの二人の仲の良さは有名だよ。ライリオン兄上も聖女様も案外うまく行ってるみたいでね。最近では子が出来たとか」

「みたいですね。ローディア様のお姿を拝見して気がつきました。……少し、羨ましいです」

 僕の言葉に、メリエル父上は僕の目を見る。黒い瞳に僕が映り、そのメリエル父上の瞳の中の僕の顔は随分曇っていた。

 ライリオン様とローディア様のことを考えると、いままでのわくわくとした気持ちの中に、ほんの少しだけ劣等感が混じる。僕は僕の未来の正室とそんな風に仲良くいられるだろうか? いや、無理だろう。そもそも僕はそれを望んでいない。僕は僕が思っている以上に、多分、頑固だ。今でもどう考えてもミュゼ姉上を正室にしたいし、王になんてなりたくない。でも――マリア父上に愛されるという条件があるのなら、嫌なことだって飲みこんでみせよう。そう思ってはいるものの、僕の心は僕が思っているようには付いてきてはくれないのだ。

「ライリオン兄上も正室は政略的なものから選んだんだよ。羨ましいと言うのなら良い条件で良い正室を探すことだ。マリアはどうするか分からないところがあるけれど、きっとお前が嫌になるような正室は選んでこないさ」

「マリア父上が誰を選んでこようと、僕は――」

「おっと、それ以上は言わない方がいいぜ」

 メリエル父上は自分の口元に人差し指を一本立てて僕に口を閉じるよう言葉をかぶせた。メリエル父上はきっと分かっているのだろう。僕が何を言おうとしたか。何を望んでいたか。もう何度もしてきた話だ、それはそうだろう。

「何を言ってもな、ロカ、お前が王になりたいと言うなら正室を自由に選ぶことは無理なんだよ。お前の血が許さないんだ。分かるだろう?」

「……母上の血が悪いと言うのですか、父上も」

 メリエル父上は、僕のそのうらみがましい言葉に苦笑した。

「仕方ないさね。ミュゼだって、娼婦とのあいの子だ。ローラは娼婦の中でも立派なものだったけどね」

「そういえば、ローラ様は……まだ王宮には入っていらっしゃらないのですか」

 ミュゼ姉上の実の母君であり、娼婦出身の身であるローラ様は、ミュゼ姉上が王宮入りした時から一貫していままで王宮には入らないと言い続けていた。ミュゼも渡したくないのよ、と僕にぽつりとつぶやいたのはいつのことだったか。悪いことをしたとは思うけれど、僕には僕の事情というか、ミュゼ姉上を手に入れたかったのだ。そのためなら誰に恨まれたって構わない。

「まだ入っていないよ。お前がミュゼを側室にしたら俺が無理にでも入れるつもりさね。そっちの方がローラにもミュゼにも良いだろう。ミーシャの茶飲み仲間にもなってくれるだろうし、ローラが入ってくれればミュゼの気持ちももっと落ち着く。良いことだらけさ。ただ、ミュゼが側室じゃない間はローラも貴族たちの非難を浴びるだけだからね」

「……ミュゼ姉上は、貴族の非難を浴びているのでしょうか」

「……それをお前に教えたところでどうなる? ミュゼもミュゼなりにお前に気を使っているんだ。俺はそれを無碍に出来ない」

 低い声で、メリエル父上は言う。どうなる、と言われても、きっとどうにもならないだろう。メリエル父上は頭が良い。僕は出来そこないだ。……僕が気にするべきことじゃない。気にしてはいけない。そんな資格はないのだ。ミュゼ姉上に無理を言って王宮入りしてもらった身である僕には、そのミュゼ姉上の身を心配することなど許されない。それならどうぞ出て行って下さい、などとも言えるはずもないのだ。一度王宮に入ったら、出て行った方が非難を浴びる。ほら見ろ、やはり娼婦の血。そう言われて終わりだろう。それでも、ミュゼ姉上は出て行こうとしている節があった。そんなことになるという自覚があったとしても、出て行きたくなるくらいミュゼ姉上にとってこの王宮という場所は窮屈なのか。分からない。僕には、それを知る資格がない。

「ミュゼ姉上は、王宮を出て行きたいようでした」

 僕が拗ねたようにぽつりとつぶやくと、メリエル父上は苦く笑った。

「それもそうかもしれないな。でも、きっとミュゼは自分では出て行かないよ。安心すると良い」

「そうでしょうか。僕は、いつミュゼ姉上がこの手の内から逃げてしまうのかと……そんなことばかり案じています」

「まあ、捕まえてる気分でいる間はそうだろうね。ミュゼが自分からお前のところに行きたいと願ってるとは思わないのかい? そういうところは、マリアに似なかったね」

 僕はぱちぱちと瞬く。マリア父上に似なかった。ということは、この後ろ向きな思考は母上似だろうか。地に足のついた考えだと思っていたのだけれど、マリア父上は母上のことを自分の手のひらの上にいつまでもいてくれると信じていたのだろうか。そんなの、あり得ない。だって、母上には母上の人生があって、その人生から言えば側室という身分は重すぎた。母上がマリア父上から逃げ出すのも当然だ。今は、だからこそマリア父上は母上の身分を安定したものにしようとしている。それは母上が自分の管轄以外の場所に逃げ出してしまうかもしれないと不安に思っているからではないのだろうか。自分の手のひらの上にいつまでもいてくれるから、その代わりにもっとよりよく環境を整えてあげようという傲慢な考えからなのか。それを傲慢だと言うのは僕の傲慢だ。僕も僕の考えに乗っ取って、ミュゼ姉上を操ろうとしているのかもしれないのだから。

「僕はとてもマリア様によく似ている。それは周りも認めてくださっているように、その通りだと思います。なにも外見だけの話じゃない。きっと、マリア様も、母上のことをいつ自分の手の内から逃げて行くかと不安になっていると思います」

 そんな言葉の羅列は僕らしくなく、またとても僕らしかった。メリエル父上がふっと口元に笑みを浮かべる。顎の下に両の手を組んで置き、メリエル父上はこちらに身を乗り出した。僕は僕の言葉に情けなくも些か緊張してしまって、知らず知らずのうちに紅茶に手を伸ばしていた。

「それは面白い考えだな。どうしてそう思う?」

「僕とマリア様が似ているから……です」

「外見が似ているから考えも似ていると? 理由としては弱いな。確固たる自信があるようには聴こえなかったけれどね」

 メリエル父上はそう言うと、僕らの間に落ちた重苦しい雰囲気を裂くようにけろりと笑った。

「色々なことから、ずっと考えていました。きっと、僕とマリア様は思考も良く似ている」

「色々なこと? もしかしてミュゼを正室に迎えようとしていることとかをかい?」

「そう、です」

 ずばりと言い当てられ、口淀む僕ににこにこと笑っているメリエル父上。メリエル父上は僕のことを笑っているわけではなく、この重たい雰囲気を和ませようとしているのだろう。そんなメリエル父上の気遣いとも言えないほど自然な動作は僕に真似出来るものではなく、それはきっとマリア父上も苦手としていることだろう、と僕は思った。

「それは確かにマリアとお前が良く似ている部分さね」

 そう言って、メリエル父上も紅茶を口に運ぶ。その後メリエル父上はさらりと笑って、

「さて、今日は王宮の外にでも出てみるか。俺の領土に来ないかい? マリアには俺から言っておくよ」

「遠慮しておきます。とても魅力的なお誘いですが、父上の領土に言ったと知られたらマリア様はお怒りになるから」

「そうかい。じゃあ俺だけで行ってこようかね。……お前に女を教えてやろうと思ったんだけど、そんなことをしたらミーシャにまで怒られそうだ」

 にやりと笑い、メリエル父上はそんな軽口を叩く。僕は苦笑いした。おんなのひとは、ミュゼ姉上だけで充分だ。それと、きっと未来に訪れるであろうミュゼ姉上とは別人の、僕の正室。それに、きっとメリエル父上は言葉だけでそんなつもりはなかっただろう。あの地を一緒に訪れようと言うのなら、きっとメリエル父上の娼婦であるローラ様とあともう一人と会うとか、僕が五歳までを過ごしたあの懐かしい別宅に行くとか、そんな、本当に魅力的な誘いだろう。乗りたいけど、あの地に足を踏み入れただけできっとマリア父上は怒るだろう。そんなマリア父上の姿は簡単に想像出来た。

「それでは、僕はこれで。メリエル父上も、気をつけて行って来て下さい」

「ああ。ありがとな」

 そう言って、メリエル父上は爽やかに笑う。その笑顔を最後に、僕はメリエル父上の部屋を出た。


「王妃殿下も可哀相に。手塩にかけて育ててきたマリア殿下が娼婦なんぞにうつつを抜かして。そのざまがこれだ」

「しっ……。ロカ殿下だ」

 僕はそんな貴族たちを無視して、その傍を通りすぎる。こういうこともざらにあって、貴族のみなさんは娼婦から生まれた僕が次の第一王位継承者になるのが面白くないようだった。レオ様の方が評判は良い。そういえば――と、僕が背中を見せたとたん口を開いた先ほどの貴族が、つまらない噂をもう一人の貴族に聞かせていた。

「レオ殿下のことだけれど。レオ殿下はルイヤ殿下の第一王女殿下を正室に迎えるらしい」

「おや。もう決まったのかい?」

「速報だよ。まだあまり噂されてないくらいでね。それというのも……」

 僕はその言葉に耳を疑った。ルイヤ様の第一王女様がレオ様の正室? 僕の方が願い出るのは早かったし、まだ答えも聴かせてもらえていないのに? 聞き耳をこっそり立ててみれば事の次第はこうらしい。どうもあの貴族はルイヤ様の側近に近しい存在で、その側近のひとりがぽろりとあの貴族にルイヤ様の第一王女様がどちらの正室になるのか漏らした、と。噂はまだ噂と呼べるほど広範囲に広がっているわけではなく、君にも特別に話すんだからまだ秘密にしておいてくれよ、ということだった。そうは言っても、その渦中の人物である僕の背中がまだ見えているというのにそんな話を持ち出すなんて、僕も随分お安く見られている。

「父上、ルイヤ様の第一王女様がレオ様の正室になるとは本当ですか?」

 僕はその一件で少し苛立っていたのもあって、らしくないとは思いながらもマリア父上の元を訪ねてゆっくりそう訊いた。マリア父上はこちらを見て、少しため息をつき、またこちらを見る。

「そうだよ。さっきかな――ルイヤ兄上直々に赴いてきてね。返事を聞いた」

「僕には……何もないのですが」

「僕に伝えられているだけまだマシだろう。きっと君の元にも近々従者がくるよ」

 そのマリア父上の言葉はまさしくその通りで、数日たってから僕の元に従者が手紙を持ってやってきた。手紙の中身はこうだ。僕ではなくレオ様に嫁がせることにしたから、そのように、とそれだけ。それだけをもう少し柔らかくルイヤ様らしく固い文章で綴ってあった。

 僕は大きな息を深く吐く。正室にはミュゼ姉上を迎えるんだとそう思っていたけれど、こうまで振られてしまうと立つ背が無い。それでも、これは前向きに考えれば、もう僕とミュゼ姉上の間に挟まる人間はおらず、僕は自分のことを自分の好きなように出来るということではないだろうか。……そう考えても、やはり、あまりにも格好が悪すぎて、怒りも悲しみもなにもかもを通り越して笑えてくる。僕はひとり書斎の椅子に座り机に肘をついてその手を額につけ、はは、と声を出して笑った。自分でもみっともないようなかすれた笑い声だった。娼婦の血。母上の血。貧しく、特別な娼婦でもなんでもなかった母上の血筋。それがそんなにも悪いものだろうか? 母上は素晴らしい人だ。なのに貴族たちはみんなそれを分かろうとしてくれない。王族だってメリエル父上がたまたま娼婦という存在に慣れていただけで、そもそもメリエル父上とマリア父上が特別だったのだ。あの二人が遊び慣れていたから。娼婦という存在が他の王子様達より近しかったから。それだけ。それだけの偶然で、母上が桃色の髪だったと言う運命で、言ってみれば何もかも宿命とは程遠い。僕は本当に王になれるのだろうか。それほどまでの器なのだろうか。僕は――僕はマリア父上の子どもだけれど、娼婦という身の上だった母上の子でもあるのだ。卑しい存在。卑しくて高貴な、矛盾した存在。僕自身があり得ないものなのだ。そのあり得ない僕に、あり得ない王位継承権なんてものを着せようとしているマリア父上は、正気ではないのかもしれない。それから僕を逃がそうとした母上の方がまともだったのだ。なんてことだろう!

「……もういやだ」

 僕は呟いた。書斎には誰も入れてなかったから、従者や侍女さえ僕のその呟きを聞いたものはおらず、誰にも響かずにただの物音としてその声は消え去った。それも僕には無性に悲しかった。ミュゼ姉上もこんな感情をいつも抱いているのだろうか。娼婦の子だとさげずまれ、うとまれ、嫌がられて、王子の子だと崇められて、その空虚に挟まれてこんな感情で。こんな空っぽで、どうしようもなくて、辛くて、ただ悲しい感情を抱いて。そんなことってあっても良いのだろうか。僕は――僕は、ミュゼ姉上を手放さなければならないのではないか。貴族からどれほどこれから煙たがられようと、王宮から離れればその喧騒も遠いものになるだろう。あのメリエル父上の領土の地ならきっとメリエル父上が守ってくれる。

「僕は……」

 僕は――僕は本当はどうしたい? 僕はなぜ、ミュゼ姉上を王宮に入れてしまったのだろう。王宮という狭く苦しい器の中で、娼婦の血を引く僕らがどんな思いをするか、なぜ僕はこうなってしまうまで気付かなかったのだろう。もしかしたら、僕はもうずっとずっと前からこのことに気付いていて、しかし目と耳を完全に閉ざしてしまっていたのかもしれない。ミュゼ姉上と結ばれたい。ただそれだけを考えることで、意識的に目をそらしていたのかもしれない。それは分からないことだけれど、このことに気付いた今、僕が一番ミュゼ姉上とほかならぬ僕自身にしてあげられることはなんだろう。

「僕は……王になる」

 僕は、心を決めた。僕は、王になる。貴族たちを下にひく存在になって、この世を正し、娼婦も貧しさもなにもかも、血筋や境遇なんてひとを決めるなにかにはならないのだと証明したい。その正室にはミュゼ姉上がいなくても良い。ミュゼ姉上は、もうこの場所から逃がしてあげよう。ローラ様が王宮に入っていなくて良かった。きっとそれもこれも全部祈師様のご意志だ。ローラ様が王宮入りしてなかったこと。ミュゼ姉上が正室になりたがっていなかったこと。ミュゼ姉上が、僕が無理につなぎとめているだけの存在であったこと。全て祈師様のご意志であって、こうなることは運命のめぐりあわせだったのだ。今ならまだ間に合う。まだ――まだ大丈夫。今ここしかない。今ここで、ミュゼ姉上を自由にしよう。僕は王になる。その隣に誰を侍るかは、僕とマリア父上で決めよう。マリア父上は僕を王にしたがってくださっているから、きっと僕が王になるのに良いひとを連れて来てくれる。僕はそれを受けよう。ルイヤ様もセルフィウス様もだめだったけれど、公爵家だってまだいくつかある。外国の姫君でも良いのだ。こんな僕でも受け入れてくれる高貴なお姫様に傍に来てもらって、僕のこの恋心は封印し、新しい愛で結ばれよう。そうするのが、きっと僕らの一番だ。ミュゼ姉上、それならきっと、あなたも笑ってくださいますよね?

「ロカは、最近どうしたんだ? 帝王学なんてしているらしいじゃないか」

 それからしばらくしてのメリエル父上の来訪はなんとなく予想出来ていて、ちょっと間の抜けた声でそう言ったメリエル父上に僕は笑って見せた。

「王になると心を決めたんです。僕は、王になる。王になって、この世は血で出来ているんじゃないって証明したい」

「――王になる?」

 メリエル父上は訊き返した。僕は頷く。しっかりと目を見て、僕は初めて王になると口に出した気がした。メリエル父上の受け取り方も、初めて僕が王になると言ったかのようだった。真剣なまなざしで僕を見るメリエル父上に、僕は言葉を続ける。

「ミュゼ姉上のことは、もう僕が手を離すことにしました。貴族たちからどう言われようと、きっとミュゼ姉上なら乗り越えてくれる。それに――あの地で暮らしてくれないかと、僕は思っています。そうすれば、きっと王宮での貴族たちの噂は届かないから」

「あの地で? そうか、それは……それは、確かにミュゼにとっても、ローラにとっても良いことかもな。腹をくくったのか、ロカ」

 あの地。僕が五歳までを過ごした、あの懐かしいメリエル父上の領土。一度はマリア父上の手のひらのうえを滑っていったけれど、今はもう母上があの地に住んでいないことがあって、メリエル父上の領土に戻っている。あの地なら。メリエル父上の手腕なら、きっとミュゼ姉上とローラ様を守ってくださる。僕がそんなことを説明すると、メリエル父上は首をしっかりと縦に振ってくれた。

「分かった。きっと守るよ。いや、絶対に守る。ミュゼにはもう言ったのかい? 急ぎではないけれど、こういうのはぐずぐずするものでもないぜ」

「今度、ミュゼ姉上の部屋を訪ねようと思っています。そこではっきり言います。きっと、ミュゼ姉上は、そうすることが一番良いと考えてくれる」

「それにしても……お前は――本当に、ミュゼの気持ちを考えようとしないんだな」

 そのメリエル父上の言葉に、僕は目をぱちぱちと瞬いた。ミュゼ姉上の気持ちを考えた上でのことだ。メリエル父上も先ほど、賛同してくれていたのに。考えていないとは、どういうことだろう?

「考えた上での行動です。ミュゼ姉上にはこの王宮は窮屈だ。自由な場所で、また前みたいに、ローラ様と笑いながら過ごして欲しい」

「ミュゼにとって、この王宮が窮屈な場所なのはそうさね。しかし、お前にミュゼの気があるとは思わないのか? 側室にもしてもらえないなんて、今までの我慢は何だったのかと言われたらどうするんだ。ミュゼにとって何が一番大事なのか、それを決めるのはミュゼ自身だよ。お前じゃない。それを忘れるな」

 メリエル父上の言葉に、僕の頭がくらくらした。


「ロカ様。今日はどういたしましたの? 改まって話がしたいと言われてしまって、私は緊張してしまいましたわ」

「……ミュゼ姉上」

 僕はミュゼ姉上の部屋に訪れて、向かい合って椅子に座りそう名を呼んだ。ミュゼ姉上はちょっと首を傾げる。僕は少し深呼吸して、あの、と切り出した。

「ミュゼ姉上に、あの――メリエル父上の領土に戻っていただけないかと考えているんです。これ以上ここにいても、きっとミュゼ姉上にとって良いことにはならない。だから、戻って、ローラ様と一緒に暮らして頂けないか、と」

「……え?」

 ミュゼ姉上は目を丸くして、その後徐々にその丸い目のふちに涙が溜まっていった。僕もそのミュゼ姉上の反応に目をむく。

「えっ、あ、姉上」

「……それは、ロカ様がご自身で考えたことですの?」

 ミュゼ姉上の問いに、僕はそわそわと落ち着かないまま首を縦に振った。「そうです。あの……」

 それ以上何と言えばいいのか分からず、僕とミュゼ姉上はそれきり黙りこくる。こんな展開は、予想してなかった――快くメリエル父上の領土に帰ることを了承してくれるとまでは考えていなかったけれど、表面に出さないにせよ喜んでくれるはずだったのだ。僕の頭の中では。それなのに、ミュゼ姉上は泣いている――そう、泣いているのだ!

「それなら、分かりました。私は実家に帰ります。お母様もきっと、待っているでしょう」

「はい……」

 ミュゼ姉上の答えになにか釈然としないものを感じつつ、僕はそのミュゼ姉上の言葉に些か傷ついた。勝手な話だ。無理やり連れてきて今度は帰れと言っておいて、了承してもらえて傷つくなんて。

「あの……ミュゼ姉上」

 僕は恐る恐る訊ねた。「もしかして、僕の……側室になれないことが、あの……辛い、とか」

 その考えは、メリエル父上に言われてこびりついた考えだった。僕の側室になれないのが辛い。そのために我慢してきた今まではなんだったのか。そういう風な、僕からしてみればかなり現実味のない考え。

「……それをロカ様にお伝えしたところで、何になるというのかしら」

「え……」

 ミュゼ姉上は、背筋をすっと伸ばして、泣いている目を隠していたハンカチーフを下ろした。涙のたまったきらきらと輝くひとみが僕を射ぬくように見つめる。

「ロカ様は、私に元の家に戻るようおっしゃられる。でも、私は今までロカ様の側室になることだけを考えてここに侍っておりました。しかし、それを今あなたに伝えて何になるというの? あなたは私のことなんて考えているようでまるで考えていないのだわ。だからそんなことが言えるんです。側室になってくださいというあなたの願いをかなえようとここにいた私の数年はなんだったのかしら」

「……ミュゼ姉上」

 意外な言葉の数々に、僕は知らず知らずのうちに前かがみになっていた。ミュゼ姉上はそれからこほ、と小さく咳をして、そっと僕から目をそらす。「……ごめんなさい。こんなことを言うつもりは」

「いえ……いいんです。僕も考えなしでした」

「いいえ、ロカ様は充分私のことを考えてくださっています。私が我儘なだけ。散々側室にしかならないと言いながら、いざとなったら文句を言うなんて」

 それから、ミュゼ姉上は少し微笑んで僕を見た。

「ロカ様、ありがとうございます。私は実家に帰ります」

「……はい」

 心の中に、なにか塊が出来たような気持ちをしながら、僕はミュゼ姉上に送られて部屋を出た。貴族たちの楽しげな声が聴こえる王宮は僕の好きな場所ではない。やはり自室が一番安心する。早く戻ってライリオン様の本を読むか、それか馬に乗って詰め所へ行くか――僕の頭の中はきりきりと回転した。ミュゼ姉上のいまの様子を頭から追い出そうとするかのように。

「それでは、ロカ様。お達者で」

「はい。……姉上も」

 一緒に庭園まで出て、そこでそう別れの言葉を告げた。ミュゼ姉上はもう涙を流してはおらず、その目にも水は溜まっていなかった。静かだ――と思えるような、そんな波の無い目をしていた。それは、どこかマリア父上が時々するあの瞳の色に似ていた。

 それから、ミュゼ姉上がローラ様の元へと旅立つのは早かった。僕が帝王学や他の様々な学問に身を費やして一~二週間ほどしている間に、ミュゼ姉上は飛んでいってしまった。幼いころ飼っていた小鳥を森に離したときのことを思い出して、もしかして僕もマリア父上のようにミュゼ姉上を「飼って」いるつもりだったのか、とちょっと責め、それからそうじゃないと思い返した。確かに僕が望んでミュゼ姉上をここに呼んで、僕の側室や――正室に――なってくれないかとつなぎとめてはいたけれど、僕は僕の手のひらの上でミュゼ姉上が息をしているとは思っていなかった。それだけは、胸を張って言える。僕は本当にミュゼ姉上が好きだったのだ。鳥籠の中の小鳥にしてしまうほど、そうやって束縛してしまうほど。しかし手放すときは、誰に言われてもそうだというしかないくらい、簡単に手放したのだ。この矛盾を、誰かが僕に説明してくれないだろうか。

「……姉上」

 僕は、こうべを垂れた。そうすると、窓枠とその下の庭園の様子が見えた。ふいに、そこで何度もミュゼ姉上と話をしたことや、その手に水の薔薇を載せたときのことなどを思い出して、涙があふれた。ぼろぼろ、と落ちて窓枠にしみ込んで行く涙を見ながら、僕は僕自身のミュゼ姉上を手放すという考えを後悔した。しかし――ミュゼ姉上には、きっとそれが一番だったのだ。ミュゼ姉上が考えていたのが、メリエル父上と同じようなことだったとしても。

 ――ああ、こんなことって、あってもいいのだろうか。現実はいつも僕に優しくない。僕にも、ミュゼ姉上にも――母上にも。

「……王になります。なにがなんでも、必ず」

 呟き、僕は顔を上げる。白いカーテンに光が反射して、美しい庭園をより美しく魅せた。侍女がワゴンを引いてこちらへやってくる。ロカ様、紅茶を置いておきますね。侍女が離れた机に座り、僕はまた考える――ミュゼ姉上のこと。母上のこと。僕らの血筋。王になると言うこと。

「王になります」

 呟く。その呟きは決意となって、僕の痛んだ心を少し善くした。

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