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「ちちうえ!」
「おやメリエル。来たのかい」
五歳になったロカが目を輝かせて走って行った先――玄関だ――には、腰に手を添えて立つメリエルの姿。彼はロカが近寄って来たのを見てとると、彼からも近寄って行って抱きとめた。高く掲げけらけらと笑うロカに優しい微笑みを見せる。本当の親子のようだね。髪の色が違うのは、どうしたって隠しようがないけれど、ロカにはいつも帽子を深く被らせるようにしていたおかげかこの領土でメリエルの子ではないのではないかという憶測が立つことはなかったようだった。三人目だと言うロカを見に来た娼婦のお母様ふたりには帽子を取って頭を下げさせたから金髪なのはばれてしまっているけれど、まあメリエルが何も言わないならと言ったところか。それに父親が違うのに面倒を見ているメリエルの話はよくあることらしく、まああなたもなのねと言ったもんだった。最近急に増えたらしいよ。……きっとロカの金髪がばれたときに出来る限り不自然にならないようにメリエルが思い計ってくれたことなんだろう。他の子持ちの娼婦にも金貨を恵んで世話してやることで私一人何故? という疑問が起きない様に。メリエルらしくて本当に馬鹿だと思うよ。そこまでしてくれるなんてね。頭をいくら下げたって足りないから頭は下げてないけどロカが眠ったあとにありがとうと感謝の気持ちを込めて酒をごちそうすることがあった。あまり裕福な暮らしは出来てないんだけど、メリエルには贅沢をさせていた。メリエルもあまり金貨を恵んでやれてないのが心苦しいみたいだったけど、先述したようにメリエルにはお抱えの娼婦が最近急に増えてしまっていたから、私一人に馬鹿みたいに金を使うことは出来ないみたいだった。……なんだかね。本末転倒のような気もするけどメリエルが辛そうな顔をしないことだけが心の励みだよ。
この五年間は、マリアの君は僕の娼婦だ、僕の子なんだというあの言葉が嘘のように静かだった。静かで本当に幸せな時間だったよ。願わくばこの時間が長く続けばいいんだけど。王都にいないから知らなかったのだけれど、ライリオン様も無事聖女様との婚礼の儀を終えたらしい。政略結婚とはいえライリオン様は聖女様にきちんとキスをしてあげたそうだよ。どっかの誰かさんに詳しく聞かせてあげたいね。側室も飼ってる娼婦もいないらしく、意外とおしどり夫婦で幸せそうだというのがメリエルの見解だった。それに深く頷いて低い声で羨ましいねと呟いたのはここだけの話さね。言わないでおくれよ。
「ロカは大きくなったな。武術には励んでいるかい?」
「ぶじゅつよりほんがすきなんです」
「そうなんだよ。武術にはからっきしだ。近くの男の子と遊んでるときも負けてばかりでね。家にこもりっきりだ」
「だからこんなに色が白いんだな」
「ちちうえよりしろい!」
「はは。そうだね。父より白いよ」
メリエルは笑って、片手でロカの尻を支え抱えあげた状態でほら、と腕を出す。それにロカが自分の腕をメリエルの露出した腕と並べて比べて、白い歯でけたけた笑った。
「ところで奥さん、何か変わったこととかはなかったかい?」
「奥さんと呼ぶのはやめてくれと何度言っても分からない馬鹿が来た以外には何もないよ」
「それはそれは。良いことだね」
メリエルはロカを下ろし、まくりあげた片袖を下げてぱんと一度皺を払うために叩いた。相変わらずのド派手なフリフリの袖だよ。いかにも自分は王子様ですと舞台にでも上がるような格好だね。ロカはマリアに似て上品なものを好んだから、フリルも適量なシャツと茶色のズボンを好んだ。編み上げの乗馬ブーツはロカがメリエルと靴屋に見に行って誕生日プレゼントに買ってもらったもののうちのひとつだよ。ロカはこれも好きだ。いかにもマリアが好きそうだと思ったのは私だけではなかったらしく、帰ってきてロカが寝室に行ったあとにメリエルはちょっとだけ困った顔で笑っていた。ロカは年々マリアに似てきている。金髪は一向に赤味を帯びないし、顔立ちは王妃様とマリアの肖像画そっくりだ。幼いから幾分か王妃様よりだね。そういえば第五王子のセルフィウス様はもう十五になったって、離宮を貰って王都でパレードが催されたらしいよ。メリエルの領土に越してからそういうのはさっぱりだ。メリエルが紅茶片手に教えてくれるのが情報源の主だね。
「ロカ、侍女に紅茶を持ってきてくれるよう頼んできておくれ」
「ふたりぶん?」
「ロカも飲むかい? 三人分だ」
「さん!」
元気にそう叫んで、ロカはぱたぱたと軽快な足音を鳴らしながら侍女のいる部屋へと走っていった。ロカが行ったのを見計らって、私は低い声でメリエルに訊ねる。
「マリアの様子はどう? 私たちの居場所を探している素振りは?」
「俺の領土にいることだけは掴んだようだけどその先はさっぱりさ。綱渡りだね。俺もそれ以上は探られない様に必死と言ったところか」
「そうかい。……分からないままで居てくれればいいんだけど」
「五年見過ごしたんだ。そろそろ諦める頃だと思うけどね。……やれやれ、最近は本当にロカと一緒に居るのが一番心休まるよ。君の顔も見れるし」
「殴られたいのか喜ばれたいのかどっちだい」
「殴られるのは御免だよ」
へらりと眉根を下げて苦笑。メリエルの苦笑も増えてきた。五年も経つと人は変わる。でもメリエルはあまり変わらないね。私はロカといて、まだ苦笑いの段階だけれど笑えるようになってきた。ははうえ、見てくださいお花です、なんて言われて沢山の野花を持ってきてもらった時にはちょっと泣きそうになったけどやっぱり苦笑いしか出来なかったよ。表情筋が固まってるのかもね、とメリエルが冗談を言った時には軽く殴っておいた。
メリエルのロカを入れて四人目の子、すなわち正室のお姫様の子は男の子だった。現在の王位継承第一位だってお姫様は喜んでいるみたいだよ。メリエルの立場も固まってきた。王家にとってロカはいよいよ邪魔者だ。マリアは赤毛のお姫様との間に一人も子を成してないだけでなく、最近は娼婦と遊ぶこともなくなったらしい。そして血眼になって私を探しているんだとか。マリアが側室に娼婦を迎えようとしていることは、王都だけでなく片田舎にまで広がってきた。ここにも噂が流れてきたよ。号外が配られてた。随分情報が古いねと思ったもんさ。まあ二年前の話だからね。私を迎えようと準備を始めて三年後に此処に情報が流れて来たんだ。苦笑せずにはいられない。ははうえどうしてわらってるの? とロカが訊ねるもんだからちょっとねとその場を濁して置いたよ。この子は訊ねがり屋だ。
メリエルの領土というのは王都と同じく気候も良く、王都よりも呑気で田舎の風を残した場所だった。ここで比べてみればかなりの贅沢を私たちはしているけれど、それでも王都でこの子を身ごもっていたころに比べれば些細なものだ。この領土に住むと言うメリエルの実の子二人は以前よりも慎ましい生活を送らせることになってしまって非難されたよとメリエルは困っていた。それもそのはず、抱える娼婦の量が増えたんだからね。私を目立たせないためと面と向かって言われたわけではないけれど、メリエル付きの侍女のひとりがこっそり教えてくれたんだよ。此処にいる侍女たちは口が固い者が多かった。かなりの大金で口が固い貴族の女を雇ったんだってメリエルは言っていた。ロカのためだね。間違いないよ。
「あんたには感謝しているよ。ロカもすごくいい子に育ってくれた。まだまだこれからとはいえ、ずっとここで暮らしたいね」
「俺の二人の女の子も可愛かっただろう? 俺と君には子育ての才能があるのかもね」
「自分のことそんな風に言う奴は嫌いだけど、あんたは別だ。頼りにしてるよ、父としても夫としても」
「夫と言ってくれるとは」
「それでも間にあるのは友情だ。そうじゃないとあんたとはやっていけない」
「もちろん。それも深い深い友情だ」
メリエルは応接間へと歩きながら言う。私はその後ろを付いて行きながら苦笑した。
メリエルは本当に、私を抱きたいとも一緒に寝たいともその手の冗談を言うことさえなくなった。ロカを大切にしてくれる一方で、私のことも本当の友人として大切にしてくれているみたいだった。その必要があるときは夫、というかメリエルが飼っているという風に振るまってくれながら、こうして家で会話するときは昔のまま、友人のままだ。ぬるま湯。やっぱりメリエルとの関係はその言葉がしっくりくる。ぬるま湯だよ。あんたの私に対して注いでくれる感情はぬるま湯だ。心地よくてそこで眠ってしまいたいよ。でもそれはだめだね。私にはもうロカがいる。あんたの傍で落ち着いて眠っているのも素敵かもしれないけど――マリアを警戒しながらこの場所でロカだけでも心から幸せと思ってもらえるよう、立派な母として振る舞わなければならない。それをつらいと感じたことはほとんどないよ。ほとんどだ。私も弱いね。
「マリアのことはまだ好きかい?」
応接間の扉を開く私の横に立ち、メリエルは訊ねた。私はメリエルと数秒目を合わせ、そっとそらしてから答える。
「……分からない。好きかも知れないし、もうどうでもいいかもしれない。会わない期間が長すぎた。でも、時々ロカを見てると切ない気持ちになることがあるんだ。もしかすると、私はまだ――いや、言わないでおかせてくれ」
「そうだね。それがいいかもしれない」
メリエルは優しい顔で笑っているだろうことが、声の調子で分かったけれど、私はメリエルの顔を見ることが出来なかった。マリアの事は好きだ。でも大きな声では言えない。メリエルにもはっきりとは告げられない。禁忌なんだよ。禁断なんだ。分かってる。……分かってるからこそ、メリエルにさえも大きな声ではっきりとは告げられないんだ。ロカを見ながら切なくなる理由なんてひとつしかない。あいつに憎たらしいほどそっくりに成長していくロカを見つめているのはある種辛いことだった。でもそれを補って余りある幸せがあるんだよ。ロカを見てると幸せなんだ。マリアと重ねてるのか、ロカ自身を思っているのか――それが分からないことだけがつらいね。きっとロカ自身を見てるんだと思っていたいけど、ロカはあまりにもあんたに重なりすぎてるよ、マリア。幼少期はきっとこうだったんだろうって分かるんだ。手に取るように。
「あんたの末の子は今年五歳だったかな? 四歳?」
「末の子? 王子のことかい? 四歳だね。ロカの一つ下だ」
そういえば今や数え切れないほどの子の親だったね。血は繋がってなくても父親として存在してるんだ、メリエルは。ロカのように。そういう娼婦が沢山居る中で、私が目立たないのはメリエルの作戦勝ちだった。でももしかしたらそれでますますマリアが私の子――ロカだよ――はマリアの子であって、メリエルの子ではないことに勘付いてるのかもしれない。難しいね。回避しようとすればするほど命中するんだ。もう下手に逃げない方が良いかもしれないと思ったことは何度もあるけど、メリエルに頼っていたこの五年の成果を見るに、メリエルの考えを下手に捻じ曲げない方が良いかとも思うんだよ。難しいね。本当に難しい。
「ははうえ! じじょをよんできました!」
私がまた鬱々と考えを巡らせているところに、ロカが飛んできた。ロカは侍女の袖を引っ張っていて、引っ張られている侍女には仕方ないなあという笑みが浮かんでいた。私たちを見たとたんすっと背筋を伸ばし、押しているアンティークワゴンをこっちに寄せて扉を開く私に変わって戸を開いた。どうぞ、と言う侍女に軽く礼を言って応接間へと入る。中の椅子に座って、紅茶とケーキが三人分用意されると、ワゴンごと侍女は引っ込んだ。メリエルが来たら三人だけ、もしくは二人きりにするよう言いつけてあるのは昔からの通例だ。ここの侍女ももう皆心得てる。
「私の分も食べるかい?」
「はい!」
そっとロカのほうに私の分のケーキの皿を差し出すと、ロカは喜んでそれを受け取った。小食なところは私は昔と変わらずで、妊娠していたときより体重もかなり減っていまやがりがりだ。でもロカはふっくらしている。マリアもそんなに食べる方でもなかったようだから誰に似たのかな。ロカかな。ロカ――私の妹の方、は少し私よりふっくらしていて女らしかった。もしかしたら食事の面は妹に似ているのかもしれない。そう考えると少しほほえましいね。沢山お食べよ。食べ物で苦労した身であるからか、私はこの子に関して食べたいものを食べたいだけ与えたいという欲求が強かった。
「おいしいー」
「そうかい。父の分も食べたまえ」
そう言ってメリエルがケーキを差し出す。さんこもはいりません! と大声で言うロカに、私は小さく、メリエルは大きく笑った。
「ロカはどんな本が好きなんだい?」
「せいじのほんです。せんそうのところがすきなんです」
「戦争? 読んでて面白い? 怖くないのかい」
「わくわくします!」
メリエルの膝の上に座って、ロカは身ぶり手ぶりをしながらそんなことを話していた。その台詞はなんだか聞き覚えがあるよ。どっかの誰かさんも似たようなこと言ってたね。
「ライリオンおうじがすきなんです!」
「兄上? そういえばこの本も兄上の武勇伝だね」
ロカが机に無造作に置いていた本を取って、メリエルはぱらぱらとめくった。子ども用の簡単な本とはいえ、ライリオン様の武勇伝をたたえる本は数多く存在した。そのおかげかロカはすっかりライリオン様の魅力に取りつかれたようだよ。ずっとその手の本ばかり読むし、戦争の本ばかり欲しがるんだ。男の子だね。将来騎士になりたいのか? と訊けば青旗が良いと言っていた。魔法に感じるものがあるのだろうか。母に似なかったね。多分武術は苦手だから武術の関係ない魔法に興味を持ったとただそれだけだろうけれど、ロカの言葉や一挙一動は面白かった。眺めてて本当に飽きないよ。
「メリエル王子の武勇伝も用意させようか」
「ちちうえもせんそうにいったことがあるの?」
「あんたの武勇伝なんてどこどこの娼婦に何人孕ませたかとかだろう」
メリエルの戯言に冷たく返すと、ロカは大きな目をきょとんと丸くさせて私とメリエルを交互に見た。
「酷いな。俺だって王室式の武術の経験くらいはあるぜ?」
「そうかい。じゃあロカに教えてあげておくれよ」
「ロカは武術が嫌いなんだろ?」
「はい」
メリエルの問いにロカは軽く頷く。私はちょっとだけ口元に笑みを浮かべた。メリエルがどれほどの剣の使い手かは知らないし、これからも知ることはないだろう。でも武術の経験があるのか。それでもそんなフリフリの服を着てたら動きづらいだろうと思うよ。やっぱり武術をやるなら軽装かライリオン様みたいに武装だね。
「いたいのはいやなんです。ほんをよんでるほうがたのしいし」
「じゃあ将来は小説家だ。歴史の本を沢山読むと良い。難しいのから簡単なのまで一通りそろえてやろうか。もちろんライリオン兄上の武勇伝でね」
「それはいいね。ロカ、今のうちに好きなだけ好きな人物をメリエルに教えときな」
つまり絞れるだけ絞り取っておけ、だ。しかしロカはそんな私の言葉に含まれた裏など考えず、私に言われた通りに好きな政治や歴史上の要人の名を挙げ始めた。それがあまりにも沢山あるもんで、私とメリエルは同時に待った、と手をあげる。
「そんなにいるのかい」
「さすがにそれだけの人物の本をそろえるのは大変だ。ロカ、もう少し絞っておくれ」
「じゃあやっぱりライリオンおうじのがいいです!」
絞ったら一人になるのか。私たちはそんなロカを見ながら自然と頬が緩んだ。
「ロカは書斎の本は全部読んでしまったのかい?」
「興味をもたないんだよ。女が好きそうな恋愛物やらお伽ばなしばかりでね」
「俺は好きだけどね。そうかい。それじゃあ書斎の本を丸々歴史物と政治物に取り変えようか」
メリエルの言葉に、ロカは上体をひねりメリエルに抱きついた。頬にキスを浴びせ、ちちうえだいすき! と大きく言う。
「そうかいそうかい。そこまで言われたら揃えないわけにはいかないね」
「本当だよ。大丈夫なのかい?」
ロカの様子に苦笑する私を見て、メリエルは悪戯っぽく目を輝かせる。
「大丈夫だよ。手に入りにくいものから教育に良いものまでそろえるさ。この俺を誰だとでも?」
「メリエル王子殿下だね」
「そうだよ」
そう言ってメリエルからもお返しにロカの頬にキス。ロカはきゃっきゃと声をあげて喜んだ。五歳なんだ、父親から接吻されて気持ち悪がることも母親から抱きしめられて嫌がることも考えつきさえもしない。素直なもんだね。可愛いよ。この子は本当に可愛い。
ロカには、メリエルが王子であることはすでに伝えてあった。どっかの馬鹿なお隣さんとか、物好きな老人なんかから下手に実はあなたのお父様は王子なんですよ、なんて聞くよりよっぽど良い。なんで教えてくれなかったの? と訊かれるくらいなら訊かれる前に教えておいてあまりしゃべるものではないよと教え込んでおこうぜ、というのはメリエルの意見だった。私は隠そうとしたほうさ。ロカはあまりまだ物事を知らないのか自分が王子になることは望んでいないどころか考えもつかないようだったけど、いつか望み始めることになったらどうしようと思っているよ、私は。メリエルはなるようになるさとしか答えない。こいつも二児、いまや三児の父だ。血のつながりのない子ならロカもぎりぎりその内に入って、もっとたくさんいる。その場を逃れる言葉の数々なら沢山レパートリーがあるんだろうと信じるしかないね。
「そういえば、俺の子がいる娼婦なんだけどね。ローラさ。子がまたロカに会いたいと言っているようでね」
「それはそれは。あちらさんの子はいくつだったかな?」
「十三だ。大人びてきたよ」
ローラというのはメリエルの血をちゃんと受け継いでる女の子の母親だ。メリエルのことが本当に好きなんだなって分かる素敵な人だよ。その子もメリエルのことをお父様、お父様って言って懐いている。王女になりたいと思ったことが過去あったそうだけど、メリエルにその気がないのを見てとって言うのをやめたようだとメリエルがこの間言っていた。可哀相だけど下手に王族の中に入れてその血のせいで立場を追われでもしたらそっちの方が可哀相だからね。仕方ない。メリエルもそれを分かっていてしていることなんだけど、と頭を掻いていた。ほとほと手に余っているようだ。口も達者になってきてね、と言うもんだからどっかの誰かに似たんじゃないのかいと返せば苦笑が返ってきたのもここ最近の話だ。
ローラさんの子の名前はなんだったか。確かミュゼだったかな? 可愛い名前だと思ったもんだよ。なんとなく知性が感じられてね。ミュゼちゃんは今年十三か……と言うことはロカが生まれたときは八歳だ。八歳差。ミュゼちゃんはなんとなくロカに好意を寄せているようだった。同じ父親の子ということで姉のような気持ちでも浮かんできたのかもしれないね。何にしろ嫌われるよりよっぽど有難い話だ。メリエルとローラさんの育て方が良かったのかね。同じ父親でも母が違うなら感じる情なんて薄いもんだと思ってたけど違うのかな? 女の子だから情が深いのかもしれない。王族の五人兄弟のみなさんに聞かせてあげたいよ。父親のメリエルも中に入れて長々とね。
「ロカは会いたいかい? ミュゼだよ。覚えてる? 黒髪のキュートな女の子だ」
「ミュゼおねえさま? あいたい!」
ぱたぱたと編み上げのブーツを履いた足を動かして喜びを表現するものだから、メリエルが痛いよと言って苦笑いした。ほらっ、と言ってメリエルはロカを抱えあげる。今まで座っていたメリエルの膝から少しだけ尻が浮いてそんなに嬉しいのか、ロカはきゃあきゃあ言って笑った。こうしていると本当に親子なんだけど、血のつながりが実は薄いんですなんて聞かせた日にはロカはどうなるのか。母と父と髪の色が違うからそのうち気付くだろうとも思うけれど、拾われた子だとだけは思って欲しくないよ。あんたはこの私が正真正銘腹を痛めて産んだ可愛い息子だ。
ロカはといえば、ミュゼちゃんから手作りの焼き菓子を貰ったことをずっとよく思っているようだった。お菓子で懐くなんてなんとも単純だと思うけれど、まだ幼かった頃にほぼ半泣きの状態でぐずぐずとミュゼちゃんと話しているうちに、ミュゼちゃんの方からそんな事態を想定していたのか焼き菓子が出て来たんだ。それをもらってからすっかり仲良くなって、最後の一枚はミュゼちゃんと仲良く半分に割って食べていた。
「じゃあ会う日取りを決めておこうか。今月はいつが空いてる? ローラの方は……」
「ああ、じゃあ私は……」
カレンダーを侍女に取ってきてもらって、私たちは日取りを決めた。一週間後だ。楽しみだね。
「今度はこっちから焼き菓子を準備しておくよ。ローラさんに伝えておくれ」
「了解した」
そう言ってメリエルは笑う。メリエルもロカとミュゼちゃんの焼き菓子の話を覚えているのかね。なんにせよ、楽しみなのに変わりはない。男の子だからロカは菓子作りに率先して手伝うことはないだろうけれど、外に遊びに出ているのではなく本を読んでる様だったら少し手伝わせよう。粘土細工と同じようなもんだ。多分楽しんでくれるだろう。
ローラさん、ミュゼちゃんと会う日が明日へと迫ってきた頃、私はクッキーを焼く材料を料理番に頼んで仕入れてもらい、調理場へと外の階段を下がって行っていた。この家の造り的に、外に設置された螺旋階段を下るより家の中の階段を下りた方が調理場には速いのだけれど、ロカが今何をしているのかを見るために、家の外を見ながら私は階段を下って行っていた。勿論侍女を連れてね。外の風は心地よく、トンカンと靴底が鳴らす黒塗りの鉄の音は聴いていて気分が良い。裏庭で子どもが遊んでいるような様子は全く見られなかったから、ロカは性懲りもなく家の中でライリオン様の本でも読んでいるんだろう。メリエルは言葉をちゃんと態度で示してくれていて、日に日にライリオン殿下の武勇伝が家の中に増えて行っていた。それと半比例して小説が減って行くんだよ。面白いね。まさに男の子がいる普通の家庭だ。メリエルの血が高貴すぎるのと、私の血が浅ましすぎるのだけが欠点だけどね。
「ロカを呼んでくるよ」
「はい」
くるりと一階へと降りて行っていた足を二階へと戻す。外の螺旋階段は二階から一階へと続いている。戻るのであれば上がるしかなかった。調理場は一階の一番裏庭に面した所にあるんだよ。
侍女は途中で足を止めた私に何も言わず無表情で付いてくる。そのメイド服の裾が完全に中に入ったのを確かめてから、侍女がパタンと螺旋階段へと続く戸を閉めた。私は振りかえらず先を行く。ロカは二階の自室か一階の応接間か。自室を確かめてみると、そこにロカの姿は無かった。メリエルがそんなにも好きなのか、ロカはメリエルが来るといつも三人で籠る応接間も好んで使っている。応接間を見てみようと階段を下りたところで、喧騒が聴こえて来た。
「お待ちください!」
きいんと耳が鳴るような戸番の声。と共に、ドン、と鈍い人が倒れる音がした。私は何事かと玄関の方へと急ぐ。侍女はいささか慌てた様子で私と顔を見合わせ、私の後ろを離れず付いてきた。
「!」
と、誰かが私に覆いかぶさり、その唇で私の唇をふさぐ。私は驚いて一瞬抵抗を忘れ、ハッと気付いたのちに精一杯の力でその誰かを押し返そうとした。あまりの至近距離にぼやけて顔立ちが良く見れない。誰? メリエル? でもあんたはこんな馬鹿げたことしないよね。誰だろう――この桃色の髪がついに変な輩を引きつけてしまったのか。人売りに目を付けられた髪だ、そんな馬鹿げたこと――と一蹴することは出来ないね。何にせよどいてもらおう。
私はスカートを片方たくしあげ、あらわになった足で思い切り相手の股間を蹴った。護身術なんて習ってないから闇雲さ。それでも効果はあったようで、うぐ、というどこか聞き覚えのあるうめき声が耳元で聴こえた。相手がうずくまったのを確かめて、じっくりその姿を確認して仰天した――マリアだ。この金髪。この長い外套。
「あんた……」
怒りも悲しみも嬉しさも全部ぐっちゃぐちゃに混ざって、私からは妙にか細い声が出た。あんた、何してるの? どうしてここが分かったのさ? メリエルは? あいつは何をしてるの? 緊急だよ。早く来ておくれ!
「随分酷いことを……」
マリアも細い声。痛そうに眉根をしかめ、こちらを睨んでくる。でもその目には力が合った。優しい力。一番最近に出会った時の暗い瞳じゃない。
「キスくらい今更じゃないか。しかもこれくらいで。随分カマトトぶってるね」
「あんたも随分変質者じゃないか。これで蹴られない方がおかしいよ」
久しぶりの会話としてはなんだかね。あの時――マリアにロカは僕の子だと言われたあの時の方がまだ別れたばかりの恋人同士らしかった。こんな会話かわしてるようじゃ、まるでまだ繋がりがあったかのようじゃないか。事実繋がりはあったかもしれないね。ロカさ。私はマリアの子を産んだ。そして愛して育てている。メリエルと一緒にね。ガラクタだよ。分かってる。そんな関係しかなかった私達にしては、随分慣れ親しみ過ぎている会話じゃないかい。
「変質者とは……」
「変質者だろう。ほら、早く出て行っておくれ。一体全体どうやって此処にたどりついたか知らないけれど、迷惑だよ。私の子はメリエルの子だ。何度言えば分かるんだい。いい加減にしておくれ」
「私の子――ということは産んだんだね。しかも育てている。違う?」
マリアはこちらに不敵な笑みを浮かべて見せて、そんなことを私に投げかける。私はうんざりと眉をしかめた。
「メリエルの子だ。メリエルの娼婦である私が育てているんだ。何がおかしいところがある?」
「まあなんとでも良いよ。その子を見に来たんだ。本当に兄上の子なのか、一目見れば分かる」
「欲目でなんとでも見えるさ。いい加減にしろと言ってるだろう」
随分私も肝が据わったね。これでロカさえ出てこないでくれたら押し切れるかもしれない。メリエルは本当にどこで何をしているんだい? こんな時に限って現れないんだね。いつもはピンチの時にはかならず助けてくれた。頼りにしてたんだよ。――いつでもどこでもあんたを求めるのは酷だね。ごめんよ。ただこれくらいの八つ当たりは許して欲しい。
「ははうえ?」
そんな時だ――カチャリ、と応接間の両開きの扉が片方ゆっくりと開き、ロカが顔を出した。しまったと思ってももう遅い。マリアはロカを見た瞬間、目をぱっと更に輝かせた。走るようにして傍により、知らない人物に寄られて警戒するロカを気にも留めずその体を抱き上げる。
「僕の子だ! この金髪、この顔立ち! 僕の子だ!」
「――メリエルの子だよ!」
金切り声のような切羽詰まった声を上げて、私はマリアの手からロカを奪い返そうとする。ロカは激しく手足をばたつかせて、嫌々とマリアと私の間から抜け出して応接間の扉の向こう側に体を隠してしまった。顔だけこちらを向いているところからして、興味はあるのだろう。嫌な興味だ。誰に似たんだい?
「いい加減にしておくれ! 出て行きなよ!」
「僕の子だ! どう見たって僕の子じゃないか! あれでよくも兄上の子だなんて嘘がつけたね?」
そうまくしたてるマリアに、言葉の意味が分かってなければと願いを込めてちらりとロカの様子を見る。ロカは怯えた表情でマリアを見つめていた。何を考えているんだろう……もしも髪の色の矛盾に気付いてしまったら。ロカに何と言えばいい? あんたの父上は本当はメリエルじゃないんだって? 言いたくないよ。そしてこの王子様の子であって、ロカは実は王位継承者なんだなんて言いたくない。王宮にいるべき身分だなんて知らせたくない。そんな生活もさせたくない。今の生活がロカと私とメリエルにとって最上なんだ。一番いいんだよ。それをマリア、あんたは壊そうとしているんだ。こんなことって許されないよ。
「嘘じゃない――嘘じゃない。嘘じゃないよ。もういいだろう。子の顔も見れた。あんたは欲目でそう見てるだけだ。あの子の顔も髪の色も、私とメリエルにそっくりだよ。髪の色はじきに赤くなってくる。もういいだろう……?」
こぶしを握り締めて、私は絞り出すようにそう言った。マリアは再びロカに近付く。一歩近づいたところでロカが顔を戸の向こうに隠してしまい、二歩近づいたところで戸を閉めてしまった。ほら、ロカはあんたを拒絶してる。これで分からない? 血が誰に繋がっていようが、ロカにとっての父上はメリエルだけなんだ。今更そんなことに気付くなんて。私ももっと早くそうロカに言ってやればよかった。ロカは今扉の向こうで何を考えているんだろう。ぐるぐると僕は父上の子どもじゃないの? だなんて考えていたらと思うとぞっとしないよ。
「……君の名前は?」
マリアは私のことなんか簡単に無視して、扉の向こうに隠れてしまったロカに優しく問う。その手はロカが閉めた方の扉に添えて。一部始終を見ていた私の侍女と従者が、いきなり動き出した。私たちの喧嘩を見て、来訪してきた客の姿を見て――混乱して動けなかっただろうところに、きっとマリアが声を優しく変化させてロカに歩み寄ろうとしたから、はっと皆我に返ったのだろう。遅いよ。でもそれを言うのも酷いことだ。私が侍女だったとしても、いきなり第一王位継承者の王子がやってきて、いままで面倒を見ていた子の親だと騒ぎたてていたら頭がこんがらがってしまって動けなくなるよ、きっと。
「マリア様、お帰り下さい」
「マリア様、ロカ様はメリエル様のお子様です」
「ロカって言うんだ。女の子の名前のようだね。僕と同じだ」
果敢にもマリアに引き取るよう申し出る侍女たちを知らない振りして、マリアはロカに話しかける。ロカは応接間から出てこようとしない。マリアの後ろについて来ていた従者――こいつもおなじみの顔だ。今更気付いたけどやっぱり従者は従えていたんだね――が扉を開けようかマリアに訊いたけれど、マリアは首を振った。ロカの身長くらいの高さに屈みこんで、マリアは再びロカに話しかける。
「僕はマリア。僕も女の名前だ。でも気に入っているよ。綺麗な響きで良い名前だと思っている」
「……ぼくもぼくのなまえがすきです」
小さく聴こえて来たのはロカの声。ロカはゆっくり扉を数インチだけ開くと、その大きな瞳を怖々と覗かせた。マリアはそれを見て口角を上げる。目もうっすら細め、優しい表情が出来る。こんな顔、寝室くらいでしか見たことないよ。嫌な記憶だね。
「また来るよ。今度はもっと公に来る。その時は顔を出しておくれ」
ロカにそう言って、マリアは腰を上げた。私の方を見て、再び消え入りそうな笑みを浮かべる。
「君に会えてよかった。五年も探した。今度また来る。どこに逃げたってもう手遅れだからね。兄上の領土の権利は僕が握った」
「……メリエルの権利を握った?」
「金でなんとでもなると言ったのは君だよ。覚えていない?」
覚えてないね。首を縦にも横にも振らずに睨みつけると、マリアはふふと声を漏らした。
「女じゃなくて土地を買っただけだ。勿論兄上と競ったけどね」
それだけ呟くようにして残して、マリアは従者を引き連れてこの家を出て行った。
「ここ最近メリエル様のお姿を拝見していないんですのよ。何かお心当たりはあって?」
「メリエルの姿を見ない? 私もですよ。何があったんでしょうね」
私と一緒に焼いたクッキーを持ってロカとミュゼちゃんが話している姿を見つつ、私とローラさんはそうメリエルの噂話をした。一週間姿を見せないなんて普通のようにも思えるけれど、メリエルにとってそれは異常だった。三日開けずにやってくるのがあいつだ。家には毎日のように来ていたよ。それがこの一週間ぱったりだ。本を贈ってくることはあった。送ってくるんだ。輸送だよ。本人が持ってくるんじゃない。何故だろうと思ったことも少しある。心当たりか――無いなんて嘘つきだね、私も。マリアが言っていたメリエルの権利を握ったという言葉が頭の中をぐるぐる回るんだよ。それがメリエルが姿を現さないのとどうつながっているのかさっぱりだけど、心当たりと言えばそれしかないしそれが一番の心当たりに思える。ローラさんの方はさっぱりなようで、本当に訳が分からないと言う風に首を振っていた。
「風邪でもお召しになったのかしら。でもそんなおからだの弱いお方でも無いですのに。風邪を引いたのが本当だとしても、それでも私とミュゼのところには来るような方でした。貴女の方もそうでしょう?」
「……そうですね、鼻水垂らして来ていましたよ。子に移るから辞めてくれって言っても。しょうがない奴だと思っていました」
そうだ。病気をしても怪我をしても、あいつは毎日のようにこの五年間私のところに通ってきた。ロカがお腹にいる間を含めたら六年かな? なんにせよ、馬鹿だ馬鹿だと思いつつ家に上げていたのも事実さ。それがぱったりだ。本当に何が合ったんだろうね。
「どうされたのかしら。ミュゼも心配しているんですのよ。早くあのお顔を見たいですわ」
ローラさんはそう言って、メリエルの贈りものだろう派手な扇子を口元に当てて眉根を曇らせた。ミュゼちゃんには聴こえないよう小さな声で呟いた言葉の最後は本音だろうね。愛されてるね、メリエル。良かったじゃないか。そんなこと言っている場合じゃないけれどもさ。
「ははうえ! ミュゼおねえさまからケーキをもらいました! いっしょにたべましょう」
ロカがぱっとこちらに体を向け、その小さな手に大事そうに透明な紙に包まれた一切れのケーキを持って大声で言う。私はやれやれと腰を上げた。ロカの嬉しそうな顔とは対照的に、私の顔に浮かぶのは苦笑いさ。ロカにお誘いを受けたことは嬉しいけれど、やっぱり私は笑えないようだ。表情筋が固まってるのかもね――メリエルの言葉が浮かんで消える。
「ミーシャさま、これどうぞ。ロカさまも一緒に」
ミュゼちゃんが愛らしい黒髪を振ってこちらを向く。チリチリと小さな音を鳴らすのはこれまたメリエルの好きそうな派手なイヤリング……いや、ピアスかな? 大ぶりの宝石が裏庭を照らす太陽の光を反射して眩しいよ。でも良く似合っている。メリエルとローラさんの二人に似た可愛らしい顔にはぴったりさ。爽やかでどこか甘ったるい顔立ち。二人の良いところを選んだかのような。
ミュゼちゃんが手渡してくれたのは、ロカが持っているのと同じ一切れのケーキだった。透明な包装紙をまとめて結ばれたリボンは私に渡されたのはピンクでロカが持っていたのは鮮やかな青。
「このリボンの色、ミーシャさまの髪の色を思って結んだんです。気に入ってくだされば嬉しい」
「ミュゼはミーシャ様の髪の色を羨ましがっているんですのよ」
ミュゼちゃんの賛辞に付けたして、ローラさんが言う。改めて見てみると確かに私の桃色の髪によく似たピンク色だった。
「ロカさまのリボンは綺麗な青にしました。ロカさまには青が似合うと思うの」
「瞳が青ですものね」
黒にも見えるロカの瞳を青と言うとはね。マリアは綺麗な青い目をしていた。きっと赤に近い茶色の私の目の色と混じって黒寄りの青になったのだろうロカの瞳をそう言ってもらえてうれしいよ。私は素直にありがとうと告げて、ロカにもお辞儀をさせた。ミュゼちゃんが照れたように笑う傍で、ほほえましいものを見るかのように目を細めてローラさんが扇子で口元を隠しながら笑う。こうやって仕草を見ていると、どうもやっぱりと言うか、メリエルは下町の娼婦の中でも良い身分の者を選んでいたようだ。言い値も高かっただろうね。ローラさんは気品もあって別嬪さんだ。いや、王子のメリエルにはローラさんの言い値なんて安いものだったかもしれないけれど。
頂きます、と裏庭に設置された木製の机について侍女に皿を持たせ、リボンをほどくと中からうっすらと香ばしい匂いがした。木の実が入ったパウンドケーキだ。美味しそうだね。フォークで一口大に切って食べる。ロカもそうした。美味しい味が口いっぱいに広がって、ワインを口に含むと更に心地よく喉を通って行った。ロカはお酒は飲めないからジュースだけれど、満足そうなその顔からして美味しかったのだろう。よかったね。私も嬉しいよ。
「美味しいです」
「それはよかった」
ミュゼちゃんの代わりにローラさんが答える。ミュゼちゃんはロカの口の周りについたケーキのクズを取るのに忙しそうだった。そんなことは侍女に任せるよう私も少し口添えしたのだけれど、ミュゼちゃんがそうしたいと申し出たのだ。仕方ない。対するロカはちょっと恥ずかしそうにもじもじしていて、でも終わったあとはすっきりした顔でありがとうございます! と大声でミュゼちゃんに礼を述べていた。ミュゼちゃんは明るく笑っている。やっぱりロカのことを弟のように思ってくれているのかな。嬉しいことだ。
*
「それでは、私たちはこれで」
太陽が夕日に傾いたところで、ローラさんとミュゼちゃんは腰を上げた。私とロカは侍女たちを引き連れて裏庭から螺旋階段を上り、二階へと皆で上がる。侍女が戸に閂をつけたのを見た後で、ローラさんたちを先だって玄関へと向かった。階段を下り正面玄関へと下ったところで、ローラさんとミュゼちゃんに頭を下げる。
「今日はお世話になりましたわ。またお会いしましょう」
「こちらこそ」
ローラさんの言葉に無愛想にもそれだけで返す。しかし私の態度には気にするそぶりを見せずに、ローラさんはミュゼちゃんの手を取って戸番が開けた扉の向こうへと姿を消した。戸番が扉を閉めてしまうまで私はロカと一緒に手を振って、門の向こうに消えてしまった背中を目で追って息をついた。楽しかったけどお客さんと言うのはメリエル以外は気を使って疲れるね。
「ははうえ、ぼく、ミュゼおねえさまをおよめさんにするんです」
「ええ?」
ロカの突拍子もない言葉に、私は口を歪めた。何を言っているんだい、と思ったけれど、考えてみればロカはまだ五歳だ。しかもミュゼちゃん以外に女の子と遊んだことはほとんどない。身近な異性を恋患うのはこの年頃にしてみれば当然だね。
「……そうかい。きっとミュゼちゃんも喜ぶよ」
「はい!」
色々な問題には目をつぶって、私はロカにそう言ってその頭を撫でた。ロカは嬉しそうにしている。可愛いね。この子は本当に可愛い。
メリエルが来るはずだった席だったけれど、私一人でもなんとかなったよ。それにしたって、あの男ときたら本当にどうしたんだろうね。よくよく考えてみればマリアが来た昨日もメリエルにしてみれば感知できる範囲だっただろうし、今日も一緒に居る時に日付を決めた話だ。公務が忙しいと言ったって、その間でも愚痴をこぼさずやって来ていたのがあいつだよ。正室のお姫様が妬いている――という話を聞いたことがあるくらい頻繁に娼婦たちの元を訪ねていたんだ。それがぱったり止んでしまった。何故? まさか、マリアが一皮噛んでいる? そんな気しかしないよ。もしそうだとしたらメリエルはもうきっとやってこない。来れなくなる。なっている。まさか、まさかね。そうであって欲しくないよ。
「ははうえ、ぼく……」
ロカはそんなことを考えて黙りこんでしまった私の袖を引き、不安げな顔でこちらを見て呟いた。
「なんだい?」
「……いいえ、なんでもありません」
なんでもないなんて顔してないくせに、そう言ってロカは黙り込む。私はロカに視線を合わせ、腰をかがめてその前髪を撫でてやった。
「どうしたんだい」
「……ぼく、ぼく、ははうえとちちうえのこじゃないの?」
真剣な顔で尋ねられた質問に、私は顔を強張らせた。
「どうしてそんなことを言うのさ」
「だって、きのうあのおとこのひとがいってました。ぼくはぼくのこだって」
「気にせずお休み。今日はもう疲れただろう」
ぽん、と頭に手を乗せ、私はロカに優しくそう言う。ロカは首を振った。
「ひとみも、あおいひとみなんてははうえもちちうえもちがいます。かおだちだって、ぼくとあのおとこのひとはよくにている。ちがうの?」
「……お休み、ロカ。その話はメリエルがやってきた時にちゃんとしよう」
「……ちちうえはまたおうちにきますか?」
「どうしてそんなことを訊くのさ。来るに決まってるだろう……」
語尾につれ声のトーンが落ちて行く。来るさ。決まっている。――本当に?
「お休み、ロカ。もう寝るんだよ。いい子にして待ってればメリエルはやって来る。その時にちゃんと話をしよう」
「はい……」
ロカは丸い瞳を少し細めて、うとうとと船を漕ぎ始めた。私はロカを抱き上げるよう従者に言って、二階まで階段を従者と侍女と眠るロカを連れて上がる。ロカの私室までの距離は長く感じて、ここにメリエルが居ないことが心細くて仕方なかった。
メリエルが来なくなって、一カ月が経とうとしていた。マリアが何か去り際に不穏なことを言っていたけれど、この一カ月は有難いことに何もなかった。マリアが顔を見せることもなかったよ。よかった――と思うのは卑怯だろうか。ロカは私に告げた悲しい質問を忘れたかのように元気に本を読んでいる。応接間を使う時間が長くなったような気がするのは気のせいだろうか。自室に居る時のほうが格段に少ない気がする。メリエル、あんたを恋しがっているのかもよ。表面に出さない様にするのは五歳の子どもにとってどれほどの苦痛だろうか。
「メリエルの様子は? あなた達は王都に行くことはあるのかい」
「ありますが、王宮でのメリエル様は困った様子でした。ここに来れない理由にも口をつぐんでしまわれて」
「私は訊く前に逃げられてしまいましたわ。噂ですが、マリア様が此処の領土の権利を握ったのだとか」
「――マリアがここの領土を?」
ここの権利を握った? それはつまり、ここはもうメリエルの領土ではなくマリアの領土だと言うことかい? そんなことが出来るの? 第一王位継承者というのは本当に恐れ入るね……もうやめておくれ。私の何があんたをそこまでさせるのか。その話が仮に本当だったら、きっと莫大な金を出したのだろう。あんた、そう言えば言ってたね、兄上と競ったってさ。何を競い合ったのかは知らないと思っていたけど、この話で合点がいったよ。領土の権利をメリエルと競って、握って、私ひとりを探すために走り回ったんだ。馬鹿だね。本当に、本当になんであんたってばそこまで馬鹿なんだい。
「……頭が痛くなってくるような話だね。根拠はあるのかい?」
「メリエル様が見えられないのが一番の根拠です」
「メリエル様が見えられないということは、つまり、やっぱりマリア様がここの領土の権利を――」
侍女たちの噂話の声はそこで途切れた。視界が暗転し、頭が鈍く痛む。私は近くの壁に手をついて、はあと深い息を吐いた。侍女の一人の声が聴こえた。
「ミーシャ様! 大変、お医者様を! 誰か!」
「私、呼んできますわ!」
侍女の一人の優しい体温。壁に付いていない方の手を握ってくれているみたいだ――安心するよ。ありがとう。
「医者はいいよ。ちょっとした立ちくらみだ――もう治った」
苦く笑い、壁についていた手を頭に添えて私は言う。視界はもうクリアで、私に付いてくれた侍女の顔が見える。
「――に医者は呼ばないよう言っておくれ。こんなことで呼ばれたら、お医者様の方も迷惑だ」
「立ちくらみとはいえ、体の不調には変わりません。ちゃんと見てもらいましょう」
走って電話の方へと去って行っただろうもう一人の侍女の名前を言ってそう告げてみたものの、私に付いてくれている侍女はうんとは言わない。私は困り果て、はあとまた深いため息をついた。
「ただの偏頭痛ですよ。それに立ちくらみ」
「ストレスからですね、今日は安静にしているよう」
寝室でお医者様から診察を受け、私は頭を掻く。ストレスね、そりゃそうだろう。それ以外に原因なんてない。妊娠もあり得ないし、そのほかの病にかかるほど病弱なわけでもない。大体伝染病なんかだったら大変だしね。ロカに移ってもらったら困る。可哀相だよ。
「最近出回っている魔法の薬があるんですが、それが多分効くでしょう。どうされますか? 使います?」
「魔法? 嫌になる言葉ですね。使いません。出すなら普通の薬にしてください」
「これはまた珍しい……」
お医者様は何がそんなに楽しいのか、くすくすと忍び笑い。なんだろうね、魔法を好まないのがそんなに珍しいだろうか。魔法がこの国に蔓延しているのは知っているけれど、そんなものに頼って偏頭痛を治す気にはならないよ。魔法魔法ってみなさんはすぐ言うけれど――魔法騎士団、なんてのもあるくらいだ――正直胡散臭いとしか言えないね。
「では、東の国の漢方というものを処方しましょう。副作用も少なくよく効く。これを飲んで今日は安静にしてくださいね」
「かんぽう……」
それならいつも使ってる奴だ。私は頷いた。メリエル御用達のこの医師はちょっと変わりもので、まあ生まれたばかりのロカの髪の色と顔を見てもまだメリエルとの子だと信じ切っているくらいのヤブっぷりで、でも腕は確かだという、ちょっとばかり変な奴というもんだった。新しい薬はとにかく使いたがるんだよ。魔法の薬なんて口から出てくるとは思わなかったけれど。
「それでは、私はこれで」
「ああ、待って下さい。メリエルから何か言付けなんてのはありませんか」
私はついでのつもりでそう訊ねた。お医者様は首を振り、そっと微笑む。
「メリエル様はお元気なようでね、最近は私との関わりというものがない。しかし、貴女のことは気にしていらっしゃるようでしたよ」
「私のことを気にしている?」
「ロカ様が可愛いんでしょうねえ、貴女も随分と惚れこまれている……」
私は変な顔をしてお医者様を手で振り払う仕草をした。
「ああもういいです。さっさと帰ってください」
「はい、それでは」
ぱたん、と寝室の扉が閉められる。私は侍女と二人きりになったところで、ふうと今まで腰かけていたベッドに上体を横たえた。メリエルは元気なのか。良かったよ。それだけでもロカに話してあげられそうだ。でもそれなのにどうして? と訊かれたら厄介だね。まさかマリアのことを言えるはずもないし。マリアにこの領土の権利が移ってしまった――それはつまり、メリエルはもう二度とこの領土内には入れないということだ。マリアがきっと入れさせないだろう。それくらいの予想はつくよ。
「ロカか……」
頭に手をやる。ロカ。ロカのことを考えて鬱になるなんてね。中々ないよ。ロカがマリアの血さえ引いてなければよかった。離宮に居る間だって、あんなにメリエルとは会ってたんだ、なんで私ったらメリエルと関係を持とうとしなかったのだろう。もしロカが本当にメリエルの子だったのなら、ロカ自身きっと思い悩むこともなかったよ。悩み事があるかどうかは知らないけれど、もしかしたらマリアのことなんてもう忘れてくれているかもしれないけれど……ロカももっとおおっぴらに、メリエルの子だって言ってあげられただろう。マリアの言葉なんて世迷言だって、あんたのその髪も年を取れば赤くなってくるって、言ってあげられただろう。それなのに、何故。決まっている。そもそも、マリアが私にロカを授けたところから予定外だったのだ。将来にこんなことを考えて頭を痛ませるなんて誰が想像つくだろうか。
「ははうえ?」
コンコン、と小さなノックの後、戸番が寝室の扉を開き、その背後からロカがそっと顔を出した。心配そうな顔。そりゃそうだね。母親が倒れたんだ。そんな顔させてしまってごめんよ。
「ロカ、おいで」
「ははうえ、だいじょうぶですか?」
ロカは素直に私の元へと小走りでやってきた。その手には大きなライリオン様の絵本。
「それは?」
私がそう訊ねると、ロカは少し照れた笑みを見せた。
「ぼくがははうえにろうどくするんです。きょうはははうえ、おつかれのようだから」
「読んでくれるのかい。有難いね」
うっすらと口角を持ち上げてみると、ロカは嬉しそうに頬を赤らめた。
「――歴××年……」
ロカが本を朗読する声が聴こえる。その声を聴きながら、私はうとうとと眠りに吸い込まれて行った。
「ははうえ、ははうえ」
ぽんぽん、とロカが軽い力で私の脇腹を叩く。どうやら眠ってしまっていたらしく、私はぼんやりとした目をこすって上半身だけ起きあがった。ロカは靴を脱いでベッドに上っている。そのわきにはライリオン様の本。最後まで聞いてやりたかったんだけどね。歴史物は苦手だから仕方ない。それにしたって最初の一文しか覚えてないような気もするんだけど。
「ぼく、ははうえにいってないことがあります」
ロカは、そう言うととても寂しそうな顔をした。私は首を傾げる。
「言ってないこと? どうしたっていうんだい」
ロカの頭を撫でてやりながら私が返事をすると、ロカは視線をゆるゆるとシーツの皺へと落とした。私は脇に投げ出されたライリオン様の本を取り、ロカに手渡す。ロカはそれを無言で受け取ってぎゅっと強く胸に抱きしめた。
「ぼく、ぼく……このあいだ、そとであそんでいるときに、あのおとこのひとにあいました」
「なんだって?」
ロカの告白に私は驚いて目を丸くした。声をつい尖らせてしまって、今度はロカがびくりと肩を震えさせる。私はああまずいと思いなおして、出来る限り平坦で優しい声に変えた。
あのおとこのひと、というのは十中八九マリアのことだ。マリアと会っていた? 私の知らない間に? 嘘だろう。やめておくれ。
「……そうかい。それで?」
私が話を促すと、ロカは下げていた視線をゆるゆると私に向ける。その瞳は泣きそうだ――マリアは、この子に一体何をしたんだろう。
「ぜんぶ……ききました。ははうえがりきゅうにいたことも、そこでぼくができたことも、ちちうえとははうえのことも、ぜんぶ」
「全部……」
くらりと眩暈。マリアはなんてことをしてくれたんだろう。この子はそれを今までずっと黙っていた? ずっと? いや、それよりも、あんなぐちゃぐちゃに混ざって意味のわからない話、この子には分かったのだろうか。本をずっと読んでいたんだ、分かったかもしれない。
「あのおとこのひとが、ほんとうのぼくのちちうえで……あのおとこのひとは、マリアさまだって」
ロカはそこで口を閉じ、深く鼻から息を吸って吐いた。意を決した顔をして、こちらを再度見る。
「だいいちおういけいしょうしゃの、マリアさま。ぼくは、ライリオンさまとおなじで、おうさまとしょうふのあいだにできたこだって。ははうえは、それをかくしてるって。でも、マリアさまはむかえにくるっていってました。ちかぢかおうとでパレードをするから、そのときに」
「……その時に?」
「……そのときに、ここにもばしゃをはしらせて、ぼくとははうえをおうきゅうにまねいて、ほんもののおうじさまとそくしつにするって」
「馬鹿な話を……」
私はロカの頭を掻き抱いた。ぎゅっと力が強くなってしまう。ロカはぽろぽろと涙を流し始めた。じんわりと涙の冷たさがドレスの絹を縫って胸辺りにしみ込んでくる。ロカは私を少し手で押し返すと、泣きながら言葉の続きを発した。
「ぼくは、ほんとうはおうさまのこだったんだ。ちちうえのこじゃなかったんだ。だからかみのいろも、かおだちもちがったんだ。だからちちうえも、ぼくがどれだけいいこにしててもこのいえにきてくれないんだ……ぼくとちちうえが、ちがつながってないから……」
「ロカ……違うよ、違う。そうじゃないんだ」
何て言ってやればいいんだろう。そうじゃない。メリエルは確かにロカを愛していた。最初から血がつながってないなんて分かり切っていたことだった。それでも愛してくれたんだよ。心の底からだ。ここに来れないのも、ロカと血がつながってないことが分かったからなんて理由じゃない。マリアが来れない様にしているんだ。きっと私を側室にして、ロカを王子にしたいがためだろうね。邪魔されると分かっていて入れるほど馬鹿じゃないってことだ。まだ桃色の髪に執着している、なんてことは、まさかないよね?
「血がつながっていないのは、そうさね……本当のことだ。でもね、でも」
ひっく、としゃくりあげるロカの目元をこすってやる。侍女がハンカチを持って来て、ロカの鼻水をぬぐった。そこでハッと侍女たちの存在を思い出したけれど、もう遅い。そんなことより、今はもう最優先の事項が変わっているのだ。
「メリエルは、最初からそれを知っていたよ。知っていた上で愛したんだ。あんたをね。だから、今はどうしたって来れない事情があるんだけど――それさえなくなれば、きっと……また、会えるから。あいつは、会いに来るから」
――だからそんな悲しいことを考えて泣かないでおくれ。メリエルが一番悲しがるよ。俺の愛は届いてなかったの? って、あいつらしい気障な言い方でちょっと困った笑みを浮かべるだろう。そんな顔させたくないし、ロカにもそんなことで泣いて欲しくない。私はロカを再び強い力で抱きしめた。
「会いに来るから……」
それしか言えず、私はロカと一緒に涙を少し零した。泣き虫な子だね。誰に似たんだろうね? きっと私だ。私に似たんだ。腹を痛めて産んだ我が子だよ。血は私としか繋がってなくても、育てたのはメリエルも一緒にだ。この子の父親はメリエルしかいない。例え血が繋がっていなくても、この子はメリエルの子だ。
「大丈夫だよ、ロカ、大丈夫だよ」
そう言って、私はロカと一緒に散々泣いた。
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