ライリオン様がまた戦地へと出て行く時、王都では小さなパレードが行われた。騎士たちがそろってやっているのだと言うそのパレードはマリアなど王室が直に出てくるものよりも小さくチャチであったとはいえ、そこに集まる民衆の輝いた顔と来たらすごいものだった。あんなに皆活き活きとした顔をするものなんだね。その隅で馬車を止めて見ていた私とメリエルは、その民衆の様子に顔を見合わせた。メリエルはどこか悪戯っぽい笑み。こいつのこの顔は標準仕様だ。

「兄上のおかげで最近は教会に脅威と思われてるみたいだよ、王家はさ。王妃様はお冠だ。父上と並んで座っているときにはおくびにも出さないけどね。噂ならいくらでも流れてくる」

「将軍職が板についてるんだね。羨ましい話だ」

「その子がそういう風に、なにかで活躍してくれる未来があるなら王宮に入ってもいいと思うかい?」

 メリエルの問いに、私は無表情だ。用意された答えを用意されたまま答える。

「それでも赤毛のお姫様に恨まれて疎ましがられるなら入れたくないよ。存在が知られたならそうあればいいと思って入れることもあるかもしれないけど、今のところの私の願いはこの子が誰の子がばれないことだね。あんたの子であればいいと思ってるよ、私は」

「つまり桃色の髪の女の子を願っているってわけか」

 私は顔をそらし、外へと向ける。わあわあとうるさい声。でも耳触りではないよ。喜んでいる声だと分かるからね。ライリオン様、ご無事で。ライリオン殿下、また勝利してくださいね。ライリオン様は民衆受けがものすごく良い。気持ちは分かるよ。一番民衆に近い王子だからね。ただスラム出身の母親ということで見下す連中もいるようだけどほとんどがやっぱりというか貴族だ。もうこれは仕方ないだろうさ。……やっぱり子はメリエルの子としてメリエルの持つ領土とやらでのんびり過ごしたいよ。桃色の髪で女の子。男の子だと桃色の髪でも王子様だからね。女の子を願うのは仕方ない。つまらない親でごめんよ。この子もきっと窮屈だろうね。

「子の名前は考えた?」

「女の子ならロカさ。男の子なら……どうしようかね」

「その名前はもしかして妹君の?」

 私はそのメリエルの問いに、メリエルの方を振り向く。頷いた。

「そうだよ。妹の名前だ。ロカ。桃色の髪で女の子だったらロカだ。金髪だったらまた変わってくるかもね」

「君も存外悪趣味だ」

「そんなことはないさ。きっといい子に育つ」

 母親が問題だけど、父親がメリエル、あんたなら丁度良く能天気な良い子に育つ気がするんだ。片親で育てる勇気はまだないよ。でも準備しとかなくちゃいけないね。もちろん心の準備さ。メリエルには頼れなくなるかもしれないんだ。

「ライリオン様には子はいるのかい?」

「いないよ。多分娼婦と遊んだこともないんじゃないかね。教会との条例締結に使われるんじゃないかって話だ。何、教会の聖女様とご婚約なさるそうでね」

 教会というのはアマリア教という国教の教会のことだろう。というかそれしかないね。王族と教会の戦いは長く続いていて、王様は教会の一番偉い、神とあがめられている人物――祈師(いのりのみこ)様という年端十五もいかない幼い少女だ――を欲しがっている。教会も手中に収めれば天下統一したも同義だからね。噂によれば祈師様は神通力を持っているそうだけどなんだかなという話だ。信じられないよ。スラム出身者には遠い話でも、貴族たちの中には熱狂的な信者もいる。そういうのを全部統一してしまって力を手に入れるのが王様の狙いってわけさ。ライリオン様はその第一線で戦いながら、教会の聖女――祈師様の妹だ――との結婚を望まれている。なんだかね。良いように使われているだけなのか信頼されているのか。王様が可愛がっていて、側近の役目を買って出ていた時期もあったという話だから可愛がっている、の方向なのかもしれないけど政治の道具にされているようにしか見えないよ。私の子もマリアの子だとばれたら将来そうなるのかな。嫌な話だ。

「しかし聖女様といえば十四も満てないだろう? ライリオン様の年は?」

「俺と同い年」

「年が離れすぎているだろう」

「まあ深く考えてはいけないよ。歴史から見れば三歳で嫁入りした姫君も居るくらいだ。十四、十三とくればまあ大きな方だろう。実際俺の正室も嫁入りはそれくらいだったよ」

「なんだかね。早すぎないかい」

「君も娼婦になったのはそれくらいだったろう?」

「まあね……」

 頷き、頭を掻く。桃色の髪は伸びて、もう肩について少し垂れるくらいになっていた。美しさは妹より変わらないかそれ以上だ。なんにせよ手入れが良いからね。メリエルがよこした侍女は腕が良い。正式に言えば私が遊郭に入ったのはもっと早い年頃だった。売られるくらいの年齢だから小さかったよ。まだ全然ね。それからしばらく遊郭式の教育を受けて、ちゃんと娼婦として使われ出したのは――数えてみればここ数年になるのかな。それが随分長い期間だったような気がするのは妹がいても不幸だったからか。なんだかね。妹がいても不幸だった、なんて考えたくないけれど、つまりはそういうことだろう。ここ数カ月はとても早いよ。早くて長い。どっちつかずだ。でも腹の子が大きくなるのは随分早い気がする。なんでだろうね? 母親の気持ちになれないまま生まれてしまいそうな、そんな変な怖さがあるよ。メリエルが母親の顔になってきたと言っていたから、私は私が思っているよりこの子の母である、という認識が出来ているのかもしれないけれど。

「そういえば、最近妹君の夢は見るのかい?」

 メリエルが不意に訊ねた言葉に、私はメリエルの目を見た。優しい瞳。そういえばメリエルに妹が泣く夢を見なくなったという話をしたことがあったっけ。もう遠い過去のことのように感じるよ。

「見ないよ。全く見ない」

「そうか。それはなにより」

 せめて一緒に笑ってる夢でも見れればいいのに、あの子は全くと言って良いほど私に顔を見せなくなった。もしかして安心しているのかもしれないね。何に安心しているのか分からないけれど、きっとこの世にまだあの子が居たのなら、私のお腹をさすってくれたかもしれない。赤ちゃんの名前を一緒に考えよう、だなんて素敵な提案をしてくれたりしてね。……あり得るよ。なんでこんなに切ない気持ちになるんだろう。それがマリアだったらとまた考えてしまうからだろうか。本当なら私は一人で考えるよりマリアに相談しながら考えたかった。この子が出来たときの状況がどんなであったとしても、この子の父親はマリアなんだ。それは何度私が違うと首を振っても覆られないもの。父親の欄にメリエルが名前を書いたとしても血はマリアと繋がっている。メリエルも繋がっていないことはないけどマリアのほうがより濃くね。だから一緒に考えたかった。出来ることなら傍に居たかった。でも王子か姫にされるって思ったら尻ごみしてしまうんだよ。嫌だからね。乳母に盗られるのではなく私の手で育てたい。マリアと一緒に普通の家に住んで普通の生活をして、普通に。そう、普通に。でも叶わない望みだね。分かってるんだよ。

「本当は三人で笑ってる夢とか見たいんだけどね。見るのはマリアがこちらを睨んでる夢ばかりさ。私はそこから逃げ出すんだよ。もう何度泣いて目が覚めたか分からない――嫌な話だ」

「三人で笑う夢ってのはマリアと妹君と君の三人かい」

「わざわざ訊くんじゃないよ、こっぱずかしくなるだろう」

 夢見がちなのは分かっているんだ。それでもそんな未来があったらそれが欲しいんだよ。夢の中だけでもいい。逃げ出す夢なんてもう見飽きたし気分も悪い。お願いだから笑っている夢を。夢の中だけでも幸せにしておくれ。

「いやはや、良いんじゃないかい? 幸せになりたいと願うのは当たり前のことさね。マリアと妹君に挟まれて笑っているなんて幸せの最骨頂だろう」

「……そうだよ。嫌な話だけどね」

「嫌な話とは言わないさ。愛する者に傍に居て笑っていて欲しいと思うのは恥ずかしいことじゃない」

 最近こいつがなんで女をたらせるのか分かってきたよ。――言うことがいちいち寒いんだ。

「愛する者、というのはやめてくれ。頭が痛いよ」

「これはこれは悪かったね」

 メリエルは肩をすくめてオーバーリアクション。一発殴ってやっても罪にはならないよね?

「――兄上の話に戻すけどね。兄上は聖女様を自分の正室に迎えるのを喜んでいるらしいよ。政治に使いたいならぜひ、とこうだ。父上に頭が上がらないどころか崇拝してるもんでね。父上のためとなるならなんでもする、という気持ちらしいんだ。それに騎士たちが賛同してこのパレードだよ。戦争の相手の妹君が正室になるなんて俺なら気分が悪いけどね」

「喜んでいるとはまた言いすぎなんじゃないかい」

「そうかもね。でも間違ってはいないと思うよ。兄上は父上のためになるならそれがどんなことでもするんだ。昔からそうだった」

 そう言うメリエルの顔は冷たい。なんだか、王族の皆さまは自分の家族の話となると冷たいよ。他人行儀なんだ。らしい、らしいってそれがまるで自分に全く関係のないことみたいに言う。普通自分の兄や弟が誰と結婚するとか、子どもが出来たとか、戦いに出て行くとかには敏感になるはずなのに。腹違いだから? でもそれだけじゃない気がするよ。きっと離宮で別々に育てられたというメリエルの言葉にヒントがあるんだろうね。つまりそういうことだ。兄弟でも赤の他人と変わらない。そこに愛情なんてない。第三者でいるんだ。いつまでも。

「……あんたたちは冷たいね」

「そうだね。王族なんてこんなもんだよ。……やっぱり君の子をその中に入れるのは気が引けるね」

 メリエルは外を見つめていた瞳をこちらへ向けて苦く笑って見せる。私はふとお腹をさする手を止めた。もうふっくらと形を表し始めたお腹。今「赤ちゃんがいるの?」とマリアに訊ねられたらどうしたっていないとは答えられないだろう。それくらいには成長している。目立たず生まれてくれればよかったんだけど、そんなことまで願うのは酷いよね。ごめんよ。

「願わくば、女の子を。桃色の髪の女の子だ。名前はロカ。きっと美人が生まれるよ」

 そんなメリエルの言葉に、私は涙を一粒、零しそうになった。


「僕の子どもなんでしょう? 僕に渡してよ。どうして兄上が父親なのさ」

「そんなこと言ったって、あんた、取ったらそのまま王宮に入れるつもりだろう。御免だよ」

「……当たり前のことをごちゃごちゃと。その女から子どもを奪え!」

 マリアが指図すると、何もなかった空間から沢山の騎士たちが飛び出してきた。マリアの紋章を掲げた騎士たち。その騎士の波に飲まれ、あっけなく私は私の手から赤子を奪われる。叫んだって何したって取り返すことはできない。

「……やめておくれよ!」

 叫んで、飛び起きた。真っ暗な部屋。はあはあと私の動機だけが激しい。……夢か。夢だ。なんだ。

「なんだ……」

 頭に手をやり、はあ、と息を大きく吸って吐き、俯いた。見えるのは柔らかな生地の毛布だ。メリエルがよこしたものではなくこの家に元々備え付けてあったもので、結構暖かなそれは私に安眠をくれる――高確率で私が変な夢を見るから、あまり意味はないのだけれど。この間はマリアに睨まれて逃げ出す夢、今度はマリアに子どもが見つかって奪われる夢。妹が泣く夢を見なくなったからと言って私には安眠は訪れないらしい。たまに良く眠れる日もあったけど、そんなの本当に稀だ。ほとんど私が慌てて飛び起きることになるような夢ばかり。今回だって。涙が出てないだけまだマシだ。でも冷や汗をびっしょりかいている。私は寝巻のボタンを少し外して、そこから室内の空気を少し入れた。夜の空気は冷たい。ひんやりとしたそれに少しだけ癒されて、私はまたはあ、と大きなため息をついた。

「どうかされましたか」

 ばたばたと、侍女が慌てて走ってくる。私はああ、いや、と片手を軽く上げた。

「なんでもない。……ごめんよ。起こしたみたいだね」

 私が詫びを入れると、いいえ、大丈夫ですと言った旨の言葉を侍女が述べる。その後侍女が部屋へと戻って行ったのを確かめて、私はまた盛大に息を吐いた。こうやって侍女を起こしてしまうことも多々ある。本当に迷惑な女だと思うよ。でも仕方ないんだ。最近癖になってきている気もする。縁起でもないね。やめておくれ。

 ふっくらと膨らんだ、お腹の辺りを毛布の上からさする。この子を奪われる夢だなんて。睨まれて泣いている夢のほうがまだましだ。……顔が似ていなければ良いね。そうすればメリエルの子だと言い逃れができる。望むのは桃色の髪の女の子だ。駄目な母親でごめんよ。でもそれしかあんたを守るすべを考えつかないのさ。田舎にもぐりこんだところで仮初、仮初、仮初。全て仮初。金髪の男の子で顔が似ていたら最悪だ。逃げ出したところでいつか捕まるだろう。田舎暮らしでもマリア様に似ている男の子がいる、と噂になる可能性だってあるのだ。考えすぎかな? でもこの子についてはどれだけ案じても案じ足りないような気がするんだよ。それだけ怖いんだ。奪われるのが怖い。王宮になんて入れられたくない。この子と離れ離れになって飼い殺しなんて酷過ぎるよ。そんな未来だけは訪れて欲しくない。そんな思いがこんな夢を見せるのか。残酷だ。

「マリア? 以前言った通り何も動く気配は見られないよ。安心していていい」

「そうは言ったって嫌な夢だったよ。まだうすら寒い」

 今日も訪れた陽気なメリエルにその話を聞かせると、彼は簡単に答えた。私はぶるりと身震いして返答する。

「心配しすぎさ。なるようにしかならないよ。以前君もなるようにしかならない、だから私はその流れに身を任せるって言ってたじゃないか。賢い生き方とはつまりそういうことさね」

「賢い生き方ねえ。じゃあ私が今しようとしていることは賢くないってことになるね」

「君がしていることも充分流れに身を任せてるも同義だよ。俺の子かそうでないかは充分流れに身を任せているだろう?」

「そういうもんかね」

 メリエルが目をくりくりさせて問う。私は重苦しい表情で言った。なんだろうね、この王子は時々本当に明るく物事を考えているんだなと尊敬したくなるときがあるよ。……殴ったことがそう言えばあったね。あの時はあの言葉が許せなかったけれど、今ならなんとなくあの時メリエルが言っていたことも本当だったら良いな、明るい方向に考えてたんだなって思うことがあるよ。マリアが好きだと認めたからだね、きっと。それでもあの子の墓向かって――墓があれば、の話だけれど――それを言うことは出来ないけどね。

「流れに身を任せてる任せてないはまあいいとして、やっぱり男の子だとまずいわけじゃないか。女の子だって顔立ちがそっくりだったら言い逃れ出来ない。桃色の髪の女の子が生まれても、あんたの領土に越すことは出来るかい?」

「もちろんさ。ただ、どうしてとマリアに訊かれる危険性があることだけは心得ていてくれよ。その時の対応も俺に任せると言うならそうするけど、その後の責任までは見れない。王宮に盗られる確率が上がる可能性がある。王都で大人しく生活してる方が身のためかもしれないよ」

「……そうだね。そうだ」

 頭に手を置き、小さくため息をつく。王都から逃れたいのなら女の子か桃色の髪の子を望むしかないのか。メリエルに頼らないという心づもりをしなければならないと言うことだ。メリエルを頼るのなら王都に身をひそめるしかない。辛いね。どうしたって私に優しくない結果だよ。やっぱりこの子を宿らせたマリアに文句を言ってやりたいけど、この子のおかげで今私は生きている。矛盾しているね。でも仕方ないことだ。どうしたって起きてしまったことはもうやり直しが利かないのだ。この子が出来たのなら仕方ない。それを受け止めるとあの時決めたのも私だ。ほとんど諦めの感情だったとしても、私はこの子を身ごもる直前にこうなることを予感していたはずだ。それから逃げないと決めたのだ。だからこの子がもう流せないところまで育ってしまった。なにもかも、反省するにはもう遅いんだよ。反省するくらいだったらさっさと小さなうちに流してしまえばよかった。飼い殺し中だったとしても何かしら方法はあったはずさ。私はこの子を授かった日付を知っているのだから、小さいうちに流してしまうことも出来た。それをしなかったのはなぜ? 何故だろうね。私もがらくたの愛の結晶とやらが欲しかったのかもしれない。ここにマリアと私が居て、マリアから見れば片思いだというちぐはぐな関係だったとしても、愛があったのだという証明。そんなものを欲しがったのはマリアだけじゃなかったから今がある。それから今更逃げようとするなんて卑怯以外の何物でもないよ。

「お腹の子は、男の子か女の子か。どっちかな」

「女の子が良い、と言うのもおこがましいね。可哀相だ」

「それくらい許されるさ。……俺たちは汚れすぎたね」

 メリエルがふとそう言う。悲しそうな顔。初めて見る。悲しそうと言うより切なそうと言った方が正しいかな。なんだか、そういう顔だよ。この子のことを考えるたび、私たち二人は少しずつ汚れて行く。この子を王宮から守ろうとするたび少しずつ。それは逃れられないことだし、逃れようとしてはいけないことだろう。窮屈さね。でもそれすら受け止めないと前には進めない。後退も交代も出来ないんだよ。私は私が前に進むしか出来ない。この子を他の女に任せることもしたくない。だからこそこうやって、マリアにメリエルの子だという嘘をついてまでメリエルに匿われている。同じ都にマリアがいると私が思うだけでも辛いのだ、マリアときたらどれだけ辛いだろうね。王都から追い出そうとしないのはなんでだろう。分からない。マリアの考えてることは離れてしまった今ちっとも分からないよ。元から考えを読ませない奴だったけど、ますますさ。

「マリアは何を考えているんだろうね。裏切った女が同じ王都に居るなんて許せないだろうに。あいつの立場なら、私のことを子どもごと殺してしまうことも、どこか遠くの荒れ地へ送ることも出来るんだよ。それをしないのはなぜだろう?」

「何、簡単さ。マリアがまだ君のことを好きだからだよ。殺すこともできない。でも自分の管轄外のところに飛ばすこともできない。俺の娼婦となった君をただ指を咥えて見てるしかね。悔しいだろうさ。辛いだろうね。でもそうなんだよ。きっとそれだけの話さ」

「じゃあ私は酷い女ということになるね。知っていたけど、なんとも言えないよ」

「そうだね。君はマリアにとってこれ以上ないほど酷い女だろうさ。でも憎めないんだよ。その証拠に全く手出ししてこない。せいぜい嫌味を言うくらいだ。どれだけ愛されていたか身に染みる思いでいるべきだよ、君は」

「あんたは時々嫌になることを言うね」

「俺が正直者だってだけさ」

 メリエルは気取って言う。でも分かっている。ふざけて気取った振りを見せるのはメリエルのスタイルだ。こいつはこうやって何事にも軽い素振りをして、女をたぶらかしてきたんだろう。下町の女に本気にさせない技術。それがメリエルにはある。ただそれがマリアには無かったんだろうね。あっちへやってこっちへ、という簡単な動作がマリアには重かったんだ。その結果が私の恋心さ。そして赤毛のお姫様の恋心。煩わせるだけ煩わせて本人は気付かずぽい。なんて酷い話だろうね。気付いてないのなら仕方ない気もするけど、メリエルがマリアの立場だったら絶対私の恋心に気付いたと思うよ。マリア、あんたはきっと人の好意に鈍すぎたんだ。可哀相な話さね。

「どれだけ愛されていたか、か。あいつも私がどれほどあいつのことを――いや、言わないでおこうかな」

「そうだよ。言わないでおこう。さ、今日はどこかへぱあっとでかけないかい? 面白い劇があってね」

「また娼婦物だったら行かないよ。マリアが来てるかもしれないし、気分も良くない」

「娼婦じゃないよ。マリアの興味なさそうな演目さ。事実今日観に行くというスケジュールも聞いてない。あんなことは一度きりだと思っておきなよ。もう起こらないさ」

「そうかね。だといいんだけど」

 そう言って、私たちは席を立った。


「兄上はどうしても教会に攻め入ることが出来ないらしい。外堀が崩せるのに内が崩せないときた。父上も苛々しているよ。最近の王宮の空気は悪いさ。王妃様はご機嫌で、今日も宝石商を王宮に呼び寄せてたけどね」

「それはまたどうして」

「どうしてだろうね。兄上の報告によると祈師の神通力がどうとか――詳しくは寝ていたから覚えていない」

「寝ながら噂を聞いてたのかい、あんたは」

 呆れて言う。メリエルは笑っている。それにしても、王軍が有利と見えていた戦況は内側……教会の中へと侵攻しようとした瞬間崩れて来たらしい。祈師様の神通力ねえ。胡散臭い話だ。こんなこと言いたくないけど、ライリオン様は自分が出来なかったことを祈師様の神通力とやらでごまかそうとしているんじゃないのかい?

「それにしても、あんたも笑ってる場合じゃないだろう。王族なんだから皆まとめて打ち首にされるかもよ」

「されないよ。せいぜい教会が俺たちの上に立つことになるくらいだ。重たい賠償金を払うことになるかもね。最悪俺たち王子は幽閉だ。でも教会の祈師や大司教に王の立場に立つことは出来ないだろう。すぐに国民が取って代わるよ。我が国はすぐに民主主義に変わるだろう」

「あんたは楽天的なのか現実主義なのか分からないよ」

 ぽん、と軽く私が肩を叩くと、メリエルは目を弧にして笑った。まあね、と言葉を続ける。

「俺だって戦争に負けることなんて考えたくないさ。今の楽な生活が好きだからね。幽閉されるなんて御免さ。でも負けて大司教が父上と取って代わって、その後大司教が国民にやられるところを観るのは爽快だろうとも思う訳だよ。どっちにしろ楽しみがあると言える。わが軍が勝てば祈師が我が城に幽閉されその妹が兄上の正室になって終わりさ。教会としても負けた方が良いと思うけどね」

「……大司教様が民主主義になるかもしれないなんて考えるわけないだろう」

「それが問題なんだよ。冷静になれば政治なんて出来るわけないのに、大司教はそれをやりたがってるときた。面倒だね。その結果がこの戦争だよ」

 私は、先程道を行くときに配っていた号外を握りつぶした。ライリオン様がまた勝ったっていう号外だよ。好きだね皆。でもそれは外堀のことで、メリエルに言わせてみれば仮の勝利に過ぎないらしい。その続きが今の会話だ。政治をやりたがってるなんて大司教様ももの好きだね。何もせずに宗教の看板を背負って上に立ってるだけのほうが楽だろうに。聞いた話によると、祈師様は大司教様に操られているそうだよ。まだ年端の幼い少女だから仕方ないさね。しかしそれなら膨大な富を手に入れているだろうはずなのに、どうしてもそれ以上が欲しいらしい。人の欲ってのは尽きないもんだ。そのついでに目ざわりだった王族も潰してしまおうという魂胆だろう。国一つ牛耳ったところで幸せが手に入るとでも? 幸せってのはそんなところに転がってないよ。……お偉い方の考えることなんて分からないね。

「父上は政の英才教育を受けてきただけじゃない、その才があったから今があるのさ。大司教にその知識も才能もないだろう。やってみないと分からないとはいえ、多分今座ってる席が一番似合ってるよ。それを分かってもらうには俺の言葉じゃだめなんだ。兄上のように実力行使でいかなくちゃね」

 メリエルはふらふらとフォークを振る。その目の前には紅茶と共に出されたケーキ。この家の台所番が作ってくれたもので、なかなか美味しい。侍女や従者は中々の名の通った貴族の家出身の者が多いのだけれど、台所番というのはその逆で貧乏な家出身の者が多かった。トップは違うよ。さすがにね。でも下っ端は貧乏な家出身の子どもだ。暮らせているだけ有難いと思うべきだよ、とメリエルはいつか言っていたけど、やっぱり子どもをそうやって使うのは気分が良くないね。……甘んじている私が言う台詞じゃないけれども。

「実力行使ってのが戦争かい」

「どうも聖騎士にも軍事に秀でた者はいないらしい。我が国の騎士団は優秀だね。兄上も軍事の才能がある。負ける気はしないけど教会に攻め入れないとなるとどうなるか分からないね。これからさ。民衆はもう王国軍の勝利モードだけどね」

「その教会に攻め入れない、の意味が分からないよ。本当に祈師様に神通力があるとでも言うのかい」

「さあ。それを知るのは騎士たちと兄上だけだ。まあ兄上が父上に嘘をつくとも思えないから本当だと思うべきなんだろうけどね。青旗という魔法騎士団もわが軍にあるんだよ。神通力とやらが本当にあっても不思議じゃない」

「前々から思ってたんだけどその魔法騎士団とやらも相当胡散臭いよ」

「俺も同意見だ。しかし戦地に赴いたことが無いもんでね。その手の場所に行ったこともない。謎は謎のままでいようじゃないか」

 紅茶のカップを掲げ、メリエルは呑気に言う。本当に嘘っぽいことばかりだよ。魔法さえあれば今の状況もなんとかなるのかな。今更魔法とやらに頼る気もないけれど。それに、魔法なんて掲げてるだけでその実詐欺だったって話もよく聞くよ。それに頼るほど馬鹿じゃないつもりだ。王様は頼ってるんだね。騎士団と言うことは本当にあるってこと? 信じられないね。でも私も戦地に行ったこともなければその手の技術を観に行ったこともない。嘘とも本当とも言えないのさ。

 謎は謎のままで。そうだね、そのままでいようか。何を考えたって見てみなければ始まらないし、ここまで上り詰めたとはいえ娼婦の一人に違いはない私みたいな女にそんなことが身近に起きるとも思えない。謎は謎のまま。それでいいか。仕方ないよ、気になるけどこればかりはね。それに知ってどうするって言うんだい。この子を女の子にしてもらう? まさか。自然に逆らう何てそっちの方が可哀相だ。金髪の男の子でも魔法やらなんやらで桃色の髪の女の子に変化させるよりマシだ。

「あんたは魔法とやらを信じてないのかい?」

「信じてないよ。君もだろう」

「そうだよ。私もだ。魔法さえあればこの子を女の子に変えてもらおうかとも一瞬思ったけど――そっちの方が金髪の男の子を生むより罪深い気がしてね。そんなものは無い方が良いよ」

「君は本当にかしこいよ。世の中にはそんなものに頼って妙な薬を高額で買う貴族も居るんだ。その手の収集家だっているし、父上も長生きの妙薬とやらを探してた時期もあった。今は青旗で満足しているけどね」

「青旗の騎士団長は王宮魔術師だったか」

「そうそう。よく知ってるね。枕物語にでも聞かされたかい?」

「よくわかったね。遊郭に居た頃と出た頃、両方で政治の話を好む男と寝たことは五万とあるんだ」

 自慢にもならないけどね。でもそこら辺のなりたての幼い娼婦よりは知識量があるつもりだ。比べる対象がしょうがないね。でも王都近辺の貴族付きの立派な娼婦たちとは比べる気も起きないほど知識がないからね。仕方ない。

「スラムでの政治の話か。気になるね。どんなのだい?」

「あんたがたが聞いているのよりもっと薄汚れたものばっかりだよ。やれ税金が重いだの食料がないだの王様への悪口ばっかりさね。ただライリオン様はスラム出身の母親の子だったからか人気があったよ。あんたの話はほとんどなかった」

「それはそれは。スラムに顔が知れているのなんて第一王位継承者のマリアくらいかい?」

「そうだよ。マリアの肖像画はスラムのいたるところに貼られてた。落書きされてるのも破かれているのもあったよ。様々さ」

「落書き?」

「言えないような言葉ばっかりさ。品性が問われるけどそんなものない世界だからね。聞かない方が良い。特にあんたみたいな育ちのいい王子様はさ」

「そうかい。それはマリアも気の毒に」

 そう言って、メリエルはケーキをひとかけら口に入れた。全然気のどくそうじゃないよ。やっぱり家族の話は興味のある振りしてるだけだって分かるほど冷たいね、あんたもマリアも。マリアは興味がないとはまた別そうだったけど、やっぱり家族の話にはピリリとした冷たい感情が含まれてたよ。……寝物語にメリエル、あんたのことを話すこともほとんどなかった。あんたはマリアの話をよくするけどね。興味が無いんじゃなくてマリアのあれは嫌悪に近かったよ。どちらにしろ家族に向ける感情じゃないね。

「第一王位継承者であるマリアが生まれた時、王都ではそりゃあもう盛大なパレードが行われたんだよ。知ってるかい? 君はマリアより年下だから知らないかもしれないね」

「私は王都出身じゃないよ。人売りに売られて此処に来たんだ。そんなパレードの話は知らないね」

「そうかい。君も苦労したんだね」

「そうだよ、現在進行形で苦労している」

 そう言ってむっつりとケーキをフォークで一口サイズに切る私にメリエルはけらけら笑う。メリエルみたいにあっけらかんと明るい笑いをしてみたいんだけどそのやり方が分からないんだよね。こんな無愛想だからろくな客がつかなかったことを思い出して、私はちょっと陰鬱になった。マリアは特殊だ。貴族の他の男と寝たこともあるけれど、笑わない私なんて用はないって感じで一回でぽいだよ。金もそんなにはずんでもらえなかったね。妹は私と逆でよく笑う子だったから客もそれなりについてた。中には本当に妹のことを好きになってる奴もいるみたいだった。それはそれで苦労したんだろうけど、やっぱり私はちゃんと笑えてた妹が羨ましかったよ。

「不幸体質とでも言うのかね。大体私は不幸ばかりだったよ。マリアに拾われたのは奇跡だと思ったけど、こうなってみるとマリアも不幸の元凶だね。この子はどうなんだろう。幸せをいい加減運んで来てくれるひとが出てきてもいいと思うんだけど」

「新しい男でも見つけるかい? 貴族を紹介しようか」

「馬鹿。私はあんたの娼婦なんだよ。表向きとはいえ新しい買い手がつくはずが無い」

「それもそうだ。じゃあ俺も元凶だね」

 そう言うメリエルの顔は笑っている。なんで笑っているんだい、あんた。でもメリエルには感謝してるんだよ、これでも。言わないけれどね。この子のことを真剣に考えてくれて、力になってくれようとしている。自分の身に関係ないって私を振ることもできたのにメリエルはそれをしなかった。生来の女好きという性分のせいだったとしても有難い話だ。不幸を背負いこんでくれたんだよ。一歩間違えればマリアに目をつけられて死んでたかもしれないのにさ。幽閉だってあったかもしれない。でもメリエルは此処に居る。なんでだろうね。マリアはメリエルのことは嫌っていても、メリエルが自分の女を盗ったのだとしても、メリエルをどうこうする気はないようだった。メリエルに嫌悪感を抱いていたみたいだったから――初めて私がメリエルに会った時のあの嫌そうな顔、今でもよく覚えている――ただ単にこれ以上関わりたくないだけかもしれないけど。もしかしたらメリエルも自分に厄が降ってくることはないって知ってたのかな?

「王宮の空気が悪いって話だけどね。マリアは特にいつもと変わらないよ。王妃様がご機嫌だからマリアに災厄が振りかかることはないってことだ。父上の機嫌がそのまま通じるのは兄上くらいだからね」

「それはどっちの兄上だい。第一王子? ライリオン様?」

「どちらもだよ。ルイヤ兄上は父上の右腕だからね。ライリオン兄上はさながら左腕さ」

 ルイヤ、ルイヤ――そう言えば第一王子はそんな名前だったね。これでコンプリートだ。上から順にルイヤ、ライリオン、メリエル、マリア、セルフィウスの五人。全員王子様だなんて怪しいね。メリエルみたいに王室に入れてない女の子でもいるんじゃないのかい? そうだとしたらいいな、なんて思うのもおこがましいけれど。思わずにはいられない。この子が女の子で、そんな王様の王室に入れなかった子どもたちみたいに普通の生活を送ってくれたら――なんて。馬鹿みたいだ。

「右大臣、左大臣は他にいるんじゃないのかい」

「いるけど信頼を置いているのは自分の息子だよ」

「それもそうか。王様もとんだ親馬鹿という訳だね」

「王子の目の前でそんなことを言うだなんて、君も随分命知らずだ」

「この子が生まれた後なら処刑でもなんでも受けてやるよ」

 そう言って紅茶を呑みこむ。ケーキの甘さに紅茶の苦さが合って喉と口の中が気持ちが良い。

 この子が生まれた後なら、マリア、あんたが私を殺そうとしても私はそれを甘んじて受けるよ。この子のその後はメリエルに任せる。あんたにはどうしたって任せたくないよ。あんたがこの子に手荒なまねをする危険性もあるからね。それがなくてもあんたには任せないけれど。あんたはどうあっても第一王位継承者なんだよ。それ以上でも以下でもない。だからあんたには任せられない。この子を娼婦が産んだ子と分かっている上で王宮になんて入れたくないからね。

「まあ、俺はそれを父上に伝えるなんて野暮なマネしないけどね。君は安心していていい」

「あんたが伝えるなんてはなから思ってないよ。野暮なこと言わないでおくれ」

 そう私が言うと、メリエルは上機嫌そうにくっくと笑った。


 馬の蹄の音が聴こえて、私は玄関の扉を開けた。慌ただしい音は聞きなれなくて、何だろうと思っていればその蹄の音の主はメリエルだった。彼は颯爽と馬から降りて、私の方へと歩いてきた。私は首を傾げ、訝しげに眉根をひそめる。

「なんだい」

「マリアがこの家を割り出した。嫌に静かだと思ってたら、君が住んでいる家を探していたらしい。ことは急ぎだ。いくつか他の家を見繕ってきたから、それを見てくれ」

「……マリアはこの家を知っていて無視していたんじゃなかったのかい」

 私の低い問いに、メリエルはそうみたいだよ、と答えた。マリアも何をしているんだろうね。裏切った娼婦が住んでいる家を知らなかった? 探していた? 馬鹿みたいなことをするんじゃないよ。そうしてどうしようっていうのさ。

「王妃様のご機嫌が悪くてね。どうしたのかこっそり訊き回ってみればマリアが娼婦を側室に迎え入れようとしていると言う。悪癖は治ったと思っていたのに一度痛い目を見たくらいじゃ治らなかったみたいだって、それで王妃様が腹を立てていたのさ」

「まさかその娼婦が私かい? 他の新しい女じゃなくて?」

「そうだと思うよ。だからこそ家を探し当ててどうこうしようとしているんだろう。側室になんて入れられたらたまったもんじゃないだろう? 急いで次の家に移ろう。こうなったら俺の領土に越してくるかい」

「何言っているんだい。ここで逃げるほうが逆に怪しい」

 私の言葉に、メリエルは私の目を見た。その後すぐにそらし、黒髪を掻きあげる。

「そんなことないさ。マリアから逃げる理由は干渉して欲しくないからだけでも事足りる。それに、ただここでじっとしているのも困るだろう? 君が嫌ならいいんだけど、どうする?」

「どうしようか。私はそんなに頭が良くないんだよ。あんたに任せたい」

「そうは言っても、俺も今はちょっと頭の中が整理できていなくて……どうやら俺も少し動揺しているらしい。落ち着かせてもらおう」

 そう言って、メリエルは盛大にため息。この王子様が慌てる様なんて初めて見るよ。ちょっと芝居がかってるけどね。

 玄関で話すのもなんだから、と私はメリエルを家に入れて、玄関に固く鍵を閉めた。戸番に誰が来ても開けない様にと約束させ、侍女たちを残して応接間へと行く。メリエルが来たらいつも紅茶と茶菓子だけ置いて部屋を出て行く様言いつけてあったから、今回も侍女も従者も付いてこなかった。二人きりになったところで、メリエルは持ってきた荷物をほどいて中から沢山の家の見取り図らしき巻物を出してきた。

「一応これだけ見繕って来たんだ。マリアのその噂を聞いたのは三日ほど前のことさ。一応見るだけ見てくれよ。俺の労力が無駄になるなんて御免だね」

「そんな理由かい。あんたは本当にしょうがない奴だね。……これは全部あんたの領土の家?」

「そうだよ。俺の領土だ。王都とは遠くないけれど、近くもない。遊ぶのに適した場所を貰ったからね。そこに俺の飼っている娼婦もいるんだ。子どももいるよ。二人ともそこの娼婦だったんだ」

「なるほど。だからあんたが一向に子を見せなかったわけだ。見たくもなかったけどね」

「矛盾している」

「知っているよ」

 でね、とメリエルは巻物のひとつを机の上に開いた。

「これが一番いいと思う家なんだ。まあ見るだけ見てくれ。広さも申し分ないし、小道に入ったところにあるから見つかりにくい。最初は地理に困るかもしれないけど本当に最初だけさ。少し馬を走らせれば大道に出るような道筋もある」

「ふうん、でもやっぱりここを越すのはこの子が男の子だって分かった後さね。今は無理だよ。身重であんたの領土に行くのも無理だ。いくらマリアが私を側室にしようとたくらんでいてもね」

「流れてしまえばおしまいだと言いたいんだろう? でも王宮に入れられても終わりだよ」

「そうなんだよね……頭が痛いよ」

 頭に手を置き、私まではあとため息をつく。

「マリアが私を側室に――。それは本当に私の話かい? 他の娼婦だっていう可能性は?」

「ほぼ君で間違いないよ。そうじゃないと君の居場所を探し出す必要性がない」

「私は私の居場所をマリアが知らなかったことに驚いているよ」

「俺もだよ。まあ、告げなかったから仕方ないね。隠すつもりもなかったんだけど。堂々と俺の娼婦で居て欲しかった」

 告げなかったのかい。まあ告げる必要性がなかったからね。マリアは私を盗られて隠されて――そんな風に見える立場に居て、今までどんな気持ちでいたんだろう。考えても分からないことだけれど、私だったら発狂しているよ。そのせいであんなに……劇場で見たときのような瞳をしていたのかな? あの劇場で出会ったのが良くなかった。居場所を知らないなら知らないままでいればよかったんだ。なのにあの劇場で出会ったからこそ王都のどこにいるかが具体的に掴めて来たんだろう。マリア、あんたがそんなことに必死になるなんてね。あんたどれだけ私に惚れているんだい? 冗談だよ。やめてくれ。

 と、その時、不意に玄関のベルが鳴る音が聴こえて来た。戸番に誰か訪ねてから、私たちは顔を見合す。

「マリア様です」

「……マリア?」

 その名を呟いたのはメリエルと同時だった。随分到着が早いんだね。公務は? 赤毛のお姫様は? あんた、本気? 訊きたいことが多すぎて頭がまとまらないよ。ただこんなに早く私の家に出てきたっていうことはメリエルの側室にしたがっているという話は嘘じゃないんだろう。嫌な話だ。やめてくれよ、あんた、本当に何を考えているのさ?

「開けないでおくれよ」

「そうはいきません。マリア様からの命令は……」

「無理だよ。マリアの位は俺より上だ。いいよ、開けてやれ」

 メリエルはもはや落ち着いた様子で応対する。開ける? 本気かい、あんた。私もここにいると判断した身だ、こんなことが起こるってことくらいは理解していたけど――あまりにも急過ぎる。

 扉を開けてから、マリアがこの応接間に通されるまで、随分長い時間が経ったような気がした。マリアは応接間の開かれた戸の前に立ち、中のソファに二人見合わせて座っている私たちを見てとても冷たい目をした。

「どうして兄上がいるの?」

 第一声はこれだ。なんでって、私がメリエルの娼婦だからだよ。分かりきったことじゃないか。

「あんたは本当に馬鹿なんだね。話は全部メリエルから聞いたよ。私はメリエルの女だ。目障りだよ。出て行っておくれ」

 出来るだけ平坦な声で言う。マリアは私の方を暗い瞳でちらりと一瞥して、用なんてないかのようにさらりと無視してくれた。メリエルのほうを冷たい底冷えするような瞳で見て、その薄い唇で言葉を紡ぐ。

「ミーシャは今も昔も僕の女だ。兄上のものではない。返してもらいに来ました」

「おや、とことんミーシャのことを物のように扱うんだね、マリア」

「遊びに来たわけじゃない。冗談には付き合いませんよ」

 冗談じゃないんだけどね、と肩をすくめて見せるメリエルに私は渋い顔だ。マリアは何を言ってるんだろうね?

「ミーシャ」

 ちょっと指を動かして、メリエルが私に指図する。指の動きのまま顔を近付けると――

「!」

 マリアが固まる。私も固まった。唇に柔らかい感触――キスされた。

「ミーシャは俺の娼婦だって言っているだろう? 昔の男が迎えにくるのは見苦しいぜ。よせよ」

「……兄上」

 ぱっと唇を離し、驚く私を尻目にメリエルはマリアと対峙する。マリアは低い声でメリエルを呼んだ。メリエルはその冷たい声に何も感じていないのかと思うほど余裕だ。そういえばこいつ修羅場になれているんだっけ。マリアに歩はないよ。もう諦めておくれ。

「……また来ます。その時は正式にミーシャを僕のものにする。兄上、貴方に邪魔はさせません」

「俺は邪魔者? 邪魔者はそちらだろう」

「ミーシャのお腹の子も僕の子だ。分かっているんだよ。ミーシャ、そうだよね?」

 不意に私の方を見てマリアが問うた。私は固まる。まさか悶々と今までそんなことを考えていたのかい? それで動くに動けなかった? 馬鹿だね。あんたは本当に馬鹿だ。……そんな馬鹿なあんたを、私はもう解き放つことにするよ。これ以上は平行線で誰もが可哀相だ。辛いだけだよ。分かっておくれ。

「違うよ。メリエルの子だ。……メリエルとも繋がっていたんだ、私は」

 出て行っておくれ、と呟き俯く。マリアの顔はそれ以上見れなかったし、自分の言葉に自分がどん底に落とされるのを知って私はうんざりしていた。頭が痛いよ。なんでマリアの顔を見ながら裏切ってもいないのに裏切ったなんて言わなきゃいけないんだい。私にそこまでさせた罪は重いよ。ただ、今ここでもう引いてくれるって言うなら許したって良い。恨まずに居てあげるよ。だから、だから――。

「これで分かっただろう? さっさと出て行けよ、マリア」

「……分かりました。金髪の子が生まれないことだけを願っておくんですね」

 捨て台詞を吐いて、マリアは出て行く。長い外套が地面にすれて微かに衣擦れの音を立てた。これで金髪の子が産まれたらバッドエンドになってしまった。マリアはどこで自分の子だと勘付いたんだろう? 最初から分かっていたのかい? 私が裏切ったなんて最初から考えてなかった? 馬鹿だね。……馬鹿だ。言われた通り飲みこんでおけば、いつか赤毛のお姫様が慰めてくれる幸せな終わりもあっただろうに。どうしてそうまでして私を信じて私だけにのめり込もうとするのか、あんたの考えていることがちっとも分からないよ。

「いやはや、俺たちは少しマリアを舐めていたようだね」

 マリアが去ったあと、小さくメリエルはそう私に呟いた。


「あんたが私にキスするなんてね。本当に友情以外の感情はないんだろうね?」

 訝しげに問い詰めると、メリエルは両手を上げて降参のポーズを取りながら悪戯っぽく笑った。

「あんなのマリアに君が俺の娼婦なんだって分からせるためのポーズさ。それ以上でも以下でもない。第一、君だってもうキスのひとつやふたつにわあきゃあ言うような姫君でもないだろう?」

「それはそうだけどね。気分が悪いよ」

「気分が悪いとはまた結構な。良いじゃないかキスなんて挨拶だろう? それにあんなのキスの内にも入らない」

 挙げた手をふらふら下ろして、メリエルは自分の腰に手を添えて仁王立つ。私は片手を頭にやりつつ立っていた。

「いいから赤子の母君は腰をおろしなよ」

「そうさせてもらうよ。……ああ頭が痛い」

 唸るようにそう言う私を見て、メリエルが首を傾げる。

「また偏頭痛?」

「ストレスが多くてね。また今回も特大のストレスだった」

「気持ちがあるのはマリアだけでもないだろうに」

「気持ちがあるからこそ会いたくないんだよ。分かるだろう」

 会いたいけど会いたくない。マリアはそんな感情の中間に立っていて、どっちかと言うと会いたくない寄りだった。そんな相手が向こうからやってきたのだ。馬鹿面を引っ提げてね。これで頭が痛くならない方がどうかしている。私を側室に? 馬鹿も休み休み言いなよ。私が今も昔もあんたの女? そんな称号持ってたなんて知らなかったよ。昔は確かにあんたの女だったさ。飼い殺しにされてる名もない娼婦だった。でも今は違う。メリエルの娼婦だ。マリア、あんたのじゃないよ。物のように扱われること自体はどうでもいいけれど、今もまだ飼い主面されるのは嫌だね。気分が悪い。

 会えば、どんな気持ちになるかなんて分かりきってることだった。煮え切らない気持ちがまたふつふつとわき始めるんだよ。だから避けていた。会おうと思えばきっと会えた。メリエルは止めるだろうね。それでも会いたいと言えば訳が分からないとかなんとかブツブツ言いながらでも引き合わせてくれただろうと自負している。でもね。会いたくなかったんだよ。この子の親にあんたを選ばないと決めたその瞬間からあんたに会うのはほとんど諦めたと言っても良かった。それくらいの決心だった。でもその決心が揺らぐのを知っている。私は、知っている。だから会いたくなかった。この子の親があんたでも良いかなって、飼い殺しになってこの子が傍を離れてもあんたが居てくれるならいいかなって――そんなことを思う自分が居るのを許せなかった。だからだよ。分かるだろう? 私はもうあんたの女じゃなくてこの子の母親なんだ。母親がそんなこと思うなんて許せない。どうかしている。だから嫌だったんだ。分かっておくれよ。

「マリアも未練たらしいったらないね。まさかまだ君のことを自分の娼婦だと思っていたとは」

「本当だよね。さすがにメリエルの娼婦になったことくらいは理解していたかと思っていたよ――ほら、いつか、マリアが私たちの間柄を恋人だと言っていたとあんた言ってたじゃないか」

「そうだよ。マリアは確かに俺たちのことを恋人同士だと言っていた。でも自分の女だと思っていたんだ。俺たちがあまりにも仲良さそうにしていて嫉妬したのかな」

「その言い方は気持ち悪いね」

「君も存外酷いことを言う」

 俺だって傷つくんだよ? と言うメリエルに傷つけばいいさと返す。仲が良くて困ってるなんて戯言、寒くて震えるね。

「それにしても、側室ならまだマシな扱いなんじゃないか? 何の位も与えずにただ飼い殺しにするのとはわけが違う。塔の窓から国民向かって子を抱きながら手を振れるかもしれないぜ」

「馬鹿言うんじゃないよ。そんなの無理だって分かっている癖に」

「君の出身が良くなかったね。名も知れない村だ。しかも人売りに売られた娼婦ときてる。でも側室だぜ? 正室であるリディアの一つ下だ。待遇はかなり良いと思うけどね。自分で育てることはできなくても子と触れ合うことくらいは出来るだろうし」

「触れ合いたいんじゃなくて育てたいんだよ。我が子だ。大切な子どもだよ。見も知らない乳母に触られたくない」

「独占欲かい?」

「そうさ。そう言えばいい」

 私がふんと息を吐きだすと、メリエルは何がおかしいのかけたけた笑った。

「まあね、母親の独占欲なんか可愛いものさね。恋人に対するものとはまた違って、君のそれはすごく良いと思うよ」

「なんだい。急に慰める気になったのかい」

「慰めているわけじゃないさ。純粋に褒めている。子は良い子に育ちそうだ。母親に恵まれてね」

 メリエルの言葉に私は頭を掻く。桃色の髪は随分伸びた。今はひとつにまとめてくくっている。髪飾りはマリアに貰ったものをそのまま使っているんだけど、これを見られたのも考えてみればまずかったのかもね。髪飾りや装飾品に興味がなかったから使えるものを使っとけと思って、あの劇場で出会ったときもマリアがここに来た時も付けていたのだけれど、それが逆にマリアに自分の娼婦だと思わせる理由になったのかもしれない。今後は控えようか。かといって、メリエルの選んだものを付ける気にはなれない。……なんだ。私もマリアに対して多少の未練があったってことか。私たちは案外似たもの同士なのかもしれないね、マリア。

「母親に恵まれている、ねえ。母にも父にも恵まれた子なんて五万といるだろうに」

「そんな子は案外少数だ。どちらか片方に恵まれていれば万々歳さ。事実君も母と父の顔なんてうっすらとしか覚えてないだろう」

「ぬくもりは覚えてるさ。貧乏なりに大事に育ててくれていたよ。言ってみれば私も父と母に恵まれてたのさ。人売りに売られるまではね」

「売られてからは離れ離れだろう。その子は母に恵まれている。それで充分幸せだよ」

 私のお腹を見ながら、メリエルが妙に優しい表情で言う。私は何かよくわからない、悲しいような切ないような感情が溢れてくるのを知った。これはなんだろう? よくわからないね。でもメリエルにそう言われて悪い気はしないよ。母に恵まれている。……本当にそうならいいね。父に恵まれることも出来るかもしれないよ。メリエルは立派なお父さんになれる。事実立派な二児の父だ。腹違いとはいえね。可愛がっているらしいよ。この子もその中に入れてもらえればうれしいんだけど。

「あんたが父親だったら良いって、私はずっと思ってるんだよ。桃色の髪の女の子さえ生まれてくれればそれ以上に嬉しいことはない」

「それはそれは。嬉しいことを言ってくれる。じゃあ一緒に願おうか。それこそ祈師様にでもね」

 杯を挙げるように机に置き去りにされていたティーカップを持ってメリエルはそれを掲げた。私もマネする。かちんと音を立てて縁を掛け合わせて、私たちは祝杯の真似事をした。

「金髪の子が産まれたら男の子でも女の子でもマリアの子だ。それだけは避けたい。……でもこの子に髪の色まで指定するのはちょっと気が引けるね」

 紅茶を飲んで、私はティーカップとソーサーを机の上に戻しそう言った。紅茶はもう冷めていた。マリアが来る前に入れられたものだ、仕方ない。まずいという顔を一瞬でも見せないメリエルはさすがだね。舌まで下町なじみかい? まさかね。女を怒らせないすべを心得ているだけだろう。本業は王子様だ。遊び人でもね。

「赤毛が生まれたとでも言って他の地方に引っ越すかい? 最初から言っていた田舎暮らしだ。ちょっと大変かもしれないけど不自由はさせないつもりだよ。事実君のために数年は遊んで暮らせるくらいのお金も用意していた」

「それは有難いね。……でも無理さ。マリアの方が位が高いんだろう? それにここの侍女たちはおしゃべりでね。……あんたも知ってると思ってるから言っていることだよ。なにも取り替えてくれという話じゃない。ただ心配なのさ。そうなってもここの侍女たちからあれは金髪だったとでも漏れたら最後だって」

「それはそうだ。そのことも考えるべきだったね。いやはや、俺付きの侍女や侍従はマリア付きの者たちより些か劣っていてね。貴族の位から見ても、気位から見ても、あまり品が良いとは言えない。第一王位継承者に生まれたことがないから生まれたときからそうだった。今更どうこう言うつもりはないから安心していいよ」

「そうかい。……どうしたって八方ふさがりなんだよ、私は。金髪が生まれなければいいとそればっかり。この子に影響がなければいいけど。なんであれストレスが多すぎる」

「早産にならないことだけを願おうぜ。桃色の髪の女の子を希望してくれるのはすごく嬉しいけど、やっぱり子にそんなものを要求するのは可哀相だ。生まれ持ったものだから仕方ないさね」

「そうなんだよ。私もなんだかんだ言って、最終的にはそう思うんだ。この子に生まれてきてくれてありがとうと言いたい。だから桃色の髪だとか、女の子だとか、気にしないで居て欲しいし、私だって気にしたくない」

 ソーサーとカップを机に戻し、メリエルはいやはやと口を開く。

「君はやっぱり良いお母さんになれるよ。その隣が誰だろうが関係なくね」

 メリエルの言葉に、私はぱちぱちと目を瞬いた。


「外で号外が配られています。貰って来ますか?」

「号外? またライリオン様かい。いいよ、貰ってきておくれ」

 侍従の言葉に、私は寝巻姿のまま応対する。コルセットを付けない寝巻は楽でいい。メリエルが来ないと分かっている日でも、そうでなくとも、私はここ最近は寝巻のままで居ることが多かった。お腹の子が大きくなってきたんだよ。メリエル付きの医師に見せたら元気だってさ。良かったのか悪かったのか。よかったと思いたいね。

 号外、と訊いて思い出すのはライリオン様のあの小さな肖像画だ。見たことないような美形が描かれていた肖像画。母親も美女なんだってね。どれほどのものなんだろう。あの肖像画も脚色さえされてなければ本当に美形なんだろうね。甲冑が良く似合う男前だったよ。王子様というより風格は騎士さ。将軍職が似合っている。

 貰ってきてもらった号外を開くと、やっぱりというかライリオン様の話だった。でも意外だったのは内側に攻め込んだとたん劣勢だと思ってた戦況が逆転して、たった一人の騎士の活躍によって祈師様の身柄を拘束した、という話であることだった。やっぱり祈師様に神通力なんか無かったんじゃないのかい? その騎士には功労として身分格上げがあるらしいよ。黄旗という育成に努めてる、言ってしまえば半人前の騎士たちを集めた騎士団から、赤旗という近衛である黒旗の一つ下、でも騎士団の中ではトップという中途半端な位置に存在する騎士団に入れられるらしい。ライリオン様はその刀礼に出て来たんだとか。それでもって、祈師様の妹との結婚も。もう条約として決められたことで、メリエルが言っていた通りライリオン様の正室に聖女様を迎えるんだとか。祈師様はきっと王宮で飼い殺しだね。どっかの誰かの、もしもの未来のようだ。嫌な話さね。

「大通りではパレードが行われていますよ。ライリオン様とその赤旗になった騎士のパレードのようです。小規模ですが、民衆が喜んでいて楽しげですよ」

 暗に観に行きませんか、と言っているのだろうと察することが出来る侍従の言葉に、私は首を振った。そんな体力はない。あったとしても、観に行っている間にこの子が生まれそうにでもなったら困る。それくらいお腹の子は大きく育っていた。医師もこれからメリエルと連れだって来る予定だ。それもあってコルセットをしていない。具体的にいついつ生まれると決められるわけじゃないから、これくらいの不自由は仕方ないね。そんなことを考えていると、噂をすればというか、メリエルがやってきた。

「兄上の正室に聖女様! これ以上ないくらいお似合いだよ。どちらも美しくてね。人形の夫婦みたいだ」

「あんたが兄弟に対してそんなこと言うなんてね」

「何を言う。俺だって兄上の容姿は買っているよ? まあ他はちょっとお堅過ぎて付いていけないけどね」

 やってきたメリエルは開口一番にそんなことを言いだした。楽しげなのは戦争に買って賠償金をたらふく貰ったのだという王様からおこぼれを頂戴したからだと言う。どうしようもないね。何に使うのかと訊けば娼婦にという。あんたも心底の女好きだね。それとも娼婦を介して二人の子どもに貢いでいるのかい?

「君にも贈りものを少しだけ用意してきたよ。現金そのままさ。君は俺の趣味を快く思ってないみたいだからね。好きに使えばいい」

「それはそれは。実際いらないんだけどね。大人しくおこぼれはあんたが貰っておけばいいんだよ」

 紙の封筒に入れられてメリエルの紋章を押されたお金を押し返す。私はうんざりとした様子で頭を掻いた。

「私以外にも娼婦はいるんだろう。そっちに回しなよ」

「そう言う姫君にこそ渡したいんだよ。男心と言うものを君は良く分かっていない――いや、分かって言っているのかい?」

「冗談も休み休み言いな」

 私が腕を思わず振りかぶると、メリエルはほらほら、と言って軽くたしなめた。王子様を殴るなんて言語道断なんだけど、どうも私はこの王子に手を出さずに居られないらしい。いちいち腹が立つんだよね。

「これで二人の女の子が居るんだからね。信じられないよ」

「それなんだけどね。……三人目が出来た」

「馬鹿かいあんたは!」

 思わず叫び声が出た。しまった。こんなに大きな声を出したら侍従たちに聞かれてしまう。でもメリエルのゴシップだから別にいいか。三人目。また女の子に恵まれればいいけど男の子でも生まれたらどうするつもりなんだい。辛い思いをするのは分かってる癖に懲りない王子様だ。どうしようもない。

「今度は娼婦の子じゃないよ。正室の子だ」

「……隣国のお姫様の子?」

「そうだよ。正真正銘の王宮の子だ。王子だったらいいね」

「あんたが男の子を望むなんてね」

「実際男のほうが優越があるんだよ。王位継承権を持つことも俺の正室は期待しているみたいでね。君の子の立場はますます危ぶまれるけど――それも仕方ないね。こっちは義務なんだ。悪いと思っても出来たものは仕方ないしね」

「悪いと思う必要は……あるけれど、でも、どっちにしろ私は王室にこの子を入れるつもりなんてないんだ。子どもを作るのは王子様の義務だろう? 勝手におしよ」

「そう言ってくれて荷が下りたよ。ありがとう」

 メリエルはそう言ってさっぱりと笑う。そんな風に笑われたら怒ることもできないよ。怒る必要がないとしても私がもしものとき王位継承権を争うことになったらどうするんだい、と言いだしても仕方ない話なのに、メリエルと対するとどうもそういうことを言いだす気力を失われてしまう。それにしてもね。王子様は正室にも冷たいと思ってたけどそういうわけでもなかったんだね。

「娼婦たちに対するよりは冷たいぜ? 贈りものもほとんどしたことない。まあ花以外喜ばないから仕方ないんだけどね」

「隣国のお姫様は花が好きなのかい」

「そうだよ。……その隣国のお姫様という呼び方はよしてくれ。一応もう我が国の姫君だ」

「そうかい。それは悪かったね」

「俺は別に良いんだけどね。ここでそんな風に呼ばせてるとでも言われると面倒だからさ」

 眉尻をさげてメリエルは困ったように笑う。あんたは別に良いんだね。でも面倒だと言うくらいだから一応何かしら思うところがあるんだろう。あんたも気づかないうちにあんたは正室のお姫様を愛しているのかもしれないよ。花以外喜ばないことを知っているということはそれ以外の贈りものもしたことがあるということだ。私が思っているより良い待遇を受けているのかもね。マリアの正室の赤毛のお姫様も実際にはそうだったらいいんだけど。マリアの贈りものはセンスが良いよ。受けるほうも気分が良い。それを貴女が貰っていると私も嬉しいんだけど。

「ライリオン様と聖女様の婚礼はいつ?」

「いつだろうね。もうそんなに日は無いと思うけど。父上が準備を始めているところから見て後一カ月くらいだろう」

「一カ月ね。すぐ来るよ」

「本当だね。その頃には君の子も生まれているかな」

 メリエルが私のふっくらと膨らんだ腹を見て言う。私は首を縦に振った。

「だろうね。もうすぐ生まれるよ――どんな子だろう。マリアに似てなければいいな。桃色の髪で女の子」

「名前はロカ。そうだろう?」

「よくわかってるね」

 はあ、とため息をついて私は言う。この子のことに関してはあまり注文を付けたくないんだけれど――金髪が生まれたら一瞬でマリアに連れて行かれてしまうだろう立場に立ってしまった今となっては、それも仕方がないと思うんだよ。どうしようもない母でごめん。

「金髪で男の子でもマリアと言う名前だけはつけないつもりだよ」

「それはそうだ。ただマリアがそう付ける可能性はあるけどね」

「マリアの子じゃない。この子はあんたの子だ」

「金髪で男の子でも俺の子だと言ってくれるのかい?」

 メリエルの問いにうっすらとした、本当に薄い微笑みで返す。疲れたような表情に見えるだろうね。事実疲れたよ。どんな子が生まれてもメリエルの子で居て欲しい。でもそんな願い、祈師様にでも誰にでもいいから、届くかな? 届かない気がするよ。

「俺の子だったら君の方が早く生まれるとはいえ正室にも子が出来たから立場は危うい。それでもいいかい?」

「王室には入れないから関係ないよ。田舎に引っ越してゆっくり暮らすさ。今みたいに時々あんたが訪ねてくれればそれでいい」

「俺の領土に越そう。生活は保障するよ。髪の色はもう隠してしまおうか」

「橋渡りだね」

「最初からさ」

 メリエルの言葉にそうだねと相槌を打つ。本当に、この王子様と話していると未来が軽いものに思えてくるよ。あんたのそういうところはきっと誰にも真似出来ない良いところだ。どうやったらあんたみたいに楽天的で現実も見えている人間に育つんだろうね。きっと王室の教育が良かったんだろう。乳母さまさまってわけだ。でも私は自分の手で育てたい。この子がどんな子になろうとも私がその責任を負いたい。私の子だよ。私と私が一瞬でも思ったマリアとの子だ。大切な子だ。マリアにだって盗られたくない。だってその先に待つ手は乳母の手だろう? 私自身が子を育てることは叶わない。だから嫌なんだ。飼い殺しだって子が居ない状態で、マリアも正室が居ない間なら堪えられた。でも私が座りたかった席に他のお姫様が座ってしまった時点で私たちの恋は終わりだったんだよ、マリア。それでもと食らいついて子を宿してその先に何もない。何もないんだ。

「私はなんでこんなに不器用なんだろう」

「それは君が頭が良いからさ。もっと軽く物事を考えられるようになったら君も今よりうまく生きられるよ」

 その言葉に、私は息をついて目を瞑った。


 陣痛は、かなり頻繁に起こるようになっていた。前言ったように臨月なんだよ。そろそろ生まれるってさ。具体的にいついつとは分からなくとも不安であり楽しみである。もう生まれるんだね。母親のおなかの中で希望と絶望に囲まれて育った子は一体どんな姿なのか。全然想像がつかないよ。桃色の髪で女の子。私の注文はそれだけさ。顔の美醜は問わない。私もそんなに酷い顔立ちでもないし、マリアも綺麗な顔をしているから、不細工には生まれないだろうとは思うけど検討がつくのはそれだけさ。よりどっちに似ているんだろうね。あんたの写真でも撮れれば何もかも分かって私もこんなにあんたが生まれるまでハラハラしなくてよかったんだけど、あんたはあんただ。どうなっても愛す気でいるよ。より簡単に楽な道で愛せるように桃色の髪と女の子であって欲しいと願っているだけさ。その他は願わない。父親はメリエルがいい。メリエルの領土でも、どこか遠くの田舎でもどっちでもいいからあんたと一緒に暮らしたい。乳母に盗られるなんて御免だね。メリエルが乳母に育てられた立派な王子様だって言ったって、私は私の手であんたを育てたいんだよ。お腹の中であんたはお姫様か王子様になることに憧れているかもしれないけれど、それは母親の我儘で却下させてもらうよ。ごめんね。……本当にごめん。

「最近、波が大きくて早い気がするんだ。もう生まれるよ」

「その言葉をもう何度聞いたことか」

 私の言葉に、メリエルはそう言って目を瞑った。口元には笑み。なんだかんだ言って、もしかしてメリエルもこの子の誕生を心待ちにしてくれているのかもね。マリアもそうかもしれない。マリアが願ってるのは金髪の男の子だ。私たちの願いとは正反対。果たしてどっちが叶えられるのか。祈師様にも分からないだろうよ。そう言えば祈師様はもう王宮に捕えられているのか――嫌な話だ。私もそうなるかもしれないんだね。多分祈師様より暮らしは質素だ。第一王位継承者の側室とはいえ、出身が出身だしね。貴族の方々にも嫌な顔をされるだろうさ。想像がついてる場所には行きたくないね。田舎暮らしかメリエルの領土にひっこんだ方がはるかにマシな生活が送れそうだ。桃色の髪で女の子でなくとも、私はこの子を女の子に仕立てあげてでも田舎かメリエルの領土にひっこむ気でいる。これはメリエルと相談して決めたことだ。最初は流れに出来る限り身を任せようとしたけれど、マリアが乱入して状況が変わってしまった。マリアの使者でも来た時には髪と体格を隠させてでも守る気でいるよ。本当に親の我儘だね。王宮に入っても田舎に行ってもどっちかの親の我儘。この子は親に恵まれてないよ。せめてそんなことに勘付かないような幸せと思ってもらえる生活を送らせてあげたいんだけど。

「そうは言ったって、もうかなり経ったよ。十月十日はもう過ぎてる。……この子は生まれるのが怖いのかな」

「そうかもね。あんまり俺たちがごちゃごちゃ言うから」

「ということは金髪の髪で男の子?」

「それでも俺の子だ。そうだろう?」

 紅茶の入ったカップを揺らしてメリエルは瞼を薄く開け、私に問う。私は真剣な顔で頷いた。

「そうだよ。あんたの子だ。何色の髪でどんな性別だろうと、桃色の髪の女の子として育てる。……せめてマリアがみてない場所ではその子らしく生きさせてあげたいよ」

「それでいいさ。きっとそれだけでその子は幸せだ。王宮に入ったってろくなもんじゃないよ。君の思っている通りさ。ただの平民よりちょっと血が高貴、それだけで生きたほうが随分幸せだ。変なしがらみがなくてね」

「王子様と言うのはやっぱり変なしがらみかい」

「王子を演じてきた身の上で言えば窮屈さね。姫君ならなおさらだろうよ。こう言っちゃあなんだけど、やっぱり君の血筋が良くないね。貴族受けしないよ」

「貴族受けねえ」

「案外重要だぜ。俺は母親も姫君だったから比較的楽に生きさせてもらったけど、ライリオン兄上が可哀相だった。政治に使われるばっかりで貴族には影で笑われてね」

 メリエルは正直者だね。そう言う話はもう何度もしてきた。……何度もしてきたから言うのだ。絶対に王子にも姫にもしたくない。政治の道具に使われるばっかりで貴族に笑われる生活なんて送らせたくない。可哀相だよ。田舎でのびのび過ごす方が何倍も良い。マリアはなんでそれを分かってくれないんだろう? 分かろうとしても立場が邪魔するのかもね。マリアの子どもなら否応なしに姫か王子だ。女の子なら見逃してくれるかもしれないと思ったけど、この私を側室にしようとするマリアの行動から見て、私と子どもを放置してくれる可能性は薄いよ。辛いね。本当に窮屈だ。マリアはどうしてそんなに苦しい生き方を私に選ばせようとするのか。傍に居て欲しいのなら傍に居てあげるよ、でも外で暮らさせてくれよ。王位継承権なんていらない。王子になんてならなくていい。姫だってそうさ。マリア、あんたは私に男の子を望んだけど、それも多分自分のためなんだろう。本当に子どものことを考えていたら女の子で私と一緒に暮らすことを望んでくれるよね? あんたはただ私を側室にしてつなぎとめたいだけだったんだ。心の一番奥ではそんなことを考えていたんだろう? だから王子を望んだんだ。第一王位継承権を持つ王子さえ私が産めば、私は側室としてあんたの隣に侍ることになるから。

「マリアも随分我儘に育ったもんだ。乳母の顔が見たいよ。私に子を孕ませて一旦捨てるなんて」

「どうせなら最初から最後まで責任を持てば君も悶々と考えずに済んだのにね。でもよく考えてごらんよ、マリアが一旦君を捨ててくれたからこそ俺の子として俺の領土でのびのび育てることも出来るかもしれないんだぜ」

「なんだかね。そうやってうまく事が運べばいいけれど」

「君が子を産むときは一等口が固い者を傍に置くよ。侍女はどうしても必要だからね――出産の経験のある者たちさ。母親の気持ちくらい分かるだろう」

「……貴族の家も乳母がいるもんなのかい?」

「そこまで位が高くないからなんともね。ほとんどは自分の手で育てているだろうけれどまちまちさ。その時その時による。公爵ともなれば乳母も確実にいるだろうけれど、多分俺の侍女くらいじゃ自分の手で育てる喜びを知ってるぜ」

「それならいいんだけど」

 頭に手を当ててはあとため息。その時、お腹に痛みが走った。う、と低い唸り声をあげて私は腹を抱える。しばらくして波が引くと、私は脂汗をかいた額をハンカチで拭って背筋を少しだけもとのように伸ばした。

「これだよ。最近多いんだ。本当に多いんだよ。きっともうすぐ生まれる」

「多いのは知ってるさ。毎日のように君の顔を見ているからね。最近俺お抱えの娼婦たちがちょっと腹を立てるくらい頻繁に君のところに来ているよ、俺は」

 明るくメリエルが言う。その娼婦にも私の陣痛にも怒りも呆れも感じていないのだろうメリエルの態度に、私はちょっと眉根をくもらせた。

「やっぱり腹を立ててる女がいるのかい。知ってはいたけどそうあっけらかんと言われると非難しようもないね」

「まあこればっかりは仕方のないことだしね。二回の経験もある。その場しのぎの言葉ならいくらでも出てくるから心配せずに居て良いよ。君の子が生まれても俺は君ばかりに付きまとうかもしれないけどね」

「やめておくれ。ほどほどが一番だ」

「これはまた随分冷たい」

 そう言ってメリエルはけらけら笑う。何がおかしいのかね。全然分からないよ。でも悪い気はしない。

「でもマリア避けには俺が居た方が良いと思うよ。どうも君はマリアのあしらい方を知らないらしい」

「あんたがどうやってマリアの気配を察知しているのか私には皆目見当もつかないんだよ」

「簡単さ。公務と公務の間を縫って相手はやって来てるんだからね。事前にマリアのスケジュールを知る方法をこっちは心得てる。それだけさ。マリアが急にやってくるのはさすがに防ぎようがないけれど、出来るだけ足止めくらいはさせてもらおう。君の家に来たとしても俺が居れば少しはなんとかなるさ。手の打ちようがないなんて事態にはなるべくならないよう努めさせてもらうよ」

「それは心強いね」

 嫌味っぽく言うと、メリエルはそう言わずに、と悪戯っぽい笑みを浮かべた。あんたに任せれば本当に万事うまくいきそうな気がするんだ。逆に怖いくらいだよ。でもそれをあんたに言うことはしない。私の性格じゃないし、第一調子に乗ってもらっても困るしね。

 メリエルは、いっそすがすがしいほど私を友人として見ているようだった。私もそうだ。最初はこの関係に名前が付けられなくて宙ぶらりんだったけれど、メリエル自ら友人だと言ってくれたその日からその言葉がしっくりくるような気がするほどメリエルは私に紳士的に接してきた。たまに茶目っ気を出すときがあるけどそれだけだ。大概言葉だけで終わる。事実メリエルの娼婦となった身でもメリエルは指一本触れてこなかった。もちろん肩を抱いたりちょっと手をつないだり、それくらいはある。握手とかね。でも軽い口づけに腰が抜けてしまうほど、メリエルは私に手を触れなかった。本当に信頼しているよ。今じゃね。恋情とかそう言った面倒な感情が無い関係ってのは心地が良い。ぬるま湯に浸かってる気分だよ。メリエルの私に向ける感情はぬるま湯だった。温かくて適温なんだよ。冷め過ぎてもいない。熱過ぎてもいない。適温。メリエルの私に対する感情と、私のメリエルに対する感情はその言葉がしっくりきた。他にもあるかもしれないけど今思いつくのはこの言葉だけさ。

「マリアにだけは子を渡したくない。王宮にやりたくないし、私ももうマリアの娼婦を演じるのは疲れたよ。嫉妬ばっかりして気分が悪いさね。赤毛のお姫様に勝てないと分かってるのに争いを呼びそうで怖いし」

「リディアは何もしてこないと思うけどね。そんなタイプじゃない。ただ女の人と言うのはどこでどう出るか分からないところがあるからね」

「ヒステリックにでもなられたら困るんだよ。第一赤毛のお姫様はマリアに子がいるかもしれないってマリアが思っていることを知っているのかい? いきなり私が現れたらそこでヒステリーでも起こしそうだ」

「知らないと思うよ。多分ね。マリアもリディアと話をしていないみたいだし、最近は寝室も別だそうだ。リディアも側室にしようとしている娼婦の存在は知っててもそれが昔飼っていたお気に入りの娼婦なのかどうかさえも訊けてないみたいでね。気が弱いから可哀相だよ。見ていて気のどくなほどマリアに怯えていてね。好きな気持ちばかり空回りしてマリアに一方に伝わってないと見える」

「それは本当に、気分が悪くなるほど可哀相だね。……私が言うのもなんだけれど」

「君だから言えるのさ。可哀相だと思えるのは優位に立ってるからだ」

 優位ねえ、と口の中で小さく唱えるように言う。優位。赤毛のお姫様のほうがどう見たって私より優位に立ってるよ。公爵家の生まれだそうだね。マリアがいつか言っていた。気持ちこそなくても立派なマリアの正室だ。私はそこら辺に落ちている石ころに過ぎない。がらくただよ。貧相ながらくただ。宝石には何もかも敵っていないよ。

「君はリディアより立場が劣っていると考えがちなようだけど、それは違うよ。確かに血筋も立場も劣っているだろう。でもマリアの気持ちが君の方がより多く――なんてものじゃないくらい、たっぷり君に注がれているよ。リディアにはさっぱりだ。そこだけは誇っていい。マリアとの恋が叶わなくとも、それだけ覚えていたら随分幸せになれるんじゃないかい?」

「幸せねえ。本人が居ないのが余計にむなしくなるだけとしか思えないよ」

 そう言って私は紅茶を一口飲む。本当に、そんなことで優位に立ってると思ったところで何も報われないじゃないか。報われないことにはもう何度も遭ってきたけど、それは最上級に空しい。なまじ私にマリアへの気持ちがあるだけ辛いよ。分かるだろう? やっぱりメリエルへの気持ちくらいとげも何もなく柔らかなものだったらよかったのにね。恋心というのはそういうものじゃない。とげだらけだ。触れば怪我をするばかりでまったく進展しない。そもそも娼婦とは恋愛を禁じられている存在だ。恋愛関係なしに体だけを売るんだよ。相手に恋愛感情を持った時点でそれはもう娼婦とは呼べない。ただの誰とでも寝る汚らしいがらくたさ。私はそんなものになり下がった。それでも夢を見ようと一瞬でもしてしまった。マリアが私に夢を見て、私もマリアに夢を見て、その結果がこのお腹の子だ。髪の色と性別ばかり気にしてしまう母親でごめんよ。マリアが私にあんたを授けなければよかったんだけど、あの時はマリアもきっと切羽詰まっていたんだね。何があったかは知らないけど、きっとそれが何だったのか私が知ることは決してないだろう。それでもあんたは多分、私に希望をくれた。マリアに捨てられた時点で自害していたかもしれない私を救ってくれたのはあんた――腹の子だよ。そしてメリエルだ。がらくたに命をくれた。それだけでこの子だけでもがらくたではない。だからこそ、この子には不自由させたくないんだよ。飼い殺しにも王子にもしたくない。のびのび育って欲しいんだ。

「……うっ」

「おいおい、大丈夫かい? 医者を呼ぶ?」

「良い……はあ」

 また陣痛。波が早いね。もう出てくるのかい? 母の腹はもう飽きた? 私はちょっとだけ寂しいよ。この辛い世界にあんたが出てこようとしていることが寂しい。でも背中を押してあげたいと思っている。何色の髪でも、どんな性別でもいいよ。どんな外見だっていいから、私はあんたを守るよ。隠してでも泣いてでも暴れてでもあんたを守る。それこそ、メリエルに頼ってでも。


 出産は、とても急で、かつ、やっとか、というところだった。この子にとってはうんざりするほどの期間だろう長い月日を終えて、やっと生まれた。生まれるのはとても時間がかかり、私もあまりの激痛に脂汗やらなんやらが出た。産声を上げたのを聞いて失神しかけの頭でぼんやりと涙を流した気がする。でもあまり覚えていない。

 運が良いのか悪いのか、子は男の子だった。男の子で金髪だよ。まだ少ししか生えてないから分からないけど、桃色のような赤味がなかったからきっと金髪だ。成長するに従ってうっすらと赤味を帯びて桃色に変わってくれればいいんだけど、どうなんだろうね。この子が生まれた時、侍女たちや医師に走った動揺は凄まじいものだったらしい。黒髪のメリエルからはあり得ない髪の色の男の子――しかも男の子だ――が生まれたものでね。でもその場はメリエルが、上手く切りぬけておいたよ、君は安心していいと、気を失っていた私が気が付いて子がどんなだったか訊いたときに言っていた。生まれたばかりの赤子は顔がくしゃくしゃでまるで猿みたいで、どっちに似てるなんてのはうっすらとしか分からなかった。医師もその場を切り抜けるようにこれから先髪の毛が赤くなっていくでしょう、と苦笑いしてたらしく、顔立ちもほら目と鼻がメリエル様に似てますよと言っていたらしい。それはお世辞だと分かるほど、私には子の顔立ちがマリアに似ていることが分かった。王妃様の遺伝子は強いね。私の遺伝子が見当たらないよ。耳の形が似てるかな? でもそれくらいだ。それにまだはっきりは分からない。さっき言ったように顔がくしゃくしゃなんだよ。愛嬌があるけどね。それで、女として育てるために侍女たちに口封じをした理由は「この子を王宮にやりたくないから」で通じたそうだ。通じると思ってたんだよ、俺はそういうタイプの侍女たちを連れてきてたからね、とメリエルは言っていた。王宮の酸い甘いを存分に体験してきた侍女たちだったらしい。そこら辺は私はなんとも分からないからね。メリエルの言葉を信じるしかない。今分かるのはこれだけさ……子は金髪で男の子だった。私たちの祈りは祈師様には通じなかったというわけだ。マリアのほうがより強く望んでいたのかもしれないね。

「それでも可愛いね。金髪で男の子でも、この子は可愛い」

 私の言葉に、メリエルはタオルケットにくるまわれた子を抱き上げあやしながらこちらを見た。そのさまは随分決まっているよ。さすが二児の父だ。赤子の扱いは慣れてますと言ったところか。随分心強いね。

「出産届には女の子で提出するよ。構わない?」

「お願いしますと言ったところさね。それで構わないどころかそうじゃないと困る」

 この子が好きな子でも見つけて結婚するときに辛い思いをするかもしれないけど、きっと訳を話せば分かってもらえるだろうと思うよ。素直ないい子に育てたい。世の中の辛い部分ばかり経験してきた身としては、この子だけでも幸せを存分に味わって欲しいんだ。それくらいの願いなら祈師様も同情が煽られて叶えてくれるだろう。

「父君の欄は俺の名だ。名前はロカ。この子はきっといい子に育つ」

「ロカでもいいかな?」

「女の名前を持つ男が居たっていいさ。事実マリアは女の名前だ」

「それもそうだね」

 ロカ。その名を貰うならますますその名にふさわしい子に育てないとね。小さな幸せを数えるのが上手くて、いつも笑顔で、素敵な子だ。メリエルが父親ならきっとそうなる。大丈夫さ。心配事なんて心配しただけぐったりするよ。これからはきっと心配する間もないほど子育てに忙しくなるだろう。事実それが一番私にとって幸せな気がするよ。たまにメリエルが顔を出して、ちょっとだけ手伝ってくれれば万々歳だ。メリエルはきっとそうしてくれる。マリアの手からもうまく守ってくれるよ、きっと。

「君の妹君は随分幸せな子だったようだからね。小さな幸せを数えていたんだろう? きっと君の傍が心地よかったんだよ。この子はそんな君の傍で育てられるからきっとそんな子に育つ。王子でなくても、姫にさえもなれなくても、幸せなんて五万とあるよ。そんなものに偏る必要はない」

「……それは誰に言い聞かせてるんだい」

 私がからっぽになった腹をさすりながら問うと、メリエルは悪戯っぽく瞳を輝かせてこちらを向いた。

「ロカに」

「そうかい」

「君にも聞かせてるよ? ちゃんと聞いていたかい? 君の傍に居たから妹君は幸せだったんだよ。君は傍にいるものを幸せにする力を持ってる。誰もが持ってる力じゃないよ」

「私のどこを見てそんなことが言えるんだい」

「全てさ。飾らないけど冷たくはない言葉。態度。君は素敵な女性だ」

「寒いよ」

 肩にかけられただけの上着をかけ直し、ぶるりと震える仕草。メリエルは幸せそうな表情でロカを見つめていた。金髪で男の子だったというのに、あんたはそんな顔でその子を見てくれるんだね。やっぱりあんたは立派な父親だよ。……本当にその子の父親があんただったなら、その子はきっともっと幸せだっただろう。――違うか。私が今から幸せにするんだ。マリアにも乳母にも手を触れさせない。私とメリエルが父母として育てる。メリエルとも血は繋がってるんだからだましたことにはならないよ、きっと。本当のお父さんが知りたくなったら時期を見て教えてあげよう。時期が悪い頃ばかりだったら教えずに終えるかもしれない。もしかしたら何も勘付かずにメリエルだけを父として観ながらゆっくり育った方が幸せかもね。

「金髪か――どうしてお母さんは桃色でお父さんは黒髪なのに自分は金髪なの? とでも訊かれた時にはどう答えてやろうかね」

「簡単さ。お母さんは子どもの頃金髪だったよ、そのうち赤くなってくると答えてやればいい。桃色の君の髪はとても綺麗だ。子どもは喜ぶよ、きっと」

「だましてることにならない?」

「仕方ないさ。じゃあ事実を言うかい? 君には別のお父さんがいるんだよってね。それを子がどこかでぽろりと言ったら全てがおしまいだ。さて――早いところ引っ越す準備をしようか。俺の領土でちょっと前に言ってた家だよ。小道の中に入った家さ。俺の領土だからそうそうマリアは入れさせない。まあ立場上どうなるか分からないけどね。一応は俺の権力が届く場所だ」

「あんたの権力がどこまで通用するか見させてもらおうか」

「それはいい。どんどん見たまえよ」

 子を抱き上げながら顔だけこちらに見せてメリエルは口元に不敵な笑みを浮かべた。メリエルも一応王子様だからね。力技もきっと得意だろう。下町で遊んでる王子様の印象しかないけれど、メリエルは頼りがいのある一面も持っている。とにかく修羅場に強いんだ。ここぞというときにどっかり椅子に座っているイメージだよ。対するマリアはここぞというときは渋い顔をしてさっさと退散してしまうようなイメージがある。どういう育てられ方をしたのか、比べて見てみたいね。きっと娼婦同士の争いごとをいくつ見てきたか、なんてしょうもない理由が出てくるんだろうけれど。

「それはそうと、本当に出産に立ち会ったあんたの侍女とお医者様は大丈夫なんだろうね? 口が軽いとかなら問題だよ」

「出産経験があるもので王宮暮らしをしていて、かつ口の堅いもの。俺付きの侍女ではなかったけど金でなんとか工面してみたよ。どうなるかは分からないけど従来の俺付きの侍女たちよりは口が固いはずさ。医師は信頼できる者を雇っていた。事実俺の子だと信じ切っていただろう? 桃色の髪の女の子が生まれたと公表するつもりさ。この子のこの髪の色を見られた後で黒髪だと言ってくれと言ったほうが不自然だしね」

「この子は大変な苦労を背負うことになったんだ。マリアにどんなことを言っても許されそうな気がするよ」

「男の子なのに女の子として育てられるんだ。それだけでも大変な苦労だね。でも王子にした方が大変だよ。俺の子で王子はだめさね。娼婦の子で王子になるなんて立場が危うい。しかも王宮はマリアが見てる場所だ。あの髪の色は金髪だったとでもマリアが一言言えばそれで君はマリアの側室だ。飼い殺し以外の未来はないよ」

「私が飼い殺しになるだけならいい。でもこの子もきっと飼い殺しだ。そうだろう? きっと王子や王位継承者なんて名ばかりなんだ」

「なんだかね。君もこの子も随分ついてない。でも大丈夫さ。何のために俺が居るんだ? きっと祈師様が俺を君の傍に置いたのはこのためだよ。この子を守るためだ。この子と引いては君をね。マリアのあしらい方なら君より俺の方が心得てる」

「それはそうだ。その通りだよ。私はマリアの目を見ると何も言えなくなるんだ。悔しいことにね」

「それは仕方ない。君はマリアに強い思いがありすぎる。なまじ離れ離れになったから強くなったのさ、きっと。悔いる必要も、負う必要もない」

 メリエルは、なっ、と軽い声を出してロカに頬ずりした。貸しておくれ、と私が両手を向けると、メリエルはそっとロカを渡してくれる。ずしりとした心地の良い重み。これがずっと体の中にあったなんてね。今となっては不思議な思いだよ。……この子はきっと自力で幸せになってくれる。それの手伝いを私とメリエルがするんだ。小さな幸せでも大きく感じてくれればいいな。そこまで求めるのは苦痛でしかないかな。分からないね。ただメリエルの子として育てることが本当に叶うなら、きっとそんな子に育つ未来もあると思うんだ。ロカ。その名の元の持ち主のような、かけがえのない宝物になってくれる。きっと。

「この子にとっての世界はこれから俺たちが作っていくんだよ。弱気で居てはいけない。ゆっくりでも確実に幸せな世界になれるように、俺たちは力を尽くそうぜ」

 メリエルの言葉に、私はロカの瞑った瞼の白さを見ながら頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る