地図を卓上に開いて、私たちはそれを覗きこんだ。ここ、とメリエルはある一点を指す。

「ここの家の造りがこっちの図さ。こんな感じ。どう? 悪くはないと思うんだけどな」

「大広間なんかいるかい? ダンスもなにもしないんだよ。もっと小さくて良い」

「贅沢しようぜ、そこはさ。ほら、じゃあこっちは……」

 メリエルは再び地図のまた別の一点を指示し、脇からまた別の図を引っ張り出す。それを見比べて、私はやれやれとため息をついた。

「私はもう選ぶのに疲れたよ。あんたが勝手に選んでおくれ」

「そうは言うけどね。住むのは君なんだよ」

「私はスラム暮らしをしてきた女だよ。どれを見ても贅沢に見えるだけさ」

 そんなもんかねえ、と愚痴愚痴言いながらメリエルは地図を開いたまま椅子から立ち上がり、ごそごそと丸めた小さな図の書かれた絵たちの中からひとつを取り出して、これ、とまた別の地図の一点を指した。

「此処が俺の一番のお勧め。此処にしよう。大広間も応接間もある。家具は備え付けだったけど良いものばかりだったよ。ベッドの寝心地もこの部屋とほとんど変わらないだろう――と思う。君が寝させてくれなかったから分からないけれどね」

「冗談は後にしてくれ」

 うんざりした顔で一蹴する。メリエルはまだ私との肉体関係を望んでいるのか。まさかね。ただの冗談だろう。それにしてももっと気品のある冗談を言えば良いのに、この男ったら本当に馬鹿なんだね。

「そこでいいよ。あんたがそこにするってんならそこにすればいい。あんたの言うとおりにするよ」

「オーケー、じゃあそう言う風に手配しよう。金は送るよ。郵便が信じられないってなら俺が直に行ってもいいけど、どうする?」

「まさか王子殿下に月一週一で参らせるわけにもいかないっての」

「そりゃそうだ。それを聞いて安心したよ。それでもある程度、俺かマリアのお手付きってのは知られておいた方が良いと思うぜ?」

 メリエルの言葉に、地図を凝視していた目をメリエルへと移す。メリエルは真面目な顔だった。

「そりゃまた一体どういう意味さ?」

「君の髪だよ。体つきも随分綺麗になった。……色々危ないかもしれないぜ?」

「ああ、そうだね。そりゃそうだ」

 髪、と言われて気付いた。人攫いや襲うもの好きが出てくるかもしれない、と言いたいのだ、この王子は。マリアはもう私のところへは来ないだろうから、メリエルにちょこちょこ来てもらうことにしよう。申し訳ないけれどそれくらいの面倒は見る気だったはずだ。そうでもないとそんなことわざわざ忠告しないだろう。

「良いのかい?」

「何の遠慮だい? 今更だよ」

 そりゃそうだ、と私は二度目のその言葉を吐いて、椅子に深く体を沈ませた。ふう、と息をつく。

「――マリアはこの部屋に本当に来なくなった。この城の中を散歩しているときにも一回も会わなかったから、訪れてさえいないんだろう。どう思う? 私は馬鹿なことをした?」

 私の問いに、メリエルはふむ、と言って顎に手を当てた。

「そう訊くってことはやっぱり君はマリアに気があったわけか」

「そうだよ。忌々しいことにね」

 私ははあ、と息を吐く。メリエルは面白そうに笑った。

「馬鹿なことをしたとは思うね。まさか俺がここにきていることも、リディアと結婚したことを知っていることまでも言うとはね、ってさ。マリアが君を捨てる可能性はあるってことくらい分かっていただろう?」

「悔しかったんだよ。まさか、マリアが、あんな――いや、なんでもない」

 自分の口を押さえ、私は目をつぶる。メリエルは今もまだ面白いものを見つけた時のような表情をしているだろう。事実、私とマリアの話は部外者からしたら面白かっただろうね。でも分かっているのかい、あんたも首の皮一枚だったんだよ。

 あれから数週間経っていたけれど、私はやっぱり、とでも言うのか、些細な体調不良になっていた。お腹に子どもがいることは簡単に予測出来て、体調が悪いことさえ顔に出さないようにしていた。子どもが出来たことは王族に関わっている人間にばれないにこしたことはない。私一人が育てるさ。パトロンになってくれるというメリエルになら一言言うべきだろうけれど、それも家を越してからだね。この離宮の侍女や従者たちはあまりにもマリアに近すぎる。マリアに子どもがいることがばれたら奪われて王子にでも姫にでもされて終わりだろう。スラムの馬鹿な娼婦と馬鹿な王子の間の子。母親の血のせいで辛い思いをするだろう。あの王子様みたいに。スラムで有名になって、スラムからの人気は得ても、王族の中では一人きり。王妃様に嫌われてあてつけに使われるような子にだけはさせたくない。だから体調不良を隠して医者を近付けない様にしていた。それでもいつかは分かることだから、やっぱり家を越した後にメリエルが呼んだ医者に見せよう。

 メリエルには、つまるところまだあの日の夜のマリアのことを話していなかった。マリアが絞り出した悲痛な願いごとも私とマリアの中の秘密さ。あの日傍にいた侍女たちはなんとなく分かっているかもね。でもさすが第一王位継承者の離宮仕え、彼女たちは本当に尊敬するほどマリアに関して口が固い。しかしマリアに対して、ではない。そこが一番ネックなんだよ。体調不良がばれたらすぐにマリアに報告されるだろうね。医師をただ呼ぶためだったとしてもその医師が勘付いてしまえばおしまいなのだ。

「なんでもないとは、あまりにも冷たくないかい?」

「冷たくないよ。あんた方も私に隠し事ばかりするだろ? お互い様さ」

「それはそうだな」

 メリエルはそう言って机の隅に移動させられた可哀相な紅茶を口に含んだ。私はその間に地図を丸める。メリエルが持ってきたいくつかの家の見取り絵図は侍女たちが片付けるのを手伝ってくれた。それをメリエル付きの従者に渡し、メリエル付きの従者は私にぺこりと頭を下げる。こんな娼婦にも頭を下げないといけないなんてね。考えてみれば私ときたらかなりの大出世だ。そこら辺に転がってるただの石ころから特上の娼婦に成り上がった。その腹には次期国王の子どもまで抱え込んで。妹も私がここまでの存在になるとは思っていなかっただろう。あの世でどんな顔しているんだろうね。子ども、良かったね、なんてまた小さな幸せをかみしめて私に教えようとしているかもしれない。馬鹿な子だ。それでも愛しいのに変わりはないし、本当にあの子がそう言っているのか知るすべもないけれど。

「マリアとリディアのこと、聴くかい?」

 ふと、メリエルがそう言った。紅茶の入ったカップをそっとソーサーに戻し、私の目を見る。私は首を横に振った。

「聴かない。……聴かないままがいい」

「そうだね。そうかもしれない」

 また大きなお世話だった? と訊ねるメリエルに、私は再び首を横に振る。大きなお世話とまでは言わない。ただ、聴くのは痛いだけだって分かっているから聴かないだけだ。聴きたいと思う心だってある。だから大きなお世話ではない。でもやっぱりどうしたって、メリエルの最大の誤算は私にマリアが赤毛のお姫様と結婚したことを教えたことだね。あれで全ての歯車が狂ったも同然――いや、そもそもマリアがスラムのがらくたの山の中から私の桃色の髪を見つけたことから歯車が狂ったのかもしれない。何もかも今更だったってことか。本当につまらないね。くだらないことばかり。この世はがらくたばかり。本当にそうだよ。

 マリアと赤毛のお姫様のことなんて、今は考えたくなかった。それを知ることは仲良くしててもそうでなくても私に傷を付けるだけだろう。マリアとはもう切れたのだ。私はこの離宮からも離れようとしている。今後は世間体だけとはいえメリエルの娼婦さ。王族たちはなんというだろうね。私の悪口は今までこの離宮で私が守られていたこともあって何も聴こえてこなかったけれど、これからは違うのだ。沢山の悪口や批評が聴こえてくるだろうね。国民から家に石を投げ入れられる、なんてこともあるかもしれない。……いや、ないか。そのためにメリエルが私の家に訪ねてくれると言っているのだ。メリエルと知り合えて良かったなんて、思う日が来るとは思わなかったね。幸せにも不幸にもなるようになるさと思っていたけれど、一度幸せの偽物を掴んでみるとこんなにも幸せというものが欲しくなるんだ。分かり切っていたことだ。けれど妹の死で忘れていた。どうしようもない話だ。私はもう妹が死んで、一人で生きていた頃のように流れるように生きることはできない。そうしたのはメリエルとマリアの王子たちだ。王族に振りまわされる日がいつか来るかもしれないと思ってはいたけれど、本当にそんな日が来るなんてね。本当に運命って奴は狂っている。

「あんたが家に来たら、最大のもてなしをさせてもらうよ。私なりの恩義だ」

「寝てくれるのかい?」

「馬鹿言うんじゃないよ」

 呆れて言う。メリエルは能天気に笑っていた。

「金はやっぱり俺が直に持って行くよ。それのついでに顔を見に行く。そうすれば俺のお手付きみたいに見えるだろう?」

「……そうだね。あんたがそれでもやぶさかじゃないってなら」

 私が無愛想にそう言うと、メリエルは目を細めた。

「やぶさかなわけないだろ。大事な友人のためだ」

「友人と思ってくれていたとはね」

 友人でも恋人でもない、何の名前もない関係だと思っていた。マリアには、理解してもらうために友達と言ったけれど。偽物の言葉ならいくらでもある。好きだと言わなかったのも偽物だ。あの時マリアに告白していれば、私は今もまだこの離宮にとどまろうとしていただろうか。……王宮へと住む場所が変わっていたかもしれない。マリアの子を腹に宿したことも公になった状態で。

「友人以外にあてはめる言葉がないからね。恋人にしてはそういう心が無い。君には何も抱かなくなったよ。だから安心して俺の娼婦になるといい。本当に好きな男もまた現れるさ。そうしたらそいつと片田舎にでも行けばいい。応援するよ」

「そりゃ有難いね」

 ――あり得ないだろう。私はずっとマリアを思っていく。こう見えても固い方なのだ。抱かれた男は数知れずでも、心が揺れた男はマリア一人しかいない。それほどまでに回数を重ねて、傍にいた。近くに居過ぎたのだ。マリアの心のうちを聴かされるようなところにいなければ、私は今も妹だけを思って過ごしていただろう。マリアもどうしてこんな娼婦に心を開こうと僅かでも思ってくれたのか。……桃色の髪だけが理由じゃなければいいだなんて、私らしくないけれど、そう思わずにはいられない。 地図を卓上に開いて、私たちはそれを覗きこんだ。ここ、とメリエルはある一点を指す。

「ここの家の造りがこっちの図さ。こんな感じ。どう? 悪くはないと思うんだけどな」

「大広間なんかいるかい? ダンスもなにもしないんだよ。もっと小さくて良い」

「贅沢しようぜ、そこはさ。ほら、じゃあこっちは……」

 メリエルは再び地図のまた別の一点を指示し、脇からまた別の図を引っ張り出す。それを見比べて、私はやれやれとため息をついた。

「私はもう選ぶのに疲れたよ。あんたが勝手に選んでおくれ」

「そうは言うけどね。住むのは君なんだよ」

「私はスラム暮らしをしてきた女だよ。どれを見ても贅沢に見えるだけさ」

 そんなもんかねえ、と愚痴愚痴言いながらメリエルは地図を開いたまま椅子から立ち上がり、ごそごそと丸めた小さな図の書かれた絵たちの中からひとつを取り出して、これ、とまた別の地図の一点を指した。

「此処が俺の一番のお勧め。此処にしよう。大広間も応接間もある。家具は備え付けだったけど良いものばかりだったよ。ベッドの寝心地もこの部屋とほとんど変わらないだろう――と思う。君が寝させてくれなかったから分からないけれどね」

「冗談は後にしてくれ」

 うんざりした顔で一蹴する。メリエルはまだ私との肉体関係を望んでいるのか。まさかね。ただの冗談だろう。それにしてももっと気品のある冗談を言えば良いのに、この男ったら本当に馬鹿なんだね。

「そこでいいよ。あんたがそこにするってんならそこにすればいい。あんたの言うとおりにするよ」

「オーケー、じゃあそう言う風に手配しよう。金は送るよ。郵便が信じられないってなら俺が直に行ってもいいけど、どうする?」

「まさか王子殿下に月一週一で参らせるわけにもいかないっての」

「そりゃそうだ。それを聞いて安心したよ。それでもある程度、俺かマリアのお手付きってのは知られておいた方が良いと思うぜ?」

 メリエルの言葉に、地図を凝視していた目をメリエルへと移す。メリエルは真面目な顔だった。

「そりゃまた一体どういう意味さ?」

「君の髪だよ。体つきも随分綺麗になった。……色々危ないかもしれないぜ?」

「ああ、そうだね。そりゃそうだ」

 髪、と言われて気付いた。人攫いや襲うもの好きが出てくるかもしれない、と言いたいのだ、この王子は。マリアはもう私のところへは来ないだろうから、メリエルにちょこちょこ来てもらうことにしよう。申し訳ないけれどそれくらいの面倒は見る気だったはずだ。そうでもないとそんなことわざわざ忠告しないだろう。

「良いのかい?」

「何の遠慮だい? 今更だよ」

 そりゃそうだ、と私は二度目のその言葉を吐いて、椅子に深く体を沈ませた。ふう、と息をつく。

「――マリアはこの部屋に本当に来なくなった。この城の中を散歩しているときにも一回も会わなかったから、訪れてさえいないんだろう。どう思う? 私は馬鹿なことをした?」

 私の問いに、メリエルはふむ、と言って顎に手を当てた。

「そう訊くってことはやっぱり君はマリアに気があったわけか」

「そうだよ。忌々しいことにね」

 私ははあ、と息を吐く。メリエルは面白そうに笑った。

「馬鹿なことをしたとは思うね。まさか俺がここにきていることも、リディアと結婚したことを知っていることまでも言うとはね、ってさ。マリアが君を捨てる可能性はあるってことくらい分かっていただろう?」

「悔しかったんだよ。まさか、マリアが、あんな――いや、なんでもない」

 自分の口を押さえ、私は目をつぶる。メリエルは今もまだ面白いものを見つけた時のような表情をしているだろう。事実、私とマリアの話は部外者からしたら面白かっただろうね。でも分かっているのかい、あんたも首の皮一枚だったんだよ。

 あれから数週間経っていたけれど、私はやっぱり、とでも言うのか、些細な体調不良になっていた。お腹に子どもがいることは簡単に予測出来て、体調が悪いことさえ顔に出さないようにしていた。子どもが出来たことは王族に関わっている人間にばれないにこしたことはない。私一人が育てるさ。パトロンになってくれるというメリエルになら一言言うべきだろうけれど、それも家を越してからだね。この離宮の侍女や従者たちはあまりにもマリアに近すぎる。マリアに子どもがいることがばれたら奪われて王子にでも姫にでもされて終わりだろう。スラムの馬鹿な娼婦と馬鹿な王子の間の子。母親の血のせいで辛い思いをするだろう。あの王子様みたいに。スラムで有名になって、スラムからの人気は得ても、王族の中では一人きり。王妃様に嫌われてあてつけに使われるような子にだけはさせたくない。だから体調不良を隠して医者を近付けない様にしていた。それでもいつかは分かることだから、やっぱり家を越した後にメリエルが呼んだ医者に見せよう。

 メリエルには、つまるところまだあの日の夜のマリアのことを話していなかった。マリアが絞り出した悲痛な願いごとも私とマリアの中の秘密さ。あの日傍にいた侍女たちはなんとなく分かっているかもね。でもさすが第一王位継承者の離宮仕え、彼女たちは本当に尊敬するほどマリアに関して口が固い。しかしマリアに対して、ではない。そこが一番ネックなんだよ。体調不良がばれたらすぐにマリアに報告されるだろうね。医師をただ呼ぶためだったとしてもその医師が勘付いてしまえばおしまいなのだ。

「なんでもないとは、あまりにも冷たくないかい?」

「冷たくないよ。あんた方も私に隠し事ばかりするだろ? お互い様さ」

「それはそうだな」

 メリエルはそう言って机の隅に移動させられた可哀相な紅茶を口に含んだ。私はその間に地図を丸める。メリエルが持ってきたいくつかの家の見取り絵図は侍女たちが片付けるのを手伝ってくれた。それをメリエル付きの従者に渡し、メリエル付きの従者は私にぺこりと頭を下げる。こんな娼婦にも頭を下げないといけないなんてね。考えてみれば私ときたらかなりの大出世だ。そこら辺に転がってるただの石ころから特上の娼婦に成り上がった。その腹には次期国王の子どもまで抱え込んで。妹も私がここまでの存在になるとは思っていなかっただろう。あの世でどんな顔しているんだろうね。子ども、良かったね、なんてまた小さな幸せをかみしめて私に教えようとしているかもしれない。馬鹿な子だ。それでも愛しいのに変わりはないし、本当にあの子がそう言っているのか知るすべもないけれど。

「マリアとリディアのこと、聴くかい?」

 ふと、メリエルがそう言った。紅茶の入ったカップをそっとソーサーに戻し、私の目を見る。私は首を横に振った。

「聴かない。……聴かないままがいい」

「そうだね。そうかもしれない」

 また大きなお世話だった? と訊ねるメリエルに、私は再び首を横に振る。大きなお世話とまでは言わない。ただ、聴くのは痛いだけだって分かっているから聴かないだけだ。聴きたいと思う心だってある。だから大きなお世話ではない。でもやっぱりどうしたって、メリエルの最大の誤算は私にマリアが赤毛のお姫様と結婚したことを教えたことだね。あれで全ての歯車が狂ったも同然――いや、そもそもマリアがスラムのがらくたの山の中から私の桃色の髪を見つけたことから歯車が狂ったのかもしれない。何もかも今更だったってことか。本当につまらないね。くだらないことばかり。この世はがらくたばかり。本当にそうだよ。

 マリアと赤毛のお姫様のことなんて、今は考えたくなかった。それを知ることは仲良くしててもそうでなくても私に傷を付けるだけだろう。マリアとはもう切れたのだ。私はこの離宮からも離れようとしている。今後は世間体だけとはいえメリエルの娼婦さ。王族たちはなんというだろうね。私の悪口は今までこの離宮で私が守られていたこともあって何も聴こえてこなかったけれど、これからは違うのだ。沢山の悪口や批評が聴こえてくるだろうね。国民から家に石を投げ入れられる、なんてこともあるかもしれない。……いや、ないか。そのためにメリエルが私の家に訪ねてくれると言っているのだ。メリエルと知り合えて良かったなんて、思う日が来るとは思わなかったね。幸せにも不幸にもなるようになるさと思っていたけれど、一度幸せの偽物を掴んでみるとこんなにも幸せというものが欲しくなるんだ。分かり切っていたことだ。けれど妹の死で忘れていた。どうしようもない話だ。私はもう妹が死んで、一人で生きていた頃のように流れるように生きることはできない。そうしたのはメリエルとマリアの王子たちだ。王族に振りまわされる日がいつか来るかもしれないと思ってはいたけれど、本当にそんな日が来るなんてね。本当に運命って奴は狂っている。

「あんたが家に来たら、最大のもてなしをさせてもらうよ。私なりの恩義だ」

「寝てくれるのかい?」

「馬鹿言うんじゃないよ」

 呆れて言う。メリエルは能天気に笑っていた。

「金はやっぱり俺が直に持って行くよ。それのついでに顔を見に行く。そうすれば俺のお手付きみたいに見えるだろう?」

「……そうだね。あんたがそれでもやぶさかじゃないってなら」

 私が無愛想にそう言うと、メリエルは目を細めた。

「やぶさかなわけないだろ。大事な友人のためだ」

「友人と思ってくれていたとはね」

 友人でも恋人でもない、何の名前もない関係だと思っていた。マリアには、理解してもらうために友達と言ったけれど。偽物の言葉ならいくらでもある。好きだと言わなかったのも偽物だ。あの時マリアに告白していれば、私は今もまだこの離宮にとどまろうとしていただろうか。……王宮へと住む場所が変わっていたかもしれない。マリアの子を腹に宿したことも公になった状態で。

「友人以外にあてはめる言葉がないからね。恋人にしてはそういう心が無い。君には何も抱かなくなったよ。だから安心して俺の娼婦になるといい。本当に好きな男もまた現れるさ。そうしたらそいつと片田舎にでも行けばいい。応援するよ」

「そりゃ有難いね」

 ――あり得ないだろう。私はずっとマリアを思っていく。こう見えても固い方なのだ。抱かれた男は数知れずでも、心が揺れた男はマリア一人しかいない。それほどまでに回数を重ねて、傍にいた。近くに居過ぎたのだ。マリアの心のうちを聴かされるようなところにいなければ、私は今も妹だけを思って過ごしていただろう。マリアもどうしてこんな娼婦に心を開こうと僅かでも思ってくれたのか。……桃色の髪だけが理由じゃなければいいだなんて、私らしくないけれど、そう思わずにはいられない。


「両思いなのに報われないなんてね。あまりにも身分が違いすぎたか」

 メリエルの言葉に、私は顔を上げた。新しい家の応接間は日当たり良く、茶色の机の上には紅茶が二つ。侍女はメリエルが手配してくれたもので、三人居た。従者は一人。いずれも働き者だ。有難いね。従者は私の代わりに郵便物や――郵便物、と言ってもほとんどがメリエルから贈られてくる日用品だった――勘定をしてくれたり、馬車に乗る時の簡単な手伝いをしてくれるし、侍女は言わずもがな身の回りの世話をしてくれる。マリア付きの侍女宜しく口が堅いと思いきやメリエルの侍女はメリエルのことをとても良く私に聞かせた。もしかすればメリエルが私を友人だとでも紹介したのかもね。ただの飼われている娼婦になら言わないような女関係の話も聞かせてもらったけど、ほとんどが思った通りだ。メリエル、あんたがそこまでどうしようもない男だとは思わなかったよ。訊けばメリエルは私の他にも娼婦を飼っていて、しかも贈りものは派手なものが多いらしい。娼婦受けばかり良くて貴族には受けないんだってさ。だから下町の娼婦にばかり手を出すんだって持ちきりだよ。あんたも可哀相な奴なんだね。同情はしないけど。

「両想いなんて言葉寒いよ。それにマリアが私のことを本当の意味で気に入っていたかは分からない」

「気に入っていたよ? 言っただろう、君と妹君が並んでいたとしてもマリアは君を取ったって。性格も含めて、本当にマリアは君を好きだったんだよ。それがブームだったのか本物だったのかは分からなくてもね」

「私は何とも言えないよ。ブームだったようにも思えるし、どうしたって桃色の髪が特別好きだったんだって思える」

 私の言葉に、メリエルはソファの手置きに肘を置き、頬づえをついた。口元の笑みは絶やさない。

「君の髪が特別好きだったのはそうだろう。どうもかなり執着していたみたいだしね? ただ、やっぱり俺はマリアはそれだけではなかったと思うよ。髪の色も含めて、君自身を誰にも見せたくなかったんだろう。つまり幼稚な独占欲だ」

「あんたがマリアに対して毒づくなんて珍しいね」

「思うところがあるのさ。可哀相だと思っている」

 可哀相だと思っているから毒を吐くだなんてね。あんたも相当イカれてるよ。可哀相だ。

「随分とっかえひっかえだったから、女に慣れているかと思えば手も出さない。出した女には逃げられる。可哀相さ。報われないね」

「――まさか、赤毛のお姫様にまだ手を出してないのかい」

 訊いて、ハッと後悔した。あの二人のことは訊かないでおこうと決めていたのに。でもついだ。事故のようなもの。

「そうだよ? 君が居なくなってマリアはまるでもぬけの殻だ。王妃様に反抗して置いていた兄上の肖像画も取っ払ったらしいし。もう反抗する気も起きませんってところかな。可哀相だと思わないかい? 王宮で飼われる気は?」

「ないよ。よしてくれ」

「お腹の赤ちゃんにはどっちがいいんだかねえ」

 メリエルは目を細める。冷たく凍ったようにも見えるその表情は――何を考えているんだろうね。

 メリエルには、家を越してすぐに医師を呼んでもらった。メリエル付きの医師だ。それから診断結果を訊いてやっぱりと頷きメリエルとその周囲と医師にその結果を誰にも話さないよう約束してもらった。子どもは、いた。やっぱり出来ていた。メリエルは人払いをしたときしかその話を持ち出さないという、私が思っているよりも徹底して秘密を守ろうとしてくれた。この子どもがもたらすものが良いものか悪いものか分からないというのが私たち二人の意見だったからだろう。事実分からなかった。王子であれば国民からの反発を食らうだろう。王族からも良く見られない。スラム出身者だけが暖かい目で見てくれたってそんなの何になるさ? 姫であればますます可哀相だ。何の用もないんだからね。ただの偽物の愛の結晶さ。寒気がする。ただ、それでも私の手で育てたかった。それで得るものと失うものは分からない。もしかしたらメリエルの子と誤解されるかもね。子どもが金髪をしていなければごまかせるんだけれど。訊いたところ、メリエルには子どもが二人いるらしいし。どちらも娼婦が産んだ子だ。可哀相なことをするね、この男も。ただどちらも王子としては扱ってないらしいし、そもそも女の子だと言う話なんだけれど。

「マリアも人が悪い。まさか捨てる直前に子どもを孕ませるなんて」

「本当だよ。全面的に同意する」

 せめて桃色の髪で生まれてくれないかね、と私が呟くと、メリエルは本当だねと言って微笑んだ。

「黒髪だったら俺の子だ」

「その可能性はないから安心していいよ」

 きっぱり吐き捨ててやればメリエルはくっくと声を出して笑った。少しふっくらしてきたお腹を眺めるそのさまはまるで本物の父親のよう。メリエルは娼婦の子を姫にこそしなかったらしいけど、良いお父さんとしては頑張っているのだろう。なんだか想像出来る気がする。どちらもまだ幼く、父上、父上とメリエルを慕っているらしいしね。公に父親顔できて得してるよ、あんたは。マリアが父親顔すると言ったらそれは王位継承者として見てるってことになる。姫ならどうなるんだろうね。政治の道具として他国に出されてぽいだろうか。侍女たちの噂話によるとメリエルの正室は隣国のお姫様だそうだよ。マリアの弟にももう決まった相手がいるらしいしね。王子様ってのは自分で相手を選べないんだね、と嫌味を言ってやったらそうだよとメリエルに真顔で返されたのは記憶に新しい。

「それでも、奇跡でも起きて黒髪で生まれてくれないかな。そうしたら、俺が可愛がるのに」

「そうだね。……金髪でさえ生まれてくれなければ良いと思っている」

 メリエルによると、どうも金髪の王子と言うのはマリアとその弟王子の二人だけ、つまり王妃様から生まれた正統な王子二人だけだそうだ。弟王子はまだ幼いというし、金髪で生まれれば一瞬でマリアの子だと分かってしまう。――目下の望みは私が子どもを産むまでの間にマリアがこの家を訪ねてこないことだとはいえ、それから先どうしたって隠して生きて行くことになるのは目に見えている。どうしようかね。田舎にでも引っ込んでしまおうか。

「王都から少し離れた所に、俺の持つ領土がある。そこに引っ越してしまう?」

「それもいいかもね。ただ今すぐに動く気にはなれないよ。つわりも酷くてね」

「そうなんだよ。そんな気がしてたから君の家を王都の中にしたんだ。王都の中なら医師も呼びやすいし」

 なんだかね。隠してたのにばれてたってのが気に食わない。そしてそれを言わなかったメリエルの気遣いも有難いような大きなお世話なような微妙な心境だよ。ただ、メリエルにばれてたってこと自体はそんなに驚きもしないけど。そんな予感はしていた。離宮から離れる最後のほうは体調不良も隠せないほどお腹の子は育っていたし。それでも医師を呼ばなかったのは裏でメリエルが離宮の侍女や従者たちに言ってくれていたかららしい。そこからメリエルの子じゃないのか? という疑問も起きたらしいけど、それは放っておいたよ、とメリエルは笑っていた。だからマリアは私の子の存在を知っていたとしてもメリエルの子だと思ってる可能性が高いってことさ。本当にがらくただらけだね、私の周りは。

「あんたは気の使い方が本当に小憎たらしいよね。この子の父親のことだってそうさ、この子の存在を知らせない手もあっただろう?」

「なかったよ。体調不良を隠すにはそれ相応の理由が必要だろう? 俺が父親だっていう振りをするしかなかった。マリアの子だと分かったら王宮に盗られるよ。……その子の名前は俺が考えようか?」

「嫌だよ。妙な名前にされたら困る。私が考えるさ」

「マリア――とか言わないよね」

 その言葉に、私は驚いて目を丸くした。まさかそんなすぐ父親がばれるような名前にはしないつもりだったけれど、そういったセンチメンタルな名前がメリエルの口から飛び出すなんてね。驚きだよ。

「言う訳ないだろう。縁起でもない」

「親の名前を子が持つのは普通だぜ?」

「あんたはあんたの子にメリエルとでも名付けてるのかい」

「名づけるなら二世を付けるよ」

 そう言ってメリエルはからから笑う。この王子が笑うと歯がちらちら見える。マリアと違ってお上品に口元を隠すなんてことはしないのだ。そこは私は気に入っているけれど。

「俺の子は女の子ばかりだ。それでも可愛いよ。父親に良く似てる」

「良く言うよ」

 私が言うと、メリエルはにやりと目元に笑みを浮かべた。親馬鹿の顔だ。子どもが可愛くて仕方ないんだね。

「君にも産んで欲しいと思ったことはあったけど、なんだかね。遠い過去のことみたいだ」

「産んで欲しいじゃなくて抱いてみたいの間違いだろう」

「おや。分かったかい?」

「馬鹿だね。あんたってば本当に馬鹿だ」

 色欲魔が子どもを得て可愛がってるなんてとんだお笑い物だけどね。こんな奴が王子だなんてとんでもない。飼われてる娼婦さんたちはどんな気持ちでいるんだろう。ただこんなお気楽な奴だから、またあのひとったら、なんて軽く言われるだけかもね。一人にどっぷり惚れこまれるタイプではない。ただ正室でありながら子の一人も成せていない隣国のお姫様が可哀相だけれど。

 それでも今あれるのはメリエルがいたからだろう。マリアの傍にいたらこんな日は来なかった。来たとしてもそれはもっと悲惨な格好になってからだっただろう。これ以上マリアに入れこんだ状態で、実は僕結婚したんだ、ミーシャ、僕の子を産んでくれ、何て言われてたらと思うとぞっとするね。メリエルの大きなお世話も周り回って私のためになったのかもしれない。皮肉な話だ。


 歴史をひも解いてみれば、王様が一介の娼婦に子どもを孕ませたという話は多いのだ、とメリエルは言った。私はふうんとそっけなく答えたけれど、内心少しほっとしていた。なんだ、よくあることなのか。それでもやっぱり男の子だと分かれば連れて行かれることのほうが多いんだとか。大事な世継ぎだ。そりゃそうだろうね。女の子ならそのまま放置もあり得るんだとか。女の子だったらと願わないことはない。ただ、私はきっと男の子でも女の子でもこの手で育てたいと願うだろうと思うよ。王宮に盗られるなんて御免だね。それをあんたに言ったところで仕方ないんだけどさ、とメリエルに愚痴れば、仕方ないということはないさとあっけらかんと言われた。

「俺が裏で動けば少しはなんとかなるかもしれないだろう? それにマリアも君が頼みこめば君が育てるのを許可するかもしれない。王妃様が何と言うか分からないのが一番の問題だけれど、マリアは男の子が生まれたと知ればきっと君ごと王宮に連れていくよ」

「王宮に一緒に連れて行かれるならいい、って話じゃないんだよ。私は私の手で育てたいんだ。王とか王子とか関係ないところでのんびりとさ」

「それは無理な話だ。でも俺の子ならそれも可能かもしれないぜ? 桃色の髪の子が生まれたら俺の子ってことにする?」

「いつばれるか分からない嘘だね。でも乗らないほど野暮でもないよ」

 にやり、と笑って見せる。私はこんな風でしか笑えない。笑い方なんてもう随分前に忘れてしまった。それでもメリエルは本当に楽しそうに私と会話してくれる。なんだかね。私も好きになる相手を間違えたようだ。初対面がまずかったんだよ、メリエル。あんたのことを好きになっていて、一緒に逃避行でもしていたなら、今頃私は違う人生を歩んでいたはずだ。もっと簡単で分かりやすい未来をね。

「出産届の父君の欄には俺の名前を書かせて頂こうか」

「……金髪が生まれないよう願うばかりだね」

「いざとなったら頭を隠させようぜ。それしかないね」

 ただ――と言ってメリエルは言葉を切る。一寸の間をおいて、再度口を開いた。

「男の子だったら、俺の名前でもまずい。王位継承権は俺にも一応あるんだぜ? マリアがいるから目立たないだけで。一応はれっきとしたオウジサマってわけだ。その子どもが男の子となれば王宮に連れて行かれるだろうね」

「頭が痛いよ」

 そう言って、私はお腹をさする。あんたが男の子でも女の子でも歓迎してやりたいけど、どうにもそれはできそうにないみたいだ。ただ私でもマリアでもどちらに似ても女の子らしい顔立ちになるだろうから――マリアは甘い顔立ち、と言えば聞こえはいいけれど、その実、王妃様の肖像画そっくりの女らしい顔立ちをしていた――女の子と偽って育ててやってもいいんだけどね。

「へえ、それは名案じゃないか。そうすればもう男の子か女の子かなんてことに思い悩まなくて済む」

「ただ、これじゃこの子が不憫だよ。男なら男らしく外を駆けまわって欲しい」

 私が女の子として育てる、という案を言うと、メリエルは喜んだ。しかし私は渋い顔のまま。子どもは自分らしくのびのび育てばいいんだよ。そうしてやりたいがために王子様にさせたくないのに、女の子として育てるってのは本末転倒だ。

「構うもんか。いいかい? 王宮の使いが来た時だけ女の格好をさせておけばいいんだ。子どもの間はそれでなんとかなる。大人になっても喉元や体格を隠す格好をさせておけば、化粧をしただけで女に見えるだろうね。君とマリアの間の子じゃ顔立ちはどっちにしろ女らしいよ、きっと」

「そういうもんかね。嫌がりやしないかい?」

「それは分からないね。その子がどう育つかだ。ただ王子様になることを喜ぶ場合もあるんだぜ?」

 うちの姫君は実際お姫様になりたがってる、とメリエルは言葉を続ける。私は腹をさする手を止めて頭に手を置いた。ずきずきと鈍い痛み。偏頭痛は考えすぎからだ、きっと。ストレスがあまりにも多すぎる。こんなことならあの時必死に抵抗すれば良かった――と思ってみたところで、所詮は女の力、男のマリアには敵わなかっただろう。結局全てマリアのせいなのだ。私たちの間柄をより濃いものにしたがったマリアのせい。気持ちは分かるよ。私も飼い殺しにされてるままで気が済むのならそれでよかった。ただいけなかったのはあんたが結婚したことを私が許せなかったことだ。それだけが悔やまれる。ごめんよ。分かりきったことだったのにね。人の心ってのはどうしてこうも厄介で、私ときたらなんて我儘な女なんだろう。嫉妬しないといつか言ったけど――私は実際嫉妬したのだ。私はここで飼い殺しにされるのに、あの赤毛のお姫様だけマリアと結婚して、しっかりとした間柄が出来あがって、周りからも祝福されて……私がどうしても欲しかったもの全て、あの赤毛のお姫様が得てしまったから。

「お姫様にしてやりたくてもできないんだけどね。周囲がどう出るか分からない。女の子なんて肩身が狭いもんさ。しかも娼婦の子ときてる。何もかも俺が悪いのは承知の上だけれど――どうしても夢見たようにはいかないんだって、大人になったときに分かってくれれば助かるんだけどね」

「あんたはあんたの方法で守ってるってことか」

「そうだよ。お姫様にしないことが俺が俺の子を守る方法だ。王宮に入れさせたところで辛い思いをするのは子どもたちだからね」

「それをマリアも分かってくれたら――」

 言いかけて、やめた。マリアはきっと分かってる。王宮に入れたところで子どもの未来にも何もない。それでも子を欲しがったのだ。しかも男の子を。男の子を、と注文を付けたのは精一杯の譲歩だったのだろう。あのマリアでさえも王宮や周囲の貴族から子どもを守ることを一瞬は考えたってことだろうね。男の子ならマリアの子がその子一人きりだって言うのならその子を王にするしかない。周りはそのことに何も言えない。それこそがマリアの守り方だったんだ。でも女の子なら? 女の子は捨て置く、というつもりでもないだろう? 女の子ならそれはそれでマリアはきっと連れて行く。そして自分の傍で立派なお姫様に育て上げるんだろうね。でも貰い手はきっとないよ。なんであれ母親の血筋が悪すぎる。分かってるだろう? なのになんでそんな無茶な賭けごとをしたのか。決まってる。全てはマリアの身勝手だ。私との愛を具現化したかった。たったそれだけ。そんなものがあるかどうかも知らなかったくせにそんなくだらないものを欲しがったのだ。身勝手と言わずして他に何と言う。

「君も気苦労が絶えないね」

「本当だよ。毎日、子どものことを考えるたび頭が痛くなる」

 せめて――本当にせめて、せめてだから金髪では生まれないでいてくれたら。そうしたら、メリエルの子としてこの家でも無理すれば暮らせるだろう。ただ私は王都に未練なんてないから、田舎に越したって良い。ただメリエルの子となれば田舎に引っ越した方が疑われるだろうね。それだけが怖いよ。女の子でいてくれ、とまでは言わない。男の子だったらその時どうにかするさ。泣いてでも守ってやる。王子様になんかするものか。メリエルも頼ってくれと言ってくれてるんだ。頼るさ。なんにでも頼るね。この子を守るためならなんだってやってやる。再びスラムに戻ることになっても、メリエルに子を預けて私だけ戻るさ。

「あんたが居てくれて本当に助かるよ。礼を言う」

「おや。らしくもない。やっと俺の価値が分かった?」

「自分に価値があるなんて言う奴、本当は大嫌いなんだけどね」

 妹は別だ。あの子は命あるものはみな価値があると言っていた。私にもあるのよ、姉さんにだってあるわ。遊郭に入ったすぐのころにそう言って堪えていたっけ。もう随分昔の話だ。あの頃は私は私がこんな運命を背負うことになるだなんて思ってなかった。

「さて――そろそろかな」

 そう言って、メリエルはおもむろに席を立ち、窓を開け放った。瞬間なんだかうるさいなと思っていた外からの歓声が鮮明に聴こえて、私は慌てて両耳を手でふさぐ。片手を外してメリエルに問うた。「なんだい? 騒がしいね」

「俺たちにとって、今必要な人物の登場さ」

「はあ?」

 何を言ってるんだ、という私に、まあいいから外を見て御覧よとメリエルは言う。私は両耳を再びふさいで、窓際に立った。王城へと続く一本道が遠くに見える。ここは二階だから、その道が小さく見えた。――パレードをやっている?

「号外、号外!」

 家の外で、新聞屋が何かの号外新聞を配っている声が聞こえた。良く見れば、二階の窓から顔を出して王宮へと続く一本道の方を見ている人は沢山いる。中にはそっちの方向向かって急いで走って行く人も見えた。何のパレードだろう? 私たちが一番必要としている人物? メリエルは一体何を……。

「――第二王子ライリオン」

 メリエルが口にしたその名に、私はぱっとメリエルの方を振り返る。不敵に歪んだ唇。この男はこんなときも笑っている。

「スラム出身の娼婦と、王との間に生まれた、可哀相な王子様さ」


 ライリオン様、というのは、私も名前とその出生だけ知っている。スラム出身の母親。そのため、ライリオン様はスラムではとても人気があった。貴族からどう見られていようと、スラム出身の女が産んだ王子と言うのはスラムの羨望の的となる。嫉妬も多いだろうけれど、それを補って余りあるものがあった。私も遊郭に居た頃は、寝た男と他愛もない話としてライリオン様の話をしたことがある。あの時は「ライリオン様は素晴らしい、あんなに立派な王子はいない!」とその一本調子で、私もほぼ聞き流していたからあまり内容も覚えていないけれど。確か――将軍、だったか。現在の王国騎士団のトップ。黒旗――近衛、と言えば分かるだろうか――の騎士団長と同じ身分だ。スラム出身の母を持つにしては良い職に就いていると思う。それだけ王様は母親を愛してたんだって話だよ。嘘か本当かは知らないけれど。

 メリエルは、王宮へと行く一本道へと行く道すがら、簡単にライリオン様のことを教えてくれた。

「一番父上に愛されていたんだよ。母親がね。王妃もそれがあってライリオン兄上が王になるんじゃないかって怯えて嫌っているってわけ。マリアがあてつけに応接間に肖像画を飾っていたのはそういうことだよ」

「でもそれも片付けてしまったんだろう? ライリオン様は本当に王になるのかい? まさかね」

「まさか。そうだよ、そんなことありえない。でも王妃様は怖いのさ。不安要素は潰しておきたい――でも何をしたって父上は兄上を信じて、結局将軍まで上り詰めた。まさに奇跡の王子だよ。その人柄も――まあ硬すぎるところがあるけれど――良いしね。父上が気に入るわけだ。気品もある」

「しかも美形だ。母親は随分綺麗だったんだろうね」

「そりゃ肖像画を見る限りかなりの美女さ。兄上は父上の良いところと母君の良いところを選んだかのような顔立ち。社交界の人気こそないけれど、間違いなく俺たち兄弟の中では一番の美男だろうね」

 メリエルの言葉に、私は頷く。

「自分がそこまでじゃないことは心得てたわけか」

「ん? 嫌味かい?」

 メリエルが笑う。私はどうだろうね、とごまかしておいた。

 つまり、王妃様は何度もライリオン様を失脚させようと画策したけれど、そのどれもが失敗に終わって、気分が悪いままだ、ということか。だから「母上の嫌いな人だ」とマリアはライリオン様のことを言っていたのだろう。……可哀相に。王様の愛ひとつだけでは足りず、王妃様や周囲の貴族から王子という称号を奪ってしまおうとされるなんてね。マリア、あんたはそんな先人を見ながらも、私との間に男の子を欲しがったんだね。本当に、どうしようもない奴だ、あんたは。王様が全部ライリオン様を信じて王妃様のそんな謀を潰してきたという話だから、もしかしたら自分さえ子を信じてあげればなんとかなるとでも思ったのかもしれないけれど。

「ライリオン様は、将軍に上り詰めて――それも奇跡だと言うなら、私の子が王になるなんてそれ以上の奇跡というわけだね」

「そうだよ。そんなことはあまり考えない方が良いけれど――マリアが他に子を成さなかったら否が応でもそうなるだろうね。つまり無理難題ではないってことだ。マリアもそれを考えていたんだろうね。君との間以外では絶対に子を成さないと」

「……赤毛のお姫様がどう動くか分からないじゃないか。本当に馬鹿だね、あいつは」

「リディアは気品のある立派なお姫様だよ。移り気でもない。マリア以外の男には触れさせないだろう。つまりマリア以外の男と寝て子どもを作って王にする、なんて考えないってことさ」

「――赤毛のお姫様は……マリアのことが好きなのかい」

 びっくりして、訊き返した。それからまたしまったと後悔する。メリエルは真面目な顔になって、こちらをじっと見つめた。

「そうだよ。リディアは子どものときからマリアのことが好きだ。一途なもんだよ。マリアと違ってブームなのか分からないなんてものじゃない。本物だ。本気でリディアはマリアのことが好きだ。でも引っ込み思案でね。おまけに自分に自信が無いときた。しかも結婚式ではキスもしてもらえなかっただろう? 気に病んでるみたいだよ。君のこともマリアに訊けないままで悶々としていらっしゃる。可愛げがあるとは思うけど俺の好みの話さね。マリアは君しか見えてないのが同情を誘う」

「……あんたは本当によくしゃべるね」

「訊いてきたのは君だろう?」

 メリエルは目を弧にして笑う。メリエルは私とマリアのことをどう思っているんだろうね。復縁して欲しいと願っているのならリディア様の話なんて聞かせないだろうし――第三者であってそれ以上でもそれ以下でもないのかな。そんなもんか。自分の弟とはいえ腹違いだ。湧き上がる情も薄いんだろうよ。

「あんたたちは冷たい関係だね」

「なんてったって次期国王陛下と普通の王子だからね。兄弟と言っても名ばかりだ。幼少のときからあまり繋がりはなかったよ。互いのことは互いの従者や侍女から話を聞くだけさ。――君を見に行ったのも話を聞いたからだ。マリアが娼婦に入れこんでる、離宮に住まわせてるって聞いてどんな子だろうってね」

「離れ離れだったのかい」

「俺は俺の離宮に住んでて、マリアはマリアの離宮で幼少期を過ごしたんだよ。あの離宮ではないけどね? もっと大きくて、王妃様好みの離宮だ。今はセルフィウス――第五王子が暮らしている。マリアは15の誕生日にあの離宮を貰ったんだよ」

「誕生日プレゼントに城一つか。規模が違うね」

「そりゃそうだ。次期国王だぜ? 俺は娼婦を飼う館を貰ったけどね。人のことばかり言えない」

「別の意味で人のことを言えないよ、あんたは」

 呆れて言う。メリエルは声を出して笑った。

「しかし、ライリオン兄上は何も貰ってない。父上から将軍の位を貰ったのが一番大きな誕生日プレゼントだろうね。離宮は生まれたときに貰ったのがそのままあるけど、俺たちのと比べると城というより屋敷だ。それも噂によれば王妃様がライリオン様を遠ざけるために作ったらしい」

「本当に、何から何まで王妃様に嫌われているんだね」

「何もかもが気に入らないってことさ。そもそも父上が兄上の母君に入れ込み過ぎたのが原因だろうね。いつマリアの王位継承権が兄上のと逆転するか分からないって、王妃様はそんなことを怯えているのさ」

 そう言ってメリエルはわざとらしいため息をつく。そこでぱっと道が拓けた。――王宮に続く一本道に出たのだ。

「号外、号外!」

 またここでも、号外が配られていた。今度は私もそれをもらう。第二王子ライリオン殿下、武勲をあげて無事帰還。つまり戦争に勝ってきたってことだ。なるほどね。そういうパレードか。ライリオン様はまた民衆の支持を得たってわけだ。王妃様も、メリエルの話から察するところによれば面白くないだろう。マリアも王妃様の癇癪に当てられたりするのかな。可哀相だ。王妃様も可哀相だし、マリアも可哀相。ライリオン様も武勲をいくら上げても満足できないだろうね。その先がないんだから。

 そのとき、群衆の群れから一個の卵がライリオン様向けて投げられた。それが当たる寸前にライリオン様は頭をさっと動かして避ける。馬の上でもその動きに無駄はないしぐらつきもなかった。その卵が別の民衆に当たって罵倒が飛ぶ。スラム出身の王子様は一部の民衆にさえ嫌われているようだ。スラムに住んでいるばかりで王宮へと続く一本道だなんて客を引くときしか出てこなかったから、こういったパレードでの騒動は初めて目にした。驚く私を尻目に、メリエルはしらっとしている。慣れているのが分かって、いつもなのかい? と尋ねればまあねと気のない返事。メリエルも仕方ないなあと思っているらしい。

「くだらないことするよなあ」

「本当にね」

 外野の――私たちの、――声は群衆の歓声に埋もれてライリオン様には届いていないだろう。それは簡単に理解できた。ライリオン様はメリエルの姿に気付かずに王宮へと去っていく。小さくなっていく背中を見ながら、メリエルは言った。

「本当に困ったことになったらあの人に助けを求めよう。君の子に一番近い人だよ。きっと何か知恵があるはずさ」

 メリエルはそう言って微笑む。私はその笑顔を見ながら、お腹をさすっていた。


「ライリオン様とあんたは、何の関わりもないのかい?」

「ないね。同い年であるくらいだ。その他に接点はない。俺が生まれた時、ライリオン兄上は第二王位継承権を持っていた。でもそれも俺の側近たちが争って俺に移されたことがある。それだけだよ。あっちは恨んでるかもしれないけど、マリアが生まれた今それも過去のことだ。何とも思ってないだろうね。事実俺も何とも思ってない」

「そりゃあんたが加害者だからだろう。第三王位継承者に落とされたなんて、可哀相だよ。ライリオン様のほうが早く生まれたのに」

「月違いだぜ? だから俺に王位を奪われることを許したんだ。当時の兄上の側近は父上だよ? 父上は側近の役割も果たしてた。兄上を厭う輩ばっかりで、側近になろうとする奴はいなかったから」

 帰りの馬車の中で、揺られながらそんな会話をする。やっぱりライリオン様は可哀相だ。第二王子なんて名ばかりで、その実、王子としての扱いもろくに受けていないらしい。それで王子を名乗っているだなんてどれほど肩身が狭かっただろうね。遊郭に居た頃はその噂話を聞いても何とも思わなかったけれど、自分の子がそうなるかもしれないと思う今ならその辛さが分かるような気がする。まあ人となりを知らないから勝手なことばかりも言ってられないけれど。

「それじゃあ今は側近はどうしてるんだい。従者や侍女や、色々必要だろう?」

「ほとんどが騎士たちさ。騎士からの人望が篤くてね」

「なるほどね。だからこその将軍職か」

 頷き、腹をさする。この子はそこまで武術やカリスマ性のある子には育たない気がするよ。武勲をあげてご帰還――なんて新聞には書かれていたけれど、この子が男の子でもそんな日は来ないだろうね。マリアはどう見ても武術に関心があるようには見えなかったし。やってみてもきっとさっぱりだろう。本ばかり読んで陽射しを浴びてないのだろうと察することができるほど白い肌。今でも思い出せるよ。あんたは本当に貧弱で、見るからに貴族だったね。王子様らしい王子様だったよ。

「将軍になった今でも王妃様は兄上の失脚を狙っている。最近は位が高くなるのが嫌でも高ければ高いほど落ちた時が辛いだろうと言っているそうだよ。怖いね」

「……本当に怖いね、そりゃあ」

 赤毛のお姫様はそこまでするようになるのだろうか。分からないね。引っ込み思案で自信がない。メリエルは貴女のことをそう評価していたけれど、それが事実ならきっと私たちのことも放っておいてくれるかもしれないね。それでも知ってるかい、メリエル。大人しい子のほうが怒ると怖いんだよ。やっぱり私はどう考えても自分の子を王子や姫にしたくない。怖いと分かっている世界に入れたくないよ。願うことはどうか平坦な道を、だ。でこぼこと分かっていてわざわざそこを歩かせる意味がどこにある。転んで擦り切れて痛くて泣くだけだよ。可哀相じゃないか。マリアもなんでそんな、可哀相な人生しか待ってないような子を産ませようと――身勝手だ。そこまで考えてなかったんだろうね。今頃王宮やどっかの離宮でマリアも頭を抱えているかもしれないね。自分の子が居るとさえ分かっていればの話だけれど。王宮の使いがくることもない現状を見る限り、マリアやその周囲がマリアの子の存在を察知しているとは思えない。有難い話だ。ぜひこの子が死ぬまで気付かずに居てくれ。

 赤毛のお姫様がマリアのことを好きなんだったら、娼婦の私に子がいると知ったら怒るだろうね。怖いよ。

「赤毛のお姫様は、本当にマリアのことが好きなのかい?」

「言っただろう? 本物だよ。本物の恋だ。愛にまで満ていない可哀相な恋心。哀れだね」

「結ばれても心も体もばらばらか。可哀相に。……でもそれを私が言うのは不相応だね」

 メリエルはこちらを見る。私は意識して目線をそらしていた。お腹の子を見る。まだ膨らんではいないけど、私の体が随分ふっくらとしてきたよ。肉は付きにくい方だったはずなんだけどね。ぱっと見じゃただの太った女だろう。有難い。生まれるその瞬間までそうでいてくれれば助かるんだけど。無理な話だね。ごめんよ。

「キスさえしないとはマリアも徹底している」

「女として見れないと言っていたよ。赤毛のお姫様が可哀相だ」

「女として見れない?」

 そういえばこの話をメリエルにするのは初めてかね。私は事の次第を話してやった。マリアが赤毛のお姫様と傍に居過ぎて赤毛のお姫様のことを女として見れないこと、それなのに婚約者にされて窮屈に感じていたこと――そして結婚式当日の引きとめて欲しそうだった様子のこと。メリエルは全部を聴いて息を吐いた。

「その時引きとめていれば君がマリアの相手だったかもしれないのに」

「それは嫌だったんだよ。怖かったんだ。そうなったら私はきっと飼い殺しの娼婦のままでは居られない。今思えばあの時引きとめていたら王妃様の手が私の首に伸びていたかもね。嫌な話だ」

「あり得ない話じゃないね。ということは引きとめなくて正解だったと言う訳だ」

 間違えたのはマリアが君を孕ませたことだけかな。メリエルはそう言ってこちらを見る視線を外へと移す。メリエルの豊かな黒髪が風になびいているのを見て、私はすぐにメリエルから視線をそらした。マリアも綺麗な金髪をしていた。王子様方の髪の毛は本当に綺麗だ。マリアは女の髪が特に好きだったと言うから、きっと自分の髪も特別整えていただろう。事実それはいつも絹の糸のように滑らかだった。

 がたごとと、石を敷き詰めた道を馬車が走って行く。その車輪の音が大きく耳に響いて痛いよ。腰にもあまり良くないだろうね。今後は外に出ることもあまりしない方が良いかな。散歩くらいは良いかもしれない。近くにバザールがあったっけ。たまに顔を出しても良いだろうか。盗ることには慣れてても買うことには慣れてないから、やっぱり従者に付き添ってもらって馬車かな。……というよりそういったことは侍女に任せるようにメリエルにも言われてるんだった。なんだかね。飼い殺しだった頃とあまり変わらないよ。あまり外に出れない状態で、メリエルもどこで新しい男を見繕ってこいと言ったんだろうね。

「気分転換の仕方が分からない?」

 私が鬱々とそんなことを考えていると、メリエルはずばり言い当ててきた。私は驚いて顔をメリエルへと向ける。メリエルは笑っていた。

「良く分かったね」

「分かるさ。退屈だなって横顔に書いてあった」

 見られていたのか。メリエルの鋭いところには本当に感服だよ。嘘をついてもすぐばれる。

「劇場にでも仕立屋にでもどこにでも行けばいい。ショッピングさ。気が晴れるぜ? 何も物を貢ぐだけが金の使い方じゃない。娼婦の君も、貢いでもらうだけが商売じゃない」

「商売はもう降りたよ。お腹に子が居る状態で誰と寝ろっていうんだい」

「本当だね。そりゃそうだ。でも新しいコルセットやドレスがいるだろう。マリアが贈ったドレスはもうほとんど苦しいんじゃないか?」

 その通りだ。マリアから貰った衣装やその他装飾品、本などの品々はほとんどこちらの家に持って来ていた。他でもないマリアがそうしろ、と言ったらしい。メリエルから聞いた話であって私が直に言われたわけではないんだけれども。私はじゃあねと言われたのが最後で、それから先は全くマリアと顔を突き合わせていなかったし、マリアから伝言があることも、私からそれをすることもなかった。あれが本当の本当に私たちの最後だったのだ。離宮に残した衣装は最初に着ていたボロボロの外套と小さくなってしまった衣装や飽きた装飾品。それもきっと焼却処分済みだろうね。マリアがそれに固執しているかもしれないけど、それも赤毛のお姫様には可哀相な話だ。願わくば私のことなんて忘れて全て燃やしてしまって欲しい。覚えていられないと悲しいけれど、それを願うには私は汚れすぎているんだよ。がらくたががらくたを恋患ったところで、お姫様には迷惑なだけなのさ。

 体が大きくなるにつれ、マリアから貰った丁度いい品々はメリエルの言うとおり小さくなって来ていた。お尻とお腹周りが苦しいんだ。コルセットも苦しい。あまり締め付けるのも良くないと言うし、どうしようかと思っていたところだよ。そういえばメリエルは最初から自分の好きなものを好きなだけ買うお金の使い方を私に教えてくれていたね。今それが役に立つってことだ。人生何があるか分からないね。話半分に聞いていた事柄が今や自分の身にとって必要な事柄へと変わってしまった。あの頃はまだマリアの離宮で飼われていて、このまま飼い殺しになるんだろうと思っていた。だから必要なかった。必要なものはマリアが揃えてくれていたからね。でも今や私はそれを自分でしなければならないわけだ。メリエル好みの派手な格好をしたくなければね。

「丁度外に出たことだし、ついでに仕立屋にでも寄っていくかい? 服は急ぎだろう」

「そうだね。それもいいかもしれない」

 風に髪を遊ばせながら、私はそう返事する。自分で衣装をデザインなんてできないよ、と零すと、メリエルは言った。

「マリアが好んでいる仕立屋がある。そこに頼むかい? それなら俺が一人で行ってくるよ」

「馬鹿。それじゃあ私が太ったことがばれるだろう」

「構いやしないよ。お腹に俺の子がいるってことにはなってるだろうしね」

「それでもマリアの好みの姿で居る必要はないだろう。自分で好きな仕立屋を探すよ」

「そうかい。まあそれが賢明かもね」

 メリエルは笑う。本当を言えば、マリア好みの姿で居たいけれど、それは叶わぬものだ。そんなことをしたらこちらが未練を持っていることがマリアに伝わってしまう。桃色の髪の女が来ましたよ、マリア様の買っていた娼婦ではありませんか? なんて仕立屋の主人が言ってみな、それですべておしまいだ。この子の未来も王女か王子に決まり。窮屈だね。本当に苦しい。


 ドレスの仕立屋を選ぶのは、本当に骨が折れた。ただでさえつわりで体調不良のところに馬車に乗って引きずりまわされて、ゲロゲロ吐いて、それでもやっと一件見つけてそこに頼むことにした。サイズは少し大きめ、コルセットも大きめ。出来るまで何度か通ってくださいねと最初言っていた奥さんはメリエルの顔を見るとすぐさま私が行きますから、と言葉を変えてきた。メリエルの顔は王都では通用するんだね。スラムでは通用しないよ。マリアの顔がせいぜいだ。

「いやはや、無事決まってよかったよ」

「本当にね。何度あんたに任せてド派手なのを着てやろうかと思ったことか」

「ド派手とはまた」

「本当のことだろう」

 笑うメリエルに睨みで返す。なんだろうね、この王子様には何を言っても柳に風と流してしまうところがあるよ。

「それにしても、なんというか……君が選んだところは」

「なんだい」

「いや、言わないでおこう」

 口に手を当て、悪戯っぽい笑み。どうせマリアの趣味に似てるとでも言いたいのだろう。私も決めてから思ったことだ。そりゃ第三者が見ても気付くだろうよ。マリア付きの仕立屋でこそなけれ、それにとてもよく似たところだった。生地の良さや、扱いの丁寧さ、それらがマリアを思わせたのだ。もちろん意識して選んだわけではない。事故だよ事故。

「分かってるんだよ。未練たらたらさ。それでももう関わらないって決めたんだ」

「――紙一枚挟んだところで関わっている気もするけれどね。まあいいさ。君がきめたことならその通りにすればいい」

 そういえば、と私は帰りの馬車の中で言う。

「あんたが思っていたよりもちょこちょこと通ってくるせいで、周りは私のことをあんたの女と思ってくれているらしいよ。この間馬車に乗ろうとしたところを捕まって、メリエル様の側室ですか? と訊かれた」

「はは、そりゃあいい。なんて答えたわけ?」

「あんたに関係あるのかい、とね」

 私の答えに、メリエルは腹を抱える。ひいひい言って涙が出るほど笑った後、急に真面目な顔になった。

「まあ、現実的な話、今のところは俺の娼婦としていてくれればいいよ。子どもは男の子だったら――君の名誉に傷がつくかもしれないけれど――他の男の子だと言うことにしないかい? 金髪でもそれなら説明がつくだろう」

「離宮に居た間に妊娠したんだよ。他の男が寄る隙間なんてどこにあったんだい」

「早産だったとでも言えばいい。なんであれ証拠なんてないんだ。俺が怒ったということにして君を田舎まで飛ばしてしまえばそれでおしまいさ。どう?」

「綱渡りだね」

「今に始まったことじゃないよ」

 君の子を隠している今こそが綱渡りなんだよ、そう言われてしまえば返す言葉もない。私は黙り込んだ。馬車はがたがた揺れてあまり好きじゃないけれど、外出することが増えた今、少し慣れてきた。吐く回数も減った。良いことだ。

「なんにせよ、マリアは君の子が俺の子だと思ってるうちは君のことを信頼していないだろう。だから俺が他の男を離宮に連れ込んだことがある、とか、離宮の従者に手を出されてたとか言えばそれを鵜呑みにするかもしれない。それに賭けるんだよ」

「離宮の従者があまりに可哀相だ。あんなに真面目なのに」

「それを言ったら君だって可哀相だ。こんなに子を守ろうとしてるのに、どうしたって君は報われないときてる」

「私は報われるよ。子を盗られなければ報われる。あんたの子だってことにしたいけど、金髪で男の子だったらそのときは田舎に飛ばしておくれ。そちらの方が気が楽だ。田舎で暮らすよ」

 王都に残る理由もないしね、そう言う私にメリエルは微笑む。手を伸ばして、私の腹に触れてきた。手つきは優しい。労わってる優しさだ。……この手の相手がメリエルじゃなくてマリアだったら。そう祈らずにはいられないね。なんにせよ今まで苦労しすぎた。私は涙が目尻に溜まってきていることに気付いて、こっそり拭った。しかしメリエルは目ざとくそれを見つける。

「泣いている」

「泣いてないよ。ちょっと黙ってておくれ」

 つんと返すと、メリエルの小さな笑い声が聴こえた。何がおかしいんだい? あんたは本当に訳の分からない奴だね。いつも笑ってさ。何がそんなに面白いのか私にも教えておくれよ。きっと理解できないけれど。

「……いつかあんたは言ってたね。希望も持たずにあるのは辛くないか、ってさ。辛いよ。希望なんてない。その先に何もないと分かってて生き続けている。なんのために? って何度思ったか分からない。でもそのたびに、妹やこの子の存在が私を勇気づけるんだ。もうそこまで私はこの子に依存してるんだよ。それを盗られるなんて考えただけで寒気がするね」

「隣にマリアが居れば君はもっと幸せだったはずだ。違うかい?」

「それを言ったところでどうなる? 私はどうしたってあの赤毛のお姫様には敵わなかったよ、マリアをお姫様から取りあげて隣に置いておくなんて出来なかった。いつかは捨てられる運命だったのさ。手を離したのが私からだったというだけの話で」

「――君は物分かりが良すぎた。たまには全く何も考えずに泣き喚いたってよかったんだよ。そうすれば未来は変わったかもしれない」

「それが希望を持つってことかい」

「ちょっと違うね。でも頭が悪いほうが良かったってことはいくらでもある」

 分かるかい? メリエルは訊ねる。私は頷いた。分かる。そうだよ、何も分からずにいれば楽だったということはいくらでもある。でも分かってしまったんだ。考えてしまうんだ。悪癖だって分かってる。でも仕方ないだろう?

「君は最初からマリアに捨てられてスラム生活をすることを恐れてたね。それでもその子のためなら田舎に越すこともやぶさかじゃないと言えるのかい?」

「詭弁だって言うのなら言えばいいさ。私は言うよ。田舎にだっていける。でもスラムに行けと言われたら私一人だけにさせてもらう。この子にスラム暮らしなんてさせたくない。それなら王子にでもお姫様にでもなってもらった方が――いや、どっちがいいんだろうね」

 私は遠くを見つめながら話す。メリエルは相槌を打ちながら聴いてくれた。

「どちらもどちらだ。ただ、俺は君とその子をスラムに落とすことはしないよ。マリアだってきっとそうさ。最悪田舎暮らしだ。気楽なもんなんじゃないかい? 金髪の男の子のほうが幸せを呼ぶかもね」

「そうだったらいいんだけど」

 私は頭に手を置いた。ずきずきと鈍い偏頭痛。もうこれもおなじみだ。この子のことを考えるといつもそうなんだよ。前も言ったっけね。

「金髪の男の子なんて縁起でもないよ。もし顔立ちが似ていたらと思うとぞっとする。その子を見ながらマリアのことを考えない様にしなくちゃいけないんだ。無理だよ。金髪で男の子で顔立ちが似てるなんて、まるで生き写しだ」

「そうだね。そうなったらもう言い逃れはできないかもしれない。顔立ちが似てないことを祈ろうか」

「祈りがころころ変わるね」

「まったくだ」

 この間は金髪じゃなければ、その前は男の子じゃなければ、今は顔立ちが似ていなければ。挙げ連ねてメリエルは笑う。なんだかね。この王子様の隣に居ると未来が身近でとても優しいものに感じる時があるんだ。それがただの気のせいだってのは分かってても、やっぱりメリエルの言うとおり気楽なものであってくれたらと願わずに居られないときがある。涙が出そうなときがある。一人で悶々としてたらこの子ごと妹のところに逝ってたかもしれないね、私は。マリア、あんたは私をそこまで追い詰めたかもしれなかったんだ。その恐ろしさが分かるかい? 自分の子じゃないかもしれないと疑ってる間はそれに気付かないかもね。もしかしたら自分の子と気付いた後もそのことに気付かないかもしれない。でも私は知っている。あんたがそこまで馬鹿で、どうしようもないオウジサマじゃないってことくらい。

 ――だからつらいんだ。あんたのことを考えると胸がきりきりと痛む。どうしたって私たちにある未来は辛いもので、それは私とあんたが隣に居続ける選択をしたらますます苦しくなるもので、そうあることを知っているという事実がとても痛い。何も知らずお気楽にただ傍に居たいから居続けるなんて馬鹿な真似が出来ればいいのにそれもできず、考えて考えて私は今ここで縮こまって座って、この子が生まれてしまってからの未来を考えて鬱々としている。王子にはさせたくないよ。姫なんて言語道断さ。分かっているだろう? そんなことになったら一番つらいのは私と子どもなんだよ。あんたじゃないんだ。分かってる? でもそれを見てきっとあんたも辛くなるんだろう、傍にいるしか出来ない自分が嫌になる日だって沢山あるだろう。そうなることが分かってても傍に居られるかい。私は無理だね。だからこうしてメリエルに頼って逃げている。この子のお父さんはメリエルだよ。それか名前も知らない侍従の誰かさ。出産届の父親の欄は空白かもね。そこにマリア、あんたが名前を書くことは私が許さないよ。本当はそれを望んでいたんだとしても、許すわけにはいかないんだ。王宮にだけはやらない。私は田舎に引っ越すことにするよ。それかいつかメリエルが言っていたメリエルの持つ領土とやらにね。王都は名医がそろってるから、産むときまでお世話になるよ。でもそれが済んだら本当に姿を消すよ。メリエルだけが私の居場所を知ってるようになりたい。私はそれで充分さ。もうあんたの隣に居ることなんて望まない。メリエルに頼りながら――メリエルに悪いけれどこればかりは仕方ないね――あんたとの間にできたこの子を大事に育てるよ。私の望みはそれだけさ。

「母親の顔になってきたね」

 ちらり、とメリエルが言った。その言葉に私はうんざりした顔を向ける。

「そんな顔せずとも」

 メリエルは笑う。私は母親の顔ね、とメリエルの言葉を零して、椅子に深く座った。


 メリエルと相談した結果、子は男の子で金髪で、どうしたって隠しようがなかったら他の男の子どもとしてメリエルが私と子を田舎に飛ばす、ということに決まった。女の子で髪が桃色ならメリエルの子さ。女の子だったらいいね。ここ最近気付いたんだけど、どうも私はメリエルにも依存しているようだ。愛だとか恋だとかそんな奇妙な感情はこれっぽっちもないけれど、友情ならあるようで、メリエルと話すと心配ごとや偏頭痛も緩和されるような気がした。それにしても桃色の髪だけじゃなく女の子になれ、か。この子に課せられた任務は多くて重たいよ。生まれてくるのが嫌にならなければいいんだけど。金髪で男の子で、マリアにそっくりだったとしても育てる気はあるけれど、どうしたって隠すのが大変にはなるだろうね。勿論、金髪だったら男の子でも女の子でも田舎行きだし、男の子だったら桃色の髪でも別の男の子どもってことになる。桃色の髪で女の子。メリエルの子で出産届を提出したいならそれしかないのさ。顔が些か似ていても腹違いとはいえ兄弟なんだから、なんとでも言い訳は付く。あまりにも似すぎてたら、マリアの顔は王妃様そっくりなんだから、王妃様に似ているということになる。そうなったら――顔を隠すしかないだろうね。可哀相に。この子は本当に恵まれてないよ。

「マリアの侍従が手を出したなんて俺が言ったら、マリアは大激怒だろうね。侍従を全部取っ払って入れ替えてしまうかもしれない」

「恨まれる役は慣れてないんだけどね。仕方ないと言うのも可哀相な話だ」

「事実仕方ないんだから。考えても無駄なんだよ」

 メリエルは言う。考えても無駄。でも侍従のみなさんにだって家族や子どもがいるんだろう?

 どうも、王子様方は侍従のみなさんを人と考えてないところがあるよ。でも今はそれに乗っからせてもらう。すごく罪悪感があるけれど、この子を守るためならなんだってすると決めたんだ。メリエルの案に乗せてもらうよ。願うのは桃色の髪の女の子さね。そうであれば失うものは少ない。マリアがどう出るか分からないのも問題だけれど、今はきっと大人しく見ていてくれるだろうと呑気な憶測を立てるだけにとどめておくよ。まさか強奪ということもあるまいし。マリアのことだから、分からないけれど。でもマリアが感情のまま動いていたとしたらきっと私とこの子は今頃別のところで酷い暮らしをさせられてるよ。なんてったってマリアに友達だと伝えたメリエルと繋がっていたってことになってるんだから。マリアの子は産みたくないと言っておいてメリエルの子を腹に宿してることになってるんだ。私ってばどこまで酷い女なんだろうね。私だったらそんな女が同じ町に居るというだけで吐き気がしそうだ。しかしマリアに動く気配は見られない。それがあったらメリエルも勘付いて教えてくれるだろう。

「それに、恨まれるのは君ではなくきっとマリアだ。そんな心配しなくていいよ」

「しかしバレた時が怖いよ。きっと沢山の人に恨まれる」

「その時はマリアが守ってくれるさ。君は――君の子は、本当に心配しなくていいんだ」

「……そりゃまた心強いね」

 言って、はあと深いため息。どうしたってこの子は恨まれる運命にあるのかな? きっとマリアの子だと分かったらまず最初に赤毛のお姫様に恨まれるよ。そして「従者の子だった」と言った私の言葉のせいで沢山の解雇された従者さんたちに恨まれる。マリアがうまく立ちまわってくれればいいけれど――なんだかね。望まれていないと分かるのはこんなにも辛いものか。せめてこの子が自分がそんな立場にいると気付かないでいてくれたらいいんだけれど。なんであれ、生まれたときから望まれてなかったんだ、恨まれているんだ、なんて可哀相すぎる。母親として私はどうすればいいのかな。何度考えたって何を思ったって頭が痛くなるばかりだよ。メリエルは私を頭が良いと言ったけれど、私は物分かりが良いだけでおつむ自体はものすごく悪いような気がするね。

「恨まれると分かって産むのは心苦しいよ。何と言ったってこの子が可哀相だ。……流すべきかな」

 神妙な面持ちで私は言う。この言葉だけは使いたくなかったけれど――

「流したら君の代わりに俺がマリアに怒鳴り込みに行くよ。その子はマリアと君に望まれて生を受けた。それを今更覆すと? どれだけ恨まれたってね、父君か母君、どちらか片方でも良いから親に望まれたんだってそれだけあれば生きていけるもんさ。例えどれだけ道が山あり谷ありだったとしてもね。希望を持つとはそういうことだよ。どうも君はそれを分かっていない」

「希望の持ち方が分からないんだよ。でもあんたと話してると、時々未来が悪くないものに思えることがある。それかな?」

「それだね。多分それだ。そういうのが希望を持つって言うんだよ。そればかりでもないけれど、それもひとつだ」

 それに俺が一役買ってるなんてね、とメリエルは笑う。出会った当初では考えられなかったことだよね。腹でも抱えて笑えばいいさ。私もそうされて怒りはしないよ。私だって笑い方さえ思い出せば一緒に腹を抱えたいところだ。

「願わくば、桃色の髪の女の子を。君はどうしても一人きりに出来ないよ。何をするか分からないとは言わないけれど、どうも暗く物事を考えがちみたいだからね」

「悪癖だよ。酒でもあれば一緒に飲みたいね」

「君は駄目だよ。君はもう赤子の母君だ」

 そりゃそうだ、と言って私は渋面をした。酒が飲めないなんてね。嗜むことすらほとんどしたことないけれど、それがうまいもんだってことくらいは知ってるよ。遊郭で冬にワインが出ることがあった。体を温めるためさね。客と一緒に飲むのさ。上客なら酔っ払うまで飲ませてくれることもあった。マリアと会ってからそう言えば飲んでないね。あいつが飲まなかったからさ。部屋にきたらまず抱く。それから話す。その繰り返しさ。あいつも好きだよね。

「金髪でも女の子だったら俺が父親になってもいいよ。王都では暮らせないから俺の領土に越してさ。名前だけじゃ髪の色は分からない」

「そうは言っても王都から使者がきたら一発で違うと分かるよ。従者さんには悪いけど、私は別の男と寝たことにしてもらった方が有難いね」

「そうするのは辛いんじゃないのかい?」

「辛いよ。でもそんなことばかり言ってもいられないさね。この子を守る方便なら私が私を許すよ」

 そう言う私に、メリエルは目を細める。優しい表情だ。父親の表情ってこんなもんかね。母親の表情になってきたって、メリエル、あんたは私にそう言ったけど、メリエル、あんたも父親の表情になってきたよ。そこまでこの子に情が移っちまったかい? ずっと相談してきたもんね、そりゃ移りもするか。それにしたってあんたがそこまで情の深い奴だとは思わなかったよ。いつだって第三者の気分で居て、噂話ばっかりなただの女好きだと思ってた。考えてみれば、子どもが出来るほど深い仲になるような女が二人もいるんだもんね。あんたは私を入れて三人目の子どもを持つことになるってことだ。冷たいばっかりじゃなかったってことだね。残念なのは全員母親が娼婦だってことくらいか。せめて貴族のお姫様か、正室だっていう隣国のお姫様だったらね。王子様っていうのは正室に冷たいものなのかい?

「俺も君を許すよ。ほら、敵ばかりじゃないってことさ。安心して産もうぜ。案ずるより産むが易しって言うだろ?」

「産んだ後のことを考えると案じている間の方が簡単だ」

 私の言葉にメリエルはやれやれと肩を竦める。だってそうだろう? 色々、本当にここまで色々考えて来たけれど、何度だって思うんだ。産んだ後この子に何が残るだろうってね。何も残らないとしか思えない。母親さえいればいいのかい? 父親でもいい? じゃあ母親に傍に居てもらうことにするよ。私が傍に居る。メリエルみたいな能天気が父親の椅子に座ってくれていればますます万々歳だ。ただそれを望むには、この子には桃色の髪で女の子に生まれてもらわないといけない。男の子だと王子様になっちまうし、金髪だとメリエルの子じゃないってすぐにばれる。そうなったらメリエルを怒らせたことにして田舎に逃げるさ。マリアとメリエル、二人の王子を怒らせた娼婦が母親ってのもどうかと思うけれど、田舎ならそんなこと関係ないだろう。

「そのことだけどね。田舎に引っ越したときには、その場所の領主に直談判しようと思っているんだ。少しでも君の子を守れるようにね。俺がもう通えなくなるから、手は早いうちに打っておいた方が良い」

「何て言うのさ?」

「ありのままを……といきたいところだけど、マリアのほうが位が高いからマリアにばらされる可能性がある。だから俺の子だけどちょっとわけありでね、ってそんなもんさ。何と言うかきちんと考えておくよ」

「本当に、王子様が父親だと有難いことばかりだね」

 嫌味を込めて言ってやる。メリエルはそんなこと言わないでおくれよ、と苦笑した。あんたの苦笑いが見れるなんてね。田舎にお土産として持って行く準備をしておくよ。

「田舎に行っても豪華な暮らしはさせてやるつもりだよ。どうしても、今よりもまた慎ましくなるけれど。それでも豪華な暮らしを経験させておいてまた捨てるなんて出来ないさ。金を送ることはできないから一回に持たせるよ。君は田舎で農作物でも作って暮らすんだね。酪農用の馬か牛を今のうちに何頭か買っておこうか」

「そうしてもらえれば有難いさね」

 私は言う。メリエルはじゃあそうしよう、と言って膝を打った。


 ――それは、なんともない日に起こった。

 メリエルの誘いで、私は気分転換に劇場へと赴いていた。こういうことは結構よくあることで、退屈をにじませて馬車に座っていたあの日から、ちょこちょことメリエルは劇場へと私を誘いだしていた。今日はこれこれこれという演目があるんだよ、なんたらが面白いから観に行かないかい、とこんな感じだ。その日もいつもと同じで、だからこそ私は油断していた。向こうも油断していただろうね。まさか切れたはずの私とあんな場所で鉢合わせするなんて。

 嫌な気配は感じていた。馬車の列に何気なく置かれた豪華な馬車。そこに描かれた王家の紋章。彼は彼自身のも持っていたはずだったけれど、それが見えなかったから違う人物だと思ったのだ。きっとお姫様が隣に居たからだね。

 劇場に入り、指定席に座る。一番見やすい真ん中に天幕を張って、私はそこに座った。天幕の紋章はメリエルのものだ。メリエルの側室や正室と同じ扱い。そりゃそうだろうね。側室と言ったって差し支えないんだから。ただ一介の娼婦であるだけだという気持ちは今も持っていたから、それに毎度のことながら肩身の狭い思いをしていた。

 そして――ふとした瞬間、ハッと目に入ったのだ。

 ここよりも一等いい席に張られた天幕。その下に座っている二人。金髪の華奢な男と赤毛の綺麗なふっくらしたお姫様。金髪の男の方は表情に退屈をにじませていて、赤毛のお姫様はきょどきょどと挙動不審気味に座っている。その組み合わせで私は一瞬でそれが誰か認識した。――マリア。マリアも来ていたんだ。

「おっと、これは」

 メリエルが気付いて小さな声を上げる。いつもはきちんと公務としてのことだからメリエルも把握していて、マリアが来ていない日を選んで私たちも劇場に来ていた。なのに偶然はち合わせてしまったんだ。私は思わずメリエルの腕を叩いていた。

「痛いなあ」

「痛いなあ、じゃないよ。なんでマリアがここにいるんだい?」

「さあ。気まぐれだろうさ。そうじゃないと俺が把握していないはずがない」

「……分かった。私は出て行くよ」

 そう言って本当に天幕から出ようとした私の腕を掴んで、メリエルは制止する。「よせよ。一旦入ってしまったものは仕方ないだろう? 今ここで出て行く方が目立つ」

「そうは言ったって、だって、どうするんだい」

「こそこそする必要は――あるけれど、まあ、仕方ないよ。そんなこともある。丁度良いからリディアの顔でもしっかり拝んでおけばいいさ」

「何がちょうどいいのさ」

 ぶつくさ言いながら、でも目立つほうが嫌だと思いなおして椅子に座り直す。最近はお腹も少し目立つようになってきていた。そんなところにマリアにこの姿を見られるなんて勘弁して欲しい。寿命がいくらあっても足りないよ。この劇を見る間に全部無くなっちまうかもね。

 マリアは、少し見上げるとすぐに姿が見れた。赤毛のお姫様はふっくらしているけれど、彫刻みたいで綺麗な太り方だ。ちゃんと締まっているところは締まっていて、艶めかしい胸がドレスで八切れそうになっている。赤毛は確かに美しく、真っ赤だった。そう言えばいつかマリアも言ってたね、赤毛のお姫様の髪の色は本当に赤いんだって。あそこまで赤いのは見たことが無いよ。本当に綺麗な髪のひとを見繕って来たんだね、あんたの周りは。マリアはその横で無愛想に座っている。じっと舞台のほうを見つめている瞳はあの頃時々見ていた暗い瞳。あんた、もしかしていつもそんな顔してたのかい? 私がいる間だけだったのだろうか。どうしてもマリアにはメリエルより幼いイメージがあった。ころころ変わりはしないけれど、平均して子どもらしいあどけなさを残した笑顔を零すことが多かった。家族の話をするときだけ急に大人びるのだ。今はその大人びた顔をしている。悲しみ全てを浴びて、いまここにいるんだって主張してる嫌な顔だよ。私は嫌いだ。赤毛のお姫様が挙動不審なのはそのせいかい? 可哀相に。マリアのことが好きなんだってね。でも叶わなかったのだ。……きっとこれからは叶うよ。私が言うのも変だけれど、きっといつかマリアは私のことを忘れるだろう。その時ずっと傍に居た貴女に気がつくよ。これは私の勝手な願いかもしれないね。

 ふっと照明が消え、舞台の幕が上がる。大立ちまわる道化、悲しみに涙を流すヒロイン。ヒーローは王子様さ。メリエルが好きそうな話だ。王子様が娼婦に入れこんで、その娼婦を側室にまで上り詰めさせる話。くだらないね。現実はそんなに甘くない。大体私にそんなものを見せてどうしようって言うんだろうね? でもその話の大まかなあらすじを聞いた上で付いてきた私も私だ。マリアも気まぐれならもっと別のものを見ればいいのに。本当にこの国の王子様達はしょうがないね。マリア、あんたまた私みたいな娼婦を作るつもり? それともこれなら自分の身に同じようなこともあったし面白そうかなって思った? あんたが何考えてるかちっとも分からないよ。こんな劇にのこのこ付いてきた私の気持ちも分からない。自分の未来に期待でもしたかった? でもこの劇の娼婦は特別上等な娼婦で、実は血筋が気高かったってオチさ。つまらないね。私にはないものだ。……本当に、私は何を期待してこれを見に来たんだろう。ばかばかしいね。誰か笑ってやってくれよ。こんな私とマリアのがらくたをさ。

 マリアのことを考えると、この世はがらくただらけ、と言った娼婦仲間のことを思い出す。どんな奴だったかは覚えてないけど、確かにそうだと思うんだ。私なんて一等のがらくただし、マリアなんてその上を行くがらくたさ。隣に正室のお姫様を侍らせた上でこんな劇を見に来るんだ。腹いせにしか思われなくて引っ掻かれたって仕方ないようなことだよ。分かっているかい?

 と、ふとマリアがこちらをちらりと一瞥した。私は瞬間顔を伏せる。馬鹿だね。こっちを見たならもう仕方ない。桃色の髪は誰にだってあるものじゃなくて、それが特別珍しかったから人売りに売られたってのに、私はそんなことを忘れて顔をそむけて俯いていた。マリアの視線は一瞬で、でも焦げ付くような熱烈なもので、私は身が焼けつくのを感じた。マリアの視線ひとつで体が反応する。馬鹿みたいな話だね。でも本当に起こってしまったことだ。私はマリアをまだ――そう、まだ――。

 メリエルはマリアが出て行くまで劇場から出ようとしなかった。劇が終わってもぐずぐず劇場の中にいて劇の話なんかするもんだから怒鳴りつけそうだったけど、考えてみれば我先にと飛び出して後から天幕ごしでなく鉢合わせした方がまずい。メリエルは落ち着いてるね。なんであんたってそんなに修羅場慣れしてるわけ? 訊けば返答はこうだ。

「なに、俺のお抱えの娼婦の子がさ、俺とはまた別のお得意の客と同じ劇場で鉢合わせしちまったことがあるんだよ。そこでの気まずさったらなかったね。まあ俺はこんなんでも王子だし、俺お抱えとなって鼻も高々だっただろうところに、浮気相手がやってきてどかんだ。その場で捨ててやったよ。怒りはしなかったけど、その後でも貴方が本命なのよって縋りついてくる様が気味が悪くてね」

「……あんたは本当に良い性格をしているよ」

 重たいため息を吐いてそうあしらうと、メリエルはからからと笑った。

「君の性格が好きなのは俺もだ。意外と社交辞令疲れしている貴族たちには受ける性格なのかもね、君は。よかったじゃないか。だから俺は、マリアが君の髪だけを好きになったんじゃないって言いきれるんだよ」

「それはそれは」

 目を細め、頭に手をやって再びため息。マリアが出て行ったあとの舞台は最初よりも閑散として見えて、その存在の大きさにふと気付かされて頭が痛い思いだった。マリアが居るだけで呼吸が苦しくなる。辛いんだ。それなのに傍にいるのがあの赤毛のお姫様で私は嫉妬してしまったよ。懲りないね、私も。私が傍にいるはずだったんだ、このお腹の子はあんたの隣に居るその暗い瞳をした王子様の子なんだ、って何度も叫びたくなった。実行に移さなかっただけ偉いとはいえ、やっぱりどうしたって私は大馬鹿ものだ。やっぱり私は頭が良くなんてないよ、メリエル。どんなに痛い目にあったって、遭うかもしれないって知ったって、どうしたってマリアの方へと行こうとしてしまうんだ。これを馬鹿と言わずして何を馬鹿という。

「何はともあれ、これからだよ。マリアが何かアクションを起こしてこないことを願おうか」

 劇場を出て夕暮れの空を仰ぎながらメリエルが零した言葉が、私の耳に残って離れなかった。

 それから数日が経ったけれど、マリアからのリアクションはないようだった。桃色の髪の別の誰かだと思ってくれたのか。……それはないだろう。鬱々とそんなことを考える私の考えは顔に書いてあったらしく、いつもよろしくメリエルが話しかけてくる。

「マリアのことだけどね。君たちがそんなに仲良かったなんて思わなかったよ、これからも仲良くねって、苛々した様子で言われたよ。あれは完璧に嫌味だろうね。友達だからさと返しておいたけど恋人の間違いだろうってさ。本当に可愛くない弟君だよ」

「恋人で間違いないよ。世間体からしてみればね。あんたはこの子のお父さんになるかもしれないんだ。忘れたのかい」

「もちろん覚えているよ。でもマリアの顔を見ながら恋人だと言う度胸はないさ」

「――私に遠慮している?」

 私の問いに、メリエルはぱちぱちと目を瞬いてから、面白そうに口を歪めた。

「よくわかったね」

「分かるさ。コイビトだからね。……ただ、私はもう二度と舞台は観に行かないよ」

「サーカスくらいなら良いだろう」

「馬鹿。サーカスだろうがなんだろうがマリアが見に来る可能性があるなら私は行かないよ」

「そんなこと言ってたら何もできなくなるぜ」

 メリエルが頭の後ろで手を組んで言う。本当に、あんたはマリアと違って言動に気品というものがないよ。それを私が言うのもなんだかなと言ったところだけれど。

「気にしすぎだよ。マリアはいつもは公務に追われて遊ぶ時間なんてない。最近は特にそうさね。自分から率先して行ってるって話だけど――その理由、君なら分かるだろう?」

「まさか、私を忘れようとしてる、なんて寒いこと言わないよね」

 私の言葉に、メリエルは神経質に笑った。


 マリアが私とメリエルのことを恋人だと認識していることをはっきり知ったのは、私にとってちょっとしたショックだった。知っていたことだし、そうでなければこの子も王宮に盗られてしまうのは分かっているのだけれど、それでも心のどこかでマリアは私のことを信じてくれるのではないか、それを踏まえた上で私が躊躇してるのを知っていて待ってくれているのではないかという期待があったのだ。馬鹿みたいな話だね。くだらないったらないよ。でもそう思ってたんだ。馬鹿みたいだとしても。くだらなかったとしても。私はマリアにそんな無理な話を求めていた。私に子をせがんだマリアとやっていることは同じだ。エゴの押し付け合い。それが実ってしまったかそうでないかの違い。……本当に、どうしようもないね、私は。

 出来あがった衣装を眺めながら、ドレス類の贈り主がマリアだった頃のことを思った。今は仕立屋を選んだのは私だったとしても代金を支払ったのはメリエルだからメリエルの贈りものということになるね。飼い殺しにされるのは言ってしまえば心地の良いものだった。これからの心配をすることもない。ただぶくぶく肥えていればいい。マリアに何が起きてもしらっとしていられるならの話だとはいえ、マリアのことをなんとも思っていなかった頃は事実飼い殺しの未来でも良いと思っていた。自由がなくなることよりもスラムぐらしに戻されることのほうが堪えた。でもマリアを好きになってしまったら赤毛のお姫様さえも許せなくなって、結婚したと聴いたら顔も見たくなくなって。面倒だと言ったところで人の心の行く末だ、仕方ないね。そうなってしまったら仕方ないのだ。私が愚かだったというだけ。それだけ。恋してはいけない人を思ってしまった代償は計り知れなかった。がらくたががらくたを恋煩いした結果は悲惨なものだった。一方のがらくたは別の男の子どもと称して逃げ出し、残されたもうひとつのがらくたは正室のお姫様と暗い瞳で生活をし続ける。あの暗い瞳は嫌いだ。不幸を全部背負いこんだ人間のする瞳。マリア、あんたはそこまで不幸じゃないだろう? あんたの生活の実態は知らないし、王妃様の傀儡になっているというあの日の言葉が本当なら可哀相なものだと思うけれど、スラムでみじめな暮らしをしていた私や、王子でありながらそれ相応の待遇を受けることもできず貴族や王族から遠巻きにされてきた王子様の辛い生活と比べれば――いや、そういうのは比べるものじゃないね。悪かったよ。あんたはあんたで辛いんだろうね。そこに私がいなくなって更に辛くなったかい? あんたには悪いけど、私はそうだったらいいなと思っている。ごめんよ。こんな娼婦、あんたも買わなければよかったのに。運が悪かったね。

「自分でも自分の性格が悪いのは分かってる。でも思ってしまうんだよ」

「マリアが不幸になってればいい、ねえ。まあ人間そんなもんさ。気負うことはない」

 紅茶を飲みながらメリエルに悩み相談。これも定番だね。なにはともあれ、メリエルや他の誰かと話していると気持ちが少し落ち着いた。そこら辺の侍女ではなく相談相手にメリエルを選ぶのはメリエルが一番私の秘密や置かれている現状を知っているからだ。侍女や従者に話して他のところやマリアにまわったりしたら問題だしね。メリエルが従えさせてくれた侍女たちは良く働くけれど相談相手には向いてないよ。話したがり屋すぎる。実際侍女たちが私に持ち寄ってくる噂話はメリエルのものが大半だったとはいえ王族や貴族たちのそんな話聴かせていいわけ? と思うようなことも数多くあった。人に仕える身でありながらゴシップに敏感だなんて何とも言えないね。王子二人を怒らせて田舎にひっこむ可能性のある娼婦が言える話ではないけれど。

「君がそれだけ本気でマリアを好きだったというだけだよ。それ以上でも以下でもない。性格の善し悪しは関係ないさ。ただ君は素直なだけ。それだけだよ」

「それだけとはいえ酷い話だ」

「そうは言うけど、ミーシャ、マリアも君のことをそう思っているかもしれないぜ? だから俺と恋人同士になって呑気に劇を観に来ていたのが許せなかったんだ。僕と離れて不幸になっていればいいって思ってるからこそ幸せなのが許せないんだよ」

「私は幸せになんてなってないよ。あんたが恋人だと言うのも世間様の間でだけさ。……そんなことを察するのは難しいね」

「察せないだろうね。君の子どもが俺の子どもだと思うだけではらわたの煮えくりかえる思いだろうよ。そんな相手に冷静になれ、良く考えてみろ、彼女がそんな奴だったか? なんて訊けるはずもない」

 メリエルは淡々としている。マリアの話となるとメリエルは冷たいのだ。冷たいとはいえ、聴いてくれるだけ私に友情もしくはその他の感情があるということだろうね。例えば同情だとかさ。興味でもいい。興味本位だけでも聞いてくれて、しかもマリアに筒抜けにしないというだけでメリエルさまさまだよ。

「訊けたとしてもじゃあ誰の子なのさ? と訊かれたらバッドエンドだ。この子ごと王宮に連れていかれて終わりだよ。八方ふさがりだ。私のこの気持ちは犠牲にするしかないね。分かっていることなのにうまく出来ないんだ。自分がここまでがらくただなんてね。知ってはいたけど辛いよ」

「君のそのガラクタというのは良くない口癖だ。君はがらくたなんかじゃないよ。人間だ。人間だからこそ誰かに執着して、離れられなくて、物分かりが良いからそれがいけないことなんだって分かって苦しむ。君はがらくたじゃない」

「……それはそれは」

 メリエルの言葉に、はあ、と重たいため息をつく。なんだかね。がらくたじゃないと言われても嬉しくないよ。ただ、メリエルのその言葉は有難く受け取っておこう。私には私のことはがらくただとしか思えないけれど、そうじゃないと言う見方もひとつだと思ってさえいれば少しは救われるかもしれない。八方ふさがりで泥まみれの私を支えてくれるのがメリエルだなんてね。本当ならそれがマリアだったらよかったんだけど、なんて、思うだけでも罪深いよ。

「有難く言葉だけ受け取っておくさね。ただ、理解までは出来ないと思うけれど」

「いいよ。いつか理解してくれればいい。口癖を直せ、考えを正せと言われてすぐにできる人間なんていないさ」

 メリエルはカップの中の紅茶を器用にちゃぷちゃぷ回す。芳醇な香りが一瞬漂った。メリエルが使わせてくれている侍女は紅茶の入れ方もうまい。髪の洗い方もマリア付きの侍女たちと変わらないくらいだよ。悪いところをあげるとすればもう何度言ったか分からないけれど口が軽いところだけだね。そこさえなければ第一王位継承者のマリアのお付きと変わらないと言えるんだけど。

「君は君らしくいればいいんだよ。がらくただなんて思わせない」

「あんたは本当に女たらしなんだね。身にしみるよ」

「本音だぜ?」

「ますます寒いよ」

 眉をひそめて私が言うと、メリエルは愉快そうに笑った。本気の話をしているときでも笑う。この王子が怒っているところをそういえば見たことが無いよ。でもメリエルだって怒るんだろう。マリアが私に対して怒っている今の現状のように、私がメリエルに対してしてはいけないことをしたときはさ。でもお抱えの娼婦が他の男と浮気していても怒らなかった男だ、その話が事実かどうかは置いておいて、案外懐が深いのかもしれない。お気楽なただの女好きだと思ってたら怪我しそうだね。気をつけよう。

「マリアは今のところ動く気配は見られない。安心しておけばいいさ。もし何か動きそうな気配が見られたらすぐに君のところに早馬を届けよう。俺が直に行ってもいいけど火に油かもしれないしね」

「そうだね。その時はあんたの判断に任せるよ」

 私はね、メリエル、あんたのことを、多分あんたが思っている以上に信頼している。恋とか愛ではないけれど、友情っていうのはこういうものなのかな。あんたなら何を暴露しても快く受け止めてくれて、一緒に考えてくれるような気がするんだ。この子のお父さんになって欲しいと思うのもあんたかマリアだけだよ。本当は出生届の父親の欄だけだったとしても見も知らない侍従なんかの名前を書かせたくない。マリアはもしマリアが第一王位継承者じゃなかったら絶対私はマリアの元へと行っていたね。ただの貴族ならまだよかったんだ。でもあいつは次期国王陛下だ。その息子、娘となれば王子か王女だろう? そんなの御免だね。子どもが苦労すると分かっている道に子どもを入れる母親なんてきっといない。それでも子どもが望めば背中を押してやるかもしれないけど、望む望まない以前に親の我儘――この場合は恋心とでも言っておこうか――で王族に入れることだけはしたくないよ。……きっと、私は子どもが王子や姫になることを望んだとしても無理やり傍に置いておくだろうけれど。子どもというのはそういうのに憧れるもんだ、現実を知って後に引けなくなってから後悔なんてして欲しくないよ。それでもいいと子が言うなら別かもしれないけど、きっと私にそんな勇気はない。

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