volaille -王様のブランコ
なづ
第一部
1
――この世はがらくたで構成されている。
いつだったか、同じ娼婦仲間の誰かがそう言っていた。今なら、あの頃より夢ばかり見ない様になった今なら……その言葉がなんだか分かる気がする。
この世はがらくたで構成されている。華やかな世界で暮らす貴族や騎士たちは裏で私たちのような小汚い娼婦を買っているし、王様は税金を食いつぶすばかりで私たちのような足元の小さな小さな虫なんて気にしない。この世はがらくたばかりだ。いくら命があればいいと言ったって――それだけが幸せだって言ったって、そんなの詭弁でしかない。
だって、そうじゃないか。その「幸せ」だっていう命は――こうも簡単に消え去ってしまったじゃないか。
「――」
妹の名を呼ぶ。細くごつごつした手を握ってやる。握り返す力は、ない。終わってしまった。何もかも。唯一の自慢だった、妹と同じ綺麗な色の髪を売ってまで細工したお金ももう、無い。妹を病気から救うために絞り出した金だったのに、この街の名前ばかり小難しい医者は金だけ食っていなくなった。妹を救おうとした私の手のひらは、ぱちんと音を立てて叩かれて終わった。この世はがらくたばかりだ。今その言葉が、こんなにも胸に染みて痛い。
「……くそ……くそ……!」
呟き、涙を流す。私にはもう「幸せ」はない。こんなにも、なにもかもを奪われてしまった。
私は、貧しい村生まれの、生粋の不幸体質だった。唯一の妹は病気がちで、結局私共々運悪く人攫いに遭い王都へと売り飛ばされてしまった。遊郭の一隅で、誘拐犯が狙った珍しい髪の色だけを武器に、数多くの男たちと寝て、ぼろぼろになって、やっとお金を一握りもらって、それで暮らしていた。しかし、そんなつかの間の安堵――それが私たちにとっては、まだマシな生活、と言う奴だった――も、妹の虚弱体質によって崩れた。性病にかかったのだ。
病気になった娼婦なんて、売り物にならない。遊郭から妹ひとりを追い出す、という上に逆らって、それなら私も、と言えば簡単に私たちは一緒にゴミ箱に捨てられた。やせ細り弱って行く妹を見てられなくて、私は自慢の髪を売った。そして、お金を作って、少しの食糧とスラム専門の医師を尋ねた。しかし医師は私の金だけを盗んでさっさとトンズラこきやがった。そして、妹はこのざまで、私までも食料に困ってガリガリにやせ細り、外套がなければ花売りに出かけることもできなくなってしまった。遊郭に居た時の方が良かっただなんて、冗談にしてももっと良いものがあるだろうに。
私は、この街をさまよっていた。病気がちだった妹を失くし、希望も失くして、ただ亡霊のようにさ迷い歩いた。そんな時だった。彼に出会ったのは。
「君はとても綺麗な髪の色をしているね」
ぼさぼさの髪をさして、そいつは言った。長い外套を着崩し、中に着こんでいるのはいかにも貴族らしい鮮やかな絹の服。金髪の髪は美しく整えられ、襟足を伸ばしてひとつに束ねて肩から流している。そいつの顔は分からなかった。装飾の多いマスクを付けていたからだ。肖像画を誰でも見たことあるようなお偉い貴族ごっこでもしているのだろう、とその時はそう思った。
「そりゃどうも。なに? 買うの?」
「君は花売りだよね? いくら?」
私の答えに、簡単に返す。分かりやすい問答は好きだ。貴族らしい飾った言葉ばかりの調子とは違ったそれに、私はちょっと興味を惹かれた。――買い慣れているのか。好きな奴はとことん好きだと言う。こいつもその手の奴か。
金額を答え、心得た、と問答を終えて手近な場所へと移動しようと私が背を向けると、そいつはばっと私の肩を掴んだ。外でするつもり!? 身の危険を覚えて振り向きキッと睨みつければ、マスク越しの瞳が笑う。
「お金は払ったよね? 君は僕のものだ」
「……はあ? 何を――」
ぐっと口を手で覆われ、どこから出てきたのが、従者らしき男が私の体を軽々と抱えあげる。マスク越しの笑い声が耳触りに響いた。
「君は運が良い。僕の名前は――」
マスクを外し、軽やかに笑う。その名前と顔立ちに覚えがあって、私はさっと顔を強張らせた。
*
連れて行かれたのは、王都のお膝元に散らばるどこかの値の高い宿屋の一室だった。ベッドルームもバスルームも個室で分かれていて、貴族たちが体を休めながら談笑でもするためにあるのだろう二脚の座り心地の良さそうな椅子と小さな机がその椅子の間に挟まれて置いてある部屋もあった。バスルームは広く清潔感があり、私にはそれだけで王宮にでも来たかのような錯覚に陥った。ベッドルームで外套を脱いだ彼はマスクを外した素顔に面白そうな笑みを浮かべ、まあ風呂にでも入ってきなよ、と気楽な調子で言う。
「石鹸がある……」
着ているものを脱ぎ、バスルームに入って戸を閉めた私は最初にそう呟いた。浴槽の縁にぽんと置かれた良い香りのする石鹸。壁にかけられた鏡に映る自分の裸は見る者をうんざりさせるほどがりがりにやせ細って、その髪は短くぼさぼさに切られっぱなしになっている。これでも少しは伸びたほうなのだけれど、やっと襟足が首筋にひと房垂れるようになったくらいだ。みっともない。昔は妹揃いのこの髪だけは大切にしようとお金をかけていたのに。
体を洗い、髪を洗ってから、ふわふわの布で体を拭く。お湯が出たのには少し驚いたけれど、慣れれば気持ちの良いものだった。遊郭でもこんな待遇は受けたことがない。
「ひとりでできた?」
私が風呂から出てくると、彼はそんなことをぽつんと訊ねた。私は首を縦に振る。イエス。なんでそんなことを訊くのかと思えば、ずかずかと従者らしき男が入ってきた。先ほど私をここまで連れ去ってきたのとは別の男だ。その男が従えている数人の女たちが、彼を取り囲みその服を脱がし始めた。そこで、私は彼の言葉の意味を察した――使用人でもいなければ何もできないのだ。風呂に入ることさえ。この男は。
「僕は風呂に入ってくるけど」
くるりと使用人たちに囲まれながら、彼はこちらを振り向き、言う。
「その間逃げてもいいよ。金はそこにある。……まだ払ってなかったのを思い出した」
「そうだよ、払ってさえいないよあんたは」
新品のバスローブ、というやつに身を包んだ状態で腰に手をあて仁王立ち、私は偉そうに物を言う。彼は何がおかしいのかくすくす笑っただけで風呂へと消えて行った。ぱたんと戸が閉まると同時に、女たちを連れてきた男も部屋を出て行く。一人取り残され彼が指した方向を見れば確かに金が置いてあったけれど、それは言い値よりも遥に高いお金だった。金貨が二枚。これだけあればあのスラムで一年は食べていけるだろう。
(本当に出て行ってやろうかな)
金を掴み、ふと着ていたぼろぼろの服に手を伸ばす。ポケットに金を入れて、ぽんぽんと上からたたいただけで着替える気は起きなかった。私は慣れてないうぶな少女じゃない。年齢こそ少女と言って差し支えなくとも、場数を踏んだれっきとした娼婦だ。最近はこの外見のせいで売れなかったとしても。
「……一回につき金貨二枚」
……良い話だ。乗らない手はない。
私のことさえ気に入ってもらえばいい話だ。ただ、あの男にそこまで媚を売る気にはなれない。もはやなにもかもが遅すぎる。この髪だけ気に入ってもらえればそれだけであの男はまた私を探す様な気もした。それは何故だかわからない。桃色のこの髪。この髪さえ伸びてもっと綺麗に、昔のような姿を取り戻したら――それだけで家を買ってくれるかもしれない。はいあげるよ、と簡単に。それだけのご立派な名前と顔を持ってる客だ。
――第四王子マリア。
この国の、王妃が生んだたった二人の子どものうちのひとり。第一次期王候補。そんなお偉い人間が、どうしてスラムなんかうろうろしてたんだろう。分からない。もしかすればマリアの名を借りてふざけて名乗ってる中身のないマリアサマそっくりの貴族の坊ちゃんだったとしても、一回に金貨を二枚くれて、それでバイバイでもいいよというほどの金持ちであることは間違いない。
「あれ? 出て行かなかったんだ」
私と揃いのバスローブを着て、彼は風呂から出てきて第一にそう言った。私は笑って見せさえもせずに、仏頂面のままそうだよ、と言ってベッドルームへと姿を消した。
それが初めての日のことだ。
あの後から、私はこの離宮で買われている。第四王子マリアというのは称号も名前も本人のものだったらしく、私はあの後すぐここに連れてこられた。きているバスローブを脱がされドレスに着替えさせられ、髪も幾分か見栄えのするよう整えられた状態で、王宮の近くに据えられたマリア様ひとりのための離宮と名高い場所の一室を与えられた。食事も風呂も一部屋で行われる。自由こそなくなったけれどそれを補って余りある富を手に入れた私は、自分の身の丈にあってない生活を強いられていた。マリアの買ってくる衣装に身を包み、彼好みの髪のセットをして、無愛想な顔のままベッドに押し倒される。そんな毎日。味気こそなくともスラムでがりがりに弱っていた頃を思い出せばその幸せの大きさを知ることは出来る。……妹が生きているうちに会っていれば。何度そう思ったか分からない。
本当に、この世ってやつはタイミングがくるっていて、私が今感受している幸せと言うやつも的外れだった。私は妹さえいればよかった。それなのに。妹がいなくなって独りの生活を送っているさなか連れ去られ、こんなところで莫大な富を得た私を見て妹ははたして笑うだろうか。きっと怒るだろう。
「……くだらない」
この世はがらくたばかり。その言葉ばかりぐらぐら回って始末がつかない。次期王様はこんな離れた宮で私一人――買ってる女の数は知らないが離宮に閉じ込めるほど気に入ったのは私一人のようだった――と遊び遊び、辛く苦しむ民なんて見向きも起きないらしい。もしかすれば、その「辛い民」という奴の中に私も入っていて、こんなところに閉じ込めて贅沢させて肥えさせて――それこそが彼の目的なのかもしれない。なんという偽善だ。へどが出るね。
ぼす、とキングサイズのベッドに置かれたクッションの一つに身を投げる。心地よく私を包みこみ、うっすらと埃が舞い踊る。それはきらきらと光を浴びて散って行き、やがて床へと落ちて行く。埃の数は僅かだ。この部屋はうんざりするほど綺麗に整えられている。
仰向けに体制を替え、クッションを枕に上半身だけ起き上がってそこからの景色を確かめる。戸の開いた先に見えるあの日の宿屋のような椅子二脚に小さな机、その先に閉じられた扉がひとつ。その扉の向こうの部屋には文机と誰に書くためにあるのか手紙用の用紙と封筒、誰も読まない本が無数に棚に並べてある簡素な書斎がある。
部屋は生花とマリアの肖像画、王妃と弟王子、王との四人並んだ肖像画、どこかの貴族のお姫様、私の絵が並んでいる。私だけ貧相なのでは格好がつかないからと、私は幾分か脚色されて描かれている。それが戸を開けた正面にあって、私はそれを見てふんと鼻から息をひとつついた。
「くっだらない」
本当に、妹を失ってからというものなんとつまらないのだろう。笑うことさえなくなった。遊郭の頃が懐かしい。ここに一人いるよりも、遊郭で小さな幸せを摘んで摘んで妹と二人味わっていた頃の方が何倍も良かった。
「あの――の肖像画は取っちゃって。ミーシャのだけにしよう」
「お姫様のは取っちまうのかい?」
いつもの情事が終わった後、気だるい体を休めていたらそんな声が聞こえてきて、私は細くなった目を開けた。マリアは上半身は裸のままで、ベッドから起きあがっている。お姫様の名前は聴き損ねたけれど、それはとても遠くの話であって、私には関係ないことなのでどうでもいい。マリアは私の方を向き、不思議そうに首を傾けた。
「嫌じゃないの?」
「嫌? なんでさ。あんたの離宮だろ。好きにすればいい」
「まあ僕のなのはそうだけどね。まあいいや。ああそれ持ってって、焼いていいよ。いらない」
すぐにそっぽを向いて、マリアは再び侍女に命令する。かわいそうに、どっかのお姫様の肖像画は取り払われ、しかもこれから焼却処分となるらしい。
「髪、伸びてきたね」
「やっとね。あんたもそれを望んでただろ」
私の髪のひと束に触れ、指に絡めながらマリアが言う。うんざりしたように答えてやれば、くすりと笑われた。
今、私の髪はなんとか肩に触れるくらいになってきた。緩やかなウェーブを描くそれは遊郭で手入れしていたときよりも綺麗に伸びている。自分でするのと侍女に任せるのとはこうも違うらしい。
「あのお姫様も綺麗な髪の色だったね。赤毛だったか」
「赤毛だね。それも真っ赤な。君の桃色の方が綺麗だよ」
「そりゃどうも」
目を細め、布団の中にうずくまる。裸の体になめらかな絹の感触が心地よく、疲れた体をやわらかく包んでくれるそれに眠気がきはじめた。まどろむ意識の中で、マリアが私の髪から手を離すのを見た。
「僕は作り笑いが嫌いだ」
ハッとするほど厳しい表情で、マリアが言う。急な発言とぴりっと変わった雰囲気に、私は一瞬で眠気を吹き飛ばされてしまった。目を擦り、上半身だけ起き上がって、なんでさ、と問う。
「君の言う甘美な世界っていうのは、作り笑いで出来てるんだよ。うんざりするほど見てきた。だからね」
「王様ってのは黙ってそれを受けとってりゃ良いもんなんじゃないのかい。知らないけど」
「……ものすごくどうでもよさそうだね」
「事実どうでもいいからさ」
私は寝るよ、と声をかけ、再びベッドの中に潜り込む。焚き染めた香の香りがした。
「君は好きだ。笑わないから」
「……今度から笑ってやろうか」
ニヤリ、とわざとらしく笑ってやれば、何を思ったのかマリアがいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「もう寝なよ」
「言われなくとも」
目を閉じ、意識を飛ばし始めたところで、マリアがベッドから抜け出す衣擦れの音を聴いた。
*
窓から外を眺めるのはあまり好きではない。見えるのは薔薇やその他色とりどりの花をちりばめた庭園だけだし、それを整理する庭師は腰を曲げたおじいさん方が多い。王子の庭を整える役目を担うのに、熟練の技が必要なのだろう。なんという金の無駄遣い。それに甘んじているおじいさん方を見るのは気分が良いものではない。ここで飼い殺しにされている自分を見ているような気分にさせられるからだ。縁起でもない。
それでも、今日は違った。窓から外を見てみようかという気持ちにさせられた。この部屋に就いている侍女たちの噂話で、この離宮に兄王子がやってくると訊いたからだ。
馬の蹄の音を聴き、私は窓際に立った。カーテンを引き、自分の姿を外から隠しながら、こっそり外を見てみる。華美な装飾を施された白馬から降り立ったのは黒髪の美しいいかにもな王子様で、私は眉をしかめた。この部屋にはマリアとマリアそっくりの弟王子の肖像画しかないから、他の王子の姿を生で見てみたいと思ったのだけれど――第一王位継承者のマリアの肖像画ならスラムにも貼られるほど多く存在したが、他の王子たちのそういったものはほとんど見る機会がなかったのもあった――いかにもな貴族は好きではない。マリアもいかにもな貴族だったけれど、あのときは仕方なかった。食いぶちがないから嫌いなものにも飛び付いたのだ。今はもう、マリア以外と寝ることはなくなったから、マリアひとり我慢していればいいけれども。
それにしても、なんで兄王子はこの離宮にやってきたのだろう。マリアは離宮にいる間は大抵私の部屋に入り浸っているらしいから、今は離宮にはいない。……となれば、きっと飼われている私でも見に来た物好きか。ますますうんざりするね。
兄王子は、見るからにマリアと腹違いだった。マリアの甘い顔にはない爽やかな色を持つ顔立ちに、そこにはいかにも私は女好きですよと書いてある。衣装も気品がないほど派手派手しく、私は眉根を曇らせた。まさかこの部屋にやってくるのだろうか。マリアが食い止めてくれないだろうか。……執務に追われてる様子もなくよく顔を見せにくる奴だから、こういう時――私が必要としている時――にも顔を出したっていいはずだ。
兄王子が外から何かを叫んでいるので、私は外からの声がもっと良く聞こえるように窓を少し開けた。
「君だろう? マリアのお姫様ってのは!」
……開けた瞬間後悔した。私はすぐに窓を閉め、カーテンも全部閉めさせて、戸の鍵もした。すぐさまベッドルームに戻ってベッドにもぐりこむ。ああいやだ。王子ってのはそんなにも暇なものなのか。自分の予感が当たってしまってこんなにも後悔したことは他にない。
しばらくすると外からの声もなくなって、静かになった。ああやっと帰ったか、と思っていると、今度は侍女が私を起こす。
「メリエル王子殿下です」
開けても? 侍女は訊く。私は首を横に振った。苛立ち任せにベッドルームから叫ぶ。
「さっさと出て行きな!」
メリエル、というのは確か第三王子だ。マリアのひとつ前に生まれた王子。腹違いだ。王妃はマリアとその弟王子しか産んでない。妾の子、と言われている王子たちの一人。しかし妾の産んだ王子なんて珍しくもくそもない。そんなことよりスラム出身の私から言わせてみれば――いや、この話はどうでもいい。王族やマリアの周辺のことなんて訊きたくもないし知りたくもないね。
「随分な口の聞き方をなさる」
侍女をあっさり言いくるめたらしく、ずかずかと部屋に入ってきて第三王子ことメリエルサマが入ってきた。まっすぐベッドルームへと向かってくる。戸を閉めておけばよかった。
「娼婦というのは本当みたいだな。それにしても、遊ぶのならもっとマシな娼婦もいただろうに」
楽器は何かやっている? 当たり前のように私にメリエルは訊ねる。私はうんともすんとも言わずに顔をそむけた。楽器はピアノを遊郭にいる時にやらされたきりで、最近は触ってもいない。この部屋にもないし、マリアからそれをせがまれることもなかったから、他の貴族の男が楽器を引くのはステータスのひとつと思っていることさえ忘れていた。面倒くさい。マリアと違っていかにもな王子だ。
「……俺と寝る? 金貨いくら積んでやろうか」
無遠慮にベッドをめくり、うずくまる私と視線を合わせ、メリエルは言う。私は睨みつけた。
「あんたみたいな男は嫌いだ。さっさと出て行かないと承知しないよ」
「そう? 俺はあんたみたいないかにもなスラム出身者も嫌いじゃないけど」
女としての色気には欠けるけどね、と付け足したメリエルに背中を向ける。話しても苛立つだけだ。どうしてマリアはこういう時に限ってこないんだい!
「……兄上」
低い、地面を這うような声。メリエルはベッドをめくるのをやめた。私は声のする方を見る。ちらりと確かめるとメリエルも声のした方を見ていた。悪戯が見つかったような顔をしている。
「ようマリア。噂のお姫様のご尊顔を拝見したくてね。参上した次第さ」
「兄上、いい加減にしてください。彼女の神経に触ります」
「どういう意味だよ?」
「そういう意味です」
笑いながら話すメリエルとは反対に、マリアはいらいらとした様子で話を続ける。
「僕の神経にも触っている」
「そりゃ悪かったな。邪魔者はこれで出て行くよ。執務の間なら大丈夫かと思ったけど、こうも早くおいでなさるとは」
「……ぺらぺらと」
マリアはそうぼそっと呟くと、ずかずかとベッドルームに入り逆に出て行くメリエルの姿を確かめて従者に戸を閉めさせた。それからお前も下がる様に、と言って従者を下がらせ、私と二人きりになる。
「とんでもない災難だったね。気分はどう?」
「最悪さ。決まっているだろう」
私は見世物じゃないよ、と言えば、マリアはそうだねと言っていつも羽織っている外套を脱ぎ、ベッドに腰かけた。上半身だけこちらに向けて、その手の指で私の髪を絡める。
「この髪を見られた」
「私の売り物だ」
あんたのものじゃない、そう言ってやるとマリアは肩をすくめて拗ねたように顔をそむけた。私の肖像画はベッドルームにも飾ってある。最近描かれたもので、小さなそれは円形をしている。仏頂面は笑顔に描き変えられることなくそのままで、それはマリアがそうしろと言ったものなのだけれど、ベッドルームではなく他の部屋に飾られた私の最初の肖像画の飾った笑顔と見比べてみれば見劣りのする作品だった。なんであれモデルが悪い。脚色するなと言われた絵師も可哀想に。結果あんなつまらない作品が出来上がった。マリアはそれを見つめていた。肩まで伸びたウェーブを描く桃色の髪。マリアが気に入っているもの。それを他の王子に見られたのがそんなに嫌だったのか。
「……僕のものだよ。君の全ては僕のものだ。特に、その髪」
「ばっさり切ってやりたくなるような台詞だね」
言ってから、ふと妹の顔を思い出した。もういない、私のただ一人の愛しい子。あの子と同じ髪。ふと言ってしまった言葉だとしても、切るなんて、と猛烈な後悔の波が私を襲った。「……嘘だよ」
「切るなんて嘘だ。そんなこと、絶対出来ない」
「切らせないよ。絶対に切らせない」
マリアと私は見ているものが違う。なのに奇妙に一致してしまった意見に、私はまた、この世はがらくたばかりだ、という言葉を思い返していた。
「マリアは髪フェチなんだよ」
「へえ、それはそれは。で?」
メリエルが初めて私を訪ねてきたあの日から、暇を見つけてはメリエルもまた私を訪ねるようになってきていた。マリアといいメリエルといい、どうして私ときたらこうろくな男に目をつけられないのだろう。
マリアが女の髪が好きなのはなんとなく気が付いていた。焼き捨てられたお姫様の肖像画。あれもまた綺麗な赤毛だった。私もこの桃色の髪が特に好きらしい。笑わないところも好きだと言っていたけれど、きっと後付けだろう。どうでもいい話だ。マリアが私のどこを気に入っていただろうと、結局体が目当てだろう。髪だって体の一部だ。妹と同じこの髪に目をつけたところだけ、私もマリアを気に入っている。でもそこだけだ。性格も容姿も、そもそもその身分が受け付けられない。嫌いだ。でも世の中はがらくたばかり。どこにいってもがらくたしかないのなら、ここで飼い殺しにされるがらくたが居たっていいだろう? 生きてさえいればいい。妹の言葉だ。生きてさえいれば幸せだ、と。その幸せもあっけなく散るものだと知った今、その言葉を受け入れることはできないけれど。飼い殺しにされている今を受け入れてる、自分への言い訳に使う自分が情けない。
「で? とはまた冷たいな」
「どうでもいいんだよそんなこと。それに今更だろう」
私の言葉に、メリエルは面白そうにふふんと鼻で笑った。机ひとつ挟んだ向こう側の椅子に腰を沈め、メリエルは頬杖をつく。
「君の髪はとても綺麗だ。外見も随分整ってきた。……俺の女にならない?」
「口説くのなら他の女にやってくれ。こちとらマリア一人で充分頭が痛いんだ」
「頭が痛いとはまたひどいな。ここまで尽くしてくれてるのに」
メリエルは大袈裟にぐるりと部屋を見渡し、ほら、と道化のように両手を広げてみせる。
「この部屋。特別な客しか入れない客室だ。その一室をあてがわれて、食事も衣装もなにもかも用意されている。それを有難くないとでも? そこまで頭の軽い女でもないだろう?」
「有難いとは思ってないね。ただよくやるよとは思ってる」
「はは。そりゃ君らしい」
さて、と言ってメリエルは机に手をついて立ちあがった。向いの椅子に座っている私を見降ろし、へらりと笑う。
「俺はもう王宮に帰るよ。マリアが来る前に」
「それがいいよ。また面倒を起こされたら御免だからね」
メリエルとマリアとは、二度ここで顔を突き合わせた。二度目が随分悲惨なものだったから、メリエルは来るのはくるけれど慎重だ。マリアが来るのをどこで察するのか、紙一重でいつもかわしてしまう。マリアに内密にしているのは暗黙の了解で、それがばれたらマリアは私を――引いてはメリエルを、――どうするか分からない。ここよりも暗い地下牢にでも入れられて、元のスラム暮らしに似た暮らしをさせられでもしたら今の私なら死んでしまう。贅沢の限りを尽くした後のスラムぐらしなんて耐えられないことは目に見えているのだ。メリエルは、次期国王陛下に目をつけられるわけだから、私よりも悲惨な結果を迎えるかもしれない。それでもここに来るのはきっと一種のゲームだ。
「じゃあな、ミーシャ」
「はいはい。さっさと出て行きな」
しっしと手を振って、私も立ちあがりベッドルームへとメリエルに背を向ける。メリエルはすぐに部屋を出て、静かに戸を閉めて行った。くるりと振り向くともう姿がなかった。気配を消すすべはきっと女のところに上がり込むときに身につけたすべか何かだろう。数え切れるほどしか会ってないと言っても、それだけで分かるほどメリエルは下町の女との遊びに慣れているようだった。下町、スラム、と言ってもきっとその中でも特上の女だろうけれど。
私はベッドルームに入り、部屋の隅に置かれた鏡台の椅子に座って鏡を見た。桃色の髪は後少しで肩につく。最初の頃に比べて随分肉付きがよくなり、裸の姿も見れるものになってきた。それでも肉は僅かだ。私はもともと肉がつきにくい。食べる量も今までの生活のせいで少ないし、マリアがくれば運動もするし、肉がつく機会と言うものがない。マリアは多い日は一日二~三回訪ねてきた。王宮に近いのが理由だろう。それでもメリエルと鉢合わせしたのがたった二回だけというのがメリエルのすごさを思わせる。それともマリアももう知っているのか。……それはないだろう。一度目で「この髪を見られた」とこぼしていて、二度目を見た瞬間のあの烈火のような勢いだったあいつのこと、それ以上会ってると知ったら発狂ものだろう。
それにしても、あの燃やされた肖像画の赤毛のお姫様は、今頃どうしているのだろう。この部屋が特別な部屋で、そこに飾ってあったものがその貴族のお姫様の肖像画だったというのなら、きっとマリアとの親しさも随分なものだっただろうに。私が来てその縁もあっさり切られてしまったのか。なんとも可哀想な話だ。奪った身である私がそれに優越すら感じていないところが更に憐れみを誘う。
……この桃色の髪のおかげで手に入れたものは、計り知れない。妹がいたらマリアはどうなっていただろう。妹こそが受けるべき待遇だったはずだ。あの子は器量も私より良かったし、買い手の量も私より多かった。花売りとして上物だといえた。対する私はこんな性格だからか、客もあの子より僅かに少なかったのだけれど。前向きで、いつも幸せそうに笑っていて、小さな幸せを見つけるのが本当にうまい子だった。それなのに死んだのだ。私よりも何倍も価値のあるだろう命が消え去って、価値のない私のような命がここで生き伸びている。彼女が怒るところは想像できないけれど、きっと怒るだろう。どうして、と泣くだろう。私より優れた子だった。私はあの子に怒られて嫌われて祟られて当然のことをしている。
「――」
妹の名を呼ぶ。反応は当たり前に、ない。私は鏡に手を付き、長い息を吐いた。ベッドに横たわろうと立ちあがり、侍女を呼んで寝巻に着替える。そのままベッドに滑りこんで、私は目を閉じた。浮かぶのは妹の顔ばかり。あの子が体さえ弱くなかったら。きっとマリアと出会って、幸せになっていただろう。飼い殺しの生活の中でも、幸せを数えて笑って生きて行っただろう。そんな想像は簡単に出来て、私は目頭を押さえた。泣きたくない。涙は嫌いだ。それを武器にする女が嫌いだ。妹も涙を嫌っていた。
「……ミーシャ?」
とんとん、と戸が叩かれ、遠慮がちなマリアの声が聴こえる。遠慮なんてらしくない、と思いながら、そういえばベッドルームの戸を閉めたのは数えられるくらいしかなかったな、と思った。マリアは閉じられた扉に違和感を覚えたのだろう。私の身を案じているのか。
「ノックなんてせずに、ずかずか入ってくればいいじゃないか」
「そんなわけにはいかないよ。すすり泣く声が聴こえた」
少し鼻水をすすっただけで泣いたと思ったのか。……あながち間違えではない。マリアは妙に鋭いところがあって、私が少し涙を流すとすぐそれを察する。そして心配そうにこちらを見るのだ。今みたいに。
「泣いてない」
「……泣いてた」
「泣くもんか!」
どなり散らす。馬鹿みたいだ。察知されて羞恥に激昂する自分。なんて底が浅いんだろう。
「ミーシャ、今日はもう行くよ。……新しいドレスと美味しい菓子、どっちがいい?」
「分かり切ってるだろ。どちらもいらない」
元気づけようとするマリアの態度に苛立ち、私はつんとそう答える。マリアは笑わなかった。じっとこちらを見ている。私も視線をそらさなかった。
「いらない。出て行くなら早くしてくれ」
「……」
ベッドから上半身起きあがってそう言い放つと、マリアは外套を脱いでベッドに入ってきた。途端私は悲鳴のように叫ぶ。「出て行くんだろ! 早くしろ!」
「ミーシャ」
マリアが名を呼ぶ。なんだい、と冷たく答える直前に抱きしめられて、私は突然のマリアの行為にらしくもなく頭が真っ白になった。いつもこれ以上のことをしているのに。泣きそうだったすぐ後にこういうことをされると、どうしようもなく弱い。
「……ミーシャ」
「……離してよ」
「嫌だと言ったら?」
マリアが私の髪に埋めた顔を少し離し、私の顔を覗き込むように見て訊ねる。
「殴る」
「遠慮したいな」
ぐっと押し倒され、文句を言う間もなく唇を奪われた。
マリアが私に贈る調度品というのは、第一王位継承者であるだけある、と思わせるほど気品のあるものが多い、らしい。派手すぎず地味すぎずなドレスは確かに美しいとは思うし、メリエルの着ているようなただただけばけばしいものとは全く違うと言うことは分かっても、それが王族らしく趣味の良いもの、と言えるのかどうかは分からない。私は貴族の生まれでもないしね。
マリアが贈ってくるドレスが溢れて、私は離宮にもうひとつ、衣裳部屋をあてがわれることになった。どんな部屋かは侍女と時折訪れるメリエルしか知らないけれど、スラムの娼婦だった私が富に溢れていく様が見ていてそんなに面白いのか、メリエルが私に話すマリアに関する噂話は多かった。それで知ったのだけれど、その部屋というのはとんでもなく広い部屋らしい。こんな部屋をあてがうのか、と言った従者に、マリアはこれからどれだけ増えるのかも分からないのだから、広いに越したことはないだろう、と返したとかなんとか。本当にもの好きなものだと思う。そして馬鹿だ。あいつは本当に馬鹿だ。国民の税金で私ひとり肥やしたところでなんになる。
「次期王妃にでもするつもりかね」
ぽつり、ベッドで眠るマリアの寝顔を見ながら呟くと、ううん、とマリアは唸った。何の夢を見ているのか、随分眉間にしわが寄っている。もしかすると、私が思っているよりこの王子殿下には、気苦労というのが絶えないのかも知れない。外の世界は知らないし、マリアも言おうとしないから、私にはそれも関係のないことなのだけれど。
次期王妃。あり得ない話だ。そんなものになれるほどの身分も持ってないし、今この待遇も仮初のものだろう。いつ崩れるか分かったものじゃない。がらくたに何着せたところでがらくただ。見栄えさえしても中身は空っぽ。そんなものにどんな未来がある? 莫大な富を得て、飼い殺しにされて、そんながらくたにどんな未来があると言うのか。……何もない。何もないのだ。
「次期王妃とはまた面白い。ただ、それは無いと思うけどな」
「そりゃそうだ。私も本気で言ってる訳じゃない」
メリエルと茶を飲みながら、そんな話をした。マリアはこんなにも私を肥えさせて、王妃にでも迎えるつもりか、と言ったのだ。メリエルの返事は思った通りで、私は退屈で目を細める。
「次期王妃にはリディア様がなるんだよ。ほら、ここにも飾ってあっただろう? 赤毛のお姫様さ」
「あのお姫様とは縁を切ってなかったのかい? 私はてっきり――」
言って、ハッと私は口を押さえた。いらないことを言った。メリエルは案の定、うっすらと面白いものを見つけたような笑みを浮かべる。
「縁を切っていて欲しかった? 一介の娼婦がそんなこと考えるなんて、随分と……」
「それ以上言ったらカップで殴るよ」
茶を飲み干したカップを振りかぶってやると、メリエルは首を引っ込める。しかし目は笑ったまま。
「マリアに興味なんてないよ。捨てるなら捨てれば良い。ただ、私はここまで肥えさせられて、いきなり捨てられるなんて御免だよ。今更スラムに戻すってんなら、まずその準備をさせてもらわないとね」
「準備するつもりで言ってる?」
「もちろん。心の準備から始めさせてもらうよ」
マリアが肖像画を処分したのが悪い。あれで完全に私はあのお姫様とマリアの縁は切れたものだと思いこんだ。……切れてなかったのか。ますます私はあのお姫様にとって邪魔者というわけだ。殴り込みにこないだけさすが貴族だね。公爵家かなにかだろうか。王子と結婚するのだ、それなりの身分はあるだろう。綺麗な赤毛のお姫様。絵に描いたような美少女だった。脚色されてなければね。この部屋に飾ってある、どっかの誰かの間抜けな肖像画のように。
「マリアも可哀相に。俺とこの部屋で鉢合わせしたときの態度を見られている上でスラムに戻る準備をする、なんて言われるとは」
「何か問題でもあるのかい? 私は娼婦にすぎない。それ以上でもそれ以下でもないんだよ」
マリアが私をいたく気に入っているのは知っている。でもあいつだって、私のことを娼婦以上には考えていないだろう。自分のものだと言っているのだし。物扱いされるのは慣れているとはいえ、決まった相手がいるというのならその役は降りさせてもらった方が私の気分が良い。なんであれお姫様に邪魔者扱いされるほどの特上の娼婦になったところで何になる?
「身分をわきまえているのは随分だと思うけどね。ただ」
「ただ?」
そこで言葉を切ったメリエルに、その先を催促する。メリエルは瞬き、紅茶を少し口に含んだ。ごくりと飲み込み、ソーサーにカップをそっと置く。動作は洗礼されているものの、やはり格好が格好だ。いかにもな女好き。道化のような派手な衣装が好きなのもうなずけるほど下町になじんだ王子様。どうしようもない。やっぱりどうしたって、マリアの方がまだ王子らしいね。
「――どうして捨てられずにずっとマリアの傍にいることを望まないんだ?」
メリエルはじっと私の瞳を覗きこむように見つめる。私はうんざりしたように息を吐いた。
「それを望んだところで何になる」
「希望になるよ。幸せにもなれるかもしれない。飼い殺し以外の未来があるかもしれないぜ」
「――幸せなんてね、すぐに崩れるんだよ。不幸の数の方がどうしたって多いのさ。そんな世の中で、幸せになろうとあがく奴の気がしれない。私はなるようになるとしか思わないし、あがく必要性を感じてない。スラムに戻されるならそれでいい。ここで飼い殺しされるのでもそれでいい。なんだっていいんだよ」
「希望を持たずにただあり続けるのは辛くないかい?」
「あんたらしくない問答だね。私はおりるよ」
手をあげ、立ち上がる。侍女が再び私のカップに注いだ紅茶はそのまま。メリエルは息をついた。
「俺が買ってあげようかって言ってるんだよ。マリアの気はどうなるか分からない。でも俺は違うぜ? 下町に暮らしながら資金と家を提供してやろう。どうだ? 良い話じゃないか。飼い殺しでもない。好きなものを好きなときに好きに使えば良い。金だって君が自由に使えばいいんだ。どうだい」
「私はマリアに買われているんだよ。他の奴に今更鞍替えする気はないね。あんたみたいな、外見がそれなりになってきたから買ってやってもいいなんて思うようなただの女好きにも触られたくないし」
「なんだ。俺の考えは読まれてるってわけ?」
「あんたは単純すぎるんだよ」
ふうん、とつまらなさそうにメリエルは鼻を鳴らす。私は着ている上着の、肩から落ちかかっているのを直した。ちらりと以前赤毛のお姫様が飾ってあった壁を見る。日に焼けてないところだったその壁紙は肖像画を取ったすぐのときより日に焼け、前よりも少し周りとなじんでいる。
「マリアがこれから私をどうしようと勝手だ。思うままにすればいい。お姫様と結婚して邪魔になったなら簡単に捨てれば良いだけの話だ。もぐりこんで刺してやろうなんて気が起きるほど、私は絶対にあいつに入れこまない」
「言いきれる? 絶対に恨まないって」
「恨むかもしれないね。でも一時の感情だ。スラムで暮らせばすぐに忘れる。それどころじゃないからね」
――嘘だ。私は絶対に今この瞬間を忘れないだろう。ただ、マリアの顔は忘れるだろうと思う。この暮らしだけ忘れられない。きっと忘れられない。そうなってしまうまで私を溺れさせたマリアのことは恨んでも、その顔は忘れる。重ねた肌も忘れる。次の良い男が現れればそっちに食いつくあさましい娼婦になりさがるだけだ。もしかすればメリエルにもいつか食いつく日が来るかもね。考えたくもないけれど。
「今、嘘ついただろ」
「……」
メリエルの瞳がすうっと細められる。私は黙り込んだ。ほら、女に慣れてる。女の嘘は見抜けるのだ。マリアと違って、こいつは。下町の女の嘘は武器だ。それを見抜けるってことは、やっぱりこいつは下町の女が好きな脳なし王子なんだろう。
「……そうだよ。私はこの生活を忘れられない。ただ、マリアの顔なら忘れられる」
「正直だね。そっちのほうが君らしい」
そうなったときは俺が拾うさ、そう言ってメリエルは席を立ち、部屋を出て行った。残された私はひとりため息をつく。
*
その日の夜、マリアがやってきた。昼から顔を出さないのはマリアにしては珍しく、私は眠気の残った顔で出迎えた。寝巻に着替えているのは今まで眠っていたからだ。書斎の本を一冊持ってきていたけれど――文字の読み書きは遊郭で叩きこまれた――それもつまらないもので、なんとかの定理、とかいう学問の本だったから、私は読まずに寝こけていた。そこにマリアのお出ましで、ちょっと機嫌が悪かった。読んでいた本が悪い。あんなに面白くないとは思わなかった。
「書斎の本もぼちぼち入れ替えようか。どんな本が良い? 女性は小説の方が好きかな」
「小説のほうがまだマシだね。ただ恋愛ものはよしてくれ。寒気がする」
柄じゃないしね、と無愛想に私が言うと、マリアはそっと微笑んだ。マリアは変な奴で、多分作り笑いが好きじゃないと言ったあの日の言葉が理由なのだろうけれど、私が不機嫌なほど喜んだ。本当におかしな奴だ。
「政治でも読むっていうの? 歴史物?」
「娼婦ものでもいいかもね」
「そういう本は焼き捨てられているんだよ。僕が手に入れたら母上に何と言われるか……」
そこまで言って、マリアははっとしたように口をつぐんだ。母上。マリアが自分の家族のことを語るのはそれが初めてで、私もちょっと興味を持った。
「母上って、王妃様かい」
「……ミーシャには関係ないよ。もう寝よう」
マリアは顔をそむけ、本をベッドの端の方に投げ捨てる。固い装丁の本はおり曲がることなくベッドに吸収され、鈍い音を立てて落ちた。私には関係ない。それもそうだ。それでも私も機嫌が悪いままだったから、その言葉にちょっとかちんときて、ちょっと考えてから言葉を紡いだ。
「……あの赤毛のお姫様は誰?」
私の意地の悪い問いに、マリアは顔をこちらへと向ける。無表情だ。暗く濁った瞳をしている。こんな顔は初めて見た。
「気になるの」
「別に。訊いただけさ。こんな娼婦に男を取られるような女だろう?」
冷たい問い返し。私は落ち着いた対応で更に返した。マリアは一瞬目を床へと落とし、それからまた私を見る。
「リディア・ノージー=バースキン。公爵家の娘。僕の従妹」
「……いとこ?」
「そうだよ。血のつながりがある。だからこそ――」
そこで言葉を切って、マリアはふと息をついた。その先は、だからこそ僕の婚約者なんだ、だろう。しかしあの赤毛を気に入って迎えただけだと思っていたのだけれど、もしかしてマリアはあの赤毛には興味を持ってないのかも知れない。ふとそんなことを考えて、自分でもその考えに驚いた。どうしてそんなことを思ったのだろう? マリアが「君の桃色の髪の方が綺麗」だと言ったことがあるせい?
「寝よう。今日は気分が悪い」
そう言って、もそもそとマリアはベッドに入ってきた。侍女に言いつけて、部屋の明かりを完全に消してしまう。私も慌てて床に入った。マリアは今日は他に何かをしようとするわけでもなく、目を固く閉ざして息を吐く。
「――今度本を買ってくるよ。娼婦のやつ。それでいいんだろう?」
「ああ」
マリアの固い声での問いに、私はそれだけ短く答えた。
マリアが買ってきた本は――正確に言うとマリア自身が買ったのではなく献上された本なのだけれど――、思っていたより面白くないものだった。そりゃそうだ。エロ目的なんだから。娼婦物、と言って読んでみたけれどほとんどが偽物の物語だ。どうせならもっとどろどろの現実味あふれた感じにしてくれていいんだけどね。本に文句を言ったところで仕方ない。
「気に入った?」
「全然」
マリアの呑気な声に、私は答える。
「そうか、それでもその手の本の収集家が選んだものなんだよ。それ以上は多分無い」
「ロマンチックすぎるんだよ。寒気がする」
「それは仕方ない。物語なんだから」
退屈そうに本を脇に投げた、ベッドに仰向けに寝ている私の上に乗り、マリアは本に手を伸ばした。ぱらぱらとめくって文章を斜め読みし、ぽつりと零す。「文章は悪くないけどね」
「読んでみればいい。気持ち悪いから」
「官能小説なんてそんなものだって。それを願ったのは君だろう?」
「他にマシな本が無かったからね。それにしたって気分が悪いよ」
ね、とマリアは悪戯っぽい光を瞳に宿らせ、私の顔を覗きこむ。
「政治物読んでみる?」
「御免だね」
小難しいのは好きじゃないのさ、とあくびをかみ殺す私に、マリアはふふと何がおかしいのか笑った。
「時代物、政治物、歴史物、恋愛物……」
「官能小説」
「また? 品が無いよ」
「収集してる馬鹿な貴族もいるんだろう? そいつに言ってやりな」
ふん、と息を吐き、私は布団にもぐる。マリアが布団をめくって私の顔を見た。私はそんなマリアの楽しそうな顔を睨みつけてやる。
「もう言った。好きなの? って一言訊いただけで顔を赤くしてたよ」
「そりゃまた随分な訊き方したんだね」
うんざりした様子の私に、マリアは口に手を当てて笑った。白い歯を零す、なんてことはない。
「僕は好きだよ、政治物。読んでご覧」
「寝物語に聞かせておくれ」
私の答えに、マリアはぱちぱちと目を瞬かせる。
「寝物語聞きたいの?」
「馬鹿言うんじゃないよ」
「どっちなのさ」
「興味無い。分かるだろ?」
ふうん、そう、と言ってマリアは私の上から体をどかし、横に寝そべる。布団を肩までかけ、はあと深い息を吐いた。
「つまらなさそうだから何か娯楽でもと思ったのに。……ピアノでも贈ろうか?」
「勘弁してくれ」
ピアノなんて部屋に置かれたら、部屋に来たメリエルにまたピアノ弾けるの? とでも訊かれるだろう。御免こうむる。
再び布団を頭まで被ってしまった私に、マリアは覆いかぶさってきた。呼吸が苦しくて下からばしばし無遠慮に叩く。
「痛い」
「馬鹿! 上から乗ったら呼吸できないじゃないか」
「僕を叩くのなんて君くらいだよ」
「そりゃまたあんたの周りは随分大人しいんだね。あんたなんて叩かなきゃ分からない朴念仁じゃないか」
「そこまで言う?」
「言う」
頭を縦に振ってやれば、マリアは眉間にしわ、と言って私の眉と眉の間を触った。その表情はにこやかだ。……家族とお姫様の話をしたときには見れなかった表情の数々。マリアが眉間を曇らせる理由はなんだろう。――興味ないね。
「君の肖像画、また描こうか」
「もういいよ」
目を細めて枕に頭をうずめる。柔らかい枕は眠気を誘う。
「ここにあるのと外にあるの。それで充分さ」
「そう言わずに。また前より綺麗になったよ? 肉付きも良くなってきたし」
「馬鹿じゃないの」
マリアの口説き文句に眉根を曇らせる。そういう甘言は事後にでも――ああ事後か。なら仕方ない。私はこれからマリアが何を言っても今日一日は無視することに決めて、目を瞑った。瞼に柔らかい感触。キスされた。
「……あんたは他に女がいるんじゃないのかい。たまにはそっちに言ってやれば?」
「どうしてそんなこと言うの?」
マリアはきょとんとした顔でこちらを見てくる。そんな顔したって、あんた、だって私ばかり構っても居られない癖に。他の女、しかも婚約をかわしている女性がいると言うのに、どうしてこいつはこうも私のところに入り浸るのか。たまに知らない女物の香水の匂いがすることもあった。もしかすれば、他にも娼婦もいるのかもしれない。分からないけれど、私ばかり構っていてはいけないはずだ。女の嫉妬は怖いんだよ、他と違って――他を知らないけれど――全く嫉妬しない私を放っておいたほうが気楽ってもんじゃないのかい。
「どうしても何も」
「いいんだよ。他の女なんていいんだ。ミーシャが一番安心する」
「……そりゃどうも」
こりゃだめだ。何を言っても聞きそうにないし、そもそもこれ以上何かを言いたくもない。勝手にすればいい。引っ掻かれるのもその綺麗な金髪を引っこ抜かれるのもマリア自身だ。ただやっかまれる対象にはなりたくないね。……言っておこう。
「私はね、マリア、女のやっかみに遭いたくないんだよ」
「やっかみ?」
マリアは首をひねる。私は鬱陶しげな表情で続けた。
「他に女がいるんならそっちに行ってもらった方が気が楽だ。私なんて放置してもらって構わない。存分に他で遊んでくるといいよ」
「女なんていないさ。……ああいうのは僕の女とは言わない」
「金でも支払ってやんな」
わたしみたいに、と継ぎ足すと、マリアは何故か表情を固めてはあと重いため息をついた。
「金貨でどうかなることなんて限られてる」
「そんなことはないさ。ほとんどのことが金で解決するよ。あんたが自分の女だと大きな声で言いたいのなら、私にしたみたいに金貨を二枚でも百枚でも渡してやればいい」
「……限られているんだよ。あの女はそれ以前の問題だ」
あの女、とつるりと零して、マリアはあっと素っ頓狂な顔をした。ますます表情をこわばらせ、いや、と前言を撤回する。
「なんでもない」
「そうかい」
あの赤毛のお姫様のことだろうか。それ以前の問題。何がそれ以前なのか。お姫様でもなんでも、公爵家を上回る資産を持ってるあんたなら、お姫様ひとり満足させることくらいたやすいだろうに。しかし私はそれ以上突っ込みもせず再び瞼を閉じた。照明の光に瞼が焼けて、裏がほのかに赤い。それをしばらく見つめていると、マリアの声が降ってきた。
「……金貨でどうにかなるなら、あんな女との縁は切ってる」
ぱち、と目を開け、マリアを凝視する。こちらを見つめる瞳は本気だ。まっすぐ射ぬいてくる。
「縁を切りたいのかい」
「そうだよ」
どうしてさ、とは訊ねない。それ以上詮索するのは危険だ。しかし、マリアは訊かずとも答えてくる。
「あんな女より、ミーシャの方が良い。あんな、作り笑いばっかりうまい貴族の女なんか」
「作り笑い」
「そう」
マリアの目は鋭い。またあの暗闇を宿している。赤毛のお姫様のことを訊いたときと同じ目の光り方だ。マリアはもしかして――赤毛のお姫様を嫌っている? 作り笑い。以前、作り笑いは嫌いだと言っていた。赤毛のお姫様は作り笑いをするような女なのだろうか。公爵家の出のお姫様だと言う。王族への媚びの売り方くらい心得ていてもおかしくはない。……おかしくはないけれど。作り笑いの何がそんなに悪いのだろう。私の妹だって、辛い時にそれを隠して作り笑いをしていた。その時は、私は嫌悪よりも愛を抱いた。放っておけないと思った。作り笑いとはそういうものだろう?
「ミーシャは笑わないね」
ぽつ、とマリアは言った。私はまあね、と軽く返す。
「そこが好きだ。君は自分に正直だ。尊敬したいくらい」
「嫌味かい」
「まさか。褒めているんだよ」
マリアは私へと向けていた視線を顔ごと天井に向けて、長い息を吐き、目をつぶる。
「……好きなんだ。ミーシャだけだ。こんな感情を抱いたの」
「それは、また」
面倒だね、と言いそうになって、口を閉じた。
桃色の髪がそんなにお気に召したのか、マリアはベッドの中でも外でもこの髪に触れてくることが多かった。ふわふわと波打つ桃色の髪の毛は私が以前自分で整えていた頃とは比較する必要を感じないほど今の方が美しい。侍女に任せるとこうも違うんだね。髪の洗い方にもコツがあるらしく、自分でやるのと侍女がやってくれるのとでは雲泥の差があった。主に渇いた後にね。暇があればお風呂に入っていたから私の体からは常に石鹸の匂いがしただろう。貴族の付ける香水を贈られたことはあったけれど一度つけてその匂いに吐き気がしてからやめてしまった。どうも匂いものは苦手らしい。他人が付けててもどうとも思わないのに自分のは駄目だなんておかしな話だ。マリアが選んできた香りが悪かったのかもしれない。
「妹が夢に出なくなったんだ」
私がぽつりとそうこぼしたのは、マリア相手ではなくメリエルにだった。マリアには妹の話はしたことがない。家族の話をしたがらないあいつと同じで私もマリアには家族の話はしたいと思わなかった。代わりにメリエルには何でも話した。メリエルが下町の女に慣れている様子だったから、単に話しやすかったんだろう。マリアがどう思うかは知らないが、ばれたら機嫌を損ねさせるのは確かだろうね。マリアはそこまで気の優しい男でもないし。
「そうかい。それはよかったね」
「何が良いのさ。要は忘れてきてるってことだろう? こんなに身勝手なことってないよ。自分でも自分が嫌になるね」
「そんなに悲観的になる必要はないさ。記憶とは忘れるものだ」
いいかい? 君の妹はもう人間ではなく記憶になったんだよ、とメリエルは言う。私は力任せにその頬をひっぱたいてやった。なんであれ人間でないとは聞き捨てにならない。私の勢いに驚くどころかメリエルは嫌に冷静で、叩かれた頬を片手で包んで不敵に笑った。なんでこの状況で笑えるんだい。あんたどこまで修羅場に慣れてるのさ。
「ミーシャ。悲しいのは分かるけれど、もう過ぎ去ったことだ。過去なんだよ。分かる?」
「過ぎ去ったことだ。それは認める。でも人間じゃないとは酷い言いざまじゃないか」
「それは悪かったね。確かに言葉が過ぎたかもしれない。……ところで君、案外力が弱いんだね」
頬から手を離し、メリエルはけろりとした表情を見せる。力が弱い。そりゃそうだろう。筋肉をつける機会なんてなかった。でも渾身の力を込めたのだ。痛くなかった、ということはないだろう。
「もう一発殴ろうか?」
「それは遠慮しておくよ」
メリエルはいつもの様子だ。頬もそんなに赤くなっていない。……痛くなかったのだろうか。本当にもう一発殴っておこうかな。
「……話を戻すよ。妹が夢に出なくなったんだ。いつも夢に出てきて泣いていたのに。まだ向こうで泣いてるんだろう。それが見れなくなったなんて、あの子はきっとますます泣くよ」
「君の妹君はそんなに泣き虫だったのかい? いつも笑っていたと言っていたじゃないか」
「笑っていたよ。……ずっと笑っていた。怒ったところも見たことがない。泣いているところなんてちょっと前まで見てた夢の中でだけさ。見ているほうが泣きたくなるような泣き方をするんだよ」
「それ、もしかして君が何か妹君に悪いと思っていることがあるんじゃないか? それで泣かせている夢ばかり見るんだ」
あの子は、夢の中で本当に、本当に悲しそうに泣く。誰かのことを悪く言うでもなく、ただただ泣く。目が腫れているのかは見えない。顔を両手で覆って泣くのだ。ぐすぐすと泣くそのさまは見ているこっちも気分が良いものではない。こっちも泣きたくなってくる。事実、起きたときに目尻が濡れていたこともあった。しかし最近はその夢を見ないのだ。どうしてだろう? もう何日もみてない。何が変わったというのか。
「悪いと思っていることなら、沢山ある。本当に沢山。ここにいるのだってそう――言っただろう?」
「聞いたね、確かに。ここにいるのは本当は妹君のはずだったって、アレだろう? くだらないね」
「本気でもう一発殴られたいみたいだね。手が痛いけどやるのはやぶさかじゃないよ」
「怖い、怖い」
メリエルは、両手を挙げて降参のポージングをした。なんて奴だ。本当にろくでなしだね、こいつは。
「そうじゃなくてさ。ここにいても妹君は――俺の聞く限りでは――マリアには気に入られなかったよ。一回やってぽい、だ、きっと。ここに連れてこられた娼婦なら君の前にも五万と居たよ。でもここまで長くとどまってるのは君一人だ。意味分かるかい?」
「……私だったからマリアに気に入られたとでも言いたいのかい」
「ご察しが良くて何より。君はそれをなんとなく察するようになったんだ。だから妹君に謝る理由もなくなって、妹君が泣く、なんて気分の悪い夢を見なくなったんだよ。何よりじゃないか。教養はないけど君は頭が良い。君は嫌がるかもしれないけれど、なんとなく君は察しているんだよ。マリアは妹君と君が二人並んでいたとしても確実に君を――」
ばしん、と大きな音を立てて私はメリエルの頬を打った。二度目の手のひらがじんじん痛む。
「……痛いよ」
へらり、と笑ってメリエルは言う。
「髪が綺麗な女ならどこにだって転がっているんだ。マリアだって何人もの髪の綺麗な女を相手にしてきた。事実、婚約者であるリディアだって綺麗な赤毛の女だ。周りの貴族や政治家たちが見繕って来たのさ。それを相手にせずに君だけに没頭する理由は何だと思う?――君にしかない魅力があるから――」
「三度目は出て行ってもらうよ」
「じゃあ出て行こう」
がたり、と席を立ち、メリエルは本当にさっさと部屋を後にした。扉の向こうに消えた姿を追って、私は息をつく。話さなければよかった。妹のことなんて。女に慣れて、下町に慣れて、聞き上手なメリエルだってこのありさまだ。気分ばかり悪くなって、後味ばっかり悪くて、マリアの顔までついでにぶんなぐってやりたくなるような衝動。……八つ当たりだ。分かっている。
妹がマリアに捨てられていたら――そんなことをぽつんと考えて、私は鬱々とした気分を抱えながら椅子の背に腰を滑らせた。もしそんなことが過去にあっていたら、私はマリアと親しくベッドの中で会話する気は起きなかっただろう。ということは、この飼い殺しにされている今は妹がいなかったからこそ、と言うことになる。なんてこった。そんな未来を生きていると言うのなら、今すぐ捨ててしまっても構わないね。妹がいなかったから今が良いなんて、口が裂けても……。
残酷だ。この世はがらくたばかり。そう言ったあの娼婦仲間の名前も顔も忘れたけれど――確かにそうだ。この世はがらくたばかり。「今」という現状さえがらくただ。価値のあるものなんて何もない。例えばいまここで私が首を吊って死んでもがらくたがひとつなくなっただけで価値なんて生まれないのだ。逆に、生きていたって価値は生まれない。マリアが悲しむ? それが私をこの世につなぎとめるものになるとでも? 私は生きるさ、しかしそれはマリアのためでは決してない。妹が言っていた、「命こそ幸せなんだ」という言葉を知るために私は今、生きている。でも知ることは価値なんてやっぱりないじゃないか、という残酷な運命ばかり。あの子が捨てられていたかもしれない? マリアに? そんなことあってたまるものか。私だから捨てられなかった? 意味を理解しようとさえしたくないね。
この世はがらくたばかり。そうなんだ。結局のところ皆がらくた。マリアだってお高い命に生まれただけでがらくたに変わりない。私から見ればそうだ。いくら次期国王陛下だって言ったって、こんな離宮に来て私と遊んでばかりのあいつなんかがらくたの中のがらくただ。価値なんてないね。私もそう。そんな奴の相手を黙ってやっている私もがらくた。妹だけは宝物だった。それを捨てたかもしれないと言うのなら――やっぱりマリアだってがらくただ。
「……つまらないね。本当にくだらないことばかりだ」
呟き、私は机を軽く蹴った。かちゃんと音を立ててカップの中の紅茶がこぼれる。それがドレスの裾にかかって、少し染みが出来た。赤い染み。血とはまた違う赤味。あの子が最後に吐いていた、あの黒々とした血とはまた別の――。
「……泣かない。私は絶対にもう泣かない」
マリアになぐさめられた以前のことを思い出す。あんなことはもうこりごりだ。あの後抱かれて滅茶苦茶にされて――それこそがマリアの慰め方だったのだと気付いた時の私の情けなさったらなかったね。妹のことを忘れるまで抱く、そんな無茶なやり方があるもんか。あんなことは二度と御免だ。だから泣かない。私は、泣かない。マリアに慰められるような女にはならない。
「泣かない……」
それでも抑えられるものではなくて、私は目尻を押さえてしばらくそのまま、じっと椅子に座っていた。
*
その日は有難いことに、私が泣いていた痕が消えるくらい時間が経ったころになってから、マリアはやってきた。もういつもと変わらない様子を取り戻した私は、最近マリアが気に入っているのだと言う小難しい小説をベッドに寝転がって読んでいた。意味こそ理解できるものの面白いとは思わないね。政治物じゃないだけ有難い。
「珍しいね」
「そうかい」
私はマリアの言葉に気のない返事をする。マリアは珍しいよ、ともう一度言って私から本を奪った。ベッドの端に腰を据え、私が読みさしているページを開いた本を手元に置いて器用に侍女を呼び外套を脱がせてもらう。マリアは面倒くさがりで気分屋の面も持っていて、自分で何もかもするときと人に何もかもさせる時とあった。今は何もしたくない気分なのだろう。外套を脱ぐことさえ億劫とはどれだけ――疲れているのだろうか。顔色がいつもより幾分か青い気がする。
「疲れている?」
問うと、マリアはちょっとこちらに視線を向けた。私と同じく気のない視線。マリアはすぐに本に目を落とし、几帳面にもしおりを置いて別のページをめくった。私が読んでいた部分より進んだところだ。本に視線を落したまま、マリアが問い返す。「なんで?」
「顔色が青いよ」
「そうかな。そうかも」
部屋の端に置いてある鏡台の鏡に自分の顔が映るようちょっと動いて、マリアは言う。唇の色がないね、と言って笑うさまは本当にどこか疲れているように見えて、私は目を瞬かせた。
「今日はこんなところに来ないで王宮で休んでいればよかったのに」
「ここが一番気が休まるんだよ。前言わなかった?」
言われたような、言われてないような。私は首を縦にも横にも振らずにふうんと鼻を鳴らすだけにとどめた。
「まあいいけど。抱くだけの元気があるなら心配する必要もないしね」
「抱くためだけに来ているわけじゃないよ。知ってる癖に」
悪戯っぽい光がマリアの目にちょっと宿る。あ、こいつ。調子に乗っている。
「……言っておくけどね、私にその気はないんだからね」
「知っているよ?」
「ますます性質が悪いね。知っていてそんな口を聞くのかい」
私が不機嫌に眉をひそめると、マリアは顔に色を取り戻した。いまや先ほどまでの疲れた様子はどこへやら、にこにこと笑っている。
「そんな気がなくても心配してくれるのかって思っただけ。前進したよね」
「調子に乗るのもいい加減にしておくれよ。頭が痛い」
マリアの言葉に、私は頭を片手で抑える。本当に頭が痛くなってきた。らしくない言葉なんか発するもんじゃない。今日妹の夢のことをメリエルに話して失敗したばかりだと言うのに、私は何をやっているんだろうね?
メリエル。メリエルか……そう言えば、どうして私はマリアに妹のことを話そうと思わないのだろう。マリアがあまりにも自分の周囲のことをかたくなに私から隠そうとするからだろうか。それともマリアが妹を軽んじた場合を恐れているのだろうか。……多分、後者だ。私は私の目の前で私が話すあの子のことをマリアにすげなくされたら、マリアのことを許せなくなる以上に――マリアにあの子のことを話した自分を許せなくなる。そして、あの子がメリエルの言うとおりマリアに選ばれない子だったと認めざるを得なくなる。それが怖いのだ。そうなったとき、私はどうすればいい? 今のまま飼い殺しになっているなんて絶対に無理だ。そうなったとき、私はメリエルと会っていることを暴露してでもここを逃げ出すだろう。
「私は寝るよ。あんたにその気がないなら私は用無しだからね」
「用無しだってことはないと言ってるのが分からない? 僕の相手をしてよ」
「そこら辺の侍女でも相手にしたらどうだい。あんたのお手付きになれたら鼻も高々だろうよ」
「冗談はよしてくれ」
「あんたもね」
そこで会話は途切れ、マリアはふうと小さな息を吐いて本を閉じた。立ち上がり、侍女に手伝ってもらいながら服を脱いで寝巻に着替え、ベッドへと入ってくる。小脇に抱えた本を開き、俯けに寝そべった。その上に侍女が丁寧に布団をかける。
「この本は面白かった?」
興味なさそうにマリアが訊いてくる。私は黙り込んだ。
「そう」
返事がないことに私の返答を読みとって、マリアはぱたんと本を閉じる。しおりは私の読みさしのページを示すのに使ってしまったから、マリアはもうどこまで読んだかほとんど分からないだろう。……いや、初めて読んだ本だから分かるか。それでも完全に此処だった、というのは分からないだろう。今みたいにてきとうな――多分マリアが開いていたのはてきとうなページだった――ページを開いて、ちょっと読んで本を閉じるんだ。きっと。
「僕は好きだよ。戦争のシーンなんて最高に楽しいね」
「そりゃまた随分高尚な趣味だね」
嫌味を言ってやると、マリアはちらりとこちらを見た。暗い瞳。私はハッとした。……赤毛のお姫様のことを話していたときと同じ瞳だ。何か闇があるのだ。そう察して、それ以上訊かないでおこうと私は口を閉ざした。マリアもそれ以上何も言わない。奇妙な静けさに囚われた部屋は薄暗く重苦しく感じて、私は少し息が詰まる感覚を覚えた。
「ミーシャ。この離宮の中、散歩してみる?」
マリアがそう言ったのは青天の霹靂と言っても良かった。私は沈黙して数秒マリアの顔を見つめたあと、「なんで? 珍しいじゃないか。この部屋だけで飼うつもりなんじゃなかったのかい?」
「この部屋だけで飼うなんて言った?」
「言ってない」
答える。言ってない。でもそうだと思っていた。それほどまでに、私はこの部屋の中だけで飼い殺しにされてきていた。
「散歩する?」
「……する」
マリアの再びの問いに、私は答える。マリアにどんな心境の変化があったのかは知らないけれど、この部屋の外に少しでも出してもらえるならそれほど有難いこともない。いい加減この部屋にも飽きてきていたしね。発狂しなかっただけマシだと言える。
「あっちからここまでが客室。応接間はこっち」
マリアに従って歩いて行く。久々の散歩は足腰に来る。私とマリアは何度も休憩しながら歩いて行った。たった数歩で動けなくなるような足腰になっていたとは情けない話だ。そうしたのはマリアだけれども。あの部屋でだけ動いていればいい、というのは想像を優に超えるほど窮屈なことだったらしい。贅沢な暮らしにごまかされて、私は随分とご立派な生活をしていたようだ。……本当にメリエルのところにでも行ってしまおうか。あいつなら下町で金の援助をしつつ自由に過ごさせてくれると言う。なんてね。思ってみたところで私がそれを実現させてしまうことはないだろう。メリエルとはもう、そういう間柄ではない気がするし。
マリアにつき従って入った応接間は、私の部屋よりも何倍も広い部屋だった。真ん中一列に並んだ大きな三つのシャンデリアには光がともりきらきらと輝いて、敷かれたマットはふわふわで豪華な刺繍入り。その部屋の真ん中にぽつんと置かれた小さな机はガラス製で、そのふくよかな足までガラスでできている。一点ものだろうか。その机を取り囲むように置かれたソファーは赤。そこには数個、毛のついたクッションも置いてある。壁には巨大な王様の肖像画と、王妃様の肖像画、マリア自身の肖像画と三枚並んでいた。暖炉の上に置かれた小さな円形の、立てるタイプの肖像画には知らない男性が描かれていた。黒い髪だけれどメリエルとは違って、もっと美形で体格は逞しい。着ている衣装は甲冑と金色のマントだ。あれ、と私がそれを指差すと、マリアは暗い瞳を見せる。
「誰だい?」
「母上の嫌いな人だよ」
それだけ答えて、マリアは次の部屋に行こう、と私の背を押す。
王妃が嫌っている人。そんな人の肖像画をどうして応接間なんかに置いているのか。それもあんなこっそり、隠しているのかと思うほどちんまりとした円形のものなんか。本当に隠したいのだったら応接間なんかに置かないだろうし、本気で飾りたいのであれば王妃様や王様のもののように大きなものを作るだろう。しかしそれは前者にも後者にも当てはまらない気がした。
「どうしてあんな飾り方するのさ」
私が訊ねると、マリアは正面を向いたまま答えた。
「母上へのあてつけ」
「……あてつけ?」
再び問うと、マリアはこちらを見た。
「あんなやり方でしか反抗できない」
意味深な言葉を残して、あ、ミーシャ、ほら庭だよ、とマリアは声音の調子を上げた。私はマリアにそれ以上問いただす気になれず、マリアの言葉に合わせて顔をマリアが指し示す方へと向ける。廊下を抜けた先に吹き抜けの廊下が繋がっており、そこから一面庭の様子が見渡せた。上から見た方が庭園の様子は分かりやすいとはいえ、こうやって等身大で見たことはなかったせいかより美しく感じた。それでも興味は湧かなかったけれど。花や池を見たところで何になる。
隣に並んで一緒に庭を探索する。その途中で、マリアはぽつりと零した。
「……母上はね、僕のことを操り人形としか思っていないんだ」
顔を上げ、視線をマリアと合わせる。マリアはそんなに背の高い方ではないのだけれど、やっぱりどうしたって男性のほうが背が高いから、私は自然マリアを見上げる形になる。いつもはベッドに寝ているからそんなこともないのだけれど。
「僕もそれでいいと思っていた。でも、ミーシャだけは……」
語尾になるにつれ声が落ちていく。マリアは顔を下げ、地面を見つめていた。きゅっと手を握られる。冷たい体温。こんなに冷え切った体だっただろうか?
「母上は、僕がリディアと結婚することを望んでいる。だけど、僕はミーシャを選ぶよ。きっとミーシャを選ぶ」
「飼い殺しにしている娼婦を選んだところで何になる。お国のためだろう。お姫様を選んでやりなよ」
冷たく返事する。マリアは――マリアはそこまで私に入れこんでいたのか。叶わないし誰にも望まれないと言うのに。なんてこった。こんなに冷たい手で告白した言葉は重くのしかかって、私を痺れさせるだけだ。それ以上にもそれ以下にもならない。進展がない感情。これ以上にはならない。ただの娼婦だと分かってる癖に。次期王妃にでもするつもり? メリエルはそれを聞いて笑っていたよ。あんたのお嫁さんは赤毛のあのお姫様なんだってね。皆現実が見えてる。あんたひとり、当人であるあんた一人現実を見なくてどうするのさ。
「……がらくただね。あんたは本当にがらくただ」
「そうだよ。僕はそこら辺に転がっているがらくたにすぎない。がらくたに王位継承権という服を着せて、糸をつけて、母上が操っているだけにすぎない。それだけなんだよ。本当にそれだけなんだ」
あのね、とマリアは言葉を続ける。
「沢山の女と寝てきた。でもリディアとはそんな気になれないままさ。あまりにも近すぎたんだろうね。いままでただの従妹として見てきた女の子をいきなりあなたの結婚相手ですって押しつけられて、窮屈で仕方がない。公爵家との繋がりが大事だとか、資金面だとか、理由は沢山あるさ。リディアでなければいけない理由なら沢山ある。でも君には無いんだ。君がリディアだったらと何度思ったか分からない。僕はリディアを望んでない。リディアだってきっと僕を望んでいないだろう。分かってるんだ。でも当人同士のそんな心境をくみ取ったって仕方ないって、周りは――」
そこで言葉をつづるのをやめ、マリアは俯く。何だ、マリアだって現実が見えている。結局のところ私を次期王妃にするなんて馬鹿な考えは世迷言でしかなくて、それをマリアも承知していた。王妃様に操られている。傀儡になっているということだろうか。そんなところまでどうしようもないんだね、あんたは。本当に救いようのない奴だ。王宮にいるのが苦しくて離宮に来ていたんだろう。逃げることしか思いつかないほど切羽詰まっていたんだ。気付かなくてごめんよ。……ごめん。
「……なに?」
私が腕を伸ばして頭をなでると、マリアは泣きそうな顔をしてそう私に訊ねた。私は首を振る。
「なんでもないさ。ただよくやってるなって、ご褒美だとでも思っておきなよ」
「ご褒美ねえ」
マリアは笑う。私は笑わなかった。むっつりと、いつものように眉根を曇らせたまま。
「君はこんなときでさえ笑わない」
マリアが言う。私は頭をなでる手を下ろし、花を眺めていた視線をマリアへと移した。マリアは困ったように笑っている。
「本物の笑顔は好きだよ。たまには笑った顔も見せてよ」
「贅沢ものだね」
言って、私は視線を花へと戻した。マリアが再び手を握ってくる。その手は暖かかった。
*
「応接間の男の肖像画? ああ兄上のことか」
「兄上? あの男前も王子だって言うのかい」
メリエルと他愛もない話をするついでに、ちょっと気になって応接間の肖像画のことを訊ねてみたら、そんな返事があった。兄上。メリエルの上ということは第一王子か第二王子か。
「そうだよ。第二王子ライリオン。肖像画を見れたなんてついてるね」
「……あれがライリオン様?」
「やっぱり下町には知れ渡ってるか。名前だけだけでもそりゃ知れ渡るわな。なんたって――」
にやり、と笑い、そこでメリエルは言葉を切る。第二王子ライリオン。何番目の王子かも、どんな顔立ちなのかも知ることはなかったけれど――その出生のせいで私たちスラム出身者にもその名を知る者は多い。
「まあいいや。男前と言うにはそれなりに好みだったんだろう? マリアよりも好きかい?」
「比べる対象が劣りすぎてて何も言えないね。ライリオン様があんなに美形だなんて思わなかったよ」
「そうだろうね。ライリオン兄上は王族、貴族の中でも特別綺麗な方だ。マリアだって社交界では人気があるんだよ? 劣りすぎていると言うことはないと思うけどね」
そう言って、メリエルは紅茶を飲む。私は空になったカップをくるくると回した。
「王妃様に似て美しいさ。マリアもね。それは認める。でも私の目にはあの肖像画の王子様のほうが魅力的に見えたよ」
「正直だね。しかし言わない方が良いと思うよ? マリアの劣等感を強めてしまうだけだ」
「――劣等感?」
ライリオン様に対して劣等感を持つようなことはないはずだ。マリアがライリオン様に劣等感を持つなんてどういうことなのだろう。しかしメリエルは私の問いには答えない。
「知らなければ知らないままでもいいことだってあるはずだ。そうだろう?」
「それはそうだね。じゃあそういうことにしておこうか」
私の答えに満足したようにメリエルは目を細める。なんだかね。王族のみなさんはどうもごちゃごちゃしているようだ。ドロドロは見ている分には楽しいけれどこのままじゃ自分の身にも何かが降ってくるような気がするね。縁起でもない。
それでもメリエルが答える気が無いのなら何を言っても駄目だろう。おしゃべりな王子様はしかし肝心な核には触れるべきときしか触れようとしない。今はその時じゃないってことだ。マリアのことだとはいえ私にも喋れない何か。なんだろうね。謎ばっかり深まって先に進もうとしないよ、私の現状も。
「いつか分かる時が来るさ。その時が来たら俺が教えてあげても良い」
「その時が来ないことを願うよ」
そう言って、私はカップをソーサーに戻した。
「言われたんだ、兄上に。たまには外に連れ出してやれって」
「へえ、そうだったのかい」
この間なんでいきなり離宮を散歩しようなんて言い出したのか問いただしたら、マリアからそんな返事が返ってきた。兄上というのは十中八九メリエルのことだろう。自分と私の関係を隠してうまく言ったのだろうか。……多分そうだ。「あの子は最近どうしてる? ちゃんと外に出してやらないと病気になるぜ?」とでも言ったのだろう。簡単に想像がつく。なんにしても有難いね。今度来た時お礼くらいさせてもらおうか。
「でも、町は嫌だ。ミーシャの桃色の髪を多数の男に見られるなんて耐えられない。だから離宮の中だけ散歩してもいいって言ったんだ。それ以上はだめだよ。ミーシャからお願いされても断る」
「……」
従者は良いのかい、と言いそうになってやめた。多分、マリアにとって侍女や従者は男や女という部類に入っていないのだろう。ただそこにいるだけの人。そういうのはよくあることだ。娼婦だって性欲の処理のためにいる人間であるとだけ思っている貴族なんて五万といる。マリアみたいにひとりの娼婦を捕まえてあれやこれや言う方が希少だ。
それにしても、マリアときたらまだこの桃色の髪に執着してたんだね。こいつが最初にこの離宮に連れて来た時にこの部屋をあてがったのも、私自身の人柄というよりその髪に惹かれたからじゃないのかい。人売りが欲しいと思うような桃色の髪だ。珍しいのは自負しているし、妹も同じ髪の色だったということでその美しさにも自信はある。だからマリアが特別桃色だったというだけでこの部屋に連れてきた、という憶測は間違っていないような気がした。他に理由もないしね。あの数時間――宿屋に居た時間はたったの数時間だった――で人柄なんて計れるもんじゃなし。
赤毛のお姫様だって、メリエルがマリアの髪好きという趣味を計らって連れてきたと言っていた。それがたまたま従妹で、色々な要素が丁度良かったから婚約者にまで上り詰めたのだろう。言ってみれば彼女だって私と一緒で運が良かっただけなのだ、きっと。生まれたときからそうだと決まっていたのならメリエルはお姫様とマリアとの間柄をあんな風には言わないだろう。髪が綺麗だったから。多分マリアの婚約者になれるような貴族の女なんて五万といて、その中でも特別美しい髪をしていたとか、そんなところだろう。当人同士の気持ちは当人にしか分からないさ。女として見れないほど近くに居ただなんて誰が気付くだろう。――誰も気づかない。言わなければ分からない。でももう決まってしまったものは仕方ないのだろう。要素なんて後付けだったかもしれないけれど、きっと誰も知らないうちにその後付けの要素ばっかり大きくなっちまって、お姫様とマリアの間に繋がれた婚約者同士という名前は押しつぶされそうなほど圧迫されたものになったのだろう。本当にどうしようもない話だね。
「もし私がお願いしたら本当に断れるのかい?」
「断るよ」
マリアは言う。その目は本気だ。……外に出してくれる気はないのか。それでもこの離宮だけでも大変な広さだった。庭の探索や城内の散歩くらいなら大目に見る、と決断してくれたその決意は英断だね、マリアにとっては。
「まあいいさ。しばらくはこの城の中の探索だけ楽しむとするよ」
「そうしてくれると有難いよ」
マリアはそう言って笑った。笑顔は幼い。でも暗い瞳をしているときは奇妙にその顔が大人びるのだ。男性というのは本当に不思議なものだと思う。あのメリエルだって、普段はいかにも自分は遊んでます、という雰囲気を出してるのに、いざ本気の話をし出したらきりっと王子様に変わってしまう。メリエルとマリアの兄弟が本物の王子様だからだろうか。男みんなそうと思った方がしっくりくるけれど。この二人は兄弟というにはあまりにも似ていない。実際腹違いだ。
「――肖像画を描こうよ」
「また? その話は断っただろう」
「ミーシャ一人じゃなくて、僕と一緒の奴だよ。どう?」
「やめておくれ。気分が悪い」
私がそう言って、唾でも吐かない勢いで断ると、マリアはちょっと肩を上げた。やれやれ、とでも言わんばかりの表情で、次の句をつげる。「気分が悪いとは、また」
「随分だったかい? 良かったじゃないか、私の中のあんたの立ち位置を再確認出来て」
「本当に良かったよ。つまらないな」
嫌味にも慣れた様子で返答する。マリアと私は随分仲良くなったような気がする。でもそれも仮初のものだ。終わりがくる。いつかきっと。それはすぐのことかもしれないし、ずっと後のことかもしれない。でも確実に終わりは来るのだ。この関係は赤毛のお姫様とマリアとの関係のように固く結ばれたものではない。それが辛いとは言わないけれど――この生活を捨てる心づもりをするのは少し苦しいね。私はまたもとのようにゴミの中を這いずりまわれるだろうか。
「……ミーシャ」
マリアが名を呼ぶ。私はマリアの瞳を見た。綺麗な青色の瞳。
唇に軽く触れるだけのキスをされる。目はどちらも瞑らなかった。マリアの顔はそれだけで離れて行き、マリアはそしてベッドから起きあがった。
「僕は今日はちょっと用事があるんだ。これで行くよ」
「そうかい」
そう言ってマリアがベッドルームを出て行った後に、私も起きあがって壁時計を見てみると、まだ朝の七時を指しているくらいだった。いつもなら昼過ぎくらいまでずるずる居るのに。おかしい、と思ったけれど、それ以上マリアに尋ねる気は起きなかった。何か用事があるってんならそうなんだろう。例えそれが女に会うような用事だったとしても訊く気は起きないね。
マリアは外套を着せてもらって、ゆっくり部屋を出て行った。名残惜しそうなそのさまはどこか引きとめてもらいたそうにも見えて、私は心の中で甘えるんじゃないよ、とマリアに毒を吐く。そうでもしなきゃ引きとめてしまいそうだった。でもここで引きとめたらなんだかもう元のスラム生活には完全に戻れなくなりそうな気がして、それが怖くて毒を吐いた。戻りたいわけじゃない。でもこの戻れそうで戻れない今の生活に慣れてしまったら、その不安定さが逆に安心するのだ。おかしな話だけれど。
――胸騒ぎはしていた。しかしそれが何なのかは分からなかった。
*
事の次第は、数日後に訪れたメリエルから聴いた。メリエルはこちらから訊かずともとても良くしゃべった。私はメリエルの声をどこか遠くで聴きながら、マリアがここ数日全く訪れなかった理由を知った。――マリアは赤毛のお姫様と結婚したらしい。あの日だ、あの引きとめてもらいたそうだった、あの午前七時のあのとき。そう察するのはいとも容易くて、私は知らず知らずのうちに自分の頭を片手で押さえていた。
「マリアの奴の嫌そうな顔ったらなかったよ。誓いのキスもなしさ。リディアのほうもどこか苛々していてね」
「そりゃ苛立ちもするだろうね。可哀相に。マリアみたいな奴を婿に貰うなんて。肩書ばっかりの男じゃないか」
私の言葉に、メリエルは肩をすくめて見せる。マリアのした仕草とそっくりで、私はもしかして王様もこの手の男なんじゃないかと意味もなく思った。血のつながりはあるのだ。一応。
「肩書ばっかりと言ったって、最近君も絆されて来ていただろう? 言おうか言うまいか迷ったんだよ、これでも。でもマリアは絶対に口を割らないだろうし、マリアがそこまで入れこんでいる君にその情報がまわらないのなんておかしいと思うし――これでも悩んで来たんだぜ。少しはマリアに対して……ひいては俺に対して、感謝でも述べたらどうだい」
「感謝しろって? 馬鹿を言うんじゃないよ。大きなお世話だ」
「やっぱりそうかい?」
「そうだよ。大きなお世話だよ」
私が憤慨すると、メリエルは面白そうに身を乗り出した。
「――残念かい?」
「なにが」
「問いの意味が分からないほど鈍感ではないだろう?」
「残念じゃないよ」
きっぱりと言い切る。残念じゃない。マリアと赤毛のお姫様が無事結婚したんだ、祝う気持ちこそどうでもいいから起きないところに、まさか残念だとかショックだとかそんな気持ちが出てくるはずもない。分かりきったことだろう? それに前触れならいくらでもあった。婚約者だというところからすでに前触れだ。今更なんだよ。全てがね。
「ただ、少し怖くはあるね。私は捨てられるのかい?」
「それはないだろうね。マリアはまだ君に入れこんでいるみたいだし。そのブームが去れば危ないけれど。ブームが去っても君は安心していていいよ、君は俺が拾うさ。ここまで贅沢の限りを尽くして今更スラムに戻る後姿をただ指を咥えて眺めてるなんて俺には出来ないね。初めのころに言ったように下町に豪華な家を買ってやろう。金も用意する。好きな衣装を買って好きなものを食べて好きな奴と寝て過ごせばいいさ。俺は金と住む場所だけ提供するよ」
「パトロンになるってのかい」
「そうだよ。俺も君を気に入っている。ただマリアと違うのは俺は一度気に入った女をぽいと捨てる気はないってことだね」
その言葉に、私は無意識のうちに反論していた――「マリアが一度気に入った女を簡単に捨てると言うのかい?」
「おかしいな。そう言ったのは君だよ。俺に噛みつくのか?」
「……そうだね。私はおかしなことを言った。謝るよ」
片手を額に当て、もう片手を挙げてメリエルに詫びを入れる。頭が痛い。何を言ってるんだろうね、私は。メリエルがマリアを悪く言うのは許せないとでも? 自分から言い出した話じゃないか。気分が悪い。……何を考えているんだろうね、私が一番私のことが分からないよ。
「まあ、なんにせよ君はスラムに戻る、なんてことを怖がらなくてもいいのさ。気楽に構えるといい。……本当にマリアが結婚した事実をどうでもいいと思えるのならね」
メリエルによると、王都はマリアが結婚したその日は大盛り上がりだったらしい。赤毛のお姫様とふたり仲良く――事実は仲良く、ではなかったらしいけれど――祝い用の派手な馬車に乗って、王都内を引っ張り廻されてきたんだとか。その後は色々な式事で追われ、どうしたって私のところに来る隙はなさそうだったよ、とメリエルは笑っていた。今日の夜辺り来るんじゃないのかい、というメリエルの言葉は当たっていて、マリアが来たときに、私はベッドにうずくまっていた。どうでもいいはずなのに顔を見たくないとはどういう了見なのか。私の考えさえあたっていれば、私はマリアを――まさかね。そんなことがあっていいはずがない。
今更だ。どうあがいたってもう遅いんだ。次期王妃にしてくれなくてもいい、あの赤毛と縁を切ってくれなんて言う権利は元々なかったけど、それを言うタイミングだけはあったはずだ。言っていれば違う未来もあったかもしれない。でも遅いよ。気付くのが遅すぎた。胸が痛いね。マリアの顔を見れないし、見たくもない。メリエルの奴め、本当に大きなお世話だ。ただもしかしたら――メリエルはもう随分前から私のこの感傷の理由を知っていて、私に最後のチャンスをくれようとしたのかもしれない。いまここ。いまここなのだ。今を逃せば次は本当にないだろう。マリアは今までのようにこの離宮にはきっと訪れなくなる。王女となったお姫様――私はずっとあの赤毛の貴族のお嬢さんのことをお姫様と呼んでいたけど、まさか本当にお姫様になる日が来るとはね。予感はしていたけれどいきなりだった――の相手をしなければならないだろう。世継ぎだって周りは欲しいだろうし。夜を共にすることがきっと多くなるだろう。これはきっとじゃないね。必ずそうなる。マリアは来なくなる。マリアが来ないこの部屋なんて何のためにあるんだろうね? この離宮さえマリアのためのものなんだ、そのマリアが来なくなったら離宮全体が意味のないものになる。マリアはそれを知っているだろうか。知っていても知らなくても結果は同じだろうけれど。
「ミーシャ、僕の子を産んでくれ」
だから――マリアがそんな頼みを私にしてくるなんて、私は全く予想だにしていなかった。別れを切りだされるだろうと思っていた。それかいつも通りの振りをして卑怯なフェードアウト。そのどちらかだと思っていたのだ。そこに爆弾がどかん、だ。私は唖然と口を開けた。マリアは真面目な顔をしている。何を言っているんだこいつは?
「出来れば、男の子を。そうしないとだめだよ」
「……何がだめなんだい」
「言えない。お願いだ、僕の子を産んでくれ」
ベッドで二人上半身を起きあがらせて押し問答。馬鹿みたいだね。マリアはそこまでしてでも私と繋がっていたかったのかい。嬉しい――と思うのは自分でもちょっと予想できていて、でもその感情が今までとあまりにも正反対だったから笑いそうになった。ぐっとこらえたけれど、だめだね。マリアのその頼みは訊けないよ。
「嫌だ。あんたがどうしようと私は嫌だからね」
男の子を産めなんて、世継ぎを望んでいるってことだろう? 私とあんたの間じゃあの可哀相な王子様の二の舞だ。貴族たちから何と言われるかも分からないし、その子があまりにも哀れだろう。スラム出身の娼婦と王の子。なんて無様。がらくたからがらくたを産ませようって言うのかい? あんたはどこまでも勝手なんだね。嬉しいと思ってしまう自分が憎たらしいよ。
マリアが言えない、と言っているけど、どうせ赤毛のお姫様と結婚したことが絡んでいるのだろう。初夜でも体験してこりゃだめだとでも思ったか。私の顔でも浮かんだ? なんにせよあんたもとことんがらくただね。何を考えてるのか簡単に分かるけど、どれもこれも身勝手な願いばっかりじゃないか。赤毛のお姫様も可哀相に。婚礼の儀のときにキスもしてやらなかったんだってね。彼女がもしあんたに思いでも抱いていたらどうするつもり? 可哀相だとは思わない? あんたはこんなところでたったひとりの娼婦に頭を下げてるんだ。自分の子を産んでくれって。世継ぎを産むのは娼婦の君だってさ。
「男の子なんて産んだら、それこそ世継ぎになっちまうだろう。そんなの御免だよ。私まで王宮暮らしかい?」
「……」
私の答えを聞いて、マリアはこれ以上は平行線だと取ったのだろう。ぐい、と両肩を押さえ込まれ、ベッドに押し倒される。私は一瞬でこれから先を予測して、悲鳴のような声をあげた。
「ちょっと! やめておくれよ!」
「僕の子を産んでくれればいいんだ。それだけで良い。もう何も頼まない。自由だってあげるよ」
「……それは町に野ばなしにしてもいいってことかい?」
暗に捨てるのか、と訊ねる。マリアの目は静かで、私はぞっとした。本気だ。本気で捨ててあげるから僕の子を産んでよと言っている。なんて奴だ。あんたは私の気持ちなんて汲み取ろうとしないんだね。本当に、なんでこんな奴だって分かっていながら、私は――。
「……ミーシャ」
「くっ、……う」
涙が出た。抑えきれなかった。声も制御できない。悔しかった。悲しかった。なにもかもがだよ。一瞬喜んでしまった自分が悔しかったし、そこに何もないのだと気づいてしまったことが悲しかった。マリアの願いをかなえたところで私に幸せなんてないし、私が産んだ男の子にも幸せなんてないだろう。何もないのだ。未来には何もない。それをあんたは分かってる? 分かってないだろう? だからそんな身勝手が言えるんだ。野ばなしにしてもいいだって? 馬鹿を言うんじゃないよ。野ばなしにしたら私たちの間には何もなくなるじゃないか。一人残った子どもはどうなるんだい。その子だって、どうせ私が離宮や王宮で暮らすことを望んだとしても、乳母に取られるんだろう? じゃあ私はなんのために存在していることになる? あんたはただ私たちが愛し合っていたという証が、たとえそれが偽物だったとしても欲しいんだろう。出来ればそれを自分の後継者に仕立てあげて、可愛がってやりたいんだろう。でも私は? どうしたって赤毛のお姫様には立場もなにもかも敵わないよ。王宮に暮らしたってこちらは飼い殺しであんたも顔を見せなくなるんだろう。そこで赤毛のお姫様に男の子でも出来て御覧、私と私の子はますますみじめだ。みじめなんだよ。分かるかい?
「馬鹿だ……あんたは本当に何も分かってない!」
「ミーシャ。ミーシャ、泣かないで」
マリアがその指で私の涙をぬぐおうとする。私はその手を力いっぱい払った。自分でごしごしと拭ったせいで目は真っ赤だろう。それでも辛くて悲しくて、マリアに触れられたいと思えなかった。さっきまでの喜びが嘘みたいに頭は現実に戻ってきている。どうしたって幸せにはなれない。
私は息を吸った。マリアが爆弾を私に投下するというのなら、私だってそうする。
「……私は、メリエルと会ってる。あんたに隠れて。こんな娼婦さっさと捨てちまいな! あんたが赤毛のお姫様と結婚したことも知ってる。あんたがそれを隠そうとしていることも知っている。あんたが馬鹿みたいなお願いをしてきた理由も知っている! もう解放しておくれよ。私はもうつらい。つらいんだよ……」
言ってる途中で涙があふれる。私は俯いた。ベッドの毛布に涙がぽつぽつと落ちて、染みを作った。マリアはしんと押し黙っている。顔をあげてみると、マリアの顔は真っ青だった。
「――兄上と会った? 僕が結婚したのを知っている? なにそれ」
「全部事実だよ。ただ、肉体関係だけは持ってない。それだけさ。あんたが頑なに隠そうとしてた私の桃色の髪も、メリエルはもう見飽きているだろう。ただあいつは、私を飼い殺しにしないで町中で飼ってやろうと言っていたよ。好きな奴と寝ればいいってさ。そういうわけだ。あんたが私を捨てたって、私にはまだメリエルがいるんだよ。あいつと私は友達みたいなもんで――」
「……友達?」
「そうだよ。本当に肉体関係はない。あっちもそれを望んでいないさ」
私は喉が詰まって咳をした。マリアの顔は青いまま。それでも友達、と何度も言葉をかみしめている様子からして、冷静でいようと努めてはいるんだろう。
「そうか……じゃあ、もういいよね。君はもう僕のものではない」
マリアはちょっと唾を飲んで、私の目を見据えた。暗い瞳。王妃とお姫様のことを語っていたときと同じ瞳。この瞳で自分が見つめられる日が来るなんて思わなかったよ。でも爆弾を落としたのは私もだ。あんたもだよ、マリア。あんたもその瞳で私から見られても仕方がないようなことを言ったんだ。
「……兄上のところに行けばいい。どうせ明日か明後日にはここにくるんだろう? その時に言えばいいよ、僕に捨てられたって」
「飲みこみが良いね。そうさせてもらうよ」
私の言葉を最後に、マリアは私の唇にキスをした。がり、とその唇を勢いのまま噛む。マリアがゆっくり顔をあげた。その瞳は暗く濁っている。寒気はもうすでに通り越して、私は何も感じていなかった。ただひとつ感じていることがあるとすれば「悔しい」だ。マリアはやっぱり捨てるんだ。こうも簡単に。自分ひとりのものじゃないと分かったら、すぐに。やっぱりあんたは桃色のこの髪だけ目当てだったんじゃないのかい。妹にあんたを任せることがなくて本当に良かったよ。こんなみじめな笑劇、あの子に演じさせられない。
「――これが最後だよ。僕の子を産んで、ミーシャ」
マリアはゆっくりそう言う。マリアの手が私の着ている寝巻に伸びる。抵抗はしなかったし、マリアも最後だと思って哀れだと思ったのか少しいつもより優しく思えるほどていねいだった。怒りを超して悲しいのは同じだったのかもしれない。
「じゃあね、ミーシャ」
ぎし、と音を立ててマリアはベッドから離れる。もう朝の光が眩しくカーテンの隙間から洩れてきているような時刻だった。全部中に出されて、身ごもらない方が不思議な抱かれ方だった。きっと子どもが出来ただろう。この子を背負って生きて行く。メリエルにかばわれながら、きっと男の子でも女の子でもこの子は連れていかれて王宮に囚われるだろう。考えてみれば、マリア、あんたも王宮に囚われていた王子の一人だったのかもね。メリエルもそうだったのかもしれない。逃げ道をふさがれて、離宮に私がいなくなって、あんたはこれからどうやって生きて行くんだろうね。案外簡単に生きているかもしれない。どんな想像もできないよ。あんたと私の間柄は複雑すぎる。複雑で簡単すぎた。だから分からない。一介の娼婦と王子の恋愛劇は幕を下ろした。たったそれだけの話だけれど、あんたが残してったお腹の子がまだこの劇を私たちに演じさせようとするかもしれない。ますますそれを演じる役者が妹ではなく私で良かったよ。人の良いあの子が耐えられるはずがない。薄汚れた私だったから私も私のことだと我慢できるしね。マリア、あんたは私にそのご自慢の金髪を引っこ抜かれずに済んだってわけだ。よかったね、私の妹の髪に目を付けなくて。
「……馬鹿野郎」
私は呟いた。好きだったよ。マリア、私は確かにあんたのことが好きだったんだ。
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