5-26 邪曲が響く時



 白い光が止み、耳を劈いた衝撃音から解放された時、逢魔おうま少陰しょういんは、上空からその中心にいた白笶びゃくやの姿を見つける。


 何の予告もなく、とんでもない陣を展開させた白笶びゃくやのおかげで、ふたりは領域結界の端まで吹っ飛ばされたのだ。


 白虎の姿の少陰しょういんの足で、闇夜を飛んでなんとか元の場所に戻ってみれば、無明むみょうの笛の音は止んでいた。その正面にいる白笶びゃくやは、纏っていた薄青の衣もその身もぼろぼろで、それでも二本の足で真っすぐに立っていた。


 無明むみょうは傷のひとつも付いておらず、ただそこにぼんやりと立ち尽くしているように見える。


「あやつ、なんてことを!」


 白笶びゃくやのその姿を見て何かを察した少陰しょういんが、白虎の姿のまま口を開く。どういうこと? と逢魔おうまは眼を細める。


「あやつの魂は、姮娥こうがの一族だった黎明れいめいのモノ。姮娥こうがの直系の能力は、重力を操る力なわけだが、」


 うん、と逢魔おうまは頷く。

 碧水へきすいの水妖と戦っていた時に、最後に見せた力が、今更だがそれだと思い出す。あの時は何とも思わなかったが、白群びゃくぐんの一族が使う術と組み合わせていたのだろう。でなければあの量の水を宙に浮かせて、その水底を晒すことなど不可能だ。


「あやつ、逆の重力を己にかけて、神子みこの譜術を粉砕しおった。本来なら立っていることなどあり得ない反動じゃぞ」


「姐さん、俺を降ろしてくれる?」


 俯いたまま逢魔おうまは暗い声で呟く。わかった、と少陰しょういんは地面の方へと駆け、逢魔おうまは途中で自ら飛び降りた。


 支えを失ったように、ふらりと傾いだ身体を受け止める。辛うじて立っていた白笶びゃくやは、顔を歪めて逢魔おうまに視線だけ送った。


無明むみょうが、泣いてる」


 小さく囁くように呟かれた言葉に、唇を噛み締める。そこで白笶びゃくやの意識は途絶えた。ゆっくりと地面に寝かせ、逢魔おうまは横笛を握り締める。目の前に立つ無明むみょうは、何も映していないような眼差しで、そんなふたりの姿をただ見下ろしていた。


 相変わらず笑みを湛え、口許は微笑を浮かべている。けれども、左眼からつたい続ける涙は、止まることはなかった。


(····俺の大事なひとたちを、よくも傷付けてくれたな、)


 赦せるわけがない。


 口許に運んだ横笛に、息を吹き込む。その音は、邪悪な音色を奏でて空間に響き渡った。神子みこは怒るだろうか。自分を叱るだろうか。今まで一度も破ったことはなかった。


 人間を傷付けない、という約束を。


(いや、もはや、あれはひとではないだろう)


 人という姿をした、邪鬼だ。

 なら、約束を破ったことにはならない。


 ふっと口許を歪め、逢魔おうまは決して心地の良いものではない音色を奏で続ける。


 それは、無明むみょうの身体と意識を通して、操っている者へと届けられる。術の反動は、確実に、その術をかけた者の元へと影響を齎していた。


 ゆらりと無明むみょうの身体が横に大きく揺れた。逢魔おうまはその細くて折れそうな身体を抱きとめる。そのままぎゅっと自分の胸に顔を埋めさせた。


 冷たい自分の身体では、無明むみょうをあたためてあげることはできない。血の気を無くした指先を壊れ物でも扱うようにそっと握り、祈るように自分の頬に持っていく。無明むみょうを抱きしめたままずるずると地面に座り込み、腕の中で眠っているその表情に、あるはずのない心臓の鼓動が止まりそうだった。


「お願いだから、目を開けて?」


 震えた声は小さく、どこまでも悲痛だった。少陰しょういん白笶びゃくやの身体に霊力を注ぎ癒しながら、困ったようにそちらに視線を向ける。


(····まったく成長していないようじゃな。無理もないが、)


 あの日から、一体、何百年経っただろう。


 邪神に貫かれた黎明れいめいが、自分の腕の中で息絶えていく様を目の当たりにしてから十数年間、逢魔おうまはほとんど口を利かなかった。それどころか、自分たち四神にさえ姿を見せず、誰の声にも応えようともしなかったのだ。


 それが急に明るさを取り戻したのは、その傍らにいた少年のお陰だろう。しかし、その少年も青年になり、数十年経った後、逢魔おうまの目の前で亡くなった。それからまたひとりになり、今度は迷子になった子供のように神子みこを捜し始めた。正直、そんな姿を見ていられなかった。


 十五年前。神子みこが再びこの地に目覚め、逢魔おうまもまた元の彼に戻った。いや、かつて以上に神子みこの存在を求めていた。


(このふたりにとっての神子みこは、家族であり、かけがえのない唯一の存在)


 自分たち四神とはまた違う、深く強い絆で結ばれている。


「····ごめん、ね、」


 目を覚ました無明むみょうは、自分が倒れている理由も、逢魔おうまが自分を抱きしめている理由も、知っていた。白笶びゃくや逢魔おうまが、自分を呼び覚ましてくれたのだ。


 たくさん傷付けてしまった自分を、悔やむ。解っていたのに、結局、ふたりを傷付けた。


神子みこ、俺、また······あなたが、消えてなくなるかと、思った」


「····ここに、いるよ」


「怖かっ、た」


 そ、と力のはいらない指先を伸ばす。それは逢魔おうまの冷たい頬になんとか触れることが叶う。


「もう、だいじょうぶ、だよ」


 優しく微笑んだ無明むみょうに、逢魔おうまは大きくゆっくりと頷いた。まるで小さな子供のように顔を歪め、泣きそうなその表情に、胸の辺りが締め付けられそうになる。

 

 月に似た金色の瞳がふたつ、そこに在った。

 それはどこまでも澄んでいて、彼がどれだけ純粋な感情を自分に向けてくれているのかと、思い知らされる。


逢魔おうま、ありがとう」


 白笶びゃくやにも、言わないと。

 たくさん傷付けてしまったから、ごめんなさいと、それから、ありがとうを。


 ゆっくりと瞼を閉じ、そしてその翡翠の瞳を開くと、再び深い闇空に向けた。まだ、すべてが終わったわけでない。

 

 立ち上がらないと。

 終わりを、見届けないと。


 それがどんな結末であっても――――――。


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