5-14 奉納祭の夜の出来事



 紅鏡こうきょう。奉納祭の夜。


 無明むみょうが毒紅の件で、虎珀こはくの伯父である周芳しゅうほうの目論みを暴き、投獄された後に話は戻る。


 その話は他の一族たちの耳に入ることはなかった。金虎きんこの一族の中でも、一部の者たちだけが知る事実として、他言無用と箝口令かんこうれいが敷かれたのだ。


 そんなことが起きていたとは知りもしない蘭明らんめいは、毎年欠かさずに訪れているある場所に足を向けていた。奉納祭の後は静寂だけが残り、あんなに賑やかだった邸の中は、今はとても静かだ。


 金虎きんこの本邸。


 時折、本邸の従者たちとすれ違ったが、その度に丁寧に挨拶をする蘭明らんめいは、従者たちの間でも好印象しかない。


 彼女の行く先を知っている、長く金虎きんこに仕えている老巧な本邸の従者たちは、誰一人として止める者はいなかった。手には菓子の入った、艶やかな黒が美しい小さな取手付きの重箱が握られていた。


 向かう先は、金虎きんこの第一公子である虎珀こはくの部屋だった。


 本邸はとても広く、知らない者はもちろん、来て間もない従者は必ず迷う。それくらい部屋の数も多く、入り組んだ廊下やわざと迷わせるための工夫がされてある。同じような通路がいくつもあって、そのどれかは行き止まりだったりするのだ。


 宗主や夫人の部屋に関しては、お付きの従者しか解らないようになっている。


 公子たちでさえも、ひとりで訪れることはない。呼ばれるか、予め約束をして、従者に案内してもらうのが規則となっている。


 公子たちの部屋はそこまでは複雑ではないため、何度か訪れていれば迷うことはない。蘭明らんめいは幼い頃から仲良くしている虎珀こはくに、毎年奉納祭の夜に逢いに行くのが恒例となっていた。


虎珀こはく兄様、蘭明らんめいです」


 部屋の前で声をかける。少しして、奥の方から足音が近付いて来るのが解った。扉の前でその音は止まり、「蘭明らんめい?」と声が返ってきた。


「はい。手作りの菓子を持ってきました。よかったら一緒にどうですか?」


 ゆっくりと開かれた扉に先に、いつもの笑みがあった。蘭明らんめいはその穏やかで誰にでも優しい笑みが、幼い頃から好きだった。


「わざわざすみません、せっかく来てくれたのに。今日は少し疲れてしまって········ご一緒したい気持ちはあるのですが、」


「いえ、わたくしの方こそすみません。では、菓子だけ置いていきます。よかったら食べてください。前に虎珀こはく兄様が好きだと言ってくれた、杏子の砂糖漬けです」


 手に持っていた小さな重箱を渡し、残念そうに蘭明らんめいは小さく笑う。本当にすみません、と虎珀こはくは申し訳なさそうに頭を下げた。二つ年上だというのに、虎珀こはくはいつもこんな感じであった。


「お礼はすぐにはできませんが、日を改めて姮娥こうがの邸に文と共に何か届けさせますので」


「いいえ、良いのです。わたくしが好きでやっていることなので。お礼なんてとんでもないです」


 ふたりは何度もそんなことを繰り返し、蘭明らんめいは「では、また来年」と挨拶をし、部屋の前を後にした。あまり長く居ては虎珀こはくも休めないだろうと思ったからだ。


 本邸を後にし、灯の少ない路を歩く。金虎きんこの一族の敷地は姮娥こうがの何倍も広く、借りている邸までもある程度の距離があった。護衛の術士を付けずにやって来たので、路の下に等間隔で置いてある小さな灯りが頼りだった。


 蘭明らんめいの足がぴたりと止まる。

 本邸を離れてから、誰かにつけられているような気配があった。


わたくしに何か用ですか?」


 振り返った先、闇夜に溶けるようにそれ・・はそこにいた。漆黒の衣を頭から纏い、顔が見えない。蘭明らんめいは自分よりずっと背の高い、漆黒に身を包んだ者に、訊ねる。


「あなた、知ってる」


わたくしは存じ上げませんが?」


 にっこりと笑みを浮かべ、間髪入れずに答える。声を聞く限り男のようだが、話し方は女性のようだった。


「前に姮娥こうがの宗主が話しているのを聞いたわ。人形遊びばかりしている無能な長女って。あなたのことでしょう?」


 自分の口元に人差し指を当てて、くすりと音を立てて笑う。


 蘭明らんめいは笑顔はそのままで、その言葉の真意を探る。この戯言に耳を傾ける必要が、果たしてあるのかどうか。この者の目的はなんなのか。


「そんなあなたでも、役に立てることがあるって言ったら、あなた、どうする?」


 一歩。また一歩。ゆっくりと近付いて来る。


 確かに、蘭明らんめいは幼い頃に大怪我をしたせいで、他の妹たちのように武芸に励むことができなくなった。しかし、そのことに対して負い目を感じたことはない。自分には自分にできることがあると、そう信じてここまで生きて来た。


「無駄よ。あなたの宝具は、私には効かないわ。それが効くのは人間と妖者だけ」


「ならば、あなたはなんです? 人でも妖者でもない。神だとでも?」


 気付けば漆黒の衣を纏った怪しい男は、すぐ目の前まで来ていた。見上げてみてもその顔はまったく見えない。赤紫色に彩られた口元だけが笑っているのが解る。


「神ねぇ。あなたの言う神って、あれでしょう? 救う方の神。全能の神。馬鹿ね。そんなもの、この世にいるわけないじゃない」


 蘭明らんめいは指先ひとつ動かせないまま、ただ立ち尽くすしかなかった。


「ここにいるのは、残酷な闇の化身だけよ、」


 翳された大きな手は蘭明らんめいの小さな顔を覆い、真の暗闇へといざなうのだった。


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