5-10 楊梅の実



 蘭明らんめいは扉を開けたまま部屋の中を見渡した後、不思議そうに首を傾げた。しかしすぐに興味を失って、無明むみょうの方へと視線を向ける。


「お付きの方は席を立たれたようですね。どちらへ行かれたのですか?」


「あれ? 変だなぁ。さっきお腹が痛いって言って、出て行ったみたいだけど、途中で会わなかった?」


「そうでしたか。では丁度良いですね。食後の菓子を持って来たんです。わたくしの手作りなんですよ。お話でもしながら食べて待っていましょう」


 言って、開いていた扉を閉めた。手にした盆の上には、干して砂糖をまぶした赤黒い楊梅やまももの実が、いくつか小皿に乗せられていた。

 膳の空いている場所にそれを乗せて、どうぞ、と小さく笑う。


「干した梅? 俺、初めて見たかも」


「そうなんです? 楊梅やまももと言って、今の頃によく食べられるんですよ」


 ふーんとひとつ摘まんで目の前まで運び、その赤黒い実に興味を示す。

 そしてそのまま口に入れると、酸っぱさは少なく、むしろ甘かったので意外だった。少し湿った果肉の粒々感も新鮮だった。


「おいしい!」


「ふふ。一度にたくさんはあまりお勧めしませんが、その皿に乗っている分なら問題ありませんわ」


「そうなんだ。ありがとう、お姉さん」


 蘭明らんめいは正面に座ると、お盆を横に置き、おいしそうに楊梅やまももを口に入れる無明むみょうを見つめていた。


 彼女にとって従者がどこへ行こうが、どうでも良かった。邸のどこかにいるならば、警護をしている護衛の術士が知らせてくれるだろう。


「四神奉納祭の舞、今でも目を閉じれば瞼の裏で絵が浮かびます。それくらい、素晴らしく美しい舞でした。あの笛の音も見事で、わたくし、本当に感動しましたのよ」


「あれは、母上が舞っているのをいつも見てたから、たまたまできただけだよ」


「あら、ならあなたは本当に才があるのでしょうね。普通の人なら、見ただけで、ましてやたまたまなんて、できないですもの。噂の第四公子様は、まるで才人のようですわね」


 無明むみょうは目を細めて、へへっ······と笑った。しかしそれはいつもの誤魔化したような笑みではなく、どこか困ったような笑みだった。


「俺を褒めても何も出ないよ、お姉さん」


 甘いお香の匂いは思考を鈍らせる。無明むみょうは一瞬顔が歪んだ。


「ふふ。では少しお話をしましょうか。あるひとりの、哀れな女のお話を」


 ゆっくりとした口調は、耳の奥で囁かれているかのように優しく、心地好い。ぼんやりとしてくる思考の中で、少女はくすくすと音を立てて笑った。

 それは今まで彼女が見せてきた仮面のような笑みではなく、本当の表情かお


 どこまでも残酷で美しいその笑みを最後に、無明むみょうの意識は途絶えた。座ったまま、目を開けたまま、人形のように動かない。

 しかしその翡翠の瞳は濁ることなく美しかった。蘭明らんめいはひとり、話を続ける。


「あなたを見つけたあの日、わたくしは感動しました。その翡翠の瞳に、心惹かれたのです。れ者としての名は耳にしていましたが、実際その姿を見た時に決めたのです。絶対に手に入れたい、と」


 そのためにそれ以外の素晴らしい部分を繋ぎ合わせて、それに相応しい身体を用意したのだ。後はその瞳だけ。


「まずはあなたを使って、他の邪魔なひとたちを殺してしまいましょう。私の宝具、蠱惑香こわくこう、無限香、夢幻香があなたを最強の傀儡に仕上げてくれるので、心配はいりません。誰もあなたを傷付けることはできないでしょう」


 この部屋に充満していた香は、夢幻香。吸い続けることで夢と幻の狭間に意識を遠ざけてくれる。


 あの楊梅やまももの実には、その効果を高めてくれる薬を混ぜていた。甘い甘い薬なので、砂糖となんら区別が付かないのだ。


「さあ、わたくしの可愛いお人形、まずはお着替えをしましょうね、」


 このお人形には特別な衣裳を用意してあった。あの、奉納祭の時の白い衣裳に似せて自らの手で作り上げた、最高の神子衣裳だった。


 すっと立ち上がった無明むみょうは、ふらふらとした足取りで蘭明らんめいの後をついて行く。その先にあるのは、同じ部屋の奥にある、閉ざされた扉の方だった。


 扉は蘭明らんめいが手を翳すと、一瞬光を湛えて、なにかの封印が解かれたようだった。


 閉まったままの扉を無視して前へと進めば、身体がそこをすり抜けて行く。その後に続いて、無明むみょうの姿も扉の向こう側へと消えていってしまった。


 完全に姿が消えた後、再び扉が固く閉ざされる。


 あの扉の向こう側で何が行われているのか、知る由もなかった。



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