5-9 笑顔の仮面



 邸の中を蘭明らんめいを先頭に歩く。無明むみょうは目にするものすべてを指差しては、「あれはなに?」と答えが返ってくるまで訊ねていた。


 そんな無明むみょうの背中を見つめながら、清婉せいえんは心の中でずっと叫んでいた。


無明むみょう様は一体何を考えてるんですかっ!? 失礼にもほどがあるっ)


 白群びゃくぐんの邸にいた時はずっと大人しかった。

 一瞬おかしくなった時もあったが、それ以外はずっとまともだったのだ。それがどうだろう、ここに来てからというもの、紅鏡こうきょうにいた頃の無明むみょうそのままだった。


(いや、いいんです! そういう無明むみょう様も受け入れると心に決めた手前、頭ごなしに駄目とは言えない自分がいるので!)


 けれども、この状態はあまりにも目の前にいる方に迷惑だろうと、そろりと視線を巡らせる。

 だがしかし、どういうわけか、前を歩くお嬢さまは楽し気で、それすらも楽しんでいるように見えた。


(あの無明むみょう様を初対面で受け入れられる懐の深さ! まさかあのお方は菩薩様なのでは!?)


 印象の良い蘭明らんめいは、無明むみょうがなにをしてもただくすくすと笑って許している。

 先程など庭に降り、石楠花シャクナゲの白い蕾を勝手に摘んで蘭明らんめいに渡していた。


「綺麗なお姉さん、これをあげる!」


「あらあら、蕾が可愛らしいですわね。わたくしにくださるのですか?ありがとうございます」


 と、笑顔で対応していた。


 姮娥こうがの一族の邸の警備は紅鏡こうきょう以上に厳重だが、皆女性の術士であった。


 武器を手にした彼女らは、蘭明らんめいとすれ違う時に必ず立ち止まり、頭を下げた。通り過ぎるとようやく顔を上げ、再び警備に戻る。


 しかし、どこか違和感を清婉せいえんは覚えていた。

 それがなんなのかは解らないままだったが、そんなことをしている内に、部屋の前で立ち止まる。


 そこは客間ではなく、蘭明らんめいの自室であった。


「さあ、どうぞお入りください」


 その部屋は女性らしい小物や棚が並べられており、通された部屋だけでもだいぶ広かったが、奥にもう一つ部屋がある間取りになっていた。

 もう一つの部屋は固く扉が閉ざされていたが、それを問う勇気は清婉せいえんにはなかった。


 そもそも、自分が口を開いて良いかすらわからない。とにかく粗相がないように、後ろを付いて行くしかなかったのだ。


 部屋にはすでに二人分の夕餉が用意されていた。


無明むみょう殿、お付きの方も、どうぞ座って寛いでいてください。私は少し席を外します。特別な菓子を持ってきますので、先にそちらの御膳を食べながら、楽しみに待っていてください」


 お香の甘い香りがずっとしている部屋で、無明むみょう清婉せいえんは腰を下ろす。

 扉が完全に締まり、足音が聞こえなくなった頃、無明むみょう清婉せいえんの袖を引いた。


清婉せいえん、俺の予想が正しければ、ちょっとまずい状況かも」


「へ? どういうことですか?」


 無明むみょうが囁くように耳打ちするので、つられて清婉せいえんも同じように声を潜める。


 なんでこんなことをしているんだろう?と首を傾げるが、無明むみょうは真面目な顔で続ける。


「とりあえず、この御膳は全部食べて。大事な時にお腹が空いていたら大変だから」


「は、はい。でもなぜ急に普通の無明むみょう様に戻ったんです?」


 普通、と自分で言っていて不思議だったが、言い得て妙だった。これが、普段の無明むみょうに違いないからだ。

 ならば、さっきまでのあれ・・はなんだったのか?


 とりあえず、無明むみょうが膳に手を付け始めたので、清婉せいえんも言われた通りに箸を取り、小皿に盛られた何種類もの料理に感心する。


 一つ一つの皿は小さいが、そのすべてが違う料理だった。しかもどれも味が良く、さっぱりしているのに満足感がある。


「初めて食べる料理もあって、勉強になります」


「俺は清婉せいえんの料理の方が好きだけど······まあ、悪くはないかな」


 無明むみょう様······と清婉せいえんは嬉しい言葉に思わず胸がいっぱいになる。


「で、話の続きだけど、これ、持ってて」


 懐から黄色い符を取り出し、清婉せいえんの懐に勝手に潜り込ませる。


「え? え? ちょっと、なにをっ!?」


 もぞもぞと手を入れられたかと思えば、すっと離れて、無明むみょうは右手の人差し指と中指だけを立て、何か文字を書く仕草をした。


 清婉せいえんの懐に入れられた符が緑の光を一瞬だけ放って、何もなかったかのように消えた。


「いい? これから話すことを、しっかり頭に入れて、この邸から出るんだ。宿の場所はわかる? 清婉せいえん竜虎りゅうこたちの所に戻って、」


「え、だから······どういう? 無明むみょう様も行くんですよね?」


 急にどうしたのかと清婉せいえんは不安になる。

 別にこそこそと出て行かなくても、堂々と戻ればいいだけだ。やっぱり宿が良いとでも言えば、失礼極まりないがあの方なら許してくれそうなのに。


「行かない。だから、お願い。言った通りに、してくれる?」


 途切れ途切れの言葉に、真剣さが伝わって来る。思わず清婉せいえんは頷くしかなかった。


 そして、足音が近づいて来るのを機に、無明むみょう清婉せいえんに合図を送る。扉が開かれた時、蘭明らんめいは菓子の乗った盆を手に、そこに立っていた。


 大切なモノを慈しむような、愛でるような、そんな仮面のような笑みを浮かべて。


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