4-20 謀主



 黒衣を纏った大男は、無事に碧水へきすいの地を離れ、紅鏡こうきょうの地へと辿り着いた。


 三日三晩その体躯で走り抜けた男は、疲れ果てていたが、あと少しと力を振り絞って、晦冥かいめいの地の一歩手前にある結界壁の前までやってきた。


 結界壁の先に見える枯れ果てたその大地は、ぼこぼこと無数の隆起を起こしており、月明かりの下ではさらなる不気味さを感じさせた。人の気配はなかった。なかったはずだった。


 男が振り向いた瞬間、それ・・は、男の首を貫通し、そのまま綺麗に引き抜かれる。

 言葉を発することは赦されず、ひゅうひゅうと隙間風のような音だけが鳴った。大きな身体は地面にそのまま崩れ落ち、前のめりに沈む。


『今世の烏はこうも質が悪いとは、他の烏共に知らしめないと埒が明かない』


白群びゃくぐんの公子殿の仕業でしょう。背にこんなものが、」


 繊細な蔦の模様の漆黒の飾り縁が付いた、長方形の灯篭を手に持つ、青い鬼面を付け黒衣を纏った青年が、頭に直接響いてくる声に応える。


『紙人形か。追跡用の符だな。古い手を使う』


 灯篭の中の灯りは紫色の光を湛えており、暗闇の中にあるせいか、異様な雰囲気を放っていた。鬼面の青年は細い指先でその白い紙人形に触れる。その途端、紙人形は青い光を湛えて燃え、炭と化した。


「······なんだ?」


『どうした? 間抜けな声を出して。常に用意周到な貴様らしくない』


 一瞬のことでその違和感の原因は解らなかった。燃やした後に、なにか感じたのだが、気のせいだろうか?いや、用心するに越したことはない。

 鬼面の青年はふいと大男に視線を落とす。


殭屍きょうしの餌にでもしてやれ。奴らは骨も残さずに喰らうだろうさ』


「ええ。後で適当に処理します。さて、神子みこたちは予想通り玉兎ぎょくとへ向かったようです。先に色々と仕込んでおいたので、今回以上に楽しんでもらえることでしょう」


神子みこには残り少ない時間を楽しんでいただかないとな。四神との契約はより絶望を味わわせるための、大事な布石だ。ぬかりなくやれよ』


 鬼面の青年は、ええと頷く。

 もうすでにそれは始まっている。彼らが玄武との契約を結ぶ少し前から、計画はすでに進行していたのだから。


「——―—っ誰だ、」


 鬼面の青年が闇に向かって、先ほど大男を仕留めた琴糸を放つ。

 それは一本から五本に分かれ、網のように広がり獲物を捕らえようと襲い掛かるが、するりといとも簡単に躱され、姿を捉えることはできなかった。


 すでに気配はなく、まるで闇の中に溶けてしまったかのようだった。獲物を捕らえそこなった透明な糸は青年の指先に戻り、消える。


『案ずるな。俺の予想が正しければ、あれは鬼子おにごだ。神子みこの命がなければ、なにもできない愚か者さ』


鬼子おにご?」


『お前たちが渓谷の妖鬼と呼んでいたあれさ。あれは目障りなことに、神子みこが生まれた時から俺の邪魔ばかりしてきた。おかげで身体を奪い損ねた』


 渓谷の妖鬼は特級の鬼となっているが、意味深なことを灯篭の声は言った。


夜泮やはん様、聞いてませんよ、そんな話」


『最初に言ったろう? 俺は貴様を信用していない』


「構いません。私の目的はただひとつ。あなたの目的を邪魔する気はありません。これは十五年かけて私が計画した、謀。あなたはあなたの目的のために、私を存分に利用すればいいだけ。私ももちろん、同様です」


 そのために必要のないものを切り捨て、身軽になった。そしてこの計画はまだ序盤でしかない。

 すべての目論みを利用して、狂いが生じればそれに応じて改変する。本質から外れなければ問題ないのだ。


「次は今回以上に楽しい舞台を用意しましたよ。しっかり舞ってくださいね?」


 青い鬼面は恐ろしい顔を浮かべていたが、その奥の瞳はどこまでもにこやかで楽しげであるだろうことを、夜泮やはんは知っている。


 闇夜に浮かぶ月が、それを恐れて墨色の雲の中に身を隠す。仄かな光さえ失った空は、真の闇となって辺りを包み込む。


 鬼面の青年と紫色の灯篭は、結界壁の先の晦冥かいめいの地へと消えて行った。すでに意味のないこの結界壁を越えて、この地を彷徨う殭屍きょうしたちがその先へ行くことはあり得ない。


 それは十五年前から始まっていた。すべてを欺き、誰にも気付かれないまま、時は満ちる。


 一連の出来事のすべてが、謀主ぼうしゅの意のままに。


 しかし、その完璧な計画が、ほんの少しの歪みによって傾いていることなど知る由もなかった。



 紅鏡こうきょうの地は、何も知らぬまま朝を迎える。その裏でどっしりと重くのしかかる闇の存在に気付くこともなく。



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