1-12 満身創痍の帰還

 

 駆け寄る気力も尽き、竜虎りゅうこがゆっくりとふたりの元へ歩み寄る。こちらにそれを渡してくれ、と両腕を胸の辺りに掲げてみせたが、公子はまったく応える気がない。それどころかそのままくるりと背を向けて、歩き出す。


「君は、彼女を」


 首を回してその視線の先にいる少女を見やり、そちらを頼むと会釈をした。竜虎りゅうこは、その先にいる青ざめた顔をした璃琳りりんを見つけて、なんで戻って来たんだと言いかけたが、既のところで呑み込む。


 胸に貼られた無明むみょうの符は、力尽きた後もその効力を失うことなく、妹を守り続けてくれていたのだ。


「怖かったろ? 立てるか?」


 ふるふると首をふる妹を責めることはせず、代わりに、ほら、と屈んて背を向ける。璃琳りりんは何も言わず冷たくなった身体をその背に預け、首にしがみついた。


 まだ夜は明けておらず、薄暗い。このまま邸に戻り見つかれば、様子がおかしいことがすぐにわかってしまうだろう。


「公子、無理を承知でお願いしたいのですが、」


「問題ない。私が借りている邸へ運ぶといい。元々君たち一族の持ち物だろう、」


 最後まで話し終わる前に、淡々と前を歩く白笶びゃくやは、ふり向きもせずに快諾する。


(白笶びゃくや公子とは、今まで挨拶程度しか交わしたことがなかったが、初めてまともな会話をした気がする······というか、口が利けたんだな、彼は)


 挨拶、と言っても動作的な挨拶であって、会話を交わしたことはない。

 誰かと話している姿を一度も見たことがなかったため、その声を初めて聞いた気さえする。


 少しも動かない無明むみょうの様子が気になったが、今は意識を失っているようなのでどうにもならない。


(けど、なんでこんなことになったんだ?)


 あの赤い月も今は元の青白い月に戻っていた。全力で広範囲を走り回り、術を使ったせいで竜虎りゅうこも限界だった。


 ただいつもの静寂が妙に落ち着かず、胸の辺りに靄のようなものを残したまま、近づいてくる紅鏡こうきょうの都の灯りに安堵する。



****



 ――――あの時。白い陣が現れたあの瞬間、傾いで落ちていく身体をなんとか反転させ、無明むみょうは闇夜を仰いだ。


 体感ではゆっくりと流れるようだったが、実際は倍は速かっただろう。近づいていく地面を背に、思わず赤黒い月に手を伸ばしていた。


 その手を力強く掴まれ、引き上げられたかと思えば、そのままふわりと抱き上げられ、思わず息が止まりそうになった。地面に降り立って、初めてその者は口を開いた。


「······大丈夫。心配ない。あとはこちらに任せるといい」


 優しい声が降り注ぐ。その声は低く、心地が良かった。礼を言おうと声を出そうにも、身体を起こそうにも、まったく力が入らなかった。


(······この声、どこかで、)


 懐かしい気分になって、そのまま身を委ねる。しかしその時点で、無明むみょうの意識は完全に途切れてしまったのだった。


 あの声は、誰のものだったか。


 遠い日の記憶を呼び起こしてみても、なにも思い出せなかった。


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