2-24 邂逅


 冗談を言って、無明むみょうは唇に笛をそっとあて、息を吹き込む。そこから奏でられる音は低くも高くもなく、心地よい音色。優しく、穏やかなその曲調の中に、ひらひらと舞う花びらのように目まぐるしく音が行き交う。


 まるで桜の並木道の中にいるようだ。しばらく吹いていると、繭の上の方から外の空気か流れ込んできた。見上げてみれば、あの鬼蜘蛛の鋭い脚の爪の先が繭に突き刺さり、びりびりと破いているのが見えた。


 外に灯りがあるわけでもなく、その割れ目から見えたのはごつごつした鍾乳洞でできた天井と、仄かに光る蘚、張り巡らされた白い糸、そして、あの鬼蜘蛛の姿だった。無明むみょうは笛を奏でたまま、繭が完全に破かれるのを待つ。


 その後ろで片膝を立て、いつでも動ける体勢で白笶びゃくやが控えていた。


「なにそれ、どういうこと?」


 呆れたような少年の声は、信じられないという戸惑いも含んでおり、それは目の前で起こっている事と、外で起こっている事に対して同時に発せられていた。

 

 他の連中を始末するために送った黒蟷螂くろかまきりの気配が途絶え、目の前では言うことを聞かない無能な鬼蜘蛛が、笛の音が響いた途端動き出し、繭をその爪で裂き始めたのだ。


「なんでその笛でお前が言うこと聞くんだよ」


 文句を吐き捨て、繭が割れた先に現れたふたつの影を睨みつける。傀儡かいらいの妖獣は、あの言うことを聞かない鬼蜘蛛だけで他に手元にはおらず、どう考えてもこちらが不利だ。


 ふたりは糸の結界の先に黒衣を纏った背の低い者の存在を見つけ、それが一連の元凶だろうと悟る。


 声を聞く限り、少年のようだ。首には奇妙な形の笛を下げており、それが鬼蜘蛛を凶暴化させた蟲笛だろうと推測する。


「君は、一体、なに?」


 その気配は異様で、今まで遭ったことのないものだった。人ではなく、妖者でもなく、生きてもいないし死んでもいない。思わず口に出た言葉に、無明むみょうは自分でも驚いていた。


「お前なんかに教えてやる義理は、」


 途中まで口にして、黒い衣を頭から被っている少年は、言葉の勢いを失速させた。三人の間で違和感のある空気が生まれる。その違和感の意味は、少年が顔を上げて固まっていたからだ。


 我に返るように、その空気を破ったのも目の前の黒衣の少年だった。


「あははっ! そうか、あんただったのかっ!」


 しかも混乱しているのか、片手で顔を覆って叫びだす。それはどこか怒りを帯びており、無明むみょうは自分に向けられているのだとすぐに解った。


「鬼蜘蛛があんたに従ったのは、あんたが、」


「関係ない」


「は? なんだよ、遮るなよ。白群びゃくぐんのお坊ちゃん」


 少年は覆っていた手を離し、そのまま腕を広げ蟲笛に手を伸ばすと、そのまま口元に近づけた。


「お前の持ってる玄武の宝玉は、俺がいただく!」


 白笶びゃくやは、無明むみょうの前に出て、両手に霊剣を出現させた。通常の霊剣よりも少し短い双剣で、その双剣を手にするなり目の前から消えた白笶びゃくや無明むみょうは思わず息を呑んだ。


 竜虎りゅうこもそうだが、霊剣を取り出す時は数秒の間がある。しかし、白笶びゃくやは一瞬にして双剣を構え、そのまま黒衣の少年の間合いまで詰め寄ったのだ。


「玄武の宝玉が狙いか」


 白笶びゃくやは蟲笛を吹かせないように、少しの暇も与えず攻撃をしかける。少年は手にしたままの蟲笛を吹けず、刃をギリギリでかわしながら後ろに飛んだ。


「ずっと感じていた視線は、お前か」


「だったらなに? ずっと遠くで観察してたから、お前の弱点がなにかもよーく知ってるよっ」


 白笶びゃくやの奥の無明むみょうに視線を移して、にやりと笑みを浮かべる。衣は顔を隠してはいるが、逆に口元はよく見えた。

 嫌な笑い方に、白笶びゃくやは少しだけ眉を寄せた。


「その女を狙えば、お前が動くとすぐに解ったからな。利用させてもらったのさ。予定外だったのは、自ら飛び出てきて俺の笛を遮り、まさか鬼蜘蛛をひれ伏せさせるなんて!」


「もしかしなくても俺のことを言ってるの? 俺は男だよ」


 心外だとでも言うように、自分より背の低い黒装束の少年に向かって口を尖らせた。それとは対照的に、少年は一瞬耳を疑って固まり黙った。


「······は? ふざけるな! その恰好、どう見ても女だろう!」


「恰好で判断するなんて、失礼な子供だなぁ」


 むかっとあからさまに苛立って、子供のように癇癪を起こした少年は、その無明むみょうの言葉にさらに声を荒げた。


「まぎらわしい恰好をするな! 誰が子供だ! 俺はガキじゃない!」


「面倒な子だなぁ。じゃあ名前を教えてよ。そしたら、名前で呼んであげるから、」


「誰があんたなんかに教えるかっ!」


 自分を挟んで子供の喧嘩のように騒ぎ出したふたりに、白笶びゃくやは嘆息して首をふった。だが、おかげで先程少年が言いかけた言葉の先は、完全に忘れ去られたようだ。


 その隙にさらに一歩間合いを詰め、白笶びゃくやは少年の喉元に双剣の片方を突きつけた。


「大人しく捕まれば命までは取らない」


 凍てつくような灰色がかった青い双眸に、少年はちっと舌打ちをする。今更無駄に足掻いたところで、失態がどうにかなるとも思っていなかった。


「命などとうにない。だが、やることは山ほどある。今回は俺の負けだよ」


 ふんと鼻で笑い、少年は蟲笛から手を離し肩を竦めて、降参だとでも言うように両手を挙げる。ふたりはその様子に違和感を覚えた。案の定、にやりと口元を緩め、さらに黒い衣を大げさに翻す。


「だが、残念。捕まる気もない」


「待て」


 衣を掴もうと手を伸ばすが、それをすり抜けるようにくるりと回って後ろにさらに飛ぶと、闇の中に溶けるように姿を消して、ふたりの前から呆気なく去っていった。



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