1-30 新たな始まり


 ――――その夜。


 宗主に本邸に呼ばれ、無明むみょうが告げられたのは、衝撃的な言葉だった。聞こえていないと思ったのか、飛虎ひこはもう一度同じことを繰り返す。


紅鏡こうきょうを離れ、この国を見て回ってくるといい」


「··········はい?」


 目が点になっている無明むみょうを現実に戻すように、飛虎ひこは話を続ける。


藍歌らんかとも話した。お前は、この小さな囲いの中で納まる器ではない。外の世界を見て、たくさんの人に出会い、修練を積んだ方がいいと。そして戻って来た時に、ひと回りもふた回りも成長した姿を見せて欲しいと」


「けど、竜虎りゅうこにも聞いたでしょ? 晦冥かいめいでのこと。あの陣のこともさっき話したばかりで、」


 あの陣が、ただの陣ではなく、あの烏哭うこくの宗主が生み出したものかもしれないということを。


「それは、我々が解決する問題であって、お前が案ずることではない」


「それに! 夜の妖者退治も、都の人たちの厄介ごとも、俺がいなくなったら······っ」


 竜虎りゅうこがひとりで引き継ぐことになる。そうしたら、なにかあっても守れない。


「それは、金虎きんこの術士たちに任せる。私から命ずることで動かざるを得なくなるだろう。彼らにも多くの経験が必要だ。お前たちがやって来たことは手放しで褒めてはやれないが、良くやってくれた。同じ志で行動できる術士たちを、増やすきっかけにもなるだろう」


 ここに残るための理由をほとんど潰されて、無明むみょうは押し黙る。藍歌らんかがすでに宗主の考えを汲んでいるため、藍歌らんかを理由にもできないのだ。


「それに、竜虎りゅうこにはすでに話してある。今頃準備をしているだろう」


「え? どういう意味です?」


「表向きは竜虎りゅうこのお供として、各地方の一族に挨拶がてら修練をつけてもらうという話にしている。朝から各宗主の元に出向いて話は付けてきた」


 そこで無明むみょうは気付く。あの時、白漣はくれん宗主が言っていた言葉の意味を。


 しかもあの様子からして、白笶びゃくやも知らされてなかったのだろう。今頃どんな顔をしているか、ものすごく気になる。


「出立は明日。白群びゃくぐんの宗主たちと一緒に碧水へきすいへ。その後のことはお前たちに任せる」


 もうどうにでもなれと、無明むみょうは解りましたと答え、そのままその場に跪いた。深く頭を下げ、儀式的な別れの挨拶を行う。


「父上、母上を頼みます」


「こちらの事は案ずるな。道中は危険だ。どんな時もふたりで協力して、しっかり学んできなさい」


 顔を上げた無明むみょうの頭を撫で、それから小さな子供にするように背中をぽんぽんと軽く叩いた。


 ずっと、憧れていた外の世界、知らない世界。こんな唐突にそれを知られる機会を得られるなど、思ってもみなかった。


 書物の中でしか知らなかったこの国を、この眼で確かめられる。そう思うと、不安よりも好奇心の方が大きかった。


 そしてなにより、竜虎りゅこも一緒だ。

 父との別れを惜しみながら、本邸を後にする。


 自分の邸に戻ると、藍歌らんかの琴の音が聴こえてきた。何も言わず、その琴に笛の音を合わせて、愛しい気持ちを奏でる。


 ずっと、一緒にいて、離れることはないと思っていた。


 ここから出ることも、離れることもなく、たまにれ者を演じながら邸の者たちを欺き、それを楽しんで生きて行くのだと思っていたから。


 点心の店の青年に貰った、鮮やかな青い紫陽花の菓子を藍歌らんかに差し出し、ふたりで一緒に食べた。


 藍歌らんかは何も言わず、ただいつものように優しく微笑んでいた。



 明日が来るのが、こんなに寂しいだなんて、初めて思った――――。



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