2-6 渓谷の妖鬼



 あの時。連れ去られる瞬間、伸ばされた指先が掠った。視線が重なったのも束の間、暗闇がそれを遮る。そこで意識は途切れた。


「········ここ、は?」


 ひんやりとしたその場所は薄暗く、ぎりぎり輪郭がぼんやりと見えるくらいの明るさで、何度か瞼を震わせた後にふとあることに気付いた。


「あ、目が覚めた? ごめんね、無理やり連れて来ちゃって、」


 上と下で視線が重なる。ぼんやりとしている頭で考えていたら、金色の瞳がぐんと近づいて来て、鼻がくっつく手前で止まった。


「五百数十年ぶり、かな? 細かいことはいいや。あなたが近くにいるってすぐにわかったよ」


 にっと細めた眼は親しい者に向けられるものだが、当の本人はまったく身に覚えがないことだった。垂れ下がった細くしなやかな黒髪が頬にかかってくすぐったい。


(何の気配も感じない。でもひとではない。ここは、話を合わせた方がいいかな? けど、別人だと気付かれたら?)


 それよりも今のこの状況で、態勢で、身動きが取れないのは事実。右の膝を立てた姿勢で、立てていない方の足の上に無明むみょうの頭を乗せ、至近距離で顔を覗き込んでくるその者は、紛れもなく鬼だ。

 

 恐らく、宗主が言っていた渓谷の妖鬼だろう。


 細身で右が藍色、左が漆黒の半々になっている衣を纏い、美しく細い黒髪は結いもせずにそのまま背に垂らしている。左耳に銀の細長い飾りを付けていて、揺れると微かに音が鳴った。


 金の瞳は涼し気で、薄暗闇の中で光っているようにも見える。色白で妖艶な面持ちだが愛嬌もあり、絵に描いたような美しさだ。


 二十代前半くらいの若い青年の姿をしていて、その声はどこか含みがあるが甘く心地好い。


 じっと思考を全力で巡らせながらその瞳を見つめていると、視線がゆっくりと離れていった。


 かわりに、そっと頬にひんやりとした白い指先が触れてきた。


「ずっと待ってたんだ。あなたが紅鏡こうきょうを離れて、ここに来るのを。まあ、結局待ちきれなくて、攫ってきてしまったわけだけど」


 その眼はどこまでも優しさに溢れていて、本当は誰に向けられたものなのかと考えると、罪悪感があった。


 思わず、同じように右手を頬に伸ばす。冷たい頬は死人のようだったが、ひんやりとして心地好いとさえ思った。


「······ごめんね、俺は、君の待っていたひとじゃないと思う」


 嘘を付くことができなかった。その眼差しは、まるで愛しい者を見つめるような瞳で、自分に向けられていいものではないと感じたから。


 しかし、鬼は無明むみょうが触れた指をそのまま握りしめ、首を振った。そこに落胆の色はない。


「あなたを、待ってた」


 渓谷は深く、空が遠い。夕焼け色が薄墨色に覆われても、渓谷の底であるはずのこの場所は、なぜかふたりの姿を浮かび上がらせていた。


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