おむすびひとつ

キノキリヲ

 その娘は薩南諸島のある島からやってきた。

 島の高校の家政科を卒業し、川崎の個人病院で働きながら併設の准看護師学校で学ぶためである。

 4人兄弟の末っ子で存分に甘やかされて育った彼女に、都会の風は冷たかった。

 まず、都会は島と違って冬が寒い。

 島では風は強く吹きはするものの真冬でも最低気温が10度を下回ることはない。

 都会の冬は底冷えがする上に、雪が降るのだ。

 島では雪が降ることなんてない。

 後に彼女の姪が上京した際、雪の降る様を見て「シラスが降ってる!」と驚いたのは島出身者あるあるとして頻繁に語られている。

 島にいた時には必要としなかった防寒具に埋もれながら、それでもしのぎ切れない寒さが彼女を苦しめた。

 それは空腹である。

 全寮制のその学校では当然、三食提供されていた。しかし、それは十代の娘たちの食欲を満たすに十分な量ではなかった。

 余分に支払いさえすれば追加の食事を要求することも出来たが、いかんせん彼女の実家は父親の死後、困窮を極めていた。

 お嬢様育ちでそういうことに気づく性質ではない母はもとより、すでに家庭を持って家を出ている姉や兄に余分な仕送りを請求するなんて、末っ子の彼女には到底できなかった。

 その結果、同じ境遇の友人たちと寮の一室に身を寄せ合い「さむいね」「おなかすいたね」と言いながら、そのわびしさを分かち合うしかなかった。

 ある日も、彼女たちは空腹を抱えながら勉強に励んでいた。

 時間も深夜、迫る試験に向けて追い込みの時期である。

 もう夕飯の時間ははるか昔、試験勉強で酷使した脳は余分な栄養を要求している。

「もう無理、何も頭に入らんちゃ」

 あまりの空腹に音を上げた彼女たちは一計を案じた。

 手元にあるなけなしのお小遣いをあつめ、とにかく何かを買ってくることにしたのだ。

 責任ある精鋭部隊の一人に選ばれた彼女は、ありったけの防寒具を身に着けて夜の街に出た。

 夜風に震えながら深夜の川崎の街をさまよい歩く。

 家の500M以内に必ずコンビニエンスストアがあるような現代と違って、当時はそんな時間に開いているような総菜屋もないし、彼女たちが入れるような食事処もなかった時代だ。

「どうしようねぇ」

 彼女たちが迷いこんだ先は飲み屋街だった。

 飲んだくれが管を巻き、年頃の娘たちが物珍しさにじろじろ見られるような通りだった。

 級友が心細げに身震いした時である。

「その辺のお店に入って、とにかく何か売ってもらおうでぃ」

 寮に残って震える友人たちを思い、意を決した彼女は一軒のスナックに飛び込んだ。

「おじゃまいたします~」

 スナックの扉を押し開けながら、彼女は精一杯の丁寧語で入店した。

 島の人間は標準語で話すときには必要以上に丁寧に話してしまい、挙句身のこなしは当時リアクション芸人、今では怪談師として有名な某氏をほうふつとさせる、大変卑屈なものになってしまうのだ。

 店内にいた客たちはこの珍客の乱入に驚いたことだろう。

 どてらを羽織り、マフラーを巻いた、そんな店など縁のない初心な娘たちだ。

 しかし、彼女たちはそんな好奇の視線も気にならないほど一生懸命だった。

「何か食べるものを売っていただけませんでしょうかぁ~?」

 店内にはメニューが掲示されているわけでもない。

 彼女たちは必死の勢いで腰を低くして問い尋ねた。

 スナックは酒やつまみがメインであり、食事を出すような店ではない。

 そんなことすら知らない彼女たちに、カウンターの中に居たバーテンが「そんなものないよ。そういう店じゃないんだ」と教えてくれた。

 しかし、彼は彼女たちを見かねて、常連にしか出さない裏メニューやまかないのために炊いてあったご飯でおむすびをむすんで持たせてやった。

 鹿威ししおどしもかくやというほど頭をペコンペコンと下げ、温かいお結びを抱えた娘たちは大喜びで寮へ駆け戻った。

「よかったやぁ」

「都会にもいいひとがいるっちゃねぇ」

 バーテンはわかっていなかった。

 初心な彼女たちが味を占めて、今後も頻繁に彼の店に訪れておむすびを要求することを。

 ―――ちなみにこのお人よしのバーテンが、後に彼女の夫になる男である。

 彼もまた北の島出身であり、姉の経営するスナックの手伝いをしていたのだが、彼が島を出た理由が「西郷輝彦みたいな役者になりたいから」だと分かるのは、彼女が嫁いだ後だった。

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おむすびひとつ キノキリヲ @knk_oowashi

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