進目

 あるところの妹の話をしよう。彼女には優秀な兄がいた。幼い頃から、一つ物事に狙いを定めると突っ走っていくような性格で努力の天才。小説を書き、将来は沢山の人に自分の物語を読んでもらい、人々の記憶に残るような作家になるのだ、と言っていたそうな。そんな兄を見て、妹は疎ましく思うこともあったが尊敬していた。


 兄は山や海など、色々な場所へ愛用の自転車で出掛けては、そこで感じたことなどを小説にし、妹や家族、友達などに見せたりしていた。作品の出来は年々に向上し、コンクールなどで賞を取ったりもして、妹も兄の創る作品達を好いていた。


 しかし兄は突如いなくなってしまった。


 ある日、昔住んでいた場所へ行ったきり、帰ってこなかったのだ。山の頂上を目的地として自力で向かったらしく、頂上には鍵の無くなった自転車がぽつんと置かれていたそうな。母親は酷く落ち込み、塞ぎがちになってしまい、父親は兄の作品を読み返し、時に涙を見せていた。妹はというと、何故兄がいなくなったのか分からず、兄と自分を含めた四人の写真を眺め、色を失ったパレットを見て溜息をつき、物事への関心というものをすっかり無くして、自分を責める日々が続いた。


 そんな日々の中、ふと妹は兄の自転車に目を留めた。主を失った今、使う者はおらず、久しく日の光を浴びていない。今時古過ぎる電動ですらない自転車は、彼女の兄にはお似合いの無骨の一品で、荒々しく駆けていただろう勢いが今は無い。そんな自転車を何気なく見つめて、力無く擦る。その途端、無性に悲しくなり、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。兄に色々な場所へ連れ回され、挙句に捨て置かれた彼のことを哀れに思ったのだ。妹は兄の自転車を借りパクしてやることにした。そこには、兄への当てつけと反抗心などの面があったが、一番の理由としては兄の見ていた世界を知りたいと思ったからであった。


 母親は娘を止めた。


「あなたまで兄のようになっては駄目、もうこんな悲しい想いにさせないでほしい」

と涙を流し、顔を歪めて頼み込んだ。しかし、父親は娘の旅に賛成であった。光を失った娘の瞳に、息子の影が映っている気がしたという半端かつ不確かな理由だったが、そんな賭けにも乗りたい気分だったのだ。


 結果として、妹は母親と幾つか約束をして兄の見た景色を見に行くことにした。母親は最後まで不安気で、何週間かは見送りとして旅先まで同伴していた。しかし、娘の活き活きとした姿や旅先で会う人々との交流を見ているうちに、母親は娘の一人旅を許すようになった。


 娘の方は旅の要所々々で色々な人々に会い場所々々の新鮮な空気を感じて、生きている事を存分に謳歌しているようであった。さらには、母が背中を押してくれるようになったことでペダルを漕ぐ足は軽くなっていった。そう、彼女は調子に乗っていた。だからこそ、あの兄が最期に訪れた場所へ行くことにしたのだ。母をなんとかして説得すると、途中までの送り迎えという条件付きで了承をもらえた。父からも、絶対帰ってくるんだぞと背中を押してもらった。


 坂が長く、急なその場所は、この年中暑い世に自転車で向かうにはあまりにも無理難題というもので、兄の正気を疑った。車から降り、母からの熱い言葉を受け取って自転車に乗り、立ち漕ぎしながら進んでいった。直ぐに勢いは無くなり、結局自転車を押しながら登ることになった。


 相変わらず日差しが強く、日焼け止めが無くては病気になってしまいそうで下を向く。その上から蝉がけたたましく鳴き喚く。言わずと知れた夏の風物詩、この猛暑にも見事適応し、風鈴の音など掻き消してしまう程の大音量で人々の鼓膜を揺らしている。正直煩わしい事この上なしと断じさせてもらおう。


 そんな猛攻にも耐え、彼女は頂上にまで這い上がった。びっしょりとかいた汗をタオルで拭い、日焼け止めを塗りなおす。嘗て、自分達家族の住んだ町を見下ろす。あれから改築されたと聞いていたが、すっかりと青に沈み込んでしまっていた。昔兄とよく遊んだ公園に目をやる。山の中腹に位置するため、まだ生き残っているかもしれないと考えたのだ。たしか、とレンズ越しに目を凝らしてみると、あった。公園に至るまでの階段は海に沈んでしまっているが、中央の大きな木が頼もしく立っていた。じっと木の根元辺りを凝視する。ずっと見ていれば兄がひょっこり顔を出す気がしたのだが、やはりそんな事はありえないので視線を空振らせて空に移す。


 旅の先々でよく見かけるのは鳥で、兄がバードウォッチングでもしていたんじゃないかと思うほどよく飛んでいる。地球温暖化が進んでからというもの、太陽により近くに存在する鳥という生き物は徐々に品種を減らしていってしまっている。だから、ここでも数羽も見えて感慨深く思う。この深刻な地球温暖化現象と、急速な勢いで進んでいるという海面の上昇の話は、旅先であった人々からも聞いていた話であり、彼女に悲しみを覚えさせる問題であった。自分の故郷のように、これからも沈む場所が増えていけば、いずれ兄の愛した風景は無くなって、兄の作品も時代の波に呑まれて消えてしまうのではないかと考えたからだ。だが、彼女にはこの大問題をどうにかできる力など無い。とっくに諦観しているのだ。…溜息をついて地面へ視線を移す。地面には大きくなる鳥の影が映っていた。


 反射的に見上げると、地の底の様な黒がこちらを覗いていた。あまりの唐突さに、それ以上視界が上を向けない。そうして固まっていると、酷く渋い声が聞こえてきた。


「こんにちは」


 それがあまりに平凡な挨拶で、思い切って顔を上げてみた。視界には、それぞれ黒と白の鳥が映った。黒い方は見上げなければ全体を捉えきれないほど大きく、成人男性の身長を優に超えていた。眼光は鋭く、威厳を放つ大きな嘴はその体と同様の黒に染まっていて、悪魔の使いという言葉がよく似合いそうな見た目をしていた。もう一羽は、一般的な鳩と同じ位の大きさで、マジックに使われる鳩そのものと言えるほどの完璧な白。ただ、一つ違ったのはその光を反射しているエメラルドの様な美しい眼で、知的さが窺える凄みがあった。


「確か君はきりという名だったな?」


黒鳥が嘴をぱくぱくと開閉させて声を発している?まさかとは思ったが鳥が話しかけてきているらしい。それに自分の名前も知っている。限は息をするのも忘れ、じっと視線を送り返す事しかできない。黒鳥はその考えを汲み取ったようで


「風の噂で聞いたのだ、そう怪しまないでくれたまえ」


そうやって、鋭かった眼を少し柔らかくしたように見える。しかし、限は相変わらず縮こまっている。自分は一体どうなってしまうのか、先が全く読めないようだ。


何やら白鳥が黒鳥に耳打ちをすると


「私は空の世界を生きる者、名を影壺という」


いきなり自己紹介が始まった。影壺は胸を張り、真正面から限を見る。


「私はこの方の傍で務めているものです。どうぞ光先とお呼びください」


続けて白い鳥の方も紹介をし、ぺこりと頭を下げて優しそうな眼で限を見据えた。二羽共に限を見つめる。どうやら順番のようだ。限は腹を決めた


「限と言います。よよッ…よろしくお願いします」


しかし、かなり緊張していたようで早走りな自己紹介となってしまった。影壺が少し微笑んだように見え、


「そう堅くならなくとも良いのだ。リラーックスしたまえよ」


そう促され、限はゆっくりと呼吸を行った。日差しが強く、目の蓋に圧をかけてくる。いつもより少し荒い自分の呼吸を確認して、どうしたものかと頭を悩ませた。彼女には選択肢がない。逃げたところで、あの翼ですぐに追いつかれてしまうし、名前も知られている。兄から借りパクした自転車に触れ、これが報いだとすれば随分と法外だな、などと思いを巡らせた。影壺が嘴を開く


「今、陸は海の侵食によってその面積を縮小させられている。これは由々しき事態であり、我々にとっても不都合な事だ。何故海側がこのような行動に出たのかは分からない。そこで、君には原因の究明と解消のために、我々に協力してもらいたい。如何かな?」


影壺がすらすらと言葉を紡ぎ、限は唖然としていた。急すぎて理解が追い付かない。


「海が行動を起こしたということは、この地球温暖化はただの自然現象ではなかったという事ですか?海には意思があるって事ですか?」


自分の中にある率直な疑問をぶつける。


「地球温暖化に関してはほぼほぼ人間のせいなのだがね。急速な海面の上昇に関しては故意的なものだ。海にも私の様な役割をこなす者がいてね、この異常事態は彼による犯行の可能性が高い」


目を細めて、どこか遠くを見つめながら影壺は言う。


「では、何故私なんでしょうか。私は何の力も持っていない、唯の一般人ですよ?」


少し皮肉めいた口調で問い掛ける。


「それは友人からの紹介とでも言っておこう。厳密には違うのだが、我々にとっての義務みたいなものなのだ」


なんだ、私自身の力ではないのか…


 友人…ね。一体何繋がりなんだろうか。昔鶴を助けた記憶など無く、鳥の知人などもいるはずがない。そんな思考を漂わせながらも、彼女は内に抱いた好奇心を自覚していた。喋る鳥に未知なる世界、さらには自分もその世界に挑めるとのこと。こんな特異な事はもう恐らくは起こらないだろう。一生一大の大チャンスというわけだ。だが、即決するほどの無鉄砲さは生憎と持ち合わせていなかった。何より、確かめねばならない事が一つ、残っていた。


「私は人間ではいられなくなるのでしょうか。もう両親とは会えなくなるのでしょうか」


母との約束が彼女にとっての鎖だった。両親の前からいなくならないという約束。破ってはいけない、絶対に果たさなければならない約束。影壺は応える


「一般的な人間とは少し違う位置づけになる。私達を認識している現段階に於いてもそうだ。私達と共に来ないというならば、君の記憶を少し消して私達との縁を完全に切らなくてはならない」


拳をぎゅっと握りしめる。今更になって首筋に伝ってきた汗を感じる。体が震えて喉が鳴る。


「だが、君がご両親と会えなくなるという事はない」


どくんと心臓の跳ねる音が聞こえた。


「君は平凡たる人間としての矜持を捨てなくてはならない。しかし、新たに見えてくるものは君の心を満たすには充分なものだろう。我々は君を歓迎する。…判断は君に委ねるがね」


視界が揺らぐ。新たに見えてくるもの…それは兄さんの行方を知る事に繋がるかもしれない。何より、今の無力な自分を変えられるなら


「私は貴方達に協力します。なのでどうか、私に力を下さい。自分を変えるための力を」


すると影壺は呆れたように笑って


「良かろう。君に力を授けよう。光先」


影壺が合図を送ると、それまで静かに見守っていた光先がパタパタと羽ばたき、限の肩に乗った。反射的に光先の方を向くと、コツンと嘴の先を額に当てられた。


 瞬間、体中に何かが走ったように感じて身震いする。


「何を…!!」

頭がふらふらとして視点が定まらない。気持ちが悪くなりそうで目を瞑る。


目を開けると地面が近い。そのくせ、何故だか空は近く感じる。木々が風に揺られて、葉の一枚一枚が鮮明に見えて、自分の姿を認識した。鳥に…なっているではないか。


「え!?えっと!戻るんだよね!?これ!!」


あまりの変化に驚きを隠せないようだ。彼女は普通に話せる事に違和感を覚えつつ、影壺を見上げる。先程よりも酷く大きく見えて、彼女の目には禍々しくも映った。影壺は、少しにやっと笑うと


「安心したまえ、肩の力を抜き、ゆっくりと息を吐いてみるといい」


そう言われて、瞼を閉じる。息を吸い、吐く。何も考えないように、ゆっくりと、静かに…


「!!」


今度は体の奥から額まで、何か走った様な感覚に襲われて、再び目を開ける頃には人間の姿に戻っていた。


「はぁー…」


安堵のあまり溜息が出る。あの感覚が酷く恐ろしくて、それでいて非日常的なものだから興奮しているようだった。チラッと見えたいつもと違う世界。それは彼女をドキドキさせるには充分な代物で、もう一度深く息を吐いた。


「どうだったかね?新しく見えた世界は」


そんなどこか自慢げな影壺の言葉を無視して、彼女は空を見上げていた。新たな仲間を祝福するかの様に、青一色の空をバックにして、影で腹を黒くした鳥達が飛んでいる。ふと、公園の事を思い出し、覗いてみようかと考える。そこには兄がいるかもしれない、今なら見えるかもしれないという、何とも言えない予感がしたのだ。彼女は視線を向けようとして、止めた。台無しにしてしまう、そんな気がしたのだ。


 新芽が今、光を浴びた

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