駅まで二十分、寄り道は一時間半、そして家には帰らない。

もと

帰さない。

 入学式の次の日から何となく駅まで一緒に帰るようになった。改札抜けたらもう逆方向に別れるけど、なんか上手いコト居心地のイイ人に出会えて良かったと思う。

 上靴を放り込んで、履き替えた革靴の爪先をコツコツして見上げれば桜並木だった緑の枝がザワついてる。風が出てきた。

 待っててくれたから並んで歩く。そういや怒られてんの見られちゃったな。


「さっきの山本センパイ、マジでコワくなかった?」

「彼氏とケンカしたんだって」


「は? 八つ当たりってこと?」

「そうみたい」


「めんどくせ、超ムカつく」

「仕方ないじゃん、元々そんな優しい訳でもないし。ウチらが先輩になる事があったら後輩は可愛がろうよ? 反面教師ってヤツにしよう」


「国語で出てきてた、反面教師」

「うん。覚えてるうちに使っておきたかった」


「オトナじゃん?」

「どこが?」


「いつの間にセンパイに探り入れてたの?」

「話してるのが聞こえて来ちゃっただけ」


「へえ?」

「なに?」


「分からん」

「なんなの」


 俺が適当な事を言うとフンッて笑われる。フルートのケースを持ち変える左手と右手とか、風でボサッとした髪をかきあげる時とか、手首も指も細くて白くて折れそう。

 よく楽器なんかやってられるなって思う。


「野球部のアレがもうすぐだからセンパイ達ピリピリしてんのかな」

「そうかもね。普通の練習したいって文句言ってる先輩もいたし」


「ほんとそれ」

「覚えた?」


「一気に十曲覚えろとか意味わかんね」

「そういう態度だから目つけられるんだよ」


「せっかく高校ココに来たんだからさ、もっとなんかこう『クラシック!』みたいなのやりたかったんだけど。ラヴェルとかサティとか贅沢は言わんけどさ、普通のクラシック的な曲?」

「それは甲子園の予選終わったらやるんでしょ。アンケート取ってくれるって言ってたし」


「そうなの?」

「なんも聞いてないのに入ったの?」


「いつ言ってた?」

「入部した時に『野球部への応援曲で実力を見ます、アンケート結果から皆さんに合わせた曲を選びます』って、部活紹介の時も言ってたよ?」


「マジか。そっかそっか、どうせ初戦で負けるし行っても三回戦ぐらいだもんな」

「うん、そこから好きなだけ……ソレ酷くない? ちゃんと勝つかも知れないじゃん、応援しようよ」


「いや今ちょっと納得してたじゃん、ウケる」

「いや、うん、行けても二回戦だよ、うん。ちょっとしか見てないけど頑張ってるのに上手ではないもんね」


「俺より野球部の扱いキツイじゃん」

「そう?」


 エヘッてワザとらしく笑う口元も首も、なんか細過ぎてムカつく。よく今まで死なずに、どうやって生きてきたんだよって思う。だから見ない、喋る。


「『ルパン三世』出来た? 俺とりあえず一番最初に覚えたんだけど」

「うん」


「あれ? 弾けんの? マジか?」

「弾けるかどうかよりプラスチックの感触に慣れなきゃいけない方が大変じゃない?」


「ああ、こっちはまあまあ、プラスチックのクラリネットって意外とイイよ。もう少し使い込まなきゃだけど」

「フルートは難しい」


「練習する? 今から」

「うん、しようよ」


「川とか?」

「土手とか?」


「草の上で?」

「草より階段のトコがいいし、階段よりベンチがいい」


青春アオハル?」

「青春だよ、その言い方キライ。ごまかさないで真面目に青春しようよ」


スゴいハズいコト言うね」

「十五歳の今日は一生に一度だよ。去年の今日は十四歳だったし、もう昨日も一昨日も一回しか無かったんだよ」


「はー、なるほど。確かに今日は一生に一度だ」

「うん。でも雨降りそうじゃない?」


「天気予報はもう外れてる。昼過ぎには雨って言ってたのにまだ降ってないし」

「そうなんだ。じゃ降らないかもね。行こっか」


 楽譜が配られた時はマヒロも初めてやるって言ってた。『紅』とか『サウスポー』とかより難しいと思って吹っ掛けたのに、やっぱりもう弾けるんだ。


「あーあ、なーんだ」

「あ、もしかしてまだ弾けないって言った方が良かった?」


べっつにー」

「なんなの」


「あ、昨日の『花札神獣怪忌憚』観た?」

「夜中の? 昨日だったっけ。寝ちゃった」


「あーあ、なーんだ」

「ごめん。今日、後で観るよ」


「うん、ヤバいよ。猪鹿蝶いのしかちょうが進化した」

雨四光あめしこうにでもなるの?」


「ソレがまた違うのよ」

「ロイヤルストレートフラッシュとかに……あ、いいわ。楽しみにしとく」


「宇宙戦の方は決着するよ」

「あれは鬼に勝って欲しい。ペガサスは滅びて良いと思う」


「あー、どうなるかなー、鬼かー、そっかー。来週は寝てたら起こしてやろっか?」

「家まで来るの?」


「あ、家知らない」

「来る? いつでも来て欲しい」


「いいの? 行く」

「はいはい」


 二人で毎日のように寄り道もしてる。

 俺がゲーセンに引っ張って行けば、マヒロは俺を本屋に連れ込んだ。

 最近の曲ってこんな早く楽譜になって本屋に並んでんだってビックリしたんだ。クラシック以外の楽譜は今まで音楽の先生がたまにコピーしてくれるか、家にある古いヤツしか知らなかった。

 普通のマンガが全部英語になっちゃってる物が存在するという事もマヒロが教えてくれた。本屋が少し楽しくなって学校が休みの日も一人で行ってる。


 だから、まだ明るい曇り空を見上げる。折りたたみ傘がリュックの底にあった気がする。降ってきても……。


「てかさ、雨降れば良くね?」

「練習になるってコト?」


「うん。そのためのプラスチック楽器じゃん」

「指スベリまくって話にならないと思う」


「その練習するんよ。なんか野球の試合って急に雨降る感じ?」

「それは甲子園のイメージじゃない? こっちと関西は気候が全然違うよ」


「あ、そうかも」

「カズキは鍵盤ハーモニカとかリコーダーだよね。カリンバでもいいけど。素直で扱いやすい楽器みたい」


「ホンットに恥ずかしいコト言うよね」

「照れてんの?」


「いやもうなんか聞いててウワーッてなる」

「なんなの」


 本当はちょっと嬉しい、マヒロのクサい台詞も髪をかきあげたりする仕草も全部。

 今までこんなタイプの人間は周りにいなかった。クラリネットをやってるってだけで同じクラスの奴らには色んな感想があって、ごく自然にハブられてた。男で楽器やってるとかオンナみたいだし、金持ちアピールなんだとさ。どういう偏見だよ、どういう田舎だよ。


 そして目指すベンチの側には自転車が止まってた。他のベンチも遠くまで転々とあるけど見える限り埋まってる。休んでるお年寄りや子供の横で管楽器をブッ放す訳にはいかない。


「あー、先客デス、ベンチ終了のお知らせデス」

「階段行こう」


「シャボン玉とか何年やってない?」

「先週やった」


「えええ」

「あの子ぐらいの妹がいるから」


「ああ、なんだ良かった。一人でシャボン玉やってんのかと思った」

「一人でもするよ。カズキはしないの?」


「うーん、なんか、まあ、しないかな? マヒロって今までさ、イジられたりとかさ、大丈夫だった?」

「よくされたし言われてた。いき……うん、大丈夫」


「そっか。てか妹いるんだ? 何となく一人っ子のイメージだったわ」

「カズキは? 何となくお兄ちゃんいる?」


「え、いる」

「やっぱり」


 前と後ろに子供を乗せるイスが付いてる自転車の横を過ぎながら。

 あのスーツのお母さんが子供達を乗せて来たんだろうな。仕事帰りに保育園か幼稚園に迎えに行って、ベンチで水筒飲ませて、川原でシャボン玉も飛ばさなきゃいけないのか。お母さんって大変だな。

 走り回る水色のスモックのお姉ちゃんとヨチヨチ歩く妹がサッと照らされて濃い影が伸びた。

 雲の細い切れ間から、もうすぐ夕方の太陽がスポットライトをくれてる。


「兄ちゃんは音大行ったんだ」

「スゴいね? 楽器で?」


「ピアノ。プロほど上手くなれないし素人よりは弾けるから先生にでもなるって」

「そういうフリじゃないの。音楽で生きていくって自分を信じなきゃ音大まで行けない」


「いや、本気みたい。音大出身ピアノ講師なら食いっぱぐれないんだって」

「……カズキと違って冷めてるんだ」


「俺だって冷めてる、熱くないよ。プロになれるとか思ってないけど……クラリネットならピアノよりマシかなって、スキマを攻める感じ?」

楽器コレがあれば普通より少し特別になれるよ。隙間なんかじゃない」


「……たまに難しいコト言うよね」

「言ってないよ」


「……あ、分かったかも。普通より特別ね、うん、確かに。あんがと」

「うん」


 二人で同時にジャリッと石の階段に座る。そのまま走って川の中までバシャりたかったけど、マヒロとなら水遊びでも良かったけど、制服の替えも家にあるけど、まあ真夏になるまで取っとくのもイイか。

 ケースを膝に置いて同時に開ける。何もかもが気持ちいい同時。俺はクラリネットを、マヒロはフルートを組み立てる。


 親子のシャボン玉が風に乗って一つずつ飛んで来る。川に消えたり空で割れたり、俺達の足元まで来たりするのも気持ちいい。

 買って貰ったばかりのプラスチックがまだアチコチ硬くて、苦戦しながら。


「なに弾く? マヒロがやりたいのでイイよ」

「『スペイン狂詩曲』は?」


「じゃあ『祭り』は?」

「いいよ。気持ち良いよね」


「知ってんのがスゲえ」

「好きなら覚えちゃうでしょ」


「まあね、うんうん、覚えちゃうよね」

「CDがウチにあったから」


「あ、家にもあるわ。なんか嬉しい」

「同じのかな。結構古いの、ヒゲの指揮者がジャケットで」


「うわ、同じかも」

「なんか嬉しいね」


 今までこんな話は家の中でしか、父さん母さん兄ちゃんにしか通じなかった。それが外で、学校で、吹奏楽部で、川原で、マヒロになら通じるんだ。これから満員電車で一時間かけて帰るし朝も早いけど、無理して受験して本当に良かったと思う。こんなに正しい居場所を感じてるの、初めてだ。

 雲に隠れた夕陽、薄いオレンジと灰色になった水辺の世界、マヒロと並んで。


「じゃあ、はい」

「合わせるから合わせてよ?」


「……本当にこの曲でいいの? これって練習になんの? 課題でも無いし応援用でも無くて」

「なるよ。運指うんしの練習」


「そっか」

「ホント素直。柴犬みたい」


「うっせ」

「はいどうぞ」


 はいどうぞ、か。余裕だな。『俺から始めさせてイイのか、ついて来れるのか?』とか言ってみたい。楽器は違ってもマヒロの方が上手いのは分かるから、ちょっとイジワルしたくなった。

 俺の好きなフレーズから弾こう。テンポも変えてやる。


 ……ジョギングのオバサンが振り向いたり、犬の散歩のオジイチャンが立ち止まったり、中学生ぐらいの女の子がバカみたいな声で笑って通り過ぎても、シャボン玉はたまにフワフワ飛んできてまらない。俺達の音もまない。


 こんなキレイな川原で何してんだろ?

 青春だっけ?

 まあこれが青春なら最高かな。


 ラヴェル繋がりで絶対に知ってるはずの『ボレロ』のフレーズを挟んでみる。マヒロも同じフレーズを主旋律に混ぜてきた。

 ……ああスゲえ、凄いよ、こんな世界があったなんて、こんな人がいたなんて、もっと早く知りたかった、教えて欲しかった、誰だよ隠してたの! なんかもうムカつくほど嬉しい。


 完全に『ボレロ』に切り変えると右にいるマヒロが肩を寄せてきた。肩の動きで、息継ぎで、黒い髪の揺れで、俺達は単純なフレーズを繰り返しながら混ざってる。

 完璧だ。今これを録音して売ったら百万枚は売れるぐらい完璧だ。


 俺はカッコいいと思ってキーまで真っ黒なクラリネットを選んだ。マヒロは白と薄紫色のフルートを選んでた。この色のバランスまで褒めたくなってきた。

 俺の黒い背景にマヒロの白と紫の花を咲かせるみたいな、こんなの絶対言わないけど、フルートとクラリネットって主役になったり脇役になったり、なんかもうホントに、どうしようもなくヤバい、こんなコト十年教えてくれてる音楽の先生とも出来ない。

 もしかしたら生まれて初めて幸せだと思ってるし、もしかしなくても初めて未来とか永遠って言葉に触ってる。


 手の甲に最初の雨粒、チラッとアイコンタクト。

 次で止めよう、マヒロの目がいいよとうなずいた。

 何もかも完璧なんだ、なんだよこの人、今までどこに居たんだよ、最高じゃないか。


「ウオーッ!」

「どういう事?」


「楽しかった!」

「うん、楽しかったね。それは楽しかった叫びなの?」


「うん!」

「本当にカズキは……あ、雨」


「差す?!」

「まだいい」


「うん! 降ってきた! よし、野球部のやろ、十曲いこう!」

「はいはい、楽譜順?」


「うん!」

「せーの」


 さっきの仕返しか? いきなり始めやがったし、サビから弾いて来やがった。喰らい付いてやる。


 ……少しだけ川の水が上がってきた。上流は本降りかも知れない。たまに落ちてくる雨粒が指先で跳ねて確かに滑りまくってるけど、もうそれどころじゃない。

 応援用のテンポの速い曲に、次々変わるメロディに、濡れても大丈夫な楽器を持ってるテンションに、ノッてるマヒロに、俺の技術なんて全く追い付けない。

 間違えまくって、二人で吹き出して、変な音出して、それでも十曲のサビをやりきった。

 もうマヒロはポケットから青いハンカチを出してる。拭きたいんだろ、濡れてなければ自分はこんなモンじゃないんだからなって感じか? もう一曲ぐらい付き合ってくれんのかな? いや何曲でもやりたいよ。


「ちょっとカズキサン、なんなの」

「ごめん! でもマヒロも間違えてたしー! いやマジでムリ、面白い、超楽しい!」


「ウワーッ!」

「え、なに?!」


「楽しかったら叫べばイイんでしょ?」

「え、うん、そうそう! え、マヒロってそういうキャラ?」


「知らないけど」

「ウケる」


「雨、結構降ってきちゃったね」

「差す? 駅まで入れてやるよ」


「もう少しいたい」

「いいね、何やる?」


「いたいよ」

「ん?」


 クシャッと握ったハンカチの右手が、俺の太ももを叩いた。なんか痛い。


「いたいよ、カズキは大丈夫?」

「……え?」


「動かないで、力抜いて。中でカッターの刃が折れたら大変だよ。取る時に痛いからね?」

「……なんで?」


「足なら何日か痛いだけだと思ったから。クラリネットに関係無いし」

「……え? 刺してる?」


「うん、カッター刺してる。抜くよ? 動かないでね?」

「……なんで?」


 ゆっくり体ごと倒れてきてたマヒロは、いつの間にか俺の太ももに頭を乗せてた。勝手に膝枕されてる。

 それは目の前で、マヒロの握ってるハンカチの真ん前に顔が置ける膝枕、そのハンカチの中で握ってるなら、一番近くでカッターが刺さってるのを見たい人がやる姿勢だなって思う。


 青いハンカチの手が持ち上がって離れた。

 くるまれてた細いカッターの刃、一枚分が赤くなってチラッと見える。筆箱に入ってたヤツじゃん。

 雷が光った。

 傘を差す……さす。『まだいい』……そっちの刺すだったのか。


「痛い?」

「まあ、そこそこ」


「怒ってる?」

「いや別に」


「縦に刺したから、ちゃんと筋とかに沿ってるはずだから、調べてきたから、神経とか筋肉は何ともないと思うよ」

「ありがと」


「あ、『思う』だけだからね? 後から後遺症とかあったらごめん。でもそうなっても大丈夫だから」

「うん」


「これでお揃いだよ」

「お揃い?」


「うん、もうカズキと同じトコ刺してる」

「痛くない?」


「そこそこ」

「なんで?」


 『もう少しいたい』……もう、少し痛い。自分を刺してたから痛かったのか。そっか、なるほど。

 ヘンに納得した。

 リュックやケースや草や地面に当たる雨がウルサくなってきたから二人で大声、こんな音量で話す内容じゃなさそうだけど仕方ない。


「約束。ユビキリは子供っぽすぎるでしょ。初めて喋った時から一生の友達になれる気がしたから」

「ああ、ちょっと分かるわソレ」


「だからずっと一緒にいようって約束。これなら忘れられないと思った」

「うん」


「いつか就職して結婚して家族が出来ても一緒にいて?」

「うん、いいよ」


「……ずっとフシギちゃんとか、フルートなんか女の子みたいとか、家が金持ちなの自慢してるとか、だったら金恵んでくれよ、とか色々言われてた」

「あ、一緒」


「やっぱり? 僕は生き辛かった。カズキも?」

「うん」


「だから出会ったのかな」

「そうかも」


 マヒロの頭で俺の傷は見えないけど、何されてるのかは大体分かる。

 腕だけ伸ばす。リュックから傘を探って出して開いて差す。また雷が鳴った。近い。クラリネットは自分のリュックに突っ込んで、楽器のケースを二つ、マヒロのリュックもギュッと寄せて傘の中に。


 もう一気に降ってきた。多分マヒロは俺の傷を舐めてる。そうじゃなかったら指で触ってんのかな。やっぱり頭で陰になって見えない。

 犬の散歩の人が遊歩道で黒い傘を揺らした。キレイな二度見ってヤツだな。


「いつもこんな感じの事してんの?」

「しないよ、カズキが初めて」


「その方がイイと思うよ」

「うん」


「彼女とか作ったコトあんの?」

「無いよ。カズキは?」


「無い」

「だと思った」


「え、ヒドくない?」

「彼女に気を遣ってるのとか、何ヶ月記念のプレゼント探したりとか、一緒に帰ってるのとか、ぜんっぜん全く一つも想像出来ないもん」


「どういう事?」

「そういうのして欲しくない。彼女とか作って欲しくない、今は」


「まあ予定も無いよね。みんな音楽とか美術で来てるし、なんか真面目じゃん? センパイはアレだけど一年はカレシがー、カノジョがーとか言ってるヒマ無いみたいな」

「うん」


「だから心配しなくても……え?!」

「なんなの」


「い、いや、雨、ヤバくない? だいじょぶ?」

「大丈夫だけど」


「う、うん」

「なんなの」


 これは、この状況は、もしかしてマヒロはどういう意味で、いや一生の友達って言ってたし、いやいやでもハッキリ女の子と付き合うなって、カノジョ作るなって言ってるよね?

 俺ら男の子オトコノコじゃん?

 どうすんの? コレどうなんの? いや、そんな事より先にケガを、男の子だけどマヒロの血がヤバい、お揃いだって、お揃いって何だよ、マヒロがヤバい、雨に濡れた制服から赤い水が出るってヤバいと思う。


「カズキ?」

「と、とりあえ、ほらアレじゃん? 帰る?」


「やだ」

「え?」


「カズキって人を見て喋れないよね。手とかアゴとか見てる」

「あ、うん……そうかな。いや、アゴじゃなくて首かな」


「そうなんだ。みんながイジリって呼んでるイジメとか無視とか、その辺のせい?」

「……まあ」


「だから先輩達からの印象も悪いんだよ」

「え、うん、なんかごめん」


「ずっとそうだったの?」

「まあ」


「僕の事は信じて」

「うん」


「絶対に裏切らないし絶対に離れないし絶対に悪口も言わないから」

「うん」


「だから僕を裏切らないで。僕から離れないで。他人に僕の悪口言う前に直接言って」

「うん。いや、そんな事しないよ」


「誰とも仲良くしないで。近寄ってくる人からは離れて。僕の知らない話をしないで。だから生まれてから覚えてる事、今すぐ全部教えて」

「え、うん、え? ちょっと待って?」


「待たない。卒業するまで絶対同じクラスにするから。大学もカズキが選んだ所に行く。就職もおな……」

「待って待って、俺勉強は無理、成績ずっと悪いから、大学はマズいでしょ、マヒロの方が絶対イイ学校行けるんだからさ、ご、ご両親だって、そんな理由じゃダメでしょ?」


「大丈夫だよ」

「……え?」


 俺の太ももに頭を乗せたまま、真っ直ぐ見上げられてた。

 何もかもがいっぱいいっぱいでマヒロが体勢を変えた事にも気付かなかった。フルートとハンカチとカッターを胸に、のんびり仰向あおむけでコッチ見てた。もう傘の中だけ別の空間だ。

 色白で細くてオデコ出てても気にしてない、慌てて前髪を直さない。あんまりテレビは見ないけど、マヒロは歌って踊ってキャーキャー言われててもおかしくない顔だと思う。間違いなくイケメンってヤツだ。

 だから余計に見れなくてムカついてた。モテそうなのにそれを上回る生き辛さって本当にあんのかよ、って今も一瞬だけ思っちゃったけど……あるかも。何となくだけどありそう、あるのかも知れない。

 マヒロなら息をしてるだけで折れそうだから。


「ねえ、僕なら怖くないでしょ? 僕なら顔を見て目を見て話せるでしょ? カズキは男の子が好きな人?」

「……は?!」


「違うの? じゃあ今まで普通に人間が苦手で僕を見れなかった、プラスまだ僕に慣れてなかっただけ? 近寄り過ぎた? 子供の頃に気持ち悪いって言われたから距離は気を付けてたんだけどカズキはそんな風に言わないと思って調子に乗っちゃった。慌てるのも目を合わせないのも小さい子供みたいで可愛いなって、僕でも守れそうだなって思った。ごめんね。でも嘘はかないで。僕は多分どっちでもいい人だからカズ……」

「いや! そうじゃない、いや、ちょっと待って」


「待つけど待たない。カズキの事が知りたい。だからまず僕の立ち位置を知りたい。僕は一生の友達? 初めての恋人? 優しい家族? どこに僕が居ればカズキは幸せ?」

「え、えっと、え? とも、え、家族って?」


「僕はカズキの為なら弟でも妹にもなる。お父さんだと思ってくれてもいい、お母さんでも。お兄さんにもお姉さんにもなる。カズキがなって欲しい人になるよ」

「……いや、マヒロはマヒロでしょ?」


「なんで?」

「いや、そのままで居てくれないとさ、なんつーか、今みたいなの出来ないじゃん?」


「刺したり?」

「いやいやいやソレじゃなくて」


「今ので? 今のデュエットで? そんなに、本当に、そんなに楽しいと思ってくれたの?」

「うん」


「あのね僕も楽しかった!」

「おう」


 ガバッと起き上がったマヒロのアチコチが傘にぶつかった。紺色の端っこから雨がザッと落ちる。

 なんかもう傘の意味も無いし、多分マヒロの頭の重みで止まってた血が流れ出した。一気に太ももが生温なまぬるくなってる。


「初めてだよ、あんなに、あんな自由に吹けたの、カズキが初めて! だってみんなバカみたいに下手クソだし、まず曲を知らない、作曲家の名前も曲名も生きた時代も知らない雑魚ザコばっかりだったんだ! それがカズキは、カズキなら知ってる、話してたら分かる、本屋で見てる楽譜で分かった、もう次からは狂詩曲って言えば誰の何なのか伝わる、協奏曲って言ったら『左手』じゃなくて『ト長調』の方でしょ? 僕がピアノ弾くよ、それってすっごく気持ちいいよね!」

「はい」


「カズキは僕にちょうど良いんだよ! 僕もカズキにちょうど良い! 最高じゃない?!」

「うん、まあ、それは激しく同意する」


「それ?」

「うん……人を下手とか雑魚とか言っちゃダメだ。そこは同意出来ない。少しでも弾けたり歌えたりするのは、その人が少しでも練習した事があるからだよ。ちょびっと少しの練習でもバカにしちゃダメだ。と、思う」


「……そうだね、ごめん。嫌いになった? 性格悪いよね、おかしいよね、自分でも何言ってるのか分からない時がある、変だよね、イヤになってない?」

「なんねーよ」


「好き?」

「すっ」


「好き?」

「き、かどうかは」


「本当はカズキが自己紹介の時にラヴェルが好きって言ってたから、家にあるの聞きまくって僕も好きになった」

「ああそっか。それは、うん、それでもちゃんと嬉しいから」


「離れない?」

「それは、うん」


 キライって言ったら噛み付かれたのかな?

 スキって言ったら顔とか舐められんのかな?

 どっちが正解か、正解がある事なのかどうかも分からない。てか刺されてるし。でも刺されても俺は怒ってないし別にいいやぐらい思ってる……のか? いや、なんで怒れないんだろ? なんかもう何もかもマヒロが正しい気もしてきた。

 さっき俺のコト犬とか言ったくせにマヒロの方がずっと犬っぽいよ。今なら噛まれても舐められても刺されてもシッポ生えてブンブンしてても驚かない。撫でよう。


「よしよし」

「……どういう意味?」


「分かんないけど犬的な?」

「柴犬みたいって言ったの怒ってる?」


「怒ってない。まずそういう所を何とかしようか」

「そういう所って何? ダメな所ある? そんなにある? 何とかしなきゃいけない所ある? 言ってよ?」


「重症だな」

「重症?! 何が?! どうすればいいの?!」


「まず、まずは……なんだろな?」

「なんなの?!」


「とりあえず落ち着け」

「……はい」


「よしよしよしよし」

「……ありがとう」


 なんだこれ? なんか間違えたか?

 まあいいか。何から何を何してどうしよう?

 楽器は無事。リュックは死んでる、教科書もノートも終わってそうな雨風だし。コンパクトな折りたたみ傘で超密着中。血。楽器ケースも中がヤバそう。もう制服は救いようが無い、パンツまで濡れてんだから諦めよう。


 まず血かな。マヒロに傘を渡して立たせる。


「ちょっとベルト取って」

「……は? なに? なんで? こんな所で? 要らない、何もしなくていいから、いやだ、ダメ」


「はい早く」

「いやそれはダメ、イヤ、無理」


「じゃあ脱がしていい?」

「ダメ!」


「こんな降ってるし誰も来ないよ、いたら見せてやろ」

「それは捕まるから、いや本当に無理、本当にダメなんだって……」


「いいから、ちゃんと一緒に捕まるから」

「……引かない?」


「うん、引かないよ。なんで? パンツからハミ出すぐらいデカイとか?」

「もう約束してるんだからね、約束破ったら約束し直すからね、急にイヤにならないでよ、やっぱ友達無しとか、ねえ聞いて、ねえ?!」


「はいはい、傘ちゃんと持って? 俺が濡れちゃうよ?」

「あ、ごめん! いや違うもう濡れてるじゃん……ああもう……」


「イヤとか嫌いにはならないってば、大丈夫だって……あー、なるほど、うーん……よし」

「そんな近くで見なくていいじゃん、そんなちか……え? 汚れちゃうって、血は洗っても落ちないかもよ?」


「別に気にしない、ハンカチぐらいあげるよ。もう少し足開いて、手が入んない。てかさ、男用のパンツってなんでチェックとかシマシマなんだろな? アレなんかイヤでさ、俺も今日は無地だわ」

「……ハートとかレースとかが好きなの?」


「どうしてそうなる、絶対違うから、そうじゃないから。でももっと色々あっても良くね? 動物柄とかさ、女用より布も広いから景色とか名画柄とかさ」

「……紐みたいなのなら持ってる」


「なんで?!」

「……母親が買ってきて父親に穿かされる」


「楽しい一家?」

「地獄だよ」


「それって」

「妹がやられるぐらいなら僕でいいんだよ」


 俺のハンカチでマヒロの太ももをギュッと縛った。ケガの手当てなんてした事ないけど、大体こういう感じにすれば剣で斬られたり魔法でブッ飛ばされた奴でも血が止まるからコレでイイだろ。他に思い付かないし。

 マヒロの足もハンカチが届くぐらい細くて助かった。ちょっと細過ぎる気もする。

 リュックのポケットを探って、こんな事もあろうかと入れてた安全ピンを結び目に刺す。ほどけないように、でもこれで家まで持つかは分からない。

 ……俺より深く刺した傷に見えた。白っぽいハンカチにはすぐ血がにじんだけど何もしないよりはマシだと思う。

 ポケットの中から刺したみたいで見える所は破れてないし、ズボンを上げてしまえば目立たないと思う。

 簡単にカッター振り回せるマヒロだから自分でやったのかと思ったけど違う。地獄なら違う。他のケガに紛れないように深く刺したんだ。マヒロを何とかしなきゃいけないと思う。

 なんであんなにアザだらけなんだよ。なんであんな所に歯形があるんだよ。


「じゃあカズキのは僕がやってあげる」

「いいよ、自分で……うん、じゃあ縛って」


あとになるかな?」

「薬とかで治さなければ残りそうじゃね?」


「良かった」

「まあ次は予告してよ? 刺すよーとか、切るよー、みたいに」


「次? 次の約束の時?」

「うん。待ち合わせとかするならさ、何時ねって約束を忘れないように刺しとこ、みたいな時とか」


「なにそれ、そんな事しないよ」

「え、そうなの?」


「なんなの」

「なんなの」


 マヒロが言いそうな言葉、揃えて言ってやった。俺の太ももに思いっきりキツくハンカチを結んでくれながら、ひざまずく体勢からガバッと顔を上げた気配がした。手が止まってる。


「……カズキってさ?」

「なに?」


「よく分かんない」

「マヒロが言うな」


「携帯持ってる?」

「持ってるけど持って来てない」


「一緒だ」

「だと思った」


「睡眠薬飲んでる?」

「ごめん飲んだ事ない、それは予想外だわ」


「飲まなきゃダメな時があって、昨日飲んじゃったから『花札神獣怪忌憚』観れなかった。ごめん」

「そっか、お疲れ」


「僕の足、気持ち悪いよね。何も言わないの?」

「体操服になっても見えないぐらいに調整されてんのは超気持ち悪いと思った。マヒロは悪くないじゃん」


「車持ってる?」

「マジで?」


「妹と僕の世話をする人がいる。迎えに来てもらおう」

「マジで?!」


「出来たよ」

「ああ、うん、ありがと」


 半ケツになってたズボン上げてベルト締めて、縛ってくれたマヒロの青いハンカチを隠す。出ちゃった血は隠さなくていいや、もういいや。

 二人で荷物持って、慣れない相合い傘で、結構ちゃんとズキッと来る足で、ゆっくり歩きながら駅前の公衆電話を目指す。

 世話してくれる人って執事とかシッターとかそういう人か? マヒロの家って何なんだ? 誰々の御子息様ごしそくさまとか呼ばれちゃうタイプの家だったらヤバくね?

 約束のため、しかも一般人の俺なんかのため、そんな理由で自分を刺したんならソレって間接的にでも俺がケガさせちゃったって事にならね?


 ……いや、違うな。そんな事は多分問題じゃない、そこじゃない。大丈夫だ。


「あー、えっと、ありがとう」

「なんなの」


「俺さ、十五年分のお年玉あってさ、自由に使えるの二十万ぐらいあるの。だからちょっと話があるんだけどさ?」

「うん」


「俺が一人暮らししたらさ、マヒロは俺の部屋に入り浸ったりする?」

「する」


「妹ちゃん連れて入り浸らない? 三人で、三人とそのお世話してくれる何々ナニナニさんと四人になるのか、うん、住む?」

「……は?」


「その車出してくれる人は良い人?」

「……うん」


「じゃあ別に帰らなくてもイイじゃん。妹ちゃん心配だろ? 俺も心配。だから、えっと具体的には、俺達が学校行ってる間は妹ちゃん幼稚園とかでしょ? 部活終わる頃に連れて帰って来てもらって、夜は四人じゃん? 朝は幼稚園送ってもらったり俺達が送ってあげたりしてから学校ね。休みの日は特に何もなくて、でも大人が一人いれば何とかなるよ。後は……なんか変? おかしい? 泣くなよ」

「……うん、変……おかしい」


「そっか、じゃあ却下か」

「……なんで、そんなに?」


「なんでって……だって痛いじゃん、そんなトコ噛まれたら。薬だって体に良く無さそうだしさ、だったら逃げようよ」

「……逃げる……逃げる?」


「うん。あ、二択ね? 四人で住むか、俺が二人殺すか。どっちがイイ?」

「……二人で二人殺して四人で住むのは?」


「……えっと? 二人で? ……あ、分かった、いやいやソレはダメ。俺達でマヒロの両親殺したら妹ちゃんが一人になる。少年法みたいのあるんだから殺すなら俺一人で大丈夫。マヒロと妹ちゃんと車の人で暮らしてよ」

「カズキは?」


「刑務所入ってくる。ちょっと待ってて」

「嫌だ!」


「じゃあ四人で住む」

「うん……え?」


「うんって言ったな? はい決定」

「え?!」


「てかさ、マヒロって電車乗る必要なくね?」

「え?」


「ちょっと迎えに来てって言ったら車が来るんでしょ? じゃあ学校行くのに電車いらなくね?」

「……うん、要らない。カズキと帰りたいと思ったから電車乗ってる。電車降りたら駅に迎えに来てくれてる」


「ああ、なるほど」

「……気持ち悪い?」


「全然? 嬉しいよ。俺だって小学校とかもっと小さい頃は誰かと遊んでたよ、でもちゃんとした友達じゃなかった。ボール蹴ったり走ったりじゃなくて……うん、話が出来る友達、初めてだから嬉しい。家に来いとかも初めてだったんだけどな。一緒に帰りたいって思ってくれんのは気持ち悪くないよ」

「……うん」


 身長は同じぐらいだから俺は横を向くだけでいい。マヒロがずっと俺を見てるのは気配で分かってる。普通に危ないから前見て欲しいんだけど、俺を見てる。何回水たまりに足突っ込んでんだよ、ウケる。


 一気に夜が近寄ってきた。たまに雷の光が濡れた道に反射するけど音はもう聞こえない。

 このまま帰したらこの雨の夜にマヒロは何をされるんだろう。毎日じゃないかも知れないけど今夜かも知れない。

 俺にとっては超スゴい放課後だったのに、帰ったらもう風呂入って飯食って寝る前にさっきの思い出してニヤニヤするだけなのに、こんなスゴい日の夜なのにマヒロだけけがされるのはおかしい。


 マヒロは出会って一ヶ月の俺を刺した。

 俺は出会って一ヶ月でマヒロの両親を殺せる。

 勝ち負けじゃないけど間違いなく俺の方が気持ち悪いしヤバい奴だ。顔も知らないマヒロの親を刺すか絞めるか、刺して絞めて埋めようとか思ってる。

 二十万じゃ何も出来ない、父さんも母さんも絶対に反対する、兄ちゃんにケツ蹴られるかも、子供の世話なんてした事ない、ご飯も掃除も洗濯も買い物も分からない、車に乗って来る人の名前も性別も知らない、何もかも甘い、分かってる、分からない、だから俺は殺せる。


「なんちゅう顔してんの」

「……カズ、カズキ、だって!」


「そう?」

「え? あ、その……そ、そのまま」


「はい?」

「少しだけ、そのままで」


「なんで?」

「……」


「いいよ」

「うん」


 外灯と外灯の間で向かい合う。ホント、何もかも綺麗なヤツって存在してんだな。ズルいわ。

 こんなに立ち止まってたらいつまでも電話は出来ないし、車は来ないし、血も止まらないし雨も止まないのに。



  おわり。

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駅まで二十分、寄り道は一時間半、そして家には帰らない。 もと @motoguru_maya

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