ペペ太郎はがんばるぞぉ

村田レオ

第1話

 「おかしい。」

 「どうして、届かない?」

 夜の10時過ぎ、透明の衣装ケースで作られたハムスター専用のゲージの中で、底からゲージの淵を見上げながら、おいらは考えた。

 「おいらの背が縮んだのか?」

 「いや、そんなはずはあるまい。」

 もう二百回はチャレンジした。

 ゲージの中に設置された木製の小さなハムスター小家の屋根からゲージの淵へのジャンプを。

 昨日はうまくいったのだ。昨日と何が違うのか……。

 おいらは昨日を思い出してみた。


 昨日、おいらが眠りから覚めたのは、昼下がりだった。おいらの住んでいるゲージは、この家の居間の隅に置かれている。この家の細君は、おいらが起きたのを見て「ぺぺ」と言って満面の笑みでゲージに近づいてきた。細君は、おいらの頭を撫でると「ウフフ」と嬉しそうな顔をした。細君がおいらを可愛がってくれることはありがたいことであるが、常に細君に見張られてるように感じ、時折、息苦しさのようなものを感じさせる。

 やがて、この家の主人が帰ってきた。この家の主人は、いつもはおいらに無関心でおいらの存在を忘れているかのように思われるのだが、時折、おいらの存在をついに思い出したかのような体でゲージにのしのしと近づいて来る。そんな時は、執拗においらの身体に触り、おいらは逃げまわるが捕まえられ、手前勝手に弄ばれるのだ。主人は、いたっておいらを可愛がってるつもりであるからさらに質が悪い。


 この家ではだいたい夜の10時を過ぎるとこの家の主人、細君の順に寝静まる習慣になっている。この家の者たちが寝静まった頃、おいらはハムスター小屋の屋根に上り、ゲージの外の景色を眺めた。湿気の多い夏の夜、この家の主人の轟音とも言うべきイビキがあたりに響いていた。ハムスターは夜行性である。夜行性であるがおいらはこのイビキは不快であった。

 薄暗い中であったが、居間の窓からは月明りが漏れ、居間の様子がうかがえた。昼間に見たときとは違った未知の世界が奥深く広がっていた。居間にある机や椅子や家具の側面が、月明りを反射し、魅惑的な光を放っていた。おいらは、しばらく我を忘れ、それに見入った。

 おいらは、我に返ると当然のように不安を感じた。

 「ゲージの外に出たらもう戻れない。」

 それは確かなことであった。そう、もう戻れない。それがおいらにとって何を意味するのか?ゲージの外に出たい衝動が喚き、それを深く考えさせてくれなかった。

 それに、あのおいらを可愛がってくれてる細君はいったいどんな顔をするだろう?

 それは、不安とも恐怖とも思われる感情を起こさせ、締め付けられそうであった。

 夜の居間は静かで、この家の主人のイビキだけが時の経過を雑に刻んだ。

 おいらは少し視線を逸らして、次に、居間の景色を見たとき、おいらの心はゲージの外へと向かった。おいらは、淵に飛び乗り、そのまま、ゲージの下へダイブした。「バタッ」いかにもハムスターがゲージの淵から落ちたといった音がした。

 夏だと言うのに居間の床は冷たかった。おいらはあたりを見まわした。さっきまで輝いてみえた机や椅子や家具は薄暗く、あたりは闇を深くしていた。どこに出たのか、どこに向かえばいいのか、おいらは動けなくなった。ただ、この家の主人のイビキだけが、おいらを安心させるものだった。

 やがて、夜が明け、この家の者たちが起きた。ゲージに戻されたおいらは、深い深い眠りについた。以上がおいらが記憶している昨日の出来事である。


 おいらは、もう1度、ハムスター小屋の屋根へ上り、ゲージの淵へのジャンプを試みようとした。

 ふと寝室から細君と主人の声が聞こえてきた。

 「ねぇ、ぺぺ太郎、また脱走しないかしら。」

 「大丈夫だよ。ゲージの淵から少し、ハムスター小屋を離しといたから。」


 

 






 






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ペペ太郎はがんばるぞぉ 村田レオ @ts5000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る