第39話 エピローグ 江津レイクタウン
その夜、私と真子さんはお布団に入ったまま、遅くまで話し込んでいた。少しだけワインを飲んだせいで、真子さんの顔は赤くなっている。
「くまモン、ひとつ頂戴」
真子さんが言う。
「はい、どうぞ」
私は、近くにあった小さなくまモンを一匹引っ掴み、真子さんに手渡した。
「ありがとう」
真子さんはぬいぐるみを受け取って、嬉しそうに抱きしめる。
そうして、私達は暫し、見つめ合った。
「どうしたの。黙り込んで……」
真子さんが、不安な顔をする。
無理もない。私は相当、張り詰めた顔をしているだろうから。
「ねえ真子さん、一つ聞きたいんだけど」
「うん」
「あのね、真子さんは、どうしてすぐに東京に戻らずに、何日も熊本に止まったと?」
この問いかけの答えを、私は知っている。真子さんは、恋人の形見の本を探していたのだ。でも、聞かないわけにはいかなかった。
「ちょっとね、探し物をしていたの。でも、もう良いの」
真子さんは、そう言って微笑を浮かべる。微笑んだ時の方が淋し気な、あの微笑を。
「そう。本当にもう良いの? 探し物は見つからなかったんでしょ」
「うん。だけど……」
「だけど?」
「探し物は見つからなかったけど、私は空っぽって訳じゃなかった」
その言葉を聞いて、私はやっと腑に落ちた。真子さんが探していた本は、真子さんを傷つける物ではなかった。
月の花は、真子さんが、
そして真子さんは、もう、その本に依存している訳ではない。本を見つける事が出来なかったのに、自ら帰る決断をしたのだ。
お陰で、私の心は決まった。
「他に、欲しい物は?」
ポツリと、真子さんに問う。
「沢山貰ったから、もう、十分よ」
「ううん。まだ、足りない。真子さんには、なんでもあげたくなるとよね」
「ふうん。じゃあ、何をくれるのかしら?」
真子さんはおどけて言う。
「真子さん」
私は真剣に言う。すると、真子さんも真剣な顔になる。
「真子さんは、本を探していたとよね?」
「……ええ。どうして解ったの?」
真子さん顔に、驚きが浮かぶ。
私は布団を出て、机の引き出しを開ける。そして一冊の本を取り出した。
「あげる。この前、見つけたと。泥で汚れていたから、もう少し綺麗にしたかったんだけど。私、あまり器用じゃないけん」
私は真子さんに、月の花を手渡した。
真子さんは、血相を変えて本に飛びついた。そして頁を開き、汚れ具合を確認する。本にはやはり、薄茶色の染みが滲んでいる。私は本を綺麗にしたくて、ハンカチや脱脂綿で拭いてみたのだが、染み付いた泥は手強かった。完全に、綺麗にする事は出来なかったのだ。
「これは汚れじゃないわ。もう、大切な思い出よ」
そう言って、真子さんは、月の花をひしと抱きしめる。
沈黙がある。
真子さんの息遣いに、震えが混じる。やがて肩が震え出し、涙が溢れる。真子さんは美しい顔を歪ませて、嗚咽した。
「私は、貴女に何をあげたらいいの?」
「ううん。なんにもいらないよ。もう、真子さんからは沢山貰ったもん」
私も、目に涙が滲む。
本心だった。真子さんは、私にたくさんの物をくれた。真子さんはもっと、その事に自信を持って良いのだ。
★
別れの朝が来た。
「じゃあね、真子さん」
「うん。
定義は、玄関で真子さんと別れの言葉を交わし、握手する。
その手が離れた直後、定義は背を向ける。
肩が、微かに震えていた。
「さよなら」
涙混じりの声が、真子さんを送る。
私はそっと、玄関の扉を閉じた。
昼前、私は真子さんを軽自動車に乗せて、家を出た。
道中、私達はずっと黙っていた。上手く言葉が出ない。昨夜は、あんなにお喋りしたのに。妙に、空気が重い。
熊本空港まで、何を話そう……。
私は、言葉の出ない自分に苛立ちを感じていた。真子さんも、少し張り詰めたような、なんともいえぬ表情をしている。
「停めて」
さいとう橋の上を通りかかった時、真子さんが口を開いた。
私達は、江津湖に寄り道をした。
訪れたのは、さいとう橋の下の広場。そこは、私と真子さんが出会った場所だった。こんな時なのに、空はどんよりと曇っている。
水辺に行くと、真子さんは、私が土産に持たせた竹刀を取り出した。
「最後に、地稽古に付き合ってくれる?」
真子さんは不敵に言う。
「いいよ。どれぐらい上達したか見せてみなっせ」
私も竹刀を取り出して、静かに真子さんと向かい合う。
土と、草の香りが心地よい。私は思い切り空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
すると、急に、雨が降り始めた。もう、梅雨が始まっているのだ。
「どうする。やめる?」
私は言う。
「ううん。これでいいの」
真子さんは、雨空を見上げて言う。
私達は、互いに礼を交わす。そして静かに
雨は激しさを増し、湖は鉛色に変わる。幾分、風も強い。そんな中でも真子さんの眼差しは真っ直ぐに、私を捉えている。
ねえ、真子さん、私は真子さんの絶望の前に無力だったのかな。それとも……。
問いかけは、言葉に出来なかった。
「人間、一番楽しいのは結局、道を行く事なのよ」
私は、竹刀を正眼に構える。
「行くよ」
真子さんも、上段の構えを作る。
静かな緊張が、そこにはあった。
私達は、じわじわと互いに距離を詰め、機先を探り合う。
「えい!」
真子さんが、打ち込んで来た。私は迎え撃ち、踏み込む。真子さんの踏み込みも深い。ガツリとぶつかり合い、
「やっ!」
私達は、鍔迫り合いから牽制し合い、再び間合いを取った。
雨が目に入り、視界が滲む。何やら、目元が熱い気がする。真子さんは、額に張り付いた髪をかき上げる。
睨み合いの中で、私は今という時を悟る。もう、私達に言葉はいらない。呼吸の一つ一つに、間合いや構え、目の置き所に、多くのメッセージがある。
ああ、これで本当に……。
友愛、矜持、寂しさ、不安、勇気、あらゆる感情が強く込み上げる。私は、ないまぜになった感情を、思い切り解き放つ。
「やあああああ!」
全身全霊で、気合の声を張り上げる。それは、サヨナラに似ていた。
真子さんの目にも、光る物が滲む。その肩が上がり、大きく息を吸い込む。
呼応して、真子さんも声を張り上げる。
「負けるかあああああ!」
心地の良い声が、六月の曇天を貫いていった。
おしまい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます