第37話 東城里子は逃げ惑う!





 それは、背筋が寒くなりそうな光景だった。

 大型犬、中型犬、小型犬。数は二○匹を超えている。犬達は、牙を剥き出して屋根に激しく吠え掛かっている。

 屋根の上にはひとみ真子まこさんと定義さだよしが居て、身動きが取れずにいる。

 真子さんだけは、既に私に気がついていた。彼女は手を交差させて、こちらにそっと、バッテンのサインを送る。


(来てはダメよ)


 そういう事だろう。


 突然、小屋の扉が開いた。同時に、扉から素早く手が伸びて、一匹の犬を室内に引きずり込む。そして扉は閉じられた。

 一瞬の出来事だった。

 犬を引きずり込んだ手は、泰十郎の腕だった。まるで、ホラー映画みたいだ。

 だんだん、状況が見えてきた。

 多分、何かの拍子で犬が真子さん一行に襲い掛かって来たのだ。泰十郎は仕方なく、踏み台になって仲間を屋根に逃がした。そして自分は小屋に籠城。そのまま小屋に一匹づつ犬を引きずり込んで無力化し、減らしていく作戦なのだろう。引きずり込まれた犬が、あのクレイジー野郎から何をされているかは、考えたくもなかった。


 気分の良い光景では無いが、泰十郎の判断は正しいように思われた。屋根の上では瞳が調子に乗って、犬を挑発しまくっている。その効果は絶大で、犬達はカンカンになって屋根に吠えまくっている。つまり、小屋の扉のすぐそばまで誘き寄せられている格好だ。そして、扉に近い犬は泰十郎が一匹ずつ、小屋の中へと引きずり込んでゆく……。

 時間はかかるけど、このまま待っていれば、泰十郎が犬の大半を無力化してくれるだろう。私は邪魔をしないように、隠れて様子を窺がっているのが一番ではなかろうか?

 そう、結論したのに……。


「ば、馬鹿。来ちゃだめよ。早く逃げなさい」


 瞳が、私に気付いて屋根から叫んだ。

 そのせいで、犬達の視線が一斉にこちらへと集まる。

 気付かれた。


「わ、わあああああ!」


 私と、私が捕まえた男は、同時に悲鳴を上げる。犬達はもう、私に向かって走り出していた。


「馬鹿、馬鹿。瞳の馬鹿!」

 私は全力で駆けだした。


 犬から逃げ回りながら小屋をぐるりと一周。今度は、獣道を駆け下りる。確か、登山口には軽トラックがある。それに逃げ込めば、なんとかなる筈だ。

 だが……。

 犬達はやたらと足が速い。到底、逃げ切れるとは思えない。かといって諦めれば、即、ズタズタだ。背後から、おぞましいまでの犬の鳴き声、唸り声が追い縋る!

 私と痩せ男は、涙目で、パニックになりながら走る事しか出来なかった。

 目の前に、くねった道が現れる。そこを曲がって坂を下り切った先に、軽トラックがある。間に合うのか? 間に合わない。犬はもう、私のお尻に食らいつく寸前だ。


「あっ」


 痩せ男が、足を滑らせて転倒する。すかさず、犬が群がって噛み付いた。


「く……」

 私は竹刀を抜き、振り返る。なんとか男を助け……られない!

 駄目だ。いくらなんでも数が多すぎる。

 犬の群れの半分は、もう、痩せ男を飛び越えて私の目前に迫っている。

 


「ご、ごめん!」


 私は一目散に逃げ出した。

 ぐっと、足に重みを感じる。ついに、犬が噛み付いたのだ。ビニールテープを巻き付けておいたので、幸い牙は貫通していないが、重い。


「う。わあ、離せえ!」


 怖くて呂律が回らない。

 それでも、私は全力で道を曲がった。

 その時だった。

 目の前に、濃紺色の服を着た男達が現れた。私は驚いて、前方へとつんのめる。男の一人が、倒れ込みそうな私を抱き止めた。


「おっと、大丈夫かな?」


 それは、熊本東警察署の警察官だった。

 他の警官が、私の足に噛み付いている犬に飛びかかり、取り押さえる。更に、他の警官達が、網やさすまたを手に、犬の群れに突撃してゆく。


「ねえ、君」

 私を抱き止めた警察官が言う。


「……はい」

「俺達を薄情だと言ったお嬢さんは、何処に居るのかな?」


 警察官に言われ、私は、山の中腹を指さした。


「この先です。小屋の所。お願い、皆を助けて!」

 私は思わず、涙を浮かべて叫ぶ。


「仕方が無いなあ! 聞いたか皆」

 警察官は言う。すると、仲間の警官達は一斉に、

「応!」

 と、声を上げる。彼らはさすまたや網を振り上げ、山へと突撃していった。


 ★


 警官隊が来てくれた事により、状況は一変した。

 私達は、日が暮れるまで、泥だらけになって山を駆け回った。犬を餌でおびき出し、抱きかかえ、時には網で捕まえ、襲い掛かって来た大型犬は竹刀で怯ませ、さすまたで捕らえる。


「そういえば、泰十郎の弟子達は?」

 私は、網を振り回しながら泰十郎に問う。


「あいつらは、別の戦いばしよる」

 泰十郎はぶっきらぼうに答える。


 真子さんは小型犬に囲まれている。犬達は尻尾を振り、真子さんにじゃれついている。定義はドッグフードの袋を抱えて真子さんのお供をしている。

 瞳は、先輩警官にどやされながら、網を手に走り回っている。


 やがて、警察車両の中は犬だらけになり、私達は傷だらけになった。


 ★


 その日、私達が保護した犬は、全部で二四匹だった。犬を捨てに来た二人組も逮捕され、軽トラックに残されていた証拠も押さえられた。


 私達は、犬捕獲作戦を終えた。

 私と真子さんは山を降り、犬だらけの警察車両の前で手を取り合い、抱きしめ合う。


「やったね。ね、やったね……」


 私と真子さんは、互いに繰り返し、声を上げて泣いた。

 私達は、やり遂げた。そう、やり遂げたのだ。




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