第36話 東城里子は対峙する






 痩せ男には、まるで威圧感がなかった。それは、二つの可能性を示している。


 一つは、本当に、大した気迫を持たぬ未熟な相手である。と、いう事。

 もう一つは、一線を超えた恐るべき実力の持ち主である。と、いう事。


 残念ながら、先程の素振りから察するに、後者である可能性が高い。力の抜けた立ち方や、ぼやっとした目の置き所にも、達人みたいな独特の雰囲気がある。だとしたら、簡単に勝てる相手ではない。決して、油断は許されない。


 すっと、男が上段に構える。とても綺麗な立ち姿だった。格上の使い手に共通する、独特の雰囲気もある。まるで勝てる気がしない。普通に戦えば、だが。

 私は深く腰を落とし、全身の力を抜く。そして静かに下段の構えを作った。


「一度だけ言うけんね。大人しく、降参しなさい」


 私の言葉に、男は答えなかった。

 どうやら、話し合う気はないらしい。


 私たちは睨み合い、互いの機を探り合う。やはり、この状況でも、痩せ男からは無駄な気当たりが発せられていない。

 かなりの使い手だ。

 この時、私の頭にあったのは、とある切り札の記憶だった。


 私と泰十郎たいじゅうろうには、共通の友人がいる。友人の名前は桑本くわもとはるという。はるも、泰十郎と同じで空手を使う。

 私は昔、春からも、とある技法を教わった事がある。


 まず、皮膚感覚が増大し、それが周囲に広がる事をイメージする。それは手が届く範囲に設定する。設定したら、その範囲に感覚を研ぎ澄ます。そこに侵入した攻撃は、何としても叩き落すか、回避する。

 そういった概念を、空手では、制空圏せいくうけんを張る。と、いうらしい。この技術は剣術的理解では、心法しんぽうに分類される。だが、春の制空圏は、他の空手家のそれよりも小さかった。春が、泰十郎のような、格上の化け物を相手にする機会が多かったからだ。


「達人と戦うなら、攻撃はギリギリまで引きつけないと駄目だよ。達人は、カウンターにすら反応するからね」


 春はそう言って、彼なりの特異な制空圏の要訣ようけつを教えてくれた。

 小さくて、その分強固な制空圏。ギリギリまで攻撃を引きつけて、本当に命中する瞬間にだけ対処する。牽制けんせいや詐術、機の読み合いに付き合わない、対、達人用の戦法。

 その名を、機戒きかい制空圏せいくうけんという。


 私は、静かに制空圏を張り、視界をぼんやりとしたもので満たす。皮膚感覚に集中すると、空気の流れさえも感じられる気がした。攻撃への対処範囲を狭め、自身の身体から二十センチ程に設定する。ここに侵入した攻撃にだけ、電撃的に対処するのだ。そして、対処は足捌きによる回避であり、回避は深い踏み込みを意味する。


 すっと、男が半歩踏み込んだ。

 突然、素早く剣先が降り降ろされる。が、それは、私の頭部に到達する前に引っ込んだ。

 牽制だ。

 私は、何の反応も示さなかった。制空圏に攻撃が侵入していないからだ。

 すると、急に男の雰囲気が変わった。私が何をしているのか、気が付いたらしい。やがて、その男も体の力を抜き、上段の構えを更に振り上げる。弧を張ったのだ。


 一撃で、全てが決まる。


 男に迷いはなかった。

 滑らかに、男が摺り足で距離を詰める。同時に、兆しの無い打ち下ろしが放たれる。いつ、攻撃に移行したのか察せられぬ程、見事な一閃だ。それはどんどん加速して、私の頭部へと迫る。

 攻撃は、近くに引き付ける程、対処が難しくなる。体裁きでかわすなら尚更。それを可能とするのは泰十郎の引き寄せの技法だ。私は持っている。私なら、出来る。

 もう少し、もう少し、もう少し……。

 ここだ!

 ぎりぎりまで引き寄せた打ち込みを、引き寄せの技法を使ってかわす。その流れで踏み込み、渾身の抜き胴を打ち込む。


 ドシリと、確かな手応えがある。


「があああ!」

 男がうめき声を上げ、倒れ込む。

「動くな!」

 私は男の喉元に、竹刀の切っ先を突きつけた。


 もう、男は抵抗しなかった。どうやら、肋骨を損傷したらしい。当たる瞬間にぐっと脇を締め、筋骨チンクチをかけたからだと思う。泰十郎から学んでおいて良かった。


 私は、男をうつ伏せにして、手を後ろに組ませてロープで縛り付けた。逮捕完了だ。

 ピリッと、耳の先端が痛んだ。指先で触れると、軽く出血している。どうやら、先程、痩せ男の攻撃が耳を掠めていたらしい。


 ★


 男を連れて山を降り始めると、突然、山の中腹から、けたたましい犬の鳴き声が聞こえてきた。一匹や、二匹じゃない。

 嫌な予感が過った。鳴き声は、山の中腹の小屋がある辺りから聞こえている。定義や、真子さんは無事だろうか?

 知らず、歩調が速くなる。


「もう少し早く歩きなっせ」


 私は、痩せ男の背中を竹刀でツンツン小突き、小屋へと急ぐ。山道を進むにつれ、犬の鳴き声はどんどん大きくなってくる。確実に、何か良くない事が起こっている……。


 やがて、私達は山の中腹に辿り着き、木陰から小屋の様子を伺った。

 嫌な予感は的中。小屋は、沢山の犬にとり囲まれていた。




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