第32話 犬捕獲作戦
ぐっと、緊張を押し込める。
犬と真子さんは、ずっと黙って見つめ合っている。
やがて真子さんは、そっと地面に片膝を衝き、ドッグフードをバラまいた。その様子に、他の犬達も気がついて、こちらに顔を向ける。
「おいで。怖くないよ。ほら、こっちだよ。美味しいよ」
真子さんは、穏やかに声をかける。だが、犬達は歩み寄らない。そこで、真子さんはじわりと下がり、距離を取る。すると一匹の犬が、恐る恐る、ドッグフードに近づいて来た。
「いいよ。食べて」
真子さんは囁くように言う。
犬は、暫く迷ってはいたが、やがて我慢しきれず、ドッグフードを食べ始めた。
一匹が食べ始めると、他にも二匹、中型犬がドッグフードに歩み寄り、恐る恐る食べ始める。量が少なかったので、ドッグフードはすぐになくなってしまった。
真子さんは頃合いを見て、再びドッグフードを取り出した。今度は、地面ではなく自分の両手にドッグフードを盛り、犬達に差し出す。
これは、いくらなんでも危険だ。
「真子さん……」
声をかけた私を、真子さんは手振りで制す。真子さんはふわりと笑い、犬達に向き直る。
「遠慮しないで。私たちは、君たちの敵じゃないわ。大丈夫よ。絶対に虐めたり、傷つけたりしないから」
真子さんは、穏やかに犬に語りかけた。
すると先程、ドッグフードに口を付けた三匹が、おずおずと、真子さんに歩み寄る。再び、緊張が高まってゆく。
流石に、犬達は暫く迷っていた。
「さあ、どうぞ。良い子ね」
真子さんは、更に声をかける。
ピクリと、犬の尻尾が揺れる。やがて、一匹の犬が真子さんの手に口を寄せ、ドッグフードを食べ始めた。
一匹が食べ始めると、やはり、近くの二匹も真子さんに歩み寄り、手に盛られたドッグフードに口を付けた。
犬が食べ終わると、真子さんは下からそっと掌を差し出し、犬を撫でる。
「ありがとう。触ってもいいのね」
真子さんは犬を撫でながら、ゆっくり、ゆっくりと身体を包み込む。そうやって、一匹の犬を抱え上げた。犬は暴れもせず、真子さんの頬を舐めている。
「ねえ。見たでしょう。犬はこういう風に抱っこすると、とても安心するの。インターネットの知識だけど……」
真子さんの顔に微笑が浮かぶ。
私と定義も、真子さんを見習って、そっとと犬を抱きしめる。時間をかけて犬を撫でながら、やがて、抱え上げる。ポイントは、腰と後ろ足をしっかりと抱えてやる事だ。
やはり、犬は暴れなかった。
「行きましょう」
真子さんが言う。私達は、犬を抱っこして先程の小屋へと戻った。
★
私は小屋に入ると、ロープを首輪代わりにして、犬と柱とを繋いだ。犬達は、暴れもせず、逃げようともしない。
「ごめんね。寂しいかもしれないけど、もうちょっと我慢してね」
真子さんは、犬を撫でながら言う。犬は尻尾を振り、真子さんにじゃれついている。きっと、真子さんに心を開いたのだろう。
私は少し、反省していた。
この、真子さんという人は、なんと凄い人なのだろう。網があるのにそれに頼らず、勇気と、信念と、思いやりを武器に犬達にぶつかった。私が不可能だと思っていた事を、本当にやり遂げてしまったのだ。
数日前、真子さんに偉そうな口を利いた自分が恥ずかしくなる。やれば出来る事をやりもせず、無理だの、現実感が無いだの言って否定する。多くの人が、それが大人だと思い込んでいる。私もそんな人間だったのかと、爽やかに思い知らされた気がする。
でも、希望が見えた。このまま数回、同じ事を繰り返せば犬の大半を保護できそうだ。
今度は、私がやらねば。
私は先程の場所に戻ろうと、小屋を出ようとした。
その時だった。
「待って」
咄嗟に、真子さんが私の肩を掴む。
「え? 何」
言った直後、無数の足音と息遣いが、小屋の横を通り過ぎて行った。
私たちは危険を直感して、息を殺して気配に耳を澄ます。壁板の隙間から見えたそれは、犬の群れだった。
「え? あれっておかしくない? どうして、下から来ると」
瞳が、怪訝な顔で呟いた。
確かに変だ。犬の群れは登山口方面から走って来た。それはつまり、私達が来た方向と同じなのだ。だけど、私達は途中、その群れには遭遇しなかった。
もしかすると……。
少し嫌な予感がした。私は板壁の隙間から外を覗いて安全を確認すると、すぐに小屋を飛び出した。
「姉ちゃん、待って」
定義が言うのを背に受けながら、見晴らしの良い斜面へと踊り出す。
私はそこから、山の下の道路に目をやった。
見下ろす先には登山口が見えた。案の定、登山口には、軽トラックが停車している。それは数日前、防犯カメラに写っていた、藍色の軽トラックだった。
目を凝らすと、軽トラックの脇に二つの人影がある。人影は、荷台からコンテナを降ろそうとしている。
私は状況を理解した。
あの二人は、不法業者の人間に違いない。また、犬を捨てに来たのだろう。だから先程、犬の集団が登山口方面からやって来たのだ。
沸々と、怒りが込み上げる。
「あいつら、犬を捨てに来たんだ!」
私は、一目散に駆けだした。
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