第30話 火の心




 ★


 翌、木曜日の夜の事だ。

 仕事から帰宅して玄関の扉を開けると、突然、定義さだよしが飛び出してきた。


「定義?」


 定義は私の声を無視して、うつむいたまま何処かへと駆けて行った。すれ違いざまに、私は、弟の目に浮かぶ涙を見たのだが……。


「おかえりなさい」


 居間で真子さんが出迎えてくれた。だが、やけに沈んだ様子だ。


「あれ。もしかすると……」

 私は言う。


「うん。そうなの。ごめんなさい……」

 真子さんは悲し気な微笑を浮かべる。


 私はなんとなく、状況を理解した。

 おそらく、定義は、真子さんに恋を告白したのだろう。だが、断られてしまった。

 真子さんは、どうしても津藤つとうはがねの事が忘れられず、弟の気持ちを受け入れる事が出来なかったのだ。それは、一般的な認識では、あまり良い事とは言えない。だけど、私はくどくど説教する気にもなれなかった。かけがえのない人を失う事がどういう事なのか、私も、痛い程に理解できてしまうから。

 仮に、


『過去は忘れて幸せになりなさい』


 なんて、何処かで聞いたような軽口を叩かれようものなら、私は怒るだろう。それが出来ないから苦労しているのだ。真子さんも、きっとそうなのだろう。


 定義の態度を見ていたら、真子さんへの好意は見え見えだった。だから、いずれ真子さんにアプローチをかけるだろうと思ってはいたが……。

 死者は、残された者の中に住み着いて美化され、神格化されてゆく。そんな存在に勝とうだなんて、神に喧嘩を売るに等しい。定義も、無謀な挑戦をしたものだ。

 だけど私は、そんな弟が少しだけ誇らしかった。私もいずれ、神に喧嘩を売る事になるだろう。

 神の名は、橋本ましろ。私にとっても、かけがえのない、大好きな神様だ。



 ★



 翌、金曜日。

 定義は、朝になるまで帰って来なかった。帰って来ても休まず、すぐにアルバイトに出かけてしまった。余程、真子さんと顔を合わせたくなかったのだろう。


 夜になって私が帰宅すると、定義も帰宅していた。定義は、ずっと部屋に閉じ籠っていた。夕食に呼んでも、顔も見せない。

 重症だ。

 真子さんは、気を使って夕食を弟の部屋に運ぼうとした。でも、私は真子さんを呼び止めて、代わりに夕食を二階へと運び、弟の部屋の前に置いておいた。


 一階に戻ると、真子さんが暗い顔で俯いている。


「気にせんで良いとよ」

 私は、真子さんの肩に手を置いた。


「でも……」

「真子さんは悪くないでしょう。勿論、定義も。誰も悪くないと。どうしようもない事って、あるけん」


 私は偉そうに言って笑顔を作った。が、格好をつけた途端、私のお腹がぐりゅり。と、鳴った。


「……おならじゃないけんね。お腹が鳴ったとよ」

「う、うん。私達も晩御飯、食べましょう」

「おならじゃないけんね」

「はい」

「おならじゃないけんね」

「うん。おならじゃない」


 やがて、真子さんはクスクス笑いだした。つられて、私も笑いが込み上げる。


「しつこいようだけど、おならじゃないけんね!」


 私は、逃げ回る真子さんを追いかけまわしながら、冗談を繰り返した。


 ★


 翌、土曜日の朝。

 この日は、犬捕獲作戦の決行日だった。


 私と真子さんは朝早くに起き、朝食と準備を済ませた。定義に声をかけるのは可愛そうな気がしたので、そっとしておいた。


「いよいよだね。真子さん」

「うん。たくさん助けましょう」


 私は真子さんと、軽自動車に荷物を積み込み始めた。


 私も真子さんも、腕に剣道の籠手こてを着け、その上からビニールテープを巻き付けている。これならば、多少噛みつかれても大怪我をする事は無い。服装も、厚手の長袖を二重に着込み、足にはブーツを着用。ブーツの上からもビニールテープを巻き付けて、万全の備えをしていた。少し暑苦しい格好だが、まあ、怪我をするよりはマシだ。

 真子さんは、ずっと黙っていた。多分、まだ、定義の事を気に病んでいるのだろう。定義が欠けてしまったのは残念だが、仕方がない。私と真子さんだけでも、出来るだけの事をやってみるだけだ。


「はい、どいて」


 突然、背後から声がする。

 定義だった。

 弟は、剣道の籠手等、完全武装で身を固めていた。定義は、積み残した荷物を抱えて、それを私の自動車に積み込んだ。


「定義……あんた、良いとね?」

 私は不安を口にする。


「姉ちゃん、俺は男だけん。一度、やると言った事はやるとばい」


 定義は言い、照れ臭そうに笑う。

 思わず、私も嬉しくなる。


「よっ! 九州男児」

 そう言って、私は弟を揶揄からかう。


「煩い!」

 定義は顔を赤くして、言い返した。


 ★


 私達は自動車に乗り込み、いよいよ出発した。

 その時だった。


「あれ?」


 私は慌ててブレーキを踏む。

 パトカーが、自宅前の道路を塞ぐように停車していたのだ。

 おもむろに、パトカーのドアが開く。降りて来たのはひとみだった。


「どうしたの?」

 私は窓から顔を出して言う。


里子さとこ。あんたね、私の事馬鹿だと思っとる? 家の中であんな網こさえて、ロープやドッグフードまで大量に用意して。何を考えてるか、気付かんとでも思った?」

 瞳はぷりぷり怒って言う。


「仕方ないでしょう。明日には山狩りがあるんだけん。何とかせにゃん」

「許しません! これは、警察官としての言葉よ。あの山は危険だから、あんな場所に向かう事を許可する訳にはいきません」

「でも……」

「でももへちまもなか!」

 瞳が声を荒げる。


「薄情……なんですね」

 真子さんが、ポツリと言う。


「なんて?」

 瞳の目に、薄く怒りが浮かぶ。


「熊本の人は優しいのかと思ったけど、私の勘違いですか? それとも、熊本の警察官が薄情なだけ? そんなに、撃ち殺したいんですか? 犬一匹守れないで、よく、優秀な剣術集団みたいな顔が出来ますね」


 真子さんが言い放つ。瞳は鋭い眼差しと、沈黙を返す。空気がピリピリしている。


「……言ってくれるじゃない」


 瞳は警帽を脱ぎ、パトカーからリュックサックを担ぎ出して、勝手に私の車の後部座席に乗り込んで来た。


「あれ? いいの?」

 私は言う。


「いい訳がないでしょ。警察官としては、ちゃんと警告した。ここから先は熊本人として行くと。火の国の女ば勘違いしてもらったら困るけんね!」


 瞳は言いながら、リュックサックに詰め込んでいた登山靴に履き替える。そして、ビニールテープで腕をぐるぐる巻きにし始めた。

 どう見ても噛みつき対策だ。最初から付いて来るつもりだった事は明白である。全く、素直じゃない友人だ。


「じゃあ、後は任せたけんね」

 瞳は、パトカーの同僚に言う。


 そうして、私はアクセルを踏み込んだ。




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