第23話 三秋優海はキレ散らかす!





 長い静寂があった。


 私は、そっと、ケンゴ君の肩に手を置いた。ケンゴ君は微かに震えている。怖いに決まっている。あの金髪の男に毎日虐待されて、母親も助けてはくれない。だとしたら、どうして大人を信じられる?

 それでも、ケンゴ君は私たちに本心を話してくれた。とても勇敢な子だ。せめて私は、この子の味方でいなければ。


「ケンゴ君は何も心配せんでいいとよ。少し待ってたら、話し合いが終わるから」

「本当?」

「大丈夫だよ。あの優海ゆうみ先輩って人、見た目は怖いけど、あれでもちゃんとした大人だけん。穏便に、話し合いで解決してくれるから。暴力なんて奮う人じゃないよ」


 私は、そっとケンゴ君の頭を撫でる。


 その直後だった。


 ドカン! ガシャン! と、激しい破壊音がアパートから響いた。続いて、常軌を逸した怒鳴り声が響き渡る。


「ぬしゃコラ! これば使ったとかあ! なんや、嘘つけクズが。ぬしがやったっだろがあ! 一回自分がやられてみれ糞があ! なんや包丁なんか出して、文句あるとか糞があああ! やってみれ、ネギ糞コラあ!」


 それはもう、狂気じみた絶叫だった。怒号はそれからも続き、激しく争うような物音も聞こえてくる。

 悲鳴に、絶叫、断末魔に似たうめき声。肉を打ち据えるような鈍い音。何かが破壊される音に、割れる音。優海先輩の声は、あまりにも怒鳴り散らしているせいで何を言ってるか分からない。


「穏便に、解決を……」

 私は、完全に面目を失っていた。


 やられた。ほんの少しでも、優海ゆうみ先輩を信じた私が馬鹿だった。そもそも優海先輩は、泰十郎に何回蹴飛ばされても学習しない大馬鹿野郎だった。あんな奴が冷静な訳がないのだ。なのに、私ともあろう者が、子供騙しの猿芝居に騙されてしまったのか。


 私は冷静になり、即、ひとみに電話をかけた。


「すぐ来て。急いで来て。瞳のお兄ちゃんが大変だけん。あ、お兄ちゃんは大丈夫なんだけど、相手がヤバいから。そう。そうそう。あの人、また、やらかしとるよ!」


 ★


 電話を終えて五分もしないうちに、ひとみは自転車ですっ飛んできた。完全なるすっぴんで、パジャマ姿だった。どうやら、今日は非番だったらしい。


「……何処?」

 事件現場に着くなり、瞳は息を切らして言う。


 その時には、周囲は既に静寂に包まれていた。ケンゴ君も怯えてガタガタ震えている。

 私がアパートの一室を指すと、瞳は溜息を吐いて自転車を降りた。


 瞳は、ゆっくりとアパートのドアをノックする。


「お兄ちゃん。お兄ちゃん? 怒ってないから出ておいで。逮捕しないから」

 瞳は猫撫で声で言う。


 暫くして、ほんの少しだけドアが開いた。その隙間から、優海ゆうみ先輩が顔を覗かせる。彼はボソボソと、瞳に何か耳打ちしている。


「ふん。ふんふん。解った。じゃあ、ちょっと待ってるね」


 瞳が頷くと、優海先輩はドアの奥へと顔を引っ込める。そこから二○秒程して、キイ。と、再びドアが開く。

 優海先輩め、どうせ、何か良くない事を隠蔽したのだろう。


「じゃあ、入るね。あ、里子はそこに居て」

 瞳は言い残し、部屋へと入って行った。


 一体、何が起きているのだろう……。


 固唾を飲んで見守る私の耳に、再び、叫び声が飛び込んで来た。


「え? 紫色! なんでこんなに紫!? それになんでネギが刺さってるのお! 一体どうしたらこんなに? あ、男の人ってここ、こんなに伸びるの!? 嘘でしょ。こ、こんな色になって! きゃあ! これじゃ、まるでピーナッツボール……こんな事って……いやっ! ピーナッツボール! 意味が解らない!」


 瞳の叫び声だった。意味が解らないのはこっちの方だ。

 ウワアン、と、背後からパトカーのサイレンの音がする。パトカーはアパート前に停車して、中から警察官が下りて来た。多分、近隣の住民が通報したのだろう。


 パトカーが到着すると、すぐに瞳がアパートから飛び出して来た。


「お疲れ様です! 丁度、小学生に暴行していた男を取り押さえたところですう。あ、取り押さえる際に激しく抵抗されましたので、一般の方に協力をして貰いましたあ」


 瞳は引きつった微笑みを浮かべ、都合の良い報告をし始めた。


 ひとまず問題は解決した。と、言ってよいのだろうか? 警察は、一応話を聞く必要があると言い、三秋みあき優海ゆうみをパトカーへと引っ張って行った。私も少し事情を聴かれたが、瞳の出まかせに矛盾が生じないように、口裏を合わせてやった。優海先輩は、あくまでも、犯人逮捕に協力しただけだ、と。

 まあ、言葉を重ねる必要はない。真実は、ケンゴ君の長袖の中にある。いくつも刻まれた火傷や虐待の痕が、見るべき全てなのだ。


「あの、これ……」


 ケンゴ君はパトカーに駆け寄って、優海先輩に釣り竿を返そうとした。


「やるばい。江津湖はブルーギルが増えとるけん、それで減らしてくれ」


 優海先輩は笑って言い、ケンゴ君の頭を撫でた。


 私と瞳は肩を並べ、パトカーを見送った。

 金髪の男は、少年への暴行容疑で現行犯逮捕された。裏付けを取る為、優海先輩も連れて行かれた。瞳は事後処理の為、現場に暫し留まる事になった。後で、警察署に事情を話に行くつもりらしい。


「ねえ」

 ふいに、私は言う。

「なんね」

 瞳はぼんやりと答える。


「あんたのお兄ちゃんって、なんの仕事ばしよる人なの?」

「え? 保育士だけど」

「は? いや、嘘だ。絶対嘘よ」

「……本当だけど」


 私達は、そのまま暫く無言で立ち尽くしていた。




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