江津レイクタウン

第17話 東城里子は盗み聞く

　休憩になると、真子（まこ）さんは猫じゃらしを手に猫の所へすっ飛んで行き、泰十郎（たいじゅうろう）も、真子さんの尻を追いかけてすっ飛んで行った。

　私は、お手洗いに行った後で自動販売機に飲み物を買いに行った。すると、自動販売機近くのベンチには、見知った二人組がいた。泰十郎（たいじゅうろう）の弟子の若井（わかい）君と、その後輩の少年だ。

　若井（わかい）君は二○歳そこそこの青年で、少年は高校生ぐらいだろうか？　二人は肩を並べ、真剣な顔で何か話し合っていた。

「僕、本当に強くなれますか？」

　後輩の少年の声が聞こえた。確か、以前、泰十郎からは、その少年は学校で虐められていると聞いた。

　私は、彼らの背後の木陰で立ち止まり、話に耳を傾けた。

「泰十郎師匠みたいになるには時間がかかるけど、あの人に習うなら間違いはないよ」

　若井君は優しげに言う。

「そうですか」

　少年の声は、それでも沈んでいた。

　話を聞いていると、どうやら、少年が受けているイジメは、かなり陰湿で酷いものであるらしい。度々、寄ってたかっての暴力を受ける事もあるようだ。イジメや理不尽な暴力は、生涯に渡って被害者の心を痛めつける。人格が変わってしまう事もあるだろう。そして、誰もその責任を取らない。

「まだ、心配か？」

　若井君は言う。

「はい。怖いんです」

　少年は呟く。

「学校に、行きたくない？」

「はい。怖いです。学校も、人間も」

「俺も、昔は怖かったよ」

「僕は、今、怖いんです。誰も味方なんかいなくて。また殴られるかと思うと死にたくなります。どうして、先輩は立ち向かえたんですか？」

　少年は、張り詰めた顔で問いかける。

　若井君は、暫し、黙り込む。

　長い沈黙だった。

「手、出して」

　若井君は、ふいに言って立ち上がる。少年も立ち上がり、おずおずと手を差し出す。

「そうじゃない。こう」

　と、若井君は、少年の手の角度を調整する。少年は言われるままに、手の向きを変えた。

　突然、若井君が、やっ！　と少年の掌に正拳突きを叩き込む。

「ぐ。あ、い……痛あ！」

　少年は掌を掲げ、それをぷるぷる震わせて、苦痛に顔を歪ませる。

「ごめんごめん」

　若井君はそう言って、再び、ベンチに腰掛ける。

「虐めっ子に殴られるのと、俺の正拳突き、どっちが痛い？」

　若井君が問う。

「こ、こっちです。こっちの方が痛いに決まってるじゃないですか」

　少年は涙目で、若井君の隣に腰掛ける。

「お前、俺のこと、怖い？」

「いえ……怖くないです」

「じゃあ、お前、虐めっ子なんか怖くにゃあたい」

「え？」

「だってそうだろ。俺の方がそいつらより強いのに、お前は俺の事は怖くないんだろ。だったら、どうしてそんな雑魚どもが怖いんだ？」

　なんて、若井君は、少しぶっきらぼうな笑顔を向ける。

　少年が、ピタリと呼吸を止める。

　長い沈黙を経て、少年の肩が、静かに震え出す。

「そうですね。そう……そうですよね」

　少年は繰り返し呟く。その目元には、涙が浮かんでいた。若井君は、泣きむせぶ少年に寄り添って、わしわしと頭を撫でた。

　私はそっと、その場を立ち去った。

　中の島に戻ると、真子さんと泰十郎が猫じゃらしを手に、猫と遊んでいた。今日は猫が三匹もいる。猫達は、真子さんが与えたと思しきビスケットを齧っていた。

「ふふっ可愛いやつめ」

　と、泰十郎が猫じゃらしで猫をあやしている。私の記憶によると、確か、泰十郎はあまり猫を好いていなかった筈だ。多分、真子さんのご機嫌を取る為に、猫を被っているのだろう。なんだか少しイラッとするが、クレイジー野郎の機嫌を損ねたくない。この際、ツッコまないようにしておく。

　私は、二人に声をかけ、買ってきた飲み物を放った。

「真子さん、駄目よ。野良猫に餌をやったりするのは。無責任だけん」

　私は軽く、真子さんを叱る。

「良いのよ。この子達は大丈夫なの」

　と、真子さんは言い返す。

「どうして？」

「だって去勢した痕があるもん。私、小さい時に猫を飼っていたから、解るの」

「そ、そうなんだ？」

　私が言うと、真子さんは猫を抱え上げて見せた。猫のお腹には確かに、手術跡らしきものが見受けられた。

「うん。ほら見て。ここ、手術の痕があるでしょ。去勢されてない子もいたけど、その子には餌をあげてないから。でも、それってなんだか可哀そう」

　言いながら、真子さんは視線を泳がせる。そこには『餌やり禁止』の、立て看板があった。私も少し、複雑な気分になる。猫の気持ちになって考えると、どうも納得がいかない。

　私は叱った手前、ちょっと気まずい気分になった。そこで急に、泰十郎の肩をはたく。

　話題を変えて気まずさ誤魔化してやろう。

「いつまで、美人の尻を追いかけまわしよると？」

　と、泰十郎を揶揄（からか）う。

「いやね、こういう癒し系な人は貴重だから、今の内に癒されておこうかと、ね」

　泰十郎は悪びれもせず言う。

　確か、泰十郎には恋人がいる。人から聞いた話によると、泰十郎の恋人は恐ろしく気が強い女性なのだそうだ。泰十郎も頭が上がらず、腫物を扱うように慎重に接しているらしい。

　一体、どんな人なのか、想像も付かない。

「ま、いいけどね。それよりあんた……良い弟子ば持ったね」

　私は竹刀の柄で、泰十郎の脇腹を小突いてやった。