第13話 東城里子は泣きじゃくる




 ★


 食事を終えた私は、真子さんが疲れているだろうと気を使い、自宅に連れ帰ろうとした。でも、真子さんは午後も剣道の練習がしたいと言ってくれた。

 私は、今度こそ、懇切丁寧こんせつていねいに真子さんを指導した。真子さんは呑み込みが早く、かなり見込みがありそうだったので、教える私もだんだん楽しくなってきた。

 私は独自の足運びや、中腰の構えとその用法についても詳しく説明した。異常に低い古流剣術の構えから繰り出す貫胴ぬきどうは、私の切り札だ。私の奥義を伝授したのである。まあ、実際に使いこなせるかどうかは、真子さんの鍛錬次第だ。


 ★


 二時間程の練習を終えて、私と真子さんは市立体育館を後にした。

 帰りに、私達は江津湖えづこに寄り道をした。真子さんが、うずうずしていたからだ。

 軽自動車を江津湖公園の駐車場に停める。真子さんは、自動車を降りるとすぐに、近くの猫じゃらしを引っこ抜く。私達は、二人で猫を探しながら江津湖を歩き回った。

 猫は、今日は橋から離れた噴水の傍で日向ぼっこをしていた。以前、見かけた黒猫だ。


「わあ。可愛いよう。にゃあ、にゃあ」


 真子さんは、猫の真似をしながら猫じゃらしを揺らし、黒猫をおびき寄せる。猫は猫じゃらしに夢中で、簡単に、真子さんに捕まって撫で回される。


「あはは。とっても良い子。にゃあ。にゃにゃ。にゃあ」


 真子さんは猫にご満悦だ。夢中で猫と戯れる姿が尊くて、私は思わず胸を打たれてしまう。

 やがて、私は一人で橋を渡り、ボート乗り場近くの売店でソフトクリームを買った。


 ★


 私と真子さんは、中の島のベンチに腰掛けて、ソフトクリームを食した。目の前には江津湖の長閑な水面みなもが広がっており、魚たちがすばしっこく泳ぎ回っている。夕暮れの湖面はキラキラ光を反射して、それは、沈みゆく夕日に向けて、黄金の道を作っていた。


「風が気持ちいい」


 真子さんが言う。


「そう? 熊本は盆地だけん、これからは、どんどん蒸し暑くなるよ」


 私はぼんやり答える。

 真子さんは、それには答えず、暫く押し黙った。


「ねえ」


 ふいに、真子さんが沈黙を破る。


「うん」

「どうして、さっちゃんは、私にこんなに色々と……その、どうして?」


 その問いに、私は答えなかった。その代わりに、唯、真子さんに微笑を返す。

 照れくさくて答えられなかったのだ。

 私は熊本の街も、江津湖の長閑な眺めも、剣道も、私を取り囲むその他諸々も、全てを愛している。そういった素敵な物が、一人の女性の絶望の前では全くの無力だった。それが許せなかったのだ。

 私が愛する様々な物は、無力なんかじゃない。私が愛する湖を、誰かの絶望や死で汚すなんてさせない。きっと向き合い方が悪かったり、タイミングが悪かったりして、すれ違っているだけなのだ。

 だから、ちゃんと見て欲しい。何かを拾って欲しい。もっと笑って欲しい。

 そういった想いは、私のささやかな意地だった。私は、私の愛する何もかもを総動員して、真子さんの絶望に立ち向かってみたかったのだ。勿論、上手なやり方ではないかもしれない。私がもっと女らしくて、色々な事に気付けたら、上手に出来たのだろうか。


「もう少し、この街に居てもいい?」


 真子さんが、少し不安な面持ちを浮かべる。


「うん。好きなだけ居りなっせ。剣の道は長いとよ」

 私は、残ったソフトクリームのコーンを口に放り込む。そして、

「ねえ。蛍、見たくない?」

 と、腰を上げた。


 ★


 私と真子さんは、加勢川かせがわ沿いをてくてく歩き、芭蕉園ばしょうえんを訪れた。

 上江津湖の外れには、芭蕉園と呼ばれる一画がある。そこには芭蕉の木が生い茂っており、まるで東南アジアのどこかに迷い込んだような眺めとなる。

 芭蕉園の湧水は特に清涼で、五月から六月ぐらいには、蛍を見ることが出来る。


「もう、暗いね」


 真子さんが言う。

 芭蕉園に辿り着いた時には、太陽はもう沈んでいた。夕日の残滓が、空を赤紫色に染めている。それを背景に微笑む真子さんは、例えようもなく美しかった。同時に、なんとも儚げで、今にも消えてしまいそうだと感じる。


「こっちだよ、真子さん」


 私は真子さんを誘い、芭蕉園の小さな池へと案内する。池の湧水は清涼で、水面は赤紫の光を湛えていた。池のすぐ側には、県立図書館がある。もう閉館しているので、とても静かだった。


「あ。猫だ」


 真子さんは、木陰に猫をみつけて、楽しそうに撫で始める。猫はとても人懐っこくて、少しも逃げようとはしなかった。

 猫は次第に増え、五匹も集まって来た。

 私も、真子さんと肩を並べて猫を撫で、時間を潰す。そうして一○分程猫と遊んでいると、ふいに、真子さんの手が止まった。


「あ。光った。見て、さっちゃん」


 真子さんが指差す先には、淡い緑の光があった。

 蛍だ。

 私と真子さんは腰を上げ、蛍へと歩み寄る。すると、光はもう一つ増え、夜空へと舞い上がる。

 それは、決して華々しい光景ではない。蛍の光は本当にほのかで、池を囲む林で三つ、四つ、光っている程度だ。


「あ。こっちにも。蛍の光って、こんなに淡いのね。私、蛍を見たのは初めてよ。綺麗。凄い。凄い……凄い!」


 それでも真子さんは、まるで子供みたいに声を上げ、はしゃいでいた。そこには、真子さんがこれまで見せた事がない、無防備な、はち切れんばかりの笑顔があった。

 ああ、真子さんって、こんなに笑うんだ。

 内心、呟いた途端に、胸に言い知れぬ感情が込み上げる。


「……どうして、泣いてるの?」


 と、真子さんが動きを止める。

 知らず、私の頬に熱いものが伝っていた。涙はポロポロ、ポロポロと、足元の土へと落ちてゆく。泣けて、泣けて、仕方がない。上手く、声が出せない。

 真子さんは見かねて、嗚咽する私の背をさすってくれた。

 やがて、少しだけ、呼吸が収まってくる。


「ねえ、真子さん」

「……うん」

「生きてよ」


 私は言い、泣き崩れる。

 真子さんは、困った顔に、いつになく寂しそうな微笑を浮かべる。彼女は、泣きじゃくる私に寄り添って、一緒に泣いてくれた。

 ふわりと、真子さんの髪に蛍が停まった。






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