第7話 来栖真子は思い出す

 






 ★ ★ ★


 真子まこさんは、一三歳の時に、誘拐されたことがあるらしい。

 彼女は東京の西葛西にしかさいで育った。母親は浮気相手と家を出て行ったので、父親と二人暮らしだった。だが、父親は重い病気になって入退院を繰り返していた。幸い、父親はかなりの資産家だった。だから真子さんは生活に困ることはなかったそうだ。

 ただ、真子さんは孤独だった。

 家に一人でいる時間が長く、内向的な性格が災いして友人もいなかった。あまりにも綺麗だから、僻みや、やっかみを受けて仲間外れにされたのかもしれない。真子さんは、毎日、とても淋しい気持ちで過ごしていた。

 真子さんはある日、いつも通り父親の見舞いに病院へ行った。

 その帰り道でのことだ。

 人気のない路地で、突然、真子さんは背後から襲われた。何者かに羽交い絞めにされて、頭から袋を被せられ、連れ去られてしまったのだ。

 あっという間の出来事だった。


 気が付くと、真子さんは見知らぬ廃校と思しき場所に居た。そこは古い教室で、腕には手錠が付けられていた。手錠からは鎖が伸び、床の鉄杭に繋がっていた。鎖を引っ張っても、捩っても、どうにもならなかった。

 教室は暗く、静まり返っていた。カーテンは全て閉め切られている。近くには毛布が一枚置かれ、食料も用意されていた。全て健康食品であり、見るからに高級品だった。

 何者が、何の目的で真子さんを誘拐したのか? それは真子さんにも解らなかった。


 誘拐犯は、決まって一日に一度、夕方頃に教室を訪れた。背の高い不気味な男だった。そいつは高そうなスーツを身につけており、いつも、紙袋を被っていたらしい。紙袋男は、毎日、健康食品を運び入れた。そして何故か、真子さんの健康状態や体重を細かく記録して、去り際には決まって、写真を撮って帰ってゆく。

 誘拐犯は、一言も喋らなかったそうだ。

 一日に一度、数分間犯人と接触する他、真子さんは誰とも出会わなかった。外の様子も解らない。鎖が短くて、カーテンに手が届かなかったのだ。

 監禁生活は、三週間近く続いた。

 不気味な廃校の教室で一晩過ごすと、人の精神はどうなるだろう。強靭な精神力を持った大人の男性であれば、闇に耐えられるかもしれない。でも、真子さんは一三歳の女の子だ。彼女は、壊れる他なかった。

 真子さんは、最初の数日は暴れたり、叫んだり、鎖を引っ張ったりしてみた。なんとか脱出しようと試みたのだが、どうにもならなかった。やがて時間の感覚が薄れ、諦めが胸を満たすようになる。一三歳の少女は、ただ闇に怯え、物音に怯え、犯人に怯え、怪物や悪霊の気配に怯え続けた。

 ひたすら続く闇と無音は、真子さんの精神を蝕んだ。追い詰められた真子さんは、遂に、狂ってしまった。彼女は一日中、叫んで、叫んで、叫びまくるようになった。

 だが、なんの意味もなかった。

 やがて、真子さんは叫びつかれて何も出来なくなった。代わりに、妄想に憑りつかれていた。勇敢な美男子が救いに来てくれる想像をして、自らを慰めたのだ。それがあり得ないことは、真子さんが一番よく分かっていた。たまに冷静さを取り戻して考えれば考える程、最悪の結末しか思い浮かばない。もう、妄想ですら、彼女の絶望の前では無力だった。


 監禁されている間、真子さんに出来たのは、耳を澄ますことだけだった。だが、何日も耳を澄ましている間に、真子さんは、自分の聴覚に異変が起こっていることに気が付いた。

 とてつもなく、耳が良くなっていたのだ。

 ある夜を境に、教室の外で虫が這う音が聞こえるようになった。上空を行く小鳥の羽音も聞こえる。空気が流れる音に、木の葉が地面に落下する音。遠くで電気が流れる音も聞こえる。通常なら聴こえない筈のない微音まで、聞き取れるようになっていたのである。

 真子さんは、外界で何が起こっているのか、だんだん解るようになった。稀に、盲人がエコーロケーションという能力を身に着ける事があるが、彼女もまた、それに似た特殊能力を身に着けつつあった。


 🌙


 事態が動いたのは、監禁生活が三週間になろうかという、雨の夜のことだった。

 突然、何者かが廃校に侵入してきたのだ。

 誘拐犯ではない。

 真子さんの耳は、その気配を明確に察知していた。廃校に侵入した連中はふざけ合い、笑い合っている。何が起こっているのかは、すぐに解った。

 恐らく、中学生ぐらいの何人かが、肝試しに来たのだ。


 彼女にとっては助けを呼ぶ最大の好機だった。それなのに、真子さんは声を上げなかった。間もなく、誘拐犯が廃校にやって来るであろう時間だったからだ。もし、子供達が真子さんに気付き、救出を試みたとしよう。だが、真子さんの鎖を断ち切るには工具がいるし、工具があったとしてもかなり時間がかかる。そうしたら、彼らは犯人に見つかり、殺されてしまうだろう。

 この考え方は少し変だ。けど、真子さんには確信があったのだ。

 あの誘拐犯は、間違いなく人殺しだ、と。

 あの男の息遣い、言い知れぬドス黒い威圧感、まとわりつくような視線。何もかもが、常人のそれとは違っていた。あの人は何人も人を殺している。一人や二人ではない。五人や十人でもない。あの人は、これまでに出会ったどんな人よりも、遥かに、遥かに悪い人だ。真子さんの全身が、本能が、それを確信していた。

 真子さんは、このトロッコ問題を解くにあたり、自分の命を差し出す決断をした。それはそれで異常かもしれない。でも、壊れた真子さんにとっては当たり前の考え方だった。なにより、お姫様は、そういう健気な態度をとる物だ。

 だが、やがて中学生の足音が一つはぐれ、教室へと向かって来た。


「幽、霊?」


 教室の外から声がした。

 それは、とても美しい顔立ちをした少年だった。彼は、肝試し中に仲間から見捨てられ、置き去りにされたのだ。


「……違う。でも、早く逃げて。殺される」


 真子さんは言った。

 少年は、真子さんを助けようとした。真子さんは状況を説明して、強く、逃げるよう諭した。少年は、それでも説得を無視して工具を探しに行った。そして、すぐに戻って来た。


「……どうして」

「置き去りにする訳ないだろう。男は、女の子を守るって昔から決まってるんだ。知らなかった?」


 少年は笑って言った。

 真子さんの中で、何かが弾けた。

 真子さんは少年に縋り付き、泣き声を上げる。


「怖かったの。本当は、とても」

「うん。もう、一人にしないから。絶対に助ける」


 少年は、工具を使って鎖と格闘を始める。

 やがて、バキリ。と音が響く。鉄杭と鎖を繋ぐ、南京錠なんきんじょうが破壊されたのだ。

 少年は、鉄杭から真子さんを解き放った。

 見るからに優し気で、繊細そうな少年だった。真子さんは、少年に手を引かれるまま、廃校から逃げ出した。





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