第6話 東城里子は釣り上げる!





「何しよると、やめなさい!」


 私は湖の女性に叫ぶ。すると一瞬だけ、女性が振り向いた。

 真子まこさんだった。

 真子さんは答えずに向き直り、再び水の中を進み始めた。


「真子さん! 待ちなさい」


 言っても、真子さんは止まらない。

 私の愛する場所で、何をしてくれているのだ。沸々と湧き上がる怒りを、ぐっと押し込める。

 

「そっち……浅いけんね。そのまま進んでも、向こう岸にたどり着くだけよ」


 再び言うと、ぴたりと、真子さんの動きが止まる。真子さんは、その場でわなわなと震え、固まった。だが暫くすると向きを変え、今度は、湖の中心方向へと進み始めた。湖の真ん中は深いので、流石に溺れてしまう。

 私は、焦って辺りを見回した。すると、橋の下のフェンスの陰に、一本の釣り竿が放置されていた。私は迷わず、釣り竿へと手を伸ばす。

 湖に照準を合わせ、投擲とうてきの軌道をイメージしながら、数回、素振りをする。程よく集中力が高まると、私はおもむろに、釣り竿を振った。

 釣り竿から針が放たれる。糸はどんどん伸びてゆき、真子さんに命中する。

 真子さんが「痛い」と呟いた。成功だ。

 思わず口元が緩む。私はじわりと、リールを巻いてみる。


「痛……痛い。なんで? なんか痛い」


 真子さんは、その時になってようやく、何をされたのか気が付いたらしい。


「あ、それやめて。リール巻かないで。痛、痛い」


 真子さんが懇願するように言う。その声を無視して、私は嗜虐しぎゃく心に任せてリールを巻いてやる。


「はい、そのまま真っすぐ下がって。進むと痛いけんね。真っすぐ下がるとよ。そう。そうそう。はい、無駄な抵抗をしない」


 誘導しながらリールを巻き続け、たまに、軽く竿を立ててみる。その度に、真子さんは、きゃあ、きゃあ。と悲鳴を上げた。


 ★


 数分後、私は、美女を釣り上げた。

 びしょ濡れの真子さんは、岸辺でぐったりと這いつくばり、しくしく泣いていた。


「……なんで?」


 ずぶ濡れの背中に問いかける。

 真子さんは答えなかった。

 私は溜息を吐き、釣り竿を置く。そして糸を辿り、刺さった針を見つけ出した。針は、真子さんのお尻に刺さっていた。困ったことに、釣り針には返しが付いている。魚から針を外す時のように抜き取る訳にはいかない。


「仕方ないね。ペンチで針ば切るけん、家まで来て」


 言っても、真子さんは嗚咽したままで何も答えない。そこで、私は再び、竿を軽く立てる。

 きゃ、と悲鳴を漏らし、真子さんがビクッと反応する。

 ──楽しい。何故だか、とても楽しい。


「立って」


 私は真子さんを立ち上がらせた。


 ★


 帰り道、私は真子さんを釣り上げた状態のまま、歩かせた。真子さんが立ち止まる度に、背後で軽く竿を立ててみる。すると、その度に、真子さんはビクッと反応する。


「う。痛いよう」


 真子さんは泣きべそをかいてお尻を抑え、再び歩き出す。とんだ拷問だ。だが私は、少しばかりその状況を楽しんでいた。


 ★


 私達は、五分程で家に辿り着いた。

 出迎えた弟達は、顔を引きつらせて固まった。


「何これ。どういう状況? 事件? 暴行事件? 里子を逮捕したらいいの?」


 ひとみの顔に侮蔑の色が浮かぶ。


「見ればわかるでしょう」


 私は真顔で言う。


「否、わからないからね。なんのプレイ? 里子って、そういう趣味があったの?」

「ある訳ないでしょ! 良いけん、とっとと救急箱とペンチを用意して。あ、それから定義は、すぐにお風呂沸かして」


 私は、真子さんを居間に通して、ソファーにうつ伏せに寝かせる。

 釣り針の状態を確認してみると、針は、お尻に突き刺さったままで、貫通はしていなかった。


「ちょっと痛いけど、我慢してね」


 と、私は釣り針を押し込み、肌を貫通させる。間もなく、お尻から針の返しが出てきた。

 次に、ペンチを使って針先の返しを切断して、そっと釣り針を外す。


「まだ、動かんでね」


 真子さんの傷口をオキシドールで消毒し、絆創膏を張る。


「いやあ。お嬢さん、良いお尻をしていますねえ。ぐえっへっへ」


 真子さんは、私の冗談にも反応しなかった。顔を俯けたままで、ずっと黙りこくっている。悲壮感しかなかった。

 聞きたいことは山程あったが、今は、問い詰める気にはなれなかった。

 仕方なく、真子さんをお風呂に案内する。


「着替え、ここに置いとくけん」


 声をかけても、真子さんはぼんやりしていた。やがて、彼女はおもむろに服を脱ぎ始める。

 私は真子さんの裸を目にして、ぐっと胸を締め付けられた。

 真子さんの背中は傷だらけだったのだ。全て古い傷痕だった。多分、何か棒状の物で殴られた痕だと思われた。ただ、一度や二度、殴られた程度ではこうはならない。もしかすると、虐待か何かで出来た傷ではなかろうか?

 それが憶測であることは分かっている。けど、やはり、真子さんを問い詰める気にはならなかった。


 ★


 私は、真子さんが入浴している間に、瞳と定義に事情を説明した。


「自殺? 真子さんが?」


 定義さだよしが、顔を曇らせる。

 二人は、事情を聴くと、すぐに真子さんの宿泊先へと向かった。真子さんのチェックアウトの手続きをして、荷物を回収してきたのだ。その間、私は、お風呂から上がった真子さんの髪をドライヤーで乾かしたり、お尻を消毒し直したり、私の服に着替えさせた。


「今日から暫く、この人を泊めるけんね」


 帰って来た定義等に、私は告げる。


「それは構わんけど、真子さんの意思は?」


 と、定義は真子さんに目を向ける。


「……困ります。構わないで」


 真子さんが言う。


「そんな事しらん! あんなふざけた真似、もう絶対にさせんと!」


 私は声を張り上げる。


「でも」

「口答えせんと!」


 厳しく真子さんを叱りつける。すると真子さんは、もう、何も言い返さなかった。

 そうして、私達は四人でテーブルを囲んだ。瞳が作ったカレーライスは、少し辛みが強すぎる気がした。

 真子さんは、スプーンでカレーライスを口に運び、一口だけ食べる。そして「あ」と、声を上げ、肩を震わせて泣き出してしまった。私は彼女の背中をさすり、泣き止むのを待つ。

 やがて、真子さんの嗚咽が治まる。

 私は自分の席に戻り、黙々と、カレーライスを平らげた。


 ★


 暫くして、瞳が帰っていった。

 私は、真子さんを二階の私の部屋に案内して、お布団を敷いた。


「少し眠る? それとも、まだ起きてテレビでも見る? お菓子もあるし」

「テレビは見たくない。ここがいい」


 真子さんは俯いたまま言う。

 私は部屋の明かりを消して、真子さんの隣で布団に包まった。でも、いつまで経っても眠れない。真子さんも、眠っている気配がなかった。


「全っ然、眠くない」


 言い放って身を起こす。そして一階でお湯を沸かし、二つのホットココアとお菓子の袋を持って、二階へと戻った。

 テーブルランプの明かりだけを灯し、私と真子さんは並んでココアを飲んだ。


「……聞いてもいい?」


 私は、やっと疑問を投げかける。


「何を話したらいいか、解らないの」

「良いよ。一晩中でも付き合うけん。真子さんの物語? っていうのかな。聞かせて欲しい」

「でも、凄く、長くなると思う」

「うん。いいよ。全部話して欲しい」


 真子さんは、暫く逡巡していた。私はじっと真子さんを見つめ、言葉を待つ。

 やがて、真子さんは口を開いた。





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