第5話 東城里子は気を利かす
真子さんは翌日の夕方も、江津湖で棒きれを振っていた。そのまた翌日も。
真子さんが姿を現さなくなったのは、木曜日のことだった。多分、東京に帰ったのだろう。少し寂しいけど、仕方がない。
真子さんは旅行者なのだ。
★
金曜の夜、
「なんね。地稽古?」
私は玄関先で言う。
「ううん。今の里子には勝てる気がせんけん。ちょっと、遊びに来ただけ。
言いながら、瞳は廊下の奥へと視線をやる。
瞳は、昔から定義に痛く惚れ込んでいた。
定義は、私達より二つ年下で、今年で二四歳になる。瞳の、定義に対する態度はまるで、重度のブラザーコンプレックスを抱えた姉が弟を
定義がアルバイトから帰宅していないことを知ると、瞳は、しゅんと肩を落とした。
★
私と瞳は、居間でお菓子を食べながら雑談をした。
現在、瞳は警察官をやっている。配属先は、熊本東警察署だと聞く。熊本東警察署といえば、武道が盛んな熊本にあって、特に優れた剣士が揃っていることで有名だ。全国大会優勝級の剣士がいるのは当然として、その剣士を育てた土壌があるのだ。名もなき達人がひしめいており、その点では、市民からも尊敬されていた。
瞳は、その東警察署で剣道を続けているらしい。たまに、市立体育館で私と顔を合わせることもあった。
「そう言えば、
「え。お手柄?」
瞳に言われ、私は首を捻る。
「ほら、犬の話。署で聞いたけん」
「ああ、あれね。犬は、どうなった?」
私が言うと、瞳は、やや悲し気な顔をした。
瞳の話によると、あの日捕らえられたシベリアンハスキーは、牙が折れ、肋骨を骨折していたそうだ。一応、命に別状はないとのことである。ただ、その犬は、人間に対してかなり強い不信感を持っているそうだ。餌をあげても、優しく接しても、唸り声を上げて威嚇をするらしい。
否、あの犬は、出会った段階で既に、人間に敵意を剥き出しにしていた。事実、いきなり子供たちに襲いかかり、
警察は、あの犬を保健所に引き渡しはしたが、引き取った保健所もまた、頭を痛めているとのことだ。
市も、県も、熊本の保健所は動物の殺処分を嫌っている。特に、熊本市の保健所は、愛深き職員達の涙ぐましいまでの頑張りで、何度も殺処分ゼロを達成した実績がある。そんな市の保健所であっても、実際に人を襲ったり、どうしても噛み癖の治らない動物に対しては、泣く泣く処分を下さざるを得ない。
現在、瞳が待ったをかけているので生かされているが、このままでは、シベリアンハスキーは処分されてしまう可能性が高いとのことだった。
ふと、瞳が私の肩に触れる。私は、俯けていた顔を上げた。
「里子は優しいね」
瞳が言う。
悲しい顔をしていたのは、瞳だけじゃなかったみたいだ。
瞳は、話を続ける。
実は、私があのシベリアンハスキーと戦った前日にも、近くで、同様の噛みつき事件が発生していたらしい。
江津湖周辺の道路で、野良犬が、散歩中の老人を襲ったのだ。犬は、老人を襲った後に逃走して、愛犬を散歩させていた主婦にも襲い掛かった。主婦と愛犬の両方が噛まれ、騒ぎとなったのである。その野良犬は、近くを通りかかった県立高校の柔道部員達が取り押さえたらしい。
警察は、野良犬の飼い主を探した。だが、現時点ではまだ見つかっていないそうだ。二度も似たような事件が続いたことから、警察は、近所で
でも、それは
私が知る限り、この付近ではそんな話を聞いたことがない。多頭飼育崩壊を起こす家があるとしたら、動物の鳴き声や匂いが、周辺の噂になって然るべきなのだ。
「ただいまあ」
玄関から、
瞳は、玄関へとすっ飛んでいった。
「お帰り定義くうん。あのね、あのね、ケーキ買ってきたけんね、一緒に食べよぉう」
ぶりっ子丸出しの気持ちが悪い声が響く。瞳が定義の腕に絡みついているであろう気配が、居間からでも分かった。
定義は、昔から何故か、瞳に対してかなりの苦手意識を持っている。しどろもどろに逃げ回る定義を思うと、私は一人、込み上げる笑いを押し殺すのだった。
★
私達は、居間でショートケーキを食した。
瞳は定義とソファーに座り、ぴったりと肩を寄せ合って満面の笑みである。
「はい、ああんして」
瞳はショートケーキのイチゴをフォークで刺し、定義の口に運ぶ。瞳は上機嫌だが、定義は、ずっと私を睨みつけていた。きっと、瞳を家に上げた事を怒っているのだ。
弟の反抗的な目が気に入らなかったので、私は軽い意地悪をしてやることにした。
「ねえ、瞳。何か作ってよ。カレーとか」
瞳に提案してみる。
「ば、馬鹿。姉ちゃん、瞳さんは忙しいんだけん、遅くまで引き止めたら悪いだろう」
と、定義は焦りを丸出しにする。
「私は平気。明日は非番だしい。定義君の為にカレー作るぐらい、なんでもないもぉん」
と、瞳は弟から見えない角度で、私にぐっと、親指を立てる。
「じゃあ、カレー粉が足らんけん、私が買ってくるね」
私は、サインを返して腰を上げる。
「あ、それなら、俺が買って来るけん」
定義は慌てて逃げ出そうとするが、私は、その肩を押さえてソファーに座らせる。
「何? 定義は、瞳のことを嫌ってるの?」
「え? それは、その、嫌ってるとかそういうんじゃなくて」
定義は恐る恐る、瞳に視線を移す。
瞳は、泣きそうな顔でじっと定義を見つめている。何故だろう。潤んだ上目遣いに、軽く
「なあに? 定義。瞳の事が好き過ぎて、照れてるの?」
私はそう言って、定義の逃げ道を塞ぐ。そしてそのまま、そそくさと家を出た。
★
さて、買い物に行くと言いはしたが、実は、カレー粉は足りている。一時間もすればカレーが出来上がるだろう。だが、すぐに帰っては面白くない。
私は近所をぷらぷらして、時間を潰すことにした。
★
夕涼みがてら、自転車でさいとう橋の上を通りかかった時だった。
行き交う自動車のライトが眩しくて、何気なく湖に視線をやると、ふと、暗い湖岸の木陰で何かが動いた。
なんだろう?
欄干から身を乗り出して目を凝らす。すると、湖の岸辺に人影があった。女性の後ろ姿だった。でも、何か様子がおかしい。人影は、湖岸に立ち尽くしたまま、じっと水面を見つめている風だった。不穏な直感が胸を過ぎる。
これは、ただ事ではない。
私は急いでペダルを漕ぎ、橋の下へと駆けつけた。その時には、女性はもう湖に飛び込んで深みを目指していた。
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