第4話 来栖真子は嘘を吐く





 私と真子まこさんは、庭に出て、肩を並べて交互に竹刀を振った。

 真子さんは、言葉通り素人だった。だが、とても素直で呑み込みが早い。私の指導を受けながら二◯分も素振りを繰り返すと、真っすぐに竹刀を振れるようになった。過去に、見取り稽古を繰り返したという話は本当なのだろう。


 程よく汗をかいた私達は、居間に戻って軽くおやつを食べた。


「どう?」私は言う。

「楽しかったです」真子さんは微笑を返す。

「真子さんは筋が良いと思う。せっかくだから、ちゃんと習ってみたら?」

「そうですね。それも良いかもしれません」

「じゃ、じゃあ、今度また、俺が教えましょうか?」


 と、定義さだよしが会話に割り込む。顔を赤くしていた。そんなしどろもどろの定義を、私はちょっぴりからかってやる。すると、定義は顔を真っ赤にして抗議する。我が弟ながら可愛い。

 一時間後、真子さんがお風呂から出てきた。その時には、時計は夜の九時を過ぎていた。テレビではニュース番組をやっていた。ニュースによると、東京の明大前駅で、元、プロレスラーの男が大学生三人に暴行を加えたそうだ。大男は、その後も行く先々で暴行を繰り返し、逃走した。『ボクサツ殺す』とか、意味不明な言葉を繰り返していたらしい。しかし、逃げ込んだ芦花公園で一般男性に殴り倒されて御用となったそうだ。

 うん。日本は今日も平和だ。


 私は、軽自動車に真子さんを乗せ、宿泊先のホテルへと送り届けた。車内で雑談をして判ったのだが、真子さんは私より二つも年上だった。二八歳なのだそうだ。


「ご、ごめんなさい。年下だと思っとったけん、なんか偉そうな事ばかりいって」

「ううん。昔から、年相応に見られた事がないの。だから慣れてます」


 真子さんは笑って言ってくれた。でも、私には取り繕う術が無かった。


「でも、今日は里子さとこさんに出会えて楽しかった」


 涼しげな眼に、悪戯いたずらめいた微笑が浮かぶ。


「さ、さんは付けなくて良いです。里子で」

「そ、そう? でも呼び捨ても味気ないわね。そういえば、江津湖で怖そうな人から〝さっちゃん〟って呼ばれていたけど……私も、そう呼んで構わない?」

「も、勿論」

「じゃあ、さっちゃん。今日はありがとう。おやすみなさい」


 真子さんは、そう言って私へと手を伸ばす。私も咄嗟に握手を交わす。柔らかくて、そっと触れるような握手だった。


 ★


 翌日、私は朝から仕事に向かった。

 私の職業は東区役所の職員である。いつも転出入の窓口で、熊本市を出入りする人々の相手をしている。今年は、外国人の転入が少し多い。こんな地方都市でも、徐々に外国人の人口が増えているのだ。ただ、外国からの移住者に、この街がどのように見られているのかは、私にもわからない。遠く祖国を離れてまで、彼らが熊本に住む理由はなんだろう。この土地の風土なのか。それとも文化なのか、人間なのか。

 それを自問した時、私は本当に分からなくなる。

 私が愛してきた地元を、彼らも愛してくれるだろうか? 成り行きで、又は、利害の為に住み着いているだけなのか。真子まこさんにしてもそうだ。日本全国を見渡した時、江津湖は、とりたてて特別な湖ではない。ただ、私が愛しているというに過ぎない。はるばる、東京から見物に来るような観光地ではないように思える。

 だとしたら、真子さんは何をしにこんな所まで?

 脳裏に浮かんだのは、白く華奢きゃしゃな手首に刻まれた、剃刀の傷跡だった。


 ★


 夕刻になり、私は仕事を終えた。

 自転車で帰宅していると、さいとう橋の下で棒きれを振る人の姿を見かけた。

 真子さんだった。

 私は、欄干から身を乗り出して、暫く真子さんの様子を眺めた。真子さんは、昨日、私が教えた通りのやり方で棒きれを振っていた。そもそもの姿勢が良いせいか、とても綺麗な立ち姿だった。程よく汗をかき、髪は夕日に透けて煌めいている。それはなんというか、現実感のない美しさだった。


「頑張ってるね」


 私は坂を下り、真子さんに声をかけた。


「あ、その。特に何もやる事がなくて」


 真子さんは顔を赤らめて、棒きれを後ろ手に隠す。


「こっちには、いつまで?」

「決めていません。東京に戻っても、やる事がなくて」

「ふうん、そっか」


 私と真子さんは、水際のベンチに腰かけた。私達はそこで、肩を並べて鯛焼きを食べた。

 ベンチから見渡す湖は、夕日が映り込んできらきらしている。水鳥がいて、スワンボートゆったりと行き交っている。ベンチからの眺めは長閑で、それなりに胸を打つ眺めだと思えた。でも、実は、その場所は上江津湖公園では人気ひとけが無く、寂しい場所だったりする。


「ここは、空が高いんですね」


 真子さんはポツリと言う。


「敬語はやめて下さい。年上なんだし」


 私は少し、唇を尖らせる。


「じゃあ、お互いに敬語は無しで。さっちゃん」

「は、うん。真子さん」


 私も言って、真子さんと笑い合う。

 私は、真子さんに、素朴な疑問を投げかけてみた。江津湖は広いのに、何故、こんなに寂しい場所にばかりいるのか? と、いう疑問だ。真子さんは「特に理由はないの」と、目を逸らした。何か、はぐらかされた気がする。

 しつこく詮索する気にはなれなかったので、私は真子さんを中の島方面へと誘ってみた。真子さんは、人が多い場所はあまり得意ではないと渋ったが、猫がいるからと言うと、目を輝かせて腰を上げた。


 上江津湖には、二つの小さな島がある。島は本当に小さくて、私が一息にぐるっと走り切れるぐらいの大きさしかない。小島の内、大きい方を中の島という。そこは湖岸から小橋で繋がっており、老人や、愛犬家の散歩コースになっている。

 私と真子さんは、上江津湖をぐるっと半周して、中の島へと架かる小橋に到着した。

 橋のたもとには、猫がいた。黒猫と、茶色の雑種だ。猫たちはのんびり日向ぼっこをして、行き交う人々の様子を眺めていた。真子さんは、猫を見て、子供みたいにうずうずした顔をしている。猫じゃらしを引っこ抜いて手渡すと、真子さんは、早速、猫じゃらしを使って黒猫をおびき寄せた。

 猫は、簡単に真子さんに捕まって、下顎したあごを撫でられた。真子さんは、いつまでも飽きもせず、楽しそうに猫の頭を撫でまくっていた。


「にゃあ、にゃあ。にゃにゃ。にゃ?」


 まるで、猫と会話している風だった。なんというか、とんでもなく可愛らしい光景だった。真子さんは、見ているこっちが恥ずかしくなるぐらい、デレデレしている。

 この上江津湖では、何故かやたらと猫を見かける。猫達は、飼い猫か野良猫なのかは分からないのだが、多い時には一度に二、三匹見かける。猫は、付近の住民達からも可愛がられているようで、痩せておらず、毛並みもつやつやしている。あまり人を恐れる様子もない。私も猫は好きなので、願わくば、こういった光景がずっと続いて欲しいと思う。

 私は思わず、くすり、と、漏らす。

 真子さんは振り返り、不思議そうな表情を浮かべる。


「真子さんも、にゃあにゃあ言うたい」


 私が言うと、真子さんはハッとして顔を赤らめる。


「い、言ってないわ」

「ううん。今、言いよったけんね。猫撫でながら、にゃあにゃあ言って可愛かった」

「言ってないもん」

「言いましたあ」

「聞き間違いよ」


 なんて、真子さんは抗議する。慌てる様子がやけに微笑ましいので、つい、揶揄ってやりたくなる。やがて、言った言わないの水掛け論はじゃれ合いに変わる。私達は鬼ごっこを始め、はしゃぎながら橋を渡り、中の島へと辿り着く。私は真子さんに捕まってくすぐられた。私も反撃にくすぐり返す。そうして、私達はもつれ合い、二人して芝の上に転んだ。




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