第3話 真子と里子は食事する





 私は真子さんを軽自動車に乗せて、中央区へと向かった。

 熊本には、美味しい熊本ラーメン屋さんが沢山ある。関東でも、熊本ラーメンのお店が複数出店しており、人気を博していると聞く。だが、熊本人的感覚でいえば、それらの有名店は、概ね、中堅といった立ち位置にある。

 有名店は私にとっても馴染み深く、安心感のある味を気に入ってはいる。但し、私的には一番ではない。熊本旅行をする人は、旅行ガイドに頼らず、一度は地元の人間の勧めに従ってみて欲しい。思いもよらぬ名店に出くわすかもしれないからだ。


 私と真子さんが入ったのは、下通しもとおりから少し外れた路地にある、小さなラーメン屋だった。


「意外。豚骨じゃないんですね」


 ラーメンのスープを啜り、真子さんが言う。


「どう?」

「美味しい、です。とても」

「驚いた? 豚骨ラーメンの激戦区で、魚介系で生き残っとるとよ。半端じゃなかっだけん」


 私は、何故か自分が褒められたような気持になり、胸を張って言う。すると微かに、真子さんの口角が上がる。

 間もなく、定義さだよしがのれんを潜って来た。


「あ、おった」


 定義は、すぐに私の隣に腰掛けてラーメンを注文した。


「あれ。その人は?」


 定義は、真子さんに目を止めて言う。


「ほら。さっきの人たい。鞄ば振り回しよった」


 と、私は真子さんを紹介してやる。


「あ、来栖くるすです。初めまして」


 真子さんが、微笑を浮かべて挨拶をする。


「え、あ。は、初めまして……その」


 定義は、そのまま暫く固まった。真子さんのあまりの美しさに、言葉を失ったのだろう。


「そういえば定義、泰十郎たいじゅうろうは?」

「ああ、色々聞かれはしたけど、襲われたのは見れば解るし。暴行じゃにゃあけんて、すぐ帰って良いって。籠手も預かったけん、今度、礼ば言っとかにゃん」

「そうね。どうしても、会わにゃんと?」

「そりゃ会わにゃん、機嫌ば損ねるけん」


 私と定義が話していると、くすりと、真子さんが笑う。


「ん。どうしたと?」

「その、にゃあ、とか、にゃん、とか。熊本の人の言葉って、可愛らしいんですね」


 真子さんに言われて、急に、恥ずかしさが込み上げてくる。


「い、言ってにゃあ!」


 思わず口が滑る。すると真子さんは、声を上げて笑い出す。


「か、可愛い。可愛いです」


 真子さんは私の焦った顔を見て、余計に笑いのツボを刺激されたらしい。彼女は急にむせて、咳き込む程だった。

 ちなみに、にゃあ、とか、にゃん、とかいった表現は、熊本人的感覚では、やや乱暴な言葉遣いに当たる。だが、格好を付ければ付ける程、県外の人に対しては墓穴を掘る結果になるらしい。


 ★


 私達は食事を終えて、軽く繁華街をぷらぷらしてから自宅へと戻った。

 真子さんのことは直接ホテルに送り届けるつもりだったのだが、彼女は私の自宅に鞄を置き去りにして来たらしい。なので、私は真子さんを再び、自宅へと招待した。

 自宅に戻ると、定義はすぐにテレビを点ける。


「テレビ見とかんで、罰ゲーム」


 私は、ちょっぴり厳しく言ってやる。


「ええ? 今から?」

「今すぐ。私はお風呂沸かすけん。真子さんも、お風呂入っていくでしょう?」


 真子さんにも声をかける。


「え? でも、悪いです」

「気にせんで良いとよ。家には、私と定義しかおらんけん」


 私はそう言って、お風呂場へと向かった。

 この家には、私と弟の二人しか住んでいない。家は、病気で早世した父が建てた物だ。私達は数年前までは母と三人暮らしだったのだが、一昨年、母は再婚をした。私は母の再婚相手に馴染めず、この家に残った。定義もだ。母は、益城町ましきまちで再婚相手と生活している。

 私は風呂桶に水を満たしながら、ぼんやり考え込んでいた。

 江津湖、ラーメン屋。その二か所で、私は少し気になる物を目にした。その事が頭から離れなかった。

 真子さんの左手首に、古い傷痕があったのだ。まるで刃物で切り裂いた痕だった。それが意味するところは、一つしかないように思われた。

 真子さんは、東京から旅行に来たという。彼女が何か訳アリだと、薄々気が付いてはいた。でも、ラーメン屋で見た真子さんの笑顔を思い出すと、何故か、どうにも胸が締め付けられる気がして落ち着かなかない。あまり個人的な事情に立ち入りたくはないが、気になって仕方がない。


 居間に戻ると、縁側に、真子さんが座っていた。庭では、定義が汗だくで竹刀を振っている。

 私と定義には約束事がある。地稽古ぢげいこに負けた者は、千回以上素振りをするという決まりだ。それは私達にとっては単なる罰ゲームに過ぎないのだが、素振りの回数が多すぎるので、よその人に罰ゲームを科せば虐待といわれるかもしれない。


「ほら。膝が伸びとるよ」


 私は庭に出て、竹刀で定義の足を小突く。


「伸びてにゃあ。姉ちゃんが、いつも深く曲げ過ぎとるとたい」


 定義はムッとした顔で言い返す。


「そんなこと言いよるけん、剣に頼らにゃんと」

「でも、姉ちゃんのやり方は、ちょっと特殊過ぎるたい。誰も、あんなに深く腰は落とさん。邪道たい、邪道!」

「その邪道に負けたっでしょうが。文句言わんで腰ば落とす!」


 私は、膝カックンをするみたいに、竹刀の先で定義の膝裏を突いた。

 定義の言う通りだった。

 私の剣術には、やや特殊な哲学がある。普通の剣士は棒立ちを嫌いこそすれ、あまり深く膝を曲げる立ち方をしない。場に居付くことを嫌うからだ。一方で、私は深く腰を落とした構えを好む。攻撃よりも回避に重きを置いているからだ。

 剣術は武術であるからして、徹底的に希望的観測を排除した考え方をしなければならない。

 その考えに照らすと、攻撃を刀で受けた時、刀が折れず持ってくれるという考えは希望的観測に該当する。なので、私は受けを嫌い、可能な限り攻撃は回避すべきだと考える。その為には、素早い入り身の技術や、安定した低い構えが必要だ。勿論、それは簡単に実行出来ることではない。常識外れな、徹底的な足腰の鍛錬が必要になる。


 以前、泰十郎たいじゅうろうとも武術哲学を戦わせた事があるのだが、実は、泰十郎も、私とほぼ同じ考え方をしていた。寧ろ、泰十郎の方が余程厳しく戦いを捉えてもいた。


「さっちゃんのそれは、剣道というより古流剣術だな。ちゃんと剣術をやってみたら?」


 なんて、泰十郎は私に勧めた。


「……しがらみがあるけんねえ」


 口を尖らせて言うと、泰十郎は、全てを察したかのような苦笑いを浮かべるのだった。


 そんな訳で、私の剣道の実態は、我流剣術に近い。剣道以外の武術の術理も取り込んでいるから、空刀くうとう流とでも名付けようかな。

 却下。名前が格好悪い。

 泰十郎は私の形を見て、空手的視点から、いくつか助言をくれたこともある。歩法や回避のコツについても、とても興味深い指摘をしてくれた。それらは全て、私の剣術の糧となっている。それから、彼は一つだけ秘伝を教えてくれた。

 一般的な剣道の剣士は、下げた後ろ足で床を蹴り、突進して前のめりの面を打ち込むことが多い。剣道の試合でよく見るアレだ。剣道の剣士の間では、当然の事とされている。だが、私にはそのやり方は合わない。寧ろ、前方に出した足で体を引き寄せるようにして距離を詰めた方が良い。結局はその方が速い。そんな助言だった。その技法を可能とする為の鍛錬は恐ろしくきつかった。しかし、引き寄せの技術を体得してからは、飛躍的に、回避率と命中率が上がった。弟を簡単にあしらえるようになったのだ。

 多分、泰十郎たいじゅうろう定義さだよしが試合をすれば、泰十郎は素手で定義を負かしてしまうだろう。


「千!」


 掛け声と共に、定義が素振りを終える。もう汗だくで、ヘロヘロだ。定義はそのまま、ぐったりと縁側に寝そべった。


「あ、放ったらかしにしてごめん。退屈だったでしょう」


 私は、真子さんに言う。


「ううん。私にも、をやっている知り合いがいたから。少し懐かしくて」


 真子さんはほがらかに言う。


「へえ。じゃあ、真子さんも剣術を?」

「いいえ。私はやったことないです。ただ、知り合いがやっていたのを思い出して、懐かしくて。それに面白そうだなあ、とは思いますよ。強ければ、誰かに迷惑をかけることも減ると思うから」


 と、真子さんは微笑を浮かべる。その笑顔は寧ろ、何処となく淋し気に見えた。また、チクリと、胸に棘が刺さったような気持ちになる。真子さんに漂う悲しみの気配が、私の意地を刺激する。


「じゃあ、少しやってみる?」


 私は竹刀を差し出した。



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