第2話 来栖真子は血を流す
大型犬の牙が、
「こいつ!」
私は、犬を逃がしてしまった自分を責めた。だが次の瞬間、泰十郎は、ぐっと、右手で犬の口元を掴んだ。しかも何故か、上顎と下顎を締め付けるように握っている。そんな事をすれば余計に牙が食い込んでしまう。なのに、泰十郎はお構いなしだった。
泰十郎は「シッ」と、息吹を発っし、気合と共に、力づくで腕を引き抜いた。
悲鳴を上げたのは犬の方だった。同時に、白い物が弾け飛ぶ。犬の牙が折れ、地面に転がったのだ。
私は仰天した。
泰十郎は、犬を離さずにそのまま振り回しまくる。まずは前足を持ってぐるぐる回し、一度地面に叩きつけてから、今度は後ろ足を持って、ジャイアントスイング気味に振り回す。最終的に、大型犬は高々と持ち上げられて、地面に叩き付けられた。
「なんかぬしゃ!」
泰十郎は、更に憤怒の下段突きを放ち、拳が犬の腹部に突き刺さる。犬は、きゃん、きゃん、と悲鳴を上げる。それでも泰十郎の怒りは収まらない。彼は大型犬に馬乗りになると、可愛そうになるぐらい殴りつけた。
「やめなさい! もう充分だけん。死んだら可哀そうでしょう」
私は慌てて制止する。
「人ば襲った犬だけん、容赦したらいかん!」
泰十郎はまるで聞く耳を持たなかった。完全に、頭に血が昇っている。あまりの怒り様に、流石の私も少し怖くなった。
泰十郎を止められない。悟った私は、迷わず警察に電話をかけた。
★
暫くして、警官が湖にやって来た。
警官は事情を聴くために、犬ごと泰十郎を連れて行った。念の為に
泰十郎は、もう少し自制心を学ぶべきだ。
私は泰十郎達を見送って、
女は、まだ少女に覆いかぶさって震えていた。
「大丈夫。大丈夫だよ。絶対に守ってあげるからね」
繰り返し言う女の肩に、触れる。
びくりと、女の肩が震えた。
暫しの沈黙の後、女は恐る恐る顔を上げる。目が合うと、彼女は、少し恥ずかしそうに眼を伏せた。
驚く程、美しい顔立ちだった。
長い黒髪には艶があり、そこから覗く眉は少し下がり気味で、やや、気が弱そうな印象だ。大きな瞳は澄み切った光を湛え、目じりには小さな泣き黒子がある。すっきりとした口元は、
私は、これまで何人もの美人に出会ったが、彼女程美しい人に出会った事はなかった。同性の私から見ても、彼女は極めて魅力的であり、なんというか、とても儚い印象を受けた。一目見た瞬間に、私は、女として強い敗北感を覚えたが、もう、次元が違い過ぎて悔しいとも思わなかった。
「あの、その」
女が言う。
「あ。ああ、ごめんなさい。貴女があんまり美人だったけん。それに、とても勇気があるね。私だったら一人で立ち向かったかどうか分からんよ」
私は、照れ隠し交じりに手を差し出した。
「私は、
「く、
私と握手を交わし、真子さんは言う。震える声までもが、美しかった。
真子さんの腕から血液が伝い、私の右手に到達する。どうやら、犬と戦って怪我をしたらしい。
「怪我しとるたい」
「あ、だ、大丈夫です。その……こういうのは慣れてますから」
「は? 意味が解らんけど。兎に角、家に来なっせ。近くだけん」
「……きなっせ?」
真子さんの顔に、疑問が浮かぶ。
熊本弁を理解していない。旅行者だろうか?
「家に来るたい。これなら解る?」
「え、あ、はい。解りますけど、この子が、まだ」
と、真子さんは、女の子に目をやった。
見ると、女の子は失禁していた。年齢は七歳か、八歳ぐらいだろうか? どうであれ、この子も放ってはおけない。女の子の周囲には、真子さんの鞄の中身が散らばっていた。犬を相手に鞄を振り回したせいだろう。
私は仕方なく、散らばったあれこれを拾い集めた。
★
私は、女の子と
私の自宅は、上江津湖から徒歩三分程の所にある。二階建ての小さな家で、町の名前は
真子さんを居間へと通し、腕の傷をオキシドールで消毒して、
女の子は、失禁こそしたが無傷だった。真子さんは、見たところ武術の心得もないのに、それでもたった一人で猛犬に立ち向かい、女の子を守り抜いたのだ。
私は女の子をお風呂に入れて、着替えとお菓子を与えた。すると、やっと女の子に笑顔が浮かぶ。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「ううん。お礼なら真子さんに言ってあげて。この人は、武器も持たずにあの犬から、貴女を守り抜いたんだけん。凄いよね」
私が言うと、女の子は真子さんに向き直り、再びお礼を言う。すると真子さんは顔を赤くして、言葉に詰まる。その挙動不審な様子までもが、妙に可愛らしかった。
詳しく話を聞くと、女の子と真子さんとは初対面だったらしい。
女の子は、すぐ近くの県営団地に住んでいるそうだ。江津湖で友達と遊んでいたら、突然、野良犬に襲われたらしい。だが、噛みつかれる寸前で、通りかかった真子さんに救われたのだそうだ。
友達は、皆、驚いて逃げ去ったそうだ。
「怖かったね。でも、もう大丈夫だけん」
私は女の子の頭を撫でてやる。
間もなく、女の子は沢山のお菓子を抱え、上機嫌で帰宅していった。
★
私は熱い紅茶を入れて、テーブル越しに真子さんと向き合った。真子さんは少々、くたびれている風だった。口を開く元気もなさそうだ。だがそれ以前に、彼女の様子はとてもよそよそしい感じがした。
私から、話題を振ってみるか。
「観光?」
「え? あ、はい。そんなところです」
と、真子さんは目を逸らす。
やはり、真子さんは妙におどおどしている。何か隠し事がある。というよりも、人と話すのが得意ではないらしい。
「本当に?」
じっと、真子さんの目を見つめる。
真子さんは、私の視線に耐えられず、目を伏せた。
「鞄の中身、身分証も保険証も入ってなかったけど。観光用のパンフレットや冊子も入ってなかった。写真とか薬の瓶とか、何かの小説の外表紙とか、そんな物ばかり」
「それは……その」
「言葉があれだけん、地元の人じゃないよね。でも、観光にしては少し変じゃない? たった一人であんな大型犬に立ち向かっていくなんて、命が惜しくないみたい」
私は思わず、繰り返し質問を浴びせてしまった。これでは尋問してるみたいだ。
真子さんは顔を上げず、返事もしない。
「ま、いいけどね。でも、せっかく熊本に来たとなら、楽しんでいきなっせ。熊本城とか、阿蘇山にはもう行った?」
「いいえ。まだ」
「え? じゃあ、ラーメンとか馬刺しは食べた?」
「いいえ。それも……まだ」
「は? じゃあ、なんばしよったと?」
「なんばしよった?」
「ああ、何をしていたの? 何処だったら、行ったことがある?」
「あ、天草なら。その……私の先祖が、天草の出身だと聞いたことがあるので、教会を見に行ったんです。でも、親戚もいないので、こっちの様子を見に」
「こっちにも、縁が?」
「はい。昔の友人が、この近くの出身で。江津湖については聞いたことがあったので、どんなところかと思って」
「ふうん。江津湖に眼をつけるなんて、中々の通ね」
と、私は暫し思案する。
真子さんの表情を見た感じ、嘘はなさそうだ。
「じゃあ、ラーメン食べに行かん?」
「え? 今からですか」
「うん。お腹すいとらん?」
「そういえば、少し」
色白の顔に、照れた微笑が浮かぶ。
私はなんだか嬉しくなった。何故だか無性に、真子さんに、私が好きな熊本の風景や食べ物を教えてやりたい。そんな欲求に駆られたのだ。
私は早速腰を上げ、自動車の鍵をポケットに放り込む。その途端にお腹が、ぐう。と鳴った。
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