江津レイクタウン

真田宗治

第1話 東城里子は走り出す








 来栖くるす真子まこは、私がこれまでに出会ったどんな女性とも違った。

 真子さんは悲しい程に美しく、勇敢で、とても脆かった。彼女には、細い指先に至るまで爽やかな品性が備わっていた。在り方や、所作の一つ一つまでもが優美だった。

 私は同性でありながら、真子さんに強い憧れを抱いた。彼女からだけは、嫌われたくないと感じてしまう。私は、どうしても彼女を放っておけず、同時に、縋っていた。

 真子さんは数年前、恋人を失ったらしい。

 死別だ。


 ◇


 私が真子まこさんと出会った場所は、江津湖えづこだった。

 江津湖は、正しくは〝水前寺すいぜんじ江津湖えづこ公園こうえん〟という。熊本市のど真ん中にある、街のシンボルのような湖だ。江津湖は上江津湖かみえづこ下江津湖しもえづこの二つに分かれている。二つの湖は加勢川かせがわで繋がっており、上から見ると大きなタツノオトシゴのような形をしている。

 湧き水と、流れ込む川の水とで成り立つ湖は、長閑のどかで水も澄んで見える。だが残念なことに、最近では外来魚が増え、飲み水としても使えなくなっている。

 それでも、私は湖を愛していた。この町で生まれ育った者は皆、そうだろうと思う。


 それは、六月上旬の日曜日のことだった。

 江津湖沿いの市立体育館には、いつも弟と共に出向いた。私達姉弟には剣道の心得がある。私と弟は社会人になった今でも、週に一度は立ち合い、切磋琢磨せっさたくましている。


 私と弟は、その日も市立体育館の武道場で練習をしていた。

 武道場の隅では、知人の男が空手の練習をしていた。どうやら、二人の弟子に稽古をつけているらしい。

 私とその男とは、小学校、中学校と、同じ学校に通った仲だ。同じクラスになったこともある。だが、その時はこれといって親しい間柄ではなかった。彼と親しく会話するようになったのは、ここ数か月のことである。市立体育館で、度々、顔を合わせるようになったからだ。

 私は知人を横目に見ながら、三〇〇回の素振りを終えた。


「じゃあ、素振りはこの辺にして、軽く地稽古ぢげいこばするね」


 弟に告げて、防具を身につける。

 私の弟の定義さだよしは、慣れた調子で私の前に立つ。その様子に力みはない。だが、独特の鋭い剣気を纏っており、私の頬に乾いた威圧感が伝わって来る。

 定義さだよしは、剣道の全国大会に出場した経験がある。私はそんな弟との立ち合いに勝ち越していた。弟も、私も、共に二段の腕前だ。

 私達は互いに礼を交わし、蹲踞そんきょして、立ち合いを始める。

 武道場に、ピンと張り詰めた気配が充満する。床の冷たい感触が、私の感覚を研ぎ澄ます。すっと、定義さだよしの足が前に出る。呼応して、私は半歩下がる。弟は上段の構え。私は下段の構えを作る。

 やあ。と、気合の声が上がり、鋭く、弟が打ち込んできた。その攻撃をぎりぎりまで引き付けて、命中寸前で素早く身をかわす。回避は踏み込みと同義である。その流れで、次は私が仕掛ける。小手から面を狙う。と、見せて胴に打ち込む。乾いた音が響き、手に、竹のしなりを感じる。弟は、柄で攻撃をしのいだ。

 ここで一度、私達は距離を取る。

 互いに見合って、機先を探り合う。

 先に踏み込んだのは、私だった。

 やあっ、と面を打ち込むと見せて、変化させた胴を見舞う。定義は、面を受けようとした為に対応できず、綺麗に一本が決まった。

 勝負がつき、互いに礼を交わして面を取る。


「納得いかあん!」


 定義が声を上げる。


「剣に頼るけんたい。いつも言いよるでしょうが」


 と、私は防具を外し、その日の練習を終えた。


 ★


 私たち姉弟の練習場所は、自宅の庭と市立体育館だ。市立体育館の武道場は他の武道団体が使用している事もあるが、基本的には譲り合い、場所を融通し合って上手くやっている。

 シャワーで汗を流し、廊下に出た時だった。


「さっちゃん、さっちゃん」


 声に目を向けると、藤原ふじわら泰十郎たいじゅうろうがこちらへとやってきた。泰十郎は、先程、武道場の隅で空手を教えていた知人である。彼は自動販売機で缶コーヒーを買い、それを投げてよこす。 

 私と泰十郎は、廊下の長椅子で腰を下ろし、雑談しながら缶コーヒーを飲んだ。


「一人増えとらん?」


 私は疑問を口にする。

 それは、泰十郎たいじゅうろうの弟子の話である。私の記憶によると、泰十郎の弟子は、一人だけだった筈だ。だが、今日、泰十郎が指導を行っていた生徒は二人だった。私はそれを横目に見て、少し不思議に思ったのである。


「ああ、その事か」


 泰十郎は事情を説明してくれた。

 泰十郎は、一昨年までは、一流派を率いる空手の師範しはんだった。だが、一昨年、彼の流派内で派閥はばつ争いが発生したらしい。それに嫌気がさした泰十郎は、古参の老人に流派を任せ、自分は脱退してしまったそうだ。

 それからの泰十郎は、自分の趣味に没頭し、弟子を取りたがらなかった。オタクの彼にとって、ビデオゲームや漫画、アニメに時間を割ける日常は、それはそれで有意義だったようだ。

 そんな泰十郎は、半年程前に、知人の紹介で熱心な武術青年と知り合った。しかもその青年から、弟子入りを熱望されたらしい。泰十郎は、『既に引退しているから』と断ったのだが、青年は諦めなかった。それで、仕方なく青年を内弟子にしそうだ。

 それから泰十郎は、たまに市立体育館の武道場で内弟子に稽古をつけるようになったそうだ。


「あれは弟子じゃないよ。若井わかい君の後輩だ」


 泰十郎は、教え子を指して言う。

 泰十郎の話によると、内弟子の若井わかい君には、虐められっ子の後輩がいるらしい。若井君は後輩から相談を受け、勇気を付けさせる為に泰十郎を引き合わせた。泰十郎は事情にかんがみて、若井君の後輩も、練習に参加することを許したのだという。


「ふうん……あんた、意外とまともだったのね」


 皮肉を言ってやる。


「ん? 俺はずっとまともだよ」

「嘘ばっかり。中学校の時、何回あんたが不良に馬乗りパンチしとる所ば目撃したと思っとると?」

「さあ。そんな記憶はないけど。誰かと間違ってない?」


 泰十郎は惚けて返す。だが、私はしかと記憶している。彼が不良や暴走族のリーダーに馬乗りパンチをしている場面を目撃した回数は、一度や二度ではない。

 藤原ふじわら泰十郎たいじゅうろうは、凶暴だ。

 やがて、定義さだよしがシャワー室から出てきた。合流した私は、泰十郎と挨拶を交わして武道場を後にした。


 ★


 私の家は、先祖代々剣術を学んできた。私も八歳の時から祖父に教わり、学生時代はずっと、剣道部で竹刀を振っていたものだ。

 大学を卒業してからも、私は剣道を続けた。その目的は、試合に勝つためだとか、誰かに腕を自慢したいとか、健康の為だとか、そういったものではない。

 楽しかったのだ。ただ、道を行くのが楽しい。それだけだった。ただ、そんな私にも一つだけ悩みがある。

 恋人がいないのだ。

 それは、剣にのめり込む生活を続けているせいなのだろう。そう。私は、決してモテない訳ではない。単に、素敵な男性と出会う機会が少ないだけなのだ。多分。きっと!

 話を戻そう。

 体育館からの帰り道、私と弟は、自転車で東バイパスを疾走した。もう六月だから日差しが強い。風も熱気を孕みつつある。今年の夏もさぞ暑くなることだろう。

 右手には江津湖沿いの林が見え、左側にはバイパスを行く自動車の群れがある。車道の隅には、砕けたテールランプの破片と思しき物が散らばっていた。交通量の多い通りだから、事故でもあったのだろう。やがて、私達は〝さいとう橋〟へとさしかかる。目前には加勢川かせがわの流れがあった。加勢川は、上江津湖と下江津湖を繋いでいる。

 さいとう橋の上を通りかかった時のことだ。


「姉ちゃん、待って」


 後ろを走っていた定義さだよしが、少し強めに言う。


「なんね?」


 振り向くと、定義は、橋の欄干から身を乗り出して橋の下を眺めていた。私も自転車を降り、定義と肩を並べて橋の下へと目をやった。すると、湖岸の木陰で見知らぬ女が、手提げ鞄を狂ったように振り回していた。それはもう、鬼気迫る勢いだった。


「何しよるとかな?」


 弟に問う。私はすぐには事情が分からなかった。が、湖沿いのベンチに視線を移すと、女が何をしているのか、やっと解った。

 女の背後には小さな女の子がうずくまり、泣いている。女は、女の子を守るようにして、必死で鞄を振り回している。女の目の前には凶暴そうな大型犬が居て、威嚇しながら食らいつく機会を狙っている。

 私は事態を察っして竹刀袋の帯を解く。定義はもう、走りだしていた。

 私達は橋を後戻りして坂道を下り、女の許へと馳せ参じた。


「頑張ったね。下がって!」


 私は女に叫ぶ。

 姉弟、肩を並べて竹刀の切っ先を大型犬に向ける。犬は、シベリアンハスキーだった。大きい。私の身長に迫る体長がある。犬は牙を剥き出して唸り、こちらの隙を伺っている。とても、平和的には解決できそうにない。仕損じて圧し掛かられたら敗北は必至だが、そんなへまはしない。

 私には、自信があった。


「来なさい、こっちよ!」


 竹刀でバシ、と弟の尻を叩いて犬を威嚇いかくする。弟が「ばっ!」と、短い悲鳴を漏らし、犬はこちらに注目する。

 シベリアンハスキーは標的を私達に定め直し、低い唸り声を上げた。かなり鋭い殺気を感じる。普通の犬じゃない。機先を探られている。

 涙目で、定義さだよしが犬へと間合いを詰める。それでも犬は動じない。

 次の瞬間、犬が素早く弟に襲い掛かった。

 大きな影が鋭く迫る。

 定義は機を合わせ、やっ! と、横薙ぎの一閃を振り抜いた。だが、犬は素早く後方に下がり、竹刀を避ける。人間であったら回避不能な攻撃に思えたのだが。あの犬、恐るべき反応速度だ。

 犬は飛び退き着地すると同時、再び、弟へと突進する。定義は、咄嗟に竹刀を突き出して対抗する。その攻撃も命中せず、犬は、弟の竹刀の先端に食らいつく。


「こいつ。離せコラ!」


 定義は竹刀を引っ張り犬を振り回す。犬は離さない。竹刀を食いちぎらんばかり、首を振り、唸り声を上げている。

 ここだ。

 私は素早く間合いを詰め、渾身の面を打ち下ろす。

 攻撃は命中。

 ぎゃん! と鳴き声が上がる。犬はたまらず弟の竹刀を離し、飛び退いた。そこへ踏み込んで、私は犬に袈裟切りを見舞う。竹刀は犬の鼻先を掠める。

 犬は、きゃん。と悲鳴に似た声を上げ、間合いを取る。そのまま暫し睨み合いとなり、また、機先を伺う形となる。

 私も犬も、互いに踏み込めなかった。

 やがて、大型犬は口惜しげに私達を睨みつけた後、踵を返し、一目散に逃げだした。


「待ちなさい!」


 私は慌てて追いかける。が、到底追いつけそうにない。その視線の先には、あまり宜しくない状況があった。

 犬が走り去る先に、泰十郎たいじゅうろうが居たのだ。


「ああ、居た居た。さっちゃん、籠手こてば忘れとるよぉ」


 泰十郎は、呑気に笑顔を浮かべながら坂道を降りて来た。手には、私の剣道の籠手を持っている。多分、私が武道場に置き忘れたのに気が付いて、届けに来てくれたのだ。ありがたいが、タイミングが悪すぎる。

 犬は、唸り声を上げながら、真っすぐ泰十郎へと飛びかかった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る