第十四湯 沙耶と夏帆



「こうして憎きライバルが出来たわけだよ」


「夏帆に運転のことを教えてくれてるいい子じゃん」


 私はコーヒーに口を付けながら言った。

 だがブンブンと顔を横に振って否定された。


「いやいや、そんなんじゃないよ。あれは自慢を兼ねた挑発だよ!」


 夏帆は教習所の事を思い出すように視線を上に向けた。


「あれからずっと教習で会う度に挑発されたもん。『坂道発進は、サイドブレーキを解除する前に半クラを準備しとくんや!』とか『S字クランクは、内輪差を意識して、カーブし始めてからハンドルを切るんや!』とか」


 やっぱり、完全に教えてくれてるじゃん……。

 ひとしきり反論を言い終えると、夏帆はテーブルにうなだれた。


「……そうは言っても、実際あの子はすごかったよ。ミスなく第一段階クリアして行ったし。いま頃、第二段階の最終試験でも受けてるんじゃないかな」


「だとしたら完敗だね……。まぁ、運転は競うものじゃないから、夏帆のペースで頑張ればいいと思うよ」


 そう言うと、夏帆は瞳を潤ませながら顔を上げて、


「うぅ、サヤちゃんは優しいなぁ。そんなサヤちゃんが好きっ!」


 こちらに飛びかかろうとする姿勢になった。

 私はその額を手のひらで制し、


「まぁ、いい大人が学科試験落ちてるのはシャレにならないから、もう少しがんばろう。……というか、もっと勉強しろよ」


「うぅ……、がんばりますぅ」


 しゅんと小さくなった夏帆は、しずしずと勉強に戻った。

 真剣に勉強する姿を眺めながら、私は社会人になってから試験とかテストとか言うものがめっきりなくなったなと思った。


 学生のときはテスト期間が迫る度に泣けるような想いで深夜まで勉強していた覚えがある。両親は事ある度に「学生の時にもっと勉強しておけばよかった」と言っていたけれど、私は「もう二度と試験のための勉強はしたくない……」という思いは今のところ変わっていない。現国や古文を勉強したからといってコミュニケーション能力が上がるわけではなかったし、数学や物理を勉強しても日常生活が便利になるわけでもなかった。


 考えが変わったことで言えば、自分のためになる事とか本当に好きな事であれば、一生かけても勉強できる、ということくらいだ。

 車やプログラミングに触れた時、「これなら一生興味をもって追求できるかも」と思った。車はプログラムだし、プログラムは車だ。入力したものに対して、それ以上の答えを返さない。命令したとおりに動いてくれる。思い通りに動いてくれないなら、それは自分が間違っているから。理由は明確である。学生の試験と違うのは、誰かが決めた答えに合わせる必要がないってこと。自分の想像したことを自由に表現するためのアイテムである。

 その他のことは思い通りに回ってくれない。恋とか友人関係、家族事情でさえ、いつだって複雑だった。私の理想と彼ら彼女らの理想は違う。そんな当たり前なことも分かっていなくて、10代の頃は嫌な思いばかりしていた。


 そんなことの繰り返しで人間関係を避けていたら、いつの間にか一人ぼっちになっていた。

 朝起きて、仕事に行って、帰ったら寝るだけの生活。休みがあれば車で箱根に行って温泉に入る生活。それが虚しかったかというと、決してそうではなかった。一人の時間はとても有意義なものだった。


 ただ、私は寂しかった。


 夏帆と私の作業が一段落つく頃には、陽が落ちて夜になっていた。

 マスターにサヨナラしてから店の外に出る。暗闇の中、街灯がロードスターを照らしていた。

 夏帆は暗がりでもわかる明るい笑顔を向けてくる。


「サヤちゃん、今日は勉強に付き合ってくれてありがとうね」


「ううん、私もゆっくり調べ物できて良かったよ。それに、タダで美味しいコーヒーも飲めたし」


 半日以上の時間を過ごしていたにも関わらず、私は喫茶店で一銭も払わなかった。すべて夏帆が出してくれたのだ。バイトの特権で安くなるのかと思ったけれど、特にマスターとのやり取りを聞く限り、普通のお客さんとして扱われていたように思う。


「それぐらいは当然だよ。お休みだし、本当は温泉行きたかったんじゃないかなぁって。せめてものお礼です!」


「うん? 温泉は、これから行こうと思ってたんだけど」


 夏帆は立ち止まって驚きの表情になった。


「えぇぇぇ!? い、今から? もう夜だよ」


「むしろ休日は夜から始まるまである」


「なにそれ、なんかの哲学?」


 小首を傾げて夏帆が問いかけてきた。

 ロードスターに向かって歩きながら背中で語る。


「……一般的な社畜の休日の過ごし方だよ」


 ロードスターを解錠して運転席のドアを開く。

 夏帆は店前に立ち止まったまま、戸惑いの表情をしていた。


「あの……あたしも行っていいでしょうか?」


「え? むしろ行かないの?」


 私は問い返した。連れていく気満々だったんだけど……。

 夏帆は瞳をパチクリとさせてから、思い立ったように声を上げた。


「行きますっ! あたしを温泉に連れてってください!」



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  



 等間隔で置かれた光のアーチをくぐりながらロードスターが走る。

 走りなれた夜の東名高速道路。見慣れた暖色のランプの灯り。聞き慣れたエンジンと入り込む風の音。

 でも今日は新鮮な気持ちだった。今までと違って助手席に人を載せている。

 助手席の夏帆は、教習所での話を楽しげに話してくる。学科でのバカバカしい誤答とか、運転初心者のあるあるとか。私はそれを耳だけ傾けて、口元を綻ばせながら運転している。ラジオを掛けてもこんな面白い番組はやっていないだろう。

 やがて夏帆はトーンを落として自身の技量について言及した。


「あたしってセンス無いのかな? 学科も受からないし、人の2倍くらい技能やってる気がする……」


 夏帆はトホホと溜め息をついてシートベルトに頬を載せた。教習所で出会った女の子に言われたことが気になっているようだ。


「そんな気に病むことでもないと思うよ。私も卒業検定で一度落ちてるし」


 すると驚愕の顔で夏帆が身体を震わせた。


「う、嘘でしょ……。あのサヤちゃんでも落ちるの?」


「どんなサヤちゃんを想像してたか知らんけど……」


 私だって最初から運転ができたわけではない。


「交差点で信号が変わった時に止まり切れなくて停止線を越えてて落ちたよ。最初もエンスト、脱輪しまくりだったし、坂道発進なんてやること多すぎでパニックになったしね」


 思い出すと、よく免許とれたもんだなぁ。

 何度も失敗して何度も練習して上手くなってきた。それに、運転に関してはまだまだ初心者だとも思っている。


「だからまあ、大丈夫だよ。運転なんて慣れだから」


「そっか、ありがとう。なんとかなる気がしてきたよ」


「もちろん練習はしっかりやらないとダメだよ」


「うん! がんばります!」


 えいえいむんと夏帆は自身を鼓舞した。

 そして自分の今置かれている状況を把握しようとキョロキョロと周りの見て、


「ところで、この車はどちらに向かっているんですか?」


 ウキウキ気分で訊いてきた。

 出発してから小一時間経とうとしているんだけど……。どこに連れて行かれるかも知らずに車に載っちゃうとは、誘拐とか拉致とかされそうで恐いよ……。


「まあ変なところには連れて行かないよ」



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  



 到着したのは『かよい湯治 一休』。夏帆と一緒に初めて入った温泉だ。

 受付を通って着替え所へ。手際よく服を脱いでロッカーに放り込む。今回は夏帆のほうが準備を早く済ませて私を急かした。

 湯気が立ち込める檜風呂に浸かる。


「ここだったんだねぇ。ぬ~ん、相変わらずいい匂い♪」


 夏帆は目を閉じてヒノキとどこからか漂う柚子の香りを堪能していた。

 私自身、ここに来るのは久しぶりかも。あれから伊豆とか那須高原とか色んな温泉地に行っていたからね。

 原点回帰。やっぱり、ここもいいな。

 2人でこうしてぼんやりとしていると、出会ったときのことを思い出す。

 ほんと、あれから──


「あれからいろんなことがあったね」


 夏帆がしみじみと言葉を発した。私と同じことを考えていたみたい。


「そうだね」


 それから私たちは、箱根のこと、喫茶店のこと、伊豆のこと、いちご大福のこと、那須高原のことを取り止めもなく話した。ほんのひと夏の出来事なのに、しみじみしたり、物申したり、笑い合ったり。

 ひとしきり話し終わると優しい沈黙が訪れた。

 そんな中、夏帆は火照った頬で、さきほどよりも穏やかな声でつぶやく。


「あたしね、サヤちゃんにはものすごく感謝してるんだよ。迷子を助けてくれたのもあるけどさ……。それ以上に、車とか温泉っていう趣味を教えてくれたこととか、あたしと友達になってくれたことが嬉しいんだ。サヤちゃんに会う度に新しい目標が生まれるみたいでさ、いつも楽しいんだよ」


 夏帆が照れながら言うのでこっちも照れてくる。私からは「うん」とか「そっか」とか、素っ気ない言葉が口から漏れるだけだった。

 夏帆はこの一ヶ月くらいで色んな新しいことを始めたんだなぁ。バイトとか運転とか。

 ……私の生活はどうだろう。夏帆と出会ってから何か変わっただろうか。


「そう考えると、私ってなにも変わっていないかも」


「そう? あたしは、サヤちゃんってものすごく変わった気がするけど」


「たとえば?」


「うーんとね……」


 夏帆はピコンッと頭上に出たひらめき電球を指さした。


「あっ! 笑うようになった!」


「……無愛想でごめんね」


 自嘲の笑みをもらすと、夏帆のフォローが入る。


「いや、なんていうか、表情が優しくなった? 初めて会ったときのサヤちゃんはクールなイメージだったけど、今はそこに可愛さが足されたかんじで最高なんだよぉ」


 そう言いながら夏帆はゆっくりと肩を寄せて触れてきた。

 恥ずかしくなって身体と話題をそらす。


「なんか、そういうんじゃなくて、趣味とか行動的なことは変わらないと思ったの。……私って現状維持しかしていない気がするんだよ」


 いまの私にあることってロードスターと温泉だけ。それだけで十分な気がしていたのに、なぜか焦りにも似た気持ちがフツフツと上がってくる。

 浮かぶモヤに頭を悩ませていると、夏帆は難しい顔をして「うーん」と唸った。


「どうなんだろ、変わらないことも大事じゃないかな? あたし、サヤちゃんみたいに軸的なもの持ってないから流行りに身を任せてるところあるし」


 頭をフラフラさせながら続ける。


「最近はTikTokとかに手を出し始めたしね。あたし達より下の世代ってものすごい勢いがあるんだよ。どうやったらバズれるのか考えてるけど……こっちはあたしには合ってないかもしんないね」


 夏帆はハハハと乾いた笑いで眉を下げた。

 そんな様子の夏帆を見ていると、自然と口から言葉が漏れていた。


「夏帆ってすごいよね」


「ど、どうしたの急に?」


「教習所通うのもそうだし、やりたいことに全力で挑戦している感じがする。新しいことに挑戦するのって恐くない?」


 夏帆はそれを聞くと、小首を傾げて一時停止した。それからいつもの笑顔になって答える。


「そうだけどさ、やっぱり挑戦するのって楽しいし! ……まぁ失敗したときは後悔するけどさ。それでも思い返した時に、『あのとき挑戦しといて良かったなぁ』って思えるんだよ」


 私は唖然として言葉に詰まってしまった。


「か、夏帆がまともなこと言ってる……」


「失礼な! あたしはいつだってまともだし、いつだって本気で考えてるよ!」


 プンプンしている夏帆をよそに、私は湯気に意識を漂わせながら物思いにふけった。


 私にもやってみたいことは山ほどある。一時のやる気に任せて『やってみたいリスト』を書き出してみたけれど、勇気を出せなくて保留になっているものがたくさんある。

 やらない理由を並べて実行しない、ただの臆病者である。いろいろなものから逃げてきた癖が今の私を後悔させているというのに、いまだ動き出せない。


 ひとりぼっちの私。

 きっと、私は、誰かが背中を押してくれるのを待っていたんだ。


 でも今は隣に居てくれる女の子がいる。箱根で迷子になっていた女の子。苦手なことにも一生懸命挑戦する女の子。この子から勇気をもらえるなんて思ってもいなかった。


 自分に語りかけるように口を開いた。


「ロードスターのオフ会行ってみようかな」


 その言葉に夏帆が反応する。


「ぬ? オフ会?」


「いや、なんでもない」


 これは私の挑戦。誰かに手助けしてもらうものではない。

 湯船に沈みながら小声でつぶやいた。


「……夏帆も頑張ってるから私も頑張ろうと思っただけ」


「ぬ?」


 私がブクブクして黙っていると、夏帆はそれ以上は問いかけずに優しく微笑んだ。


 こうして夏帆と一緒にいる時間は何の苦にもならない。居心地がいいって思うことだってしばしば。いまだってそう。

 そうだ。夏帆と会った日から、少しだけ生活が変わっていたんだ。灰色だった日常に、淡くて優しい色がついたような、そんな感覚。


 温泉とか車とか、私の『楽しい』を夏帆にも共感してほしい。そんなワガママにも似た思いを、もしかしたら勝手に押し付けているだけかもしれない。そう思っていた。

 それでも夏帆は、温泉のことを好きになってくれた。車に興味を持ってくれた。そして教習所に通って、必死に学科の勉強と運転の練習をしている。今も私の隣で一緒に温泉に入ってくれている。

 そう思ったら頑張れる理由しかない。


 箱根から横浜への帰り道。

 夏帆は自分が運転しているかのように空中のハンドルを回したり、足元にないはずのアクセルやクラッチを踏んでいた。

 喫茶店に着いた頃には、店内の電灯は消えていた。クロスバイクの前に車を止めて夏帆を降ろした。

 私は窓を開けて夏帆に呼びかけた。


「今日はありがとう」


「何言ってるの〜。それはこっちのセリフだよ」


 夏帆は笑いながら言葉を返した。

 ロードスターを反転し、帰路に付こうとしたところで呼び止められた。


「サヤちゃん!」


 窓から顔を出して振り返ると、手を振りながら笑顔を送ってくる。


「免許取ったら一緒にドライブしようね!」


 私は頷きで返し、それから窓から手を出して応えた。

 うん、絶対に行こう。



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  



 残暑残る9月の初週。

 朝の中央自動車道でロードスターを走らせている。休日とは言っても車の数は平日とあまり変わらない。目指すは長野県の美ヶ原高原。ロードスターオフ会の『スターゲイザーミーティング』が開催される場所である。

 ふとバックミラーに目をやると赤色のロードスターが近づいてきた。

 もしかして、あちらもオフ会に行くのかな。いや、流石に開催地まで遠いし違うかな。

 そのロードスターは追い越し車線に入り、ゆっくりと私のロードスターと並びかけた。

 気になってみてみると、私と同年代の女の子二人組がこちらに笑顔で手を振りながら追い越していく。おぅ、これが陽キャか……。私はそっと手を振り返しておいた。

 追い越していったロードスターのトランクには、丸いマグネットが貼られていた。星屑と流れ星をイメージしたイラストが描かれている。それはスターゲイザーの参加者へ事前に送られていたマグネットで、私も同じものを後ろに貼っていたのである。

 あぁ、それで向こうは気づいてくれたのか。ちょっと恥ずかしいけれど、こういうの良いかも。


 小淵沢インターで降り、山を登りながら集合場所を目指す。

 到着まで残り1時間ほど。『道の駅こぶちさわ』を過ぎ、緩やかな上りに入り始めたところで、白いロードスターがオープンのまま路肩に止まっていた。トランクにはスターゲイザーのマグネットの他に、初心者マークが貼られている。

 初心者でロードスターとは珍しいな。私は社会人になってお金を貯めてようやく手に入れたというのに……。

 さらに、そのロードスターには通常付いていないデカい羽、リアウィングが付いていた。空でも飛ぶんかなぁ……。

 今度は私からコンタクト取ってみようと近づくと、ロードスターの前で頭を抱えている女の子が目に入った。どうしたんだろう?

 気になって通り越したところで停車。

 駆け寄って声を掛ける。見た感じ私よりも身長も年齢も下のように思えた。


「大丈夫? なにかトラブル?」


 振り返ったのは、赤色のメッシュが特徴的な女の子。


「あぁ! もしかして姉ちゃんもオフ会に行く人か? なんか、ナビしとったスマホの調子が悪いみたいでな……」


 世間は狭い。道端で偶然出会うような人でも、一生続く間柄になるかもしれない。

 そして世界は広い。一生かけてもやりきれない遊びや趣味で溢れている。悔いのない人生を送ろうにも骨が折れそうだ。

 未来のことはよく分からないけれど、せめてこの一瞬一瞬に悔いを残さないように。

 曇った表情の彼女に、私は微笑みながら言った。


「良かったら一緒に行く? 道案内くらいならできるよ」



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おんどら! おんどら同好会 @ondora-club

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ