3. 深淵に眠るもの
青年は穴の淵に立つと、持っていた花々をふわりと手放した。絶壁の谷底からあるかなきかの風が吹き、緩やかにその花々を絡め取って静かに引き込んでいく。ひらひらと、傾き始めた陽射しを受けながら落ちていくそれらはまるで七色の宝石のようだった。じっと深淵を見つめる彼の横で、不意に青年が眉根を寄せた。同時に、彼もそれに気づく。
微かに響く、低い歌声——否、それは。
「
「違う、そんなはずはない」
ありえない、と青年は歯を食いしばるようにして声を洩らす。その瞳は谷底を食い入るように見つめている。あるいは、青年の兄であれば視えただろうか。
「そなたには聴こえているのだろう」
「違う、あれは——」
首を振る青年の肩を軽く叩いてから、彼は穴の中をもう一度覗き込んだ。暗い穴は底知れぬ深さで、やはり奥は見えない。微かに響くその音が声なのか、あるいは穴の隙間を吹き抜けるただの風なのかさえ判然としないほどに。
「まあ、実際に見てみればわかることよの」
「実際にって……まさかあんた⁉︎」
「そのために来たのだ、当然だろう」
そう言って一歩を踏み出した彼の腕を、青年がきつく掴む。真っ青な夏空のような瞳は深淵を映してなお闇に染まらない透き通った色をしていた。彼にしては珍しくその瞳に見惚れ、ややして柔らかく微笑んだ。
「一人で来た者たちが戻って来ぬのは呼ばれたからだ。そなたがここにいる以上、その条件は満たされぬ。可能であればここで待っていてもらいたいが、恐ろしいのであれば今すぐ戻るがいい。そなたの姿が見えなくなるまでここで見送ろう」
青年は不可解そうに眉根を寄せる。立ち去るよう促すでもなく、見捨てて去ろうとするわけでもなく、ただ真意を探るように。彼についてきたのは、案内をするためなどではないのだ。
「知りたいか?」
何を、とは彼は尋ねなかったし、青年も答えなかった。沈黙を肯定と受けとめて彼は続ける。
「そなたはこの奥底に、何かが眠っていると知っていた。だからこそ、時を狂わせてまで素材を集め、なんとか封じようとした」
「……眠っている、のか?」
「ふむ、よい質問だ」
「ふざけるな! 遊びじゃないんだぞ。あんたはそれを調べるためにやってきたんじゃないのか⁉︎」
激昂して彼の襟首を掴んだ青年に、彼は少し困ったような微笑を浮かべて首を傾げる。すぐに青年の手の力が抜けたのを感じて、彼は緩みそうになる口元を引き締め、青年の頬にそっと手を伸ばした。労わるように。実のところ、彼は自分の顔の美醜には興味がなかったが、その効能についてはよく理解していた。
それから、ゆっくりと低く歌うように話し出す。今度は、青年の心を搦めとるように。
「
いずれも眠りを誘うその草花は、煎じて煮詰め、とある薬と混ぜ合わせれば、
「幾度作った?」
「……月に一度。それ以上は材料が足りなかった」
「それで足りたのか?」
彼の曖昧な問いに、けれど青年は静かに頷く。その顔に刻まれた苦悩の翳りは、日頃あまり他者に心動かされない彼にとってさえ、何か痛ましいもののように思えた。
「可哀想に」
小さな子供にするように引き寄せて背中を撫でると、青年は唇を噛み締め、さらに眉根を寄せた。彼の方が背が低いから、傍から見れば奇異に映ったかもしれない。だが、動物さえ寄りつかぬ深淵の際。誰の目も気にはならなかった。
青年はしばしされるがままになっていたが、ややして我に返ったかのように身を離す。
「憐れみなど意味がない。あんたは使者なんだろう。救う術があるのなら教えてくれ」
「ふむ、背負い込むのは血筋かの」
「血筋……?」
「そなたの兄も、世界の命運を背負い込んでおるようだったよ」
「会ったのか?」
「ああ、一度な。向こうはおぼえておらぬとは思うが」
さて、と彼は手を離して青年に微笑みかける。いずれにせよ、彼の目的はこの深淵を探ること。ある程度の予測はできても、常に未来は不確定である。何が起こるかわからない未知の領域へ、多少なりとも情の湧いた相手を巻き込むことにほんのわずかためらう。それは、彼にしてはごく珍しいことだったのだが、青年が知る由もない。
それでも、結局彼は手を差し出した。
「
青年はじっと彼の灰色の瞳を見つめる。しばらく視線をさまよわせていたが、やがて眉根を寄せたまま彼の手を取った。本当にいいのか、と重ねて問うことはしなかった。それがこの若者の選択ならば、拒否する理由はない。
「ならばゆこうか」
深淵の底へ。
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