1. 森の道行き

 けものみち、と呼んでよいのかさえ曖昧な、わずかにしたえが払われただけの道なき道を進んでどれほど経ったのか。彼は周囲を見渡して、額の汗を拭いながらほう、と一つ息を吐く。

 長い青みがかった黒髪を払って露わになったほそおもての横顔は、一見性別が判然としない。彼自身はあまり身なりを気にする方ではなかったが、美貌で名高かった母親譲りの整った容貌かおかたちである。そのおかげで、研究に没頭する偏狭へんきょうな性格のわりに周囲から何くれとなく世話を焼かれていた。


 ともあれ、それもまたやたらと世話焼きだった同僚から貰い受けた銀色の筒をふところから取り出し、蓋を開けて口をつける。ひんやりとした水が喉を潤し、ようやく人心地ついた。改めて周囲を見渡したが鳥の声さえしない。これほど豊かな森で生き物の気配がないなど、あり得るはずもないというのに。

眩惑まどわしの術か……」

 呟いた彼の声も森の静寂しじまに吸い込まれていく。害意は感じないが、この先にあるはずの村にたどり着ける気もしない。ふもとの村で聞いていたまさにその通り、案内人なしでこのに踏み込むことの無謀さを早々に悟らざるを得なかった。

 このまま進むか、引き返して迎えを待つか。彼がそう思案し始めた時、がさりと草をかき分ける音がした。


 ぬっと唐突に目の前に現れた影は彼の目線よりも背が高い。大きな獣かと呆然と見つめていると、相手は呆れたように低い声でうなった。

「何やってんだ、こんなところで」

 相手がぐいと彼の腕を引いた。同時にすぐ耳の脇を鋭い音が掠める。頬に走った熱の意味もわからないまま、腕を引かれて走り出す。

「ちょっと待っ……」

「黙って走れ。こんなところで死にたくなければ」

 相手の青い眼差しは鋭く、冗談や軽口のたぐいでないのが率直に伝わってきた。

「森に棲むものたちが不機嫌になってる。だから今は誰も森に入ろうとしないってのに、なんて無謀な真似をしやがるんだ。クルムの連中から聞かなかったのか?」

 厳しい声の問いに、彼はただ顎を撫でて、ふむ、と首を傾げながらも頷く。

「迷わされてどうせ進めはしないから、案内人なしには入るなとは言われたが」

「警告には従うべきだ。慣れない土地ならなおさらな」

 呆れたように言う声は意外に若い。青年は彼の腕を引いて森の奥へと進む。もつれそうになる足を必死に動かし、枝に絡みつく髪をほどきながら走り続けてついに音を上げる直前、青年がようやく足を止めた。


 森の途切れた先は高台になっていた。見下ろせば、山と森に抱かれるようにまるい台地があり、その端に集落が見えた。常緑樹の深い緑から新緑の鮮やかな黄緑、あちらこちらに咲く白や薄紅色の花が美しく周囲をいろどっている。

 高みからそれを見渡し、息を整えていた彼は、ふと微かにその秀麗な眉根を寄せた。集落からしばらく離れた場所に、黒い裂け目があった。森に囲まれていながらも、はっきりとその存在感を明らかにしている深いふちは、真昼の太陽の光が差し込んでいるというのに底が見えない。

 唐突なその亀裂は——実際にその目で見なければ信じられないことに——集落と同じほどの大きさだった。研究室で目を通した報告書の内容が脳裏に蘇る。


『突然に大地を割って現れた穴は、村の半分を呑み込んだ』


 突然の災厄への避難は先見視さきみの予知——幻視を元に、村長むらおさの指示で行われたのだという。だが、実際の被害が起きるまで半日近い時間差があった。さらにはその先見視が凶兆を予知したのはそれが初めてで、本人でさえも自らの幻視に確信を抱けなかった。故にただ待つことに飽いた人々が村へと戻り、結果悲劇を生んだと報告書には記載されていた。

 経験豊かな先見視がその予知を告げていたら——あるいは、もっと具体的な時間がわかっていれば、悲劇は避けられたのかもしれない。報告を聞いた長老たちは一様に愚かな、と鼻で笑っていたが、そもそもその悲劇を起こしたのは彼らの一族の一人。むしろ責められるのは彼らの方で、被害を最小限に食い止めた先見視をわらうなどあってはならぬことだ。

 とはいえ、いずれにせよ長老たちの意図など彼の興味の埒外ではあったのだが。


 薄く笑った彼に、傍らの青年が怪訝そうな眼差しを向けてくる。視線が彼の眼から頬の辺りで止まり、何かに気づいたかのように手を伸ばしてきた。

「傷が……ちょっと待ってろ」

 そう言って腰の革袋から水筒と透明な小瓶を取り出すと、水で軽く頬を濡らし、小瓶の中身を指ですくって頬の傷に塗りつけた。スッと鼻をつくその匂いには覚えがあった。

薄荷ミントに……ヨモギか。さほど深い傷でもないゆえ、放っておいても平気だが」

「せっかくの美人だ。大事にしとけよ」

 頬に触れたままそう笑った顔に、彼は首を傾げる。

「ふむ、このような顔が好みか? あいにく私はこれでも雌雄で言えばオスの部類に入るゆえ、婚姻を望むなら性別を変化させる必要があるが——いやまあ子を望まねば別に良いのだが」

 なめらかな顎を撫でながらそう言った彼に、青年は青い目を大きく見開く。彼より頭半分ほど高い背に、暗赤色の髪。麓の村の人々とは少し異なる、薄緑を基調としたゆるい長衣を腰の辺りで紐で括り、下衣ズボンを重ねている。長靴ブーツは何かの動物の革をなめしたものか、使い込まれているが丈夫そうだった。緋色の紐が通されているのが目を惹いた。

「あんた男なのか⁉︎ っていうか、婚姻とかいきなり突拍子もねえな……」

「好ましい相手なら伴侶に望む。そういうものであろう?」

「……相手に困ってるようには見えねえが」

「少なくとも、今は道案内が必要だの」

 彼が肩を竦めてそう言うと、青年は拍子抜けしたように口を開けた。

「……何か聞いてた話と違う気がするが、とにかくあんたはあの亀裂を見にきたんだよな?」

「それには違いない。まあ細かいことは追って説明があるじゃろう」

「追って?」

 眉根を寄せた青年に、彼は口元を緩めて笑う。いずれにしてもその地を自身の目で見、調査することが目的なのは間違いなかった。

「まずはあそこまで案内してもらえるか? 私は魔法学術都市カラヴィスより来た。北の古都、イェネスハイムの長老連中とは……まあ顔見知りと言って差し支えない」

「カラヴィス……専門は?」

「精霊の魔法と魔法陣の開発だの」


 そういえば、とふと彼は思い出す。同じ街に住む魔女と呼ばれる女が以前弟子をとっていたことを。そしてその弟子こそが、大戦を終わらせた立役者の一人であり、このダレンアールの村の出身であったことを。


「そなた、先見視さきみの」

 そう彼が呟くと青年は不機嫌そうに顔を顰める。ここは彼の故郷であり、彼の始まりの場所。自責の念と、後悔と、そしてありとあらゆる困難を引き受けて、それでも救いたかった場所。

「どうやら私は運がいい」

「何でだ?」

「そなたのその瞳と魔力ちからも研究対象に入れたかったのでな」

「俺は実験動物じゃないぞ。それに違う、俺じゃない」

「何、痛くしたりはせぬから」

 ぐい、と顔を寄せた彼に、青年は束の間見惚れるように固まったが、すぐに大きな手のひらで押しのけた。

「よせって。違うって言ってんだろ! 本当に精霊ってのは話を聞かないな」

「私は精霊ではないぞ、あんな化け物じみたものたちと一緒にするでない」

「嘘つけ、唯人ただびとが二百年も生きるもんか」


 吐き捨てるように言われたその言葉に、彼は目を丸くする。何しろそれは事実を言い当てていたので。

「ふむ、誠に興味深い。そなたの瞳、未来さきるだけではないのか。眼球に何ら変化は見られぬようだが、頭の中で別の機構が働いておるのか、はたまた魔力が瞳に巡っている故か——痛い!」

 顔を掴んでまじまじと見つめながら観察していた彼の頭に、かなり容赦のない力で拳が落とされた。ちかちかと火花が散る視界に思わず抗議の声を上げる。

「いきなりの暴力は感心せぬぞ。私のこの頭脳が失われたらどうしてくれる」

「イカレた研究者の一人くらい消えたって誰も困りゃしねえよ。ともかく、調査に来たのなら真面目にやれ。あれは、お前らの罪の証だろう」

 低い声に改めて亀裂を見遣れば、底なしの闇の向こうに何か不穏な気配を感じた。彼の色素の薄い灰色の瞳に映る、闇よりなおくらい影。だが、その奥にもっと不自然な——。

「誠に面白い」


 そう言って笑った彼の表情に、隣に立っていた青年がぎょっと身を引いたが、彼は気づかなかった。

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