奴奈川と大穴牟遅の離縁

 健が唐突に言い出したヌナカワへの提案。

 それは出雲の国王オオナムチと離縁をするというものであった。


 当然ながらそれを聞いたヌナカワは目を丸めて健に詰め寄る。

「そんなことをして、いったい何の得があると言うのだ! 今はヤマトと対峙する時であるのに、出雲と高志の関係にくさびを打つようなものであろう!」

 目の前にヌナカワの顔がぐっと寄せられると、健もいささか緊張して反射的に背を反らした。もちろん年上とはいえ女性に詰め寄られるなんて経験は母か姉くらい――しかしこんな美女が相手なのはもと居た現代でも決して無い。

「当然じゃん。つまり僕が……要するにタケミナカタさんが出雲の第二王子で科野の王にもなって、そのお母さんが出雲の王の奥さんなんだから姫は、っていうか、高志も当然、出雲寄りだと思われてるからだよ」

「それがどうしたというのだ?」

「仮にだけど出雲とヤマトが戦争を避けられなくなった場合、当然ながら科野は僕の領地だからヤマトに攻め込まれる口実があるんだ。だけど高志は姫とオオナムチさんの関係が切れれば、少なくとも安全なんだよ」


 いったい健は何を言い出すのか、とばかりにヌナカワは着物の裾を払うとおもむろに立ちあがり彼に背を向ける。

「そのためにヤマトと和議を結ぶ算段ではなかったのか?」

「うん。だけどこのままだと上手くいく気がしないよ。スパイでも放って日の巫女を亡き者にするとか、徐々にヤマトの領地を削っていくとか、よっぽど危険を冒さないと。その前準備でまずは高志と出雲をバラバラにする方がいいかなって」

「馬鹿を申すでない。いずれにせよミホススミと私は親子なのだ。今はそれを演ずるタケルが出雲の王子だろうが科野の王だろうが、高志はそもそも交易で出雲とも科野とも関係が深い。すなわち三国はヤマトと戦になれば一心同体だ」

「それが危険なんだってば。せめて姫や高志のみんなだけでも助けてあげられる方法を考えてるんだけどさ」


 そこまで黙って会話を見守っていた乙姫は健の肩や腕を何度か叩く。

「ねぇ、南方くんが言ってる意味はわかるんだけどさ、今ヤマトと和議をしようって時にわざわざ出雲と高志の関係性を薄くするようなマネしたら、ヤマトは調子に乗るんじゃないの? 和議を破談にしてまた攻めてくるかもしれないよ?」

「もちろん、でもそれが今なんじゃないかって思うんだ。仮にヤマトと本格的に戦争になった時に姫がオオナムチさんとの離縁を公表してみなよ? 高志は自国を守るために旦那さんも息子も捨てたって評判になって逆に孤立すると思うよ?」

「だったら別に今でも戦争中でも、姫はずっと離婚する必要ないんじゃない?」

「そうじゃないよ。ヤマトと全面戦争になったら、タケミナカタさんは科野の州羽の湖まで追い詰められるし、出雲ではコトシロヌシのお兄さんが海に身投げしちゃうけど、姫は少なくともそれ以上の神話が記紀には残ってないんだよ。せいぜいが風土記くらいなんだからさ」

「それってどういう意味?」

「ヤマトが全国制覇した後も科野と高志は、熊襲や土蜘蛛や長脛彦みたいに滅ぼされていないんだから大丈夫だと思う。出雲も従属したことになってる。でもまつりごとをする巫女は日本に一人で充分な訳だし、高志の女王ヌナカワ姫が廃位された可能性は高いんだ」

「でもそれはヤマトがそうしろって圧力をかけたからでしょ?」

「理由のひとつはそうかもしれない。あともうひとつ廃位した理由は……もしかしたら姫は、高志がヤマトに陥落する前に死ぬつもりじゃないかと思って」


 健の発言を受けて乙姫は彼を諫めるつもりが、反射的にヌナカワの顔を見た。

 僅かに残る風土記の中では、最後に火を放ち自害するという記述があるからだ。

 もっともそれは出雲の夫オオナムチとの間が険悪になった末に、追手から逃れるためと描かれている。決してヤマトとの戦が端緒ではないが、いずれにせよ彼女はどのタイミングでもその身を投げ打つ覚悟を決めている可能性も捨てきれなかった。


「……そうなんですか、姫?」

 健と乙姫のやり取りを黙って聞いていたヌナカワだったが、彼らの視線が自身に向けられていることに気づき、再び腰を下ろした。


「そなたが上手くヤマトと和議を結んで戦を止めればよいだけの話だ。別に私がどの者の妻であろうと高志の女王という話は変わらぬ。常にクニと運命を共にする覚悟が無いと女王は務まらない」

「もちろんそのつもりだけどさ。事前に危険の可能性は考慮しておいて振る舞っておいた方が得策だって言いたいんだけど」

「つまりタケルは私に高志を守る道を選べと申すのか?」

「当たり前だよ。だってさ、姫。別に旦那さんにはもう興味ないでしょ?」

 ヌナカワは咄嗟に言葉も出せず口をぱくぱくと開きながらもなんとか絞り出した。

「な、な……今はそれとこれは関係ないことであろう!」

 どこか心持ち悪そうに居ずまいを正して、白湯を飲むヌナカワに構わず健は言葉を続けた。

「ぶっちゃけ、ミホススミさんが産まれてすぐに御大みほに移ったでしょ? そこからさらに高志に戻って女王様を続けたってことは、別に出雲とは、っていうか、オオナムチさんとはその辺で縁が切れているんじゃないの?」

「あたしは、それこそ姫が離婚までする必要は無いと思うけどな」

 乙姫が挟んだ言葉を聞いても健は首を横に振る。

「ヤマトに従属することにはなるけど、高志ってクニのカタチを残すためには出雲とは一線を画す必要があると思う。でももし和議が上手くいってヤマトと出雲が対等になれば高志は変わらず関係を密にできる訳だし」

「でも離婚って、ずいぶんと極端な気がするけど……もう何年もソロ活動してるんだから別に今更解散とかしなくてもいいんじゃない?」

「だからこそ姫はオオナムチさんのこと、どう思ってるのかなって」


 その発言を無視するかのように、幾度も素焼きの椀を傾けて白湯をちびちびと飲むヌナカワだったが、顔を上げてみると健も乙姫もどこか興味津々といった風情で彼女の顔を見てくる。

 これまでも、やや神経質な話題だったので敢えてヌナカワには深くは触れなかったが、どうせなら聞いてみたいという欲望が勝っていたのも事実だ。

「なんだ? タケルには簡単に申したであろう。私と夫にそれ以上の事はない」

「出雲に行ってみたら奥さんが何人もいるって知ってショックだったとか?」

「南方くん、それ以上聞いたら悪いってば」

 とは言うものの、乙姫も心底から健を制止する気配はない。

「『葦原の国の醜男しこお』ってくらい男らしくてモテるのが、嫌だったの?」

 醜男とは見目の醜悪さではなく、この時代では男性らしさを指す。


 変わらず黙っていたヌナカワだったが、椀の白湯を飲み切ってしまった。

 そのまま言葉を発さずに居られるとも思えず嘆息を漏らす。

「……私には高志のクニがある。小さな木の葉は風に巻かれて為すがままにされるしかない。既に出雲はヤマトと小競り合いをしていた。非常に不穏な空気が世に充満する中で、このクニを残すには出雲の力を借りるのは必要不可欠だった」


 今度は途端に質問を浴びせる健と乙姫。

「えっ? じゃあ仕方なく結婚したってことじゃないよね?」

「姫は他に好きな男の人が居たんですか?」

「そうではない。夫は確かに剣や弓の腕前も良く、歌も上手い。そこは認めている」


 ヌナカワの言葉に健も乙姫も無言で何度もうなずく。

 その続きを早く聞かせて欲しいとねだるような姿だった。

「高志もまたヤマトと同じく女王『ヌナカワ』が統治をする祭祀国家。私以外の他に代わる者も未だおらず、娘でも授かればそれで良いと考えていたのだ」

「そっか、結果として男の子が産まれたら、その子は出雲の次の王の候補になるわけだ。でもあのまま出雲に残っていたら、また次に女の子を授かるチャンスは何度もあったと思うんだけどな」

 やや露骨な話題になってきたので、そこは乙姫が健の背中を叩いて制止する。 

 健が言葉を飲み込んだところでヌナカワはまた続ける。

「その頃にはスセリ殿との間が険悪になっていたので、私は御大に移り、さらに高志に舞い戻ったという訳だ」


 今度は言葉に出さず、頭の中で状況を整理する健。

――ははぁ、子供ができなかったスセリさんからしたら姫の存在は妬ましくてお互いに居心地悪くなったんだ。

 確かに勝気で強情だと噂のスセリのこと、若い頃は相当に他の妃とやり合った可能性は充分にあった。過去にヤガミという妃も居たが、健がこの時代に来た時には既に離縁して因幡いなばに帰郷していたという。


「じゃあミホススミさんを高志の後継者にするつもりだったんですか?」

 健に代わり乙姫が質問を続けるが、彼は不思議そうに首を捻る。

「男の子じゃ高志の女王にはなれないんだから、意味ないんじゃないかな?」

「馬鹿ねぇ、南方くんってば。男の子ならお嫁さんを取れるじゃない。その人が女王になればいいのよ」

 ふぅん、と頼りない声を漏らして頭を掻く健。

 科野の王も男女の機微が関わるまつりごとは聡明な妻にはかなわないようだ。

「姫が摂政になって、お婿さんは出雲と高志両方の国家運営をする。それで娘が次の女王ヌナカワに就けば盤石でしょ? 出雲とヤマトが戦争になっても、どっちのクニにも目を配ることができるんだから」

「そうか……仮にそのまま姫がオオナムチさんの奥さんとして出雲に残ったら、高志はがらんどうになって狙われるか、出雲の遠隔地として統治されるしかないんだ」


 それまで乙姫の話を傾聴しながら小さく頷いていたヌナカワだったが、そこで会話に加わった。

「もっとも出雲には既に別の妃カムヤタテの子のコトシロヌシが居た。息子たちの中ではあやつが一番歳が上だから、ミホススミを私の手元に置けたというのもある」

「もしコトシロヌシさんと王位を争うとしたらミホススミさんの身が危ない、と」

「そうではないが、出雲の中で波風を立てる必要は無いと思ってのことだ」

「なるほどね、そういう理由だったんだ」


 そこで会話が一区切りすると、健は改めてヌナカワを見据える。

「その出雲のお兄さんは、いかにクニを残すかを考えているよ。だから姫も高志を残すというよりは、命を大事にして行く末を見守るべきだと思う」

「わかっておる。いずれにせよ有事の際にはそなた達をもと居た時代に帰さねばならない。その約束を違えることはないと誓おう」


 それからのち、ヌナカワは人払いをした。

 健や乙姫とも離れた別室でしばし神に祈るとだけ言い残していた。

 彼女の言う通りに、彼らも素直に引き下がるしかなかった。


 健のために用意された私邸に移った二人は、互いにスマートフォンを眺めながら、思い思いの時間を過ごしていた。

 高志の女王ヌナカワに関する神話や説話、風土記を探してみても、彼女のその後について書かれたものは非常に少ない。

 諦めてスマートフォンを放り出した乙姫は、健の袖を引く。

「南方くんはどう思う? 今の状況から少しは神話に伝わる未来から遠ざかっていると感じる?」

「うーん……さっきも言ったけど上手くいってる気がしない。今はヤマトとの和議も含めて僕に任されてるけど出雲のコトシロヌシのお兄さんをないがしろにはできないし、なんとも言えない」


 しばらくは無言で考え込んでいた乙姫は途端に立ちあがる。

「あたし、ちょっと科野に戻ってお父さんとか守矢の家臣の人達に頼んで探りを入れておくよ。木の国もそうだし、浪速や墨江の港とか、あとは葛城や三輪あたりに出来た新しいクニはどうなってるか調べて貰うから」

「うん、弥栄さん頼むよ」

「南方くんも瀬戸内海とか中国地方の他のクニの動きを探っといて。出雲の両側には伯耆や長門があるくせに、ヤマトが一気に攻め込んでくるっていう神話がどうしても気になるのよね。あっさりヤマト側についたとも出雲と一緒に戦って負けたとも書かれていないのが変だと思うから。たぶん寝返るかもしれないよ」

 すぐに乙姫は自身の制服や通学カバン等の持参品を纏め出すと、女中に出発の用意を頼んだ。

「うちのヤサカトメ……っていうか弥栄さんは逞しいな」

 まるでどこか他人事のように座ったまま見守っていた健だったが、自身の両膝を叩くとひょいと身体を飛び起こした。




「なんだ、熊襲に到着することもヤマトと会う事も叶わずに戻ってきたのか?」

「いえ、ちゃんと会えたけど、それ以外に兄さんに確認することがあって」

「それでまた得意の瞬間移動で、熊襲を出立した家臣を置いてここに来たのか」

 出雲に戻った健は、コトシロヌシに熊襲を仲介としたヤマトとの和議の進展について奏上していた。

 加えて高志でヌナカワと交わした話も伝える。

「ヌナカワ母殿が父上と離縁をされるだと?」

「いや、まぁ僕から姫に提案したんですけどね」

「それに何の利益がある?」

「そこも姫には伝えたけど万が一ヤマトと戦になった時に、交易関係でしかも出雲の王族の血縁者である姫が居る高志もタダじゃ済まないから。今まだ和議の途中でヤマトと大きな動きがないうちに決めておいた方がいいと思って」

 私邸で釣り竿や針を磨きながら健の話を聞いていたコトシロヌシはその手を止めずに視線だけを彼に向けて言葉を続けた。

「母殿はなんと申されている?」

「『出雲と高志の関係は今後も強固なものであり、ごく一部の些末な懸案を取り除いておいた方が、両国関係にとってはより発展的であると確信している』って」

 まるでよくテレビのニュースで見る政府発表のような曖昧な表現ではあったが、健は彼女から託された言葉をそのままコトシロヌシに伝えた。

 そこで初めて針を磨いていた手を止めて、端切れの布を足元に置く。

「つまり母殿も承諾されたということだな?」

「承諾っていうか、オオナム……お父さんが居ないんだから、後は夫婦のことだし姫が自由に決めるべきだし、そう決めたのなら構わないと僕は思うんですけど」

「何を他人事のように……そもそもはお前の進言だろう?」

「別に僕や高志のクニとの縁が切れる訳じゃないしね。お兄さんのカムヤタテ母さんもそうだしスセリ姫もそうだし、みんなそれぞれのカタチで夫婦していたんだから、僕らもいい歳なんだし、親が決めた事ならそれで構わないですよ」

「……わかった。だが家臣や民には口外するな。くれぐれも俺とお前の間だけにしておくのだ」


 コトシロヌシに一礼した健は、そそくさと彼の私邸を出て行った。

 健を見送ってしばらくは自身の針先を見ていたが、突然に竿を構えると海原に向けて放つような動作をする。

「父上……残念ながら高志の母殿とのえにしも消えるようですぞ」

 彼の眼の前にだけ広がる水面。

 針の先がわずかに浮き沈みする当たりを感じ取り、すぐに竿を立てた。

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