天の安河原会議
健は言葉を発することも無く何度も髪を撫でながら、向き合うヤマトの武将を伏し目がちに観る。
対するタケミカヅチは山中へと向かう道程ですっかりくたびれたのか、あぐらをかいた状態で何度か大きなあくびをしていた。
それでも腰に差した得物をすぐに手に取れるように右手は膝の上に置かれているし、周りの従者も無言のまま健に視線を注ぐ。
健は変わらずうつむいたまま幾度かタケミカヅチの顔を見返すと、今度は周囲に居るヤマトの従者に視線を移した。
直立不動の兵たち。
そして
すなわちそれは何故かこの時代の男性と同じ被服ではあるものの、華奢な手足や腰に加えて、胸元は女性のそれと同じふくよかな曲線を描いている。
男装の従者は退屈そうに木の実を食べていた。
タケミカヅチの家臣ならばこんなに偉そうな態度なのも不思議だし、彼より地位の高い人物だとしたら、彼女が合議の場に着座しないのも不思議であった。
訝しそうに彼女を見る健の視線に気づいたか、タケミカヅチも顎で指し示しながら答えた。
「あいつはトリフネって言ってな。航海術に長けているだけでなく、北の星を目印にしなくても自分が今どちらの方角を向いているかすぐわかる奴なんだ」
「なんで男の人の格好をしてるんですか?」
「さぁ? 俺が聞きたいくらいだよ。どういう訳か俺はいつもあいつのお守りの役目で困ったもんだ」
冗談めかして笑うタケミカヅチではあったが、彼女に全幅の信頼を寄せているのは行動を共にしているという事実が現しているのだろう。対するトリフネは彼を一瞥すると、また次の木の実を取り出して殻を割り始めた。
「せめて相棒くらいには呼んで欲しいものですね。陸でも海でも猪突猛進するあなたに道しるべを示す私の方がお守りしている気分ですよ」
「……喋った。やっぱ女の人だ」
思わず声に漏らした健の姿をトリフネは見るが、それ以上は興味無さそうに割った実を口に放る。
タケミカヅチはまるで平安貴族の茶会のように、雄大な自然に囲まれた清流の音を楽しみながら自分の膝を叩く。
「しかし実際に来て落ち着いて見回すと、ここはいい場所だなぁ。ヤマトにもこんな地があれば良いなぁ」
――欲しくて戦争して奪った土地を勝手に聖地にするのかな?
健はそんな疑問が浮かんできた。
ヤマトはいま筑紫島の北部にクニを置いている。
それが記紀神話の世界では、日向の里の高千穂の峰に天孫降臨をしたと語られていることがどうにも健には腑に落ちなかった。
すると何かを察したタケミカヅチはあぐらをかいた上体を健に寄せた。
イサオには聞こえるか聞こえないかくらいの声量で語り掛ける。
「俺達がこの土地を欲しいってわかったか、坊主?」
健もイサオやトリフネには届かないくらいの小さな声で返答した。
「筑紫島全土でしょ? 豊秋津島だってそうだし、ヤマトが欲しいものはたくさんあるじゃないですか」
「前に会った時にも言ったろう? この日の本の島全体の繁栄のためだ。出雲もいくらか大陸と交易をしているから知っているだろう。かのクニは王が変わればそれまでの文明や政治をすべてぶっ壊して新しい為政者がまつりごとを行う。そうして消えていったものも多かろうが、あのようにいつでも逞しく繁栄していく。それをこの日の本でも行いたいんだよ」
それは健にとっても充分に理屈は分かる。
浪速の港でタケミカヅチと最初に遭遇した時も彼はそう言っていたから。
健がもと居た未来の日本はその形の政治で落ち着いている。皇室という象徴があって民はクニの下に平等である。
しかし江戸時代以前の戦国時代や、南北朝時代もそうだ。動乱の世の下では多くの民が犠牲になるし、勝者が為政者となればクニの在り方も大きく変わる。
国家統一を成し遂げる者が現れるまでスムーズに事が運ぶ訳が無い。
「その考えは僕も賛成です。でも出雲とヤマト、それに他のクニも全て対等であるべきだし、民の暮らし向きに困るようなことがあったらダメです」
「それも前に言ったよな? ヤマトは筑紫北部の小さな部族が合議でまつりごとを行っていると。出雲だけでなく伯耆や阿岐も参画するのは構わねぇよ。でも日の巫女を頂点に据えたものでないと意味がねぇ」
「わかりやすいシンボルってことですか?」
「『
健は内心、反論すべき点を探すのに苦心していた。
単なる理屈で言えばヤマトの主張は至極真っ当に感じたからである。
だとしたら国体維持を目論む出雲や高志や他のクニが素直に賛同しない理由があるはずだ。土蜘蛛や長脛彦だなんて気の毒な名前で一瞬で神話から消えた土着のクニが現れることも無いだろう――。
健は改めて話題を和議に戻すことにした。
「まず長門の湾と向き合う北東部、
「ほう、出雲の小僧……じゃなくて科野の王は強欲だな」
「往来する舟の安全を担保するためです」
「だとしたら、そちらも長門に派兵した部隊を速やかに退けて湾を解放することだ。双方だけでなく多くのクニの利益になるという点では同じだろう」
「それだけじゃないですよ。浪速の港からも兵をどけてください。中立な港のはずなのにあれじゃまるでヤマトの港みたいだ」
「あれは出雲が武具を蓄えていたからだろう?」
「交易で貰った正当な品です。なのにこっちは納屋を燃やされて兵まで殺されているんですよ。そういう態度があるから信用できない」
健も近くに熊襲の王イサオや彼の兵、そして自分の従者も居るので多少は強気に反論していた。ここで折れたらまた戦争状態に戻るのは重々承知しているが、出雲有利な発言を引き出さないと、という焦りもあった。
一方のタケミカヅチは常に余裕の笑みを浮かべていた。
剣での斬り合いだけでない。口相撲も一枚上手のようでもある。
それを見ていると健は益々の焦りを感じた。
出雲のコトシロヌシや高志のヌナカワのために、何らかの成果を持ち帰らなくてはとの願いが彼の思考を次第に曇らせていた。
「まぁ、ヤマトが手を引くっていう方法も無くは無いがな」
タケミカヅチの発言を受けて健は上体をわずかに彼に寄せた。
「いったいどういう方法です?」
「高志にいるお前の母上殿と科野の王妃をヤマトにお迎えするのさ」
「はあっ? 人質ってことですか? そんなの全然フェアじゃない!」
健はあぐらをかいた腰を少し浮かせて、両手を膝の上から離すと地面に置いた。
いつでも立ちあがれるようにタケミカヅチに食って掛かる。
「別に部屋くらい用意するさ。人質ってのは悪い言葉だ。いわば客人だよ」
「そうは言っても、ヌナカワ姫やうちの奥さんをヤマトに行かせる訳ないでしょ」
「じゃあ代わりに日の巫女が出雲に
それを聞いた健は続けざまに放とうと思っていた言葉を呑み込んだ。
まさに記紀神話に無い事が起きるではないか。
それこそヌナカワの本懐でもある、出雲崩壊という過去を塗り替えた事実に他ならないか――。
とは考えたものの、ヌナカワはともかく乙姫は自分と同じ未来の者。
いずれは共に現代へと帰るという目標がある。
彼女をヤマトに向かわせる訳にはいかない。
それきり黙って逡巡する健を見て、タケミカヅチはおもむろに立ちあがった。
「今回はこんなところにしようや。さすがに俺もお前も一存で決めかねる話も多いだろうし、無理に結論を出す話でもねぇ。だが今でも睨み合う長門や豊日別では、互いの兵が互いの行動を口実に小競り合いをして斬り合ってるんだ。その辺、科野の王になったお前もよく理解して出雲の身の振り方を決めてくれ」
歩き出そうとするタケミカヅチに向けて健は声を掛ける。
「これで終わりなはずは無いでしょ? 当然また会う機会はありますよね?」
「あぁ……お前と時代が望むならな」
タケミカヅチは小さく手を振るとトリフネや他の従者に合図をする。
それから熊襲の王イサオに軽い会釈をすると、往路と同じ山中の渓谷沿いを歩き始めた。
結局、収穫らしい収穫は何もなかったせいか、健はまた力無く座り込むとすっかりと背を丸めて何度も息を吐いた。
そんな彼にイサオは腕を組んだまま問う。
「あれで良かったのか? これではヤマトとの関係は何も変わらぬぞ」
「そうですね……とりあえず今回は」
健はなんとも頼りない、か細い声で答えるのが精一杯であった。
それから数日後。
健は先に帰るとだけ伝え、自身の従者を残して高志へと戻った。
出雲の兵達は日向の港から舟に乗って阿岐へと向かい、さらに陸路で出雲へと戻ることになる。彼らが出雲に到着する頃にまた合流しコトシロヌシに今回の合議の結果を奏上することにした。
一方のヤマト勢はトリフネの誘導によって日向の湾に一足早く到着していた。そこから筑紫島の南岸をぐるりと回ってクニに帰るためだ。
その道中、一団の先頭を歩くトリフネは振り返るでもなくタケミカヅチに向けて話を始めた。
「タケミカヅチ殿にしてはなかなかお上手でしたよ。お見事でした」
「その『俺にしては』ってのが余計だ。だが小僧がイサオに助けを求めなかったのは賢明だったな。あれで熊襲が出しゃばってきたら、話もまとまらなかっただろう」
「出雲の王子は思い通りに動くと思いますか?」
「目論見どおりに行かないと俺が困る」
苦笑しながらもやはり余裕の表情で、タケミカヅチは道行く先の景色を見る。
何の代わり映えもしない鬱蒼とした樹々。
小さな清流は徐々に切り立つ岩石が剥き出しになった深い渓谷になっていた。
「しかし種は蒔いたってとこだな。あとは高木のじいさんの……いや、あのじいさんの子、オモイカネの入知恵と葛城の『一言主』の筋書き通りになればどうだ?」
タケミカヅチは周囲の景色を見ながらも思考は網膜から入る情報を一切遮り、物思いに耽りながら歩き続けた。
それはここ日向の地で合議に向かう直前。
ヤマトのまつりごとを行う場において開かれた密談の内容を回顧していた。
「熊襲を経由してヤマトと出雲の和議を結ぶ機会を設けたいとの知らせが来ている。この話を飲むべきか否か。皆に聞きたい」
祭祀を行う薄暗い小屋の中では、儀礼用の被服に身を包んだ一人の少女がうつむいている。彼女こそがこのヤマトの頂点にして象徴たる日の巫女トヨだ。
その隣には背を丸めた老人が皺だらけの顔をさらに折り畳んだ微笑を浮かべたまま微動だにせずにいる。しかしその枯れて垂れ下がった瞼から覗かせる落ち窪んだ眼の奥底は一切笑っていない。
全てを見透かし、全てを見通す者。
万物を見下ろす「高木の翁」タカミムスビである。
彼は隣に座る青年――オモイカネに向けて小さくうなずいた。
それはタカミムスビの息子だというが、見た目を比べても到底親子とは思えない。
余りにも若々しい青年は、横に居る父の顔を見てから一同を見回した。
「全ては日の巫女のお下知の通り、ヤマトと出雲が如何に対峙すべきか、雌雄を決するべきか、その時が迫っているのは明白である」
車座になって腰を下ろす家臣達は何も言わない。
「そのために利用すべきは、かの第二王子。彼が出雲の未来を全て担い、そして
タケミカヅチをはじめ、まつりごとに参加した家臣は何も言わない。
肝心の日の巫女もうつむいたまま決して言葉を発しようともしない。
そんな彼女を見て、高木の翁はトヨの膝に手を置いた。
枯れた老木のごとき彼の手の指がトヨに触れると、彼女はかすかに震えた。まるで若々しい乙女の肌から生命の息吹を吸い取る大木の根のようである。
するとトヨは弱々しく首を縦に振った。
一目にはまるで好々爺か地蔵尊のような変わらぬ笑みを浮かべる高木の翁は、掌を小さく振る。それを合図に息子オモイカネは声を張り、一同に周知した。
「出雲への侵攻、および第二王子の捕縛は葛城の一言主に委ねる。以上」
やや面食らったタケミカヅチは、意見する立場にないのは理解しているが、それでもオモイカネにぼやかずにはいられなかった。
「おいおい、以上って俺はあの小僧と会ってどうしろってんだ? 意味もない和議のために無駄な時間を潰せってのか? それとも俺の判断で斬ってもいいのか?」
「全ては日の巫女のお下知。引いては父上のご裁可によるものだ」
無表情、無感情を装いながらもどこか得意げに言い放つオモイカネの顔を見ているうちに二の句も継げなくなったタケミカヅチは腐った表情で天を仰いだ。
その頃、高志に降り立った健はヌナカワ、乙姫と向かい合い議論を交わしていた。
和議を前提としたものだったが、ヤマトの主張を受けてこの条件を呑むには値しないものだという事で三人の意見は合致した。
ところが会話を進めていく中で、健は表情を曇らせていく。
ヤマトがヌナカワと乙姫を人質として差し出せというのは、言い換えれば出雲と高志と科野のクニ同士の結びつきがあるからこそ、そこに綻びを生じさせるためなのは間違いないであろう。
逆に出雲と戦争となれば、同じく高志や科野もターゲットになるのは先の理由から明白である。
記紀神話を読み返しながらタケミカヅチとの議論を振り返っていた健は、ふとある考えが浮かんだ。
「そう言えば姫ってオオナムチさんと結婚してミホススミさんを産んでからこっちに来て、高志の女王でもあるけど今もいちおう出雲の第何番目のお妃なんだよね?」
「いったいなにを藪から棒に……まぁタケルの言う通りではあるが」
「だとしたら出雲が戦争になったら、つまり高志も危ないってことになるじゃん」
「当然であろう。出雲と高志は単なる交易関係に留まらぬ」
思案を続けていた健は突然に笑みを浮かべながら指を鳴らす。
「ねぇ姫。別居状態とか曖昧なことしてないで、いっそのことオオナムチさんと離婚したら?」
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