時代の波をたゆたう者よ

 阿岐と伊豫を挟んだ内海の海原を手漕ぎの舟で進み、日向の里に降り立った後は陸を一路、山中へと目指していく。


 学校の制服の上に動物の毛皮で作られた冬用の厚手の上着、すなわち貫頭衣を着た健は山肌を踏みしめる一歩一歩を進めるたびに口から白い息を吐く。

 本州の出雲はおろか、自分が居た時代の東京でも感じられない程に、しっかりと冬の足音が近づいている。

 南国・九州は冬でも温暖そうなイメージがあったが、今はまだ筑紫島や豊秋津島にも大した文明が無い弥生時代である。人々が営みの中で放出する熱も少ない。

 健は両手を擦り合わせたり、制服のズボンのポケットに両手を入れたりして暖を取りながら山並みに連なる街道を、家臣らと共に歩いていた。

 王族である自分が率先して、疲れたとか喉が渇いたとか迂闊な事を言ったらその度に歩を止めて小休止となってしまうので、ぐっと言葉を堪えながら歩く。

 志願して兵卒になったばかりの幼い者が――と言っても健とさほど年齢も変わらないが――疲れから歩みを緩めると目ざとく見つけては体調を案じてみせて、心優しい王族をアピールしつつ皆に休憩を指示するという作戦で、自分の足腰の疲れを癒しながらの山行となった。


 目指す先は熊襲の王イサオが暮らす屋敷ではない。

 健にとって実に四回の筑紫島の訪問。

 二度目は今からおよそひと月前となる。



「久しぶりだな。出雲の王子タケミナカタ殿。いや、今は科野の王と呼んだ方が良いか?」

 膝をつき合わせて座る健の前には、顎髭をしごきながら笑うイサオがいた。

「いや、別に何でも構わないです。それにしても情報が早いですねぇ……」

「世の動きを知るのも王の勤め。当然であろう?」

 ヌナカワも同じような事を言っていた気がした健は苦笑しながら相槌を打つ。

 自身もスマートフォンから得る情報は早いつもりだが、世相や政治の動きは義兄のコトシロヌシに任せきりでさっぱりわからない。無論、健にとってこういう取捨選択を知らずのうちにしてしまっているから、得た情報の範囲が狭まるのだという考えは彼には無い。


「以前お伝えした通り出雲と熊襲、両国の間で交易、通商、戦力の相互交換といった交流を始めたいと思い、今日は僕が出雲代表としてやってきました」

「王族みずからやって来るとは、それはありがたい話だ」

「つきましては、お土産を持ってきましたので、それを……」

 杓子定規に訥々と語っていた健の言葉を遮り、イサオは身を乗り出す。

「せっかくそなたが熊襲まで来たのだ。出雲への返礼にもっと良い手土産を用意してやろうか?」

「えっ?」

「ヤマトの連中と会う覚悟はあるか?」

「ヤマトと会うんですか!?」


 健は声が裏返る程に驚いて反射的に背を大きく反らした。

 この時代で命を落とすような危険だけは避けたい。そう願う彼の心理が厄介ごとはご免被るとばかりに上体をのけぞらせた。

 とはいえ、いちおうは出雲の第二王子――今は科野の王を演じる身である。

 さすがにまつりごとを避けて通れる立場には無かった。


「熊襲とヤマトは所詮は同じ島の民。なので民草の交流や交易は拒絶しておらぬ。出雲のように小競り合いを起こす事もないが、互いの国交は無い膠着状態。もしそなたが望むなら直接にヤマトと和議を結ぶ機会を設けるくらいは可能だということだ」

「えー……だったらイサオさんはなんで熊襲とヤマトで和議を結ばないんですか?」

 健は素直な感想を漏らしてしまった。なにせ神話の世界ではヤマトは出雲の因縁の相手。おまけに自分は科野の州羽の海まで追い詰められてしまう可能性が高い。

 やっぱりヤマトは避けたいという感情が滲み出ていた。

 そのための熊襲との交易であり、筑紫島と豊秋津島からヤマトを両挟みにする作戦だったからだ。


「いつまでも根競べという訳にはいくまい。いずれはヤマトと出雲は雌雄を決する時が来るであろうし、他のクニのように従属しないのならば和議を結び、対等な関係を維持するのが良いのではないか?」

「僕ら、ヤマトと対等になりますかね?」

「少なくとも熊襲は出雲を受け入れる。その事実があればヤマトも迂闊なことはするまい」


 やはり不安が消えない健は頭を掻きながら後ろ髪を手櫛でく。

 するとそこに元気の良い足音が響いた。

 イサオの息子で、名を改めたタケルだ。

 まだ小学生くらいだった彼は前回会った時よりも少しだけ背丈が伸びて逞しくなっていた。


「出雲のあんちゃんだ。俺、あれからたくさん稽古して『すまう』が強くなったぞ。今日も勝負しようよ」

 ところが、自信満々の笑みを浮かべていたタケルはそこに乙姫の姿が無いことにすぐに気づいた。

「あのおねえちゃんは?」

「今日は僕だけなんだよ。奥さんは高志で留守番なの」

 それを聞いて露骨に肩を落とすタケル少年。儚い恋はお預けとなった。


 諦めてまた同年代の友人達と野原を駆けて狩りに出たタケル少年を見送った健は、父であるイサオに向き合う。

「あの子は女性好きみたいなんで、回りに集まる女の人には気をつけた方がいいと思いますけど」

「そうかね? 別に好色が悪いことではあるまい。強い子孫を残すのも王族の勤めとは思わんか?」

 後に成長した熊襲の王、川上タケルは女装したヤマトオグナに殺害される。それを危惧しての発言だったが、健も自分が未来を変えれば彼も助かるかもしれないという想いもあった。なにせ自分も州羽の海まで命からがら逃げる未来は避けたいから。

「では、そなたが望むならヤマトに使者を出すが良いか?」

「そうですねぇ、でもいちおう高志の母ヌナカワ姫や出雲のお兄さんにも相談したいから、出発まではちょっと日延べして貰ってもいいですか? たとえば、ひと月先くらい……」

「ひと月?」

「つまり、朝と夜をきっかり三十回終えた次の日ってことで」

 しかしイサオはあからさまに訝しむ。

 当然である。まだ鉄道も車も飛行機も無い時代の話だ。

 人が馬に乗る習慣も無い。

 移動は海なら舟、陸路は供が運ぶ輿に乗るか、歩くしかない。

「たったの三十という日で出雲や高志と往復できるわけがあるまい」

「いや、大丈夫です。神ワザでなんとかなりますから」



 その後の健の行動は早かった。

 返礼の品々を受け取った家臣団を置いて、自分は早々に出雲に帰ると称して乙姫に連絡を入れて、いったん高志へと戻る。

 そこでヌナカワや乙姫に事の相談をしていた。


「ふーん、あのエロ親父が言い出すとなんか裏がありそうな気がするよね」

「私もトメ殿の意見に賛成だが、ヤマトと対等な関係を維持しつつ停戦合意が出来るのであれば、会談の場を設けるのも悪い話ではないとも言える」

「僕も絶好のチャンスだとは思うよ。だけど熊襲が両国の間を取りなすってことは、僕らもヤマトも熊襲に借りを作ることになるんだよ。言うなれば、三か国で拮抗している今の状態から一歩抜きんでるのが熊襲ってことになっちゃうじゃん。そういう立ち振る舞いの上手さっていうか、ズル賢さも感じるんだよね」


 珍しく健が的を得た発言をしたことで、ヌナカワも驚きや感心と共にうなずいた。

 しかし肝心の彼はその本心を見抜けず、素直に賛同を得られたと考えてしまったのも事実であった。

「つまり、タケルは辞めておいた方が良い、ということか?」

「熊襲に連絡役を頼むだけにして、出雲とヤマトは別の場所で会談した方がいいような気がするんだ」

「そうは言うが、長門の湾や内海を挟んだ両岸に中立を謳うクニは多くはあるまい。となれば浪速の港くらいのものではないか?」

「僕が見た様子だと浪速も墨江もあんまし今は中立じゃないかもね。出雲はやり過ぎだってヤマトにシンパシーを感じる人も多いし、新興国も台頭してきているから、そこが安全だって言いきれない気もする」


 ここ豊秋津島では、今は出雲と交易関係もしくは互恵関係にあるクニも、いずれはヤマトとの全面戦争になった際にはあっさり降伏するはずだ。でなければ国譲り神話で出雲の首都にヤマトが容易に到達できるはずはない。

 いざ最後の決戦が始まるまでの間を日和見ひよりみしているクニも多いはず――。

 健はそう考えていた。


「どっちつかずという意味での中立って、やっぱり熊襲になっちゃうのかぁ」

「一国で経済や軍隊を成しているのだから、相応の国力があるのも事実であろう」

「だとしたら、仕方ない。その方向でコトシロヌシのお兄さんに相談するよ」


 健の持つスマートフォンが示すこの時代の日時は十二月の少し前。

 それでもまだ比較的温暖な九州から冬が到来した北陸への瞬間移動である。

 健は当たっていた火鉢から名残惜しそうに立ちあがると通学カバンを肩に掛けた。

「南方くん、もう行っちゃうの?」

「だって時間が無いんだもん。早く熊襲のイサオさんにも伝えないと」

 不満げな乙姫を尻目に、健はヌナカワに移動の呪術を頼んだ。

 途端に彼の姿はまた眼前から消えていく。

「んもう、けっきょくあたしのことほったらかしじゃないの! これだから神話でもヤサカトメって全然活躍できなかったのよ。あーあ、州羽の海に作った温泉でも入りに行こうかな」

「まぁまぁ、トメ殿。あやつも少しはおのこらしく逞しくなったと思えば良い」

「そりゃそうですよね。だってこのままだと神話の最後にヒドい目に遭うんだもん。だったら頑張るはずですよ」

 すっかり腐る乙姫にヌナカワは苦笑を浮かべる。

 そういう彼女はこの間もずっと健の身を案じていたのをそばで聞いていたからだ。




「ほう、ヤマトとの交渉に熊襲が介入するだと?」

 出雲に降り立った健はすぐにコトシロヌシの私邸へと赴いた。

 そこでコレクションの釣り竿の針を火で熱して曲げたり、丁寧に磨いていた彼はその手を止めて健に身体を向き直す。

「これってけっこう良い話だと思うってヌナカワ姫も言ってました。僕個人としてはここで熊襲に借りを作るのは嫌ですけど、ヤマトと対話する機会も無いままにずるずると戦争しているのも良くないなって」

「そこに俺が行けと言うことか?」

「いや、僕が行くことになるとは思いますけど。お兄さん行きます?」

「お前で構わぬ。だが条件に折り合いをつけるために、ヤマトや熊襲よりも不利となるような話を飲んではならぬ」

「もちろんそう思います。僕もヤマトと対等かつ公平な和議じゃないと意味ないからって考えてます」

「そこまでわきまえているのであれば、俺から言う事は無い。お前が出雲の代表としてしっかりと交渉してこい」

 コトシロヌシからの理解も得られた健は軽く会釈をすると、すぐに屋敷を出て行った。そんな彼の気配が消えたところで、コトシロヌシはふたたび釣り針を丁寧に磨き始める。

「さて、はたして潮目は変わるか。凪となるか、海は荒れるか……」

 釣り竿を握ったコトシロヌシはまるで眼前に海原が広がっているかのように、そこに針を落とした。




 すぐさま舞い戻った健は、みたび熊襲のクニにやってきた。

 出雲の家臣団がクニにった直後に健が現れたことでイサオも驚いた様子で彼を迎え入れた。

「なにか忘れ物でもあったのか?」

「いえ、違います。出雲の兄コトシロヌシも高志の母ヌナカワ姫も、みんな同様にヤマトとの会談を望んでました」

「それをこの短時間でどのように確認したというのだ?」

「えっと、つまりは、その……託宣です。神ワザで。交信しました」


 やや呆気に取られていた様子のイサオだったが、我に返るとすぐに従者をヤマトに向けて出立させる手筈を整えた。

「それで、そなたの言う三十の夜を越えた次の日で構わぬか?」

「伝令の人がヤマトに行って、ヤマトから断りの返事が来るか、その話に乗るにしても移動してくるのに時間がかかるでしょう。それで充分だと思います」




 そしてひと月が経過した。

 冒頭の健が筑紫島に上陸した四度目の来訪に話は戻る。

 出雲が提案した和議の開催にヤマトは乗った。

 熊襲の王イサオもヤマトの者を不用意に首都近くまで招き入れることは国防上の観点から断った。そのため、会談の地は日向の地の山深い里で行われることになった。


 切り立った岩々の合間を流れる急流。

 冬だというのに付近は常緑樹が生い茂り、また標高ある山奥ゆえに立ち込める靄は周囲の岩々に苔を纏わせ、冬だというのにまるで新緑の季節かと勘違いさせるような濃密な緑の香りが辺りに充満する。

 健も移動で乱れた呼吸を整えようと、何度も胸を開き、豊かな自然の息吹を肺いっぱいに吸い込む。

「北部の火山地帯っぽい山とは違って、こういうのも趣きがありますよね」

「このあたりならば、民が暮らす集落も無い。安心して会談ができるであろう」

「このへんってなんて言う地名なんですか?」

安河原やすかわら、もしくは八十やそ天河原あめかわらと呼ぶ」

「ふーん、このへんがあの観光地で名高いあそこなんだ……」


 しばらくすると数名の人影が同じ渓谷沿いの道なき道を歩いてきた。

 それを見るなり、健は驚いて思わずイサオの半歩後ろに隠れた。

 なにせ以前にも会った事があるし、自分の――と言ってもタケミナカタの運命を左右する因縁の相手だったからだ。


「ずいぶん遠くて難儀な道だなぁ。こんな山奥じゃなくてもっと海岸線の近くで出来なかったのかよ? こんなに疲れた今の状態なら俺を斬るのも容易かもなぁ」

 そんな冗談を言いながら豪快に笑う、あずま訛りの男。

 ヤマトが会談の使者として遣わした者。

 それは科野の王タケミナカタの宿命のライバル、タケミカヅチであった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る