建御名方、科野の王となる

 眼前に広がる見慣れた風景に健は全身の力が抜けたかのように感じた。

 ようやく出雲から高志に帰れることになり、健はスマートフォンから乙姫に向けてメッセージを送信すると、すぐに首から下げた翡翠の石は輝き出し、ヌナカワの呪術によって彼女達の元へと舞い戻れたからだ。


「南方くん! ずいぶん長いこと出雲に居たね!」

 同じく翡翠の呪術によってこの時代へと転移させられたクラスメイトを見るなり、健は安堵した。

 見慣れた顔と勝手知ったる高志のクニ。

 まるで自分が本当にヌナカワの息子になって、妻であるヤサカトメが待つ地へ来たような錯覚すらおぼえた。

 だが、彼女は健の顔を見るなり途端に笑い出したので、せっかく感傷に浸っていた気持ちはすぐに崩される。

「やだ、南方くんったら、めちゃくちゃ髪が伸びてるじゃん。そんなロン毛だと男子は校則違反になっちゃうよ」

 横に流した髪は耳を覆うほど、襟足は制服のシャツにたっぷり被さるほどに伸びた毛を手で梳かしながら、健は腐った様子で乙姫に向き合う。

 そういう彼女は健よりも三か月ほど先にこの時代に来たと言っていた。

 学校や義兄の店で出会った時はショートだった髪はすっかりと伸びて、肩にかかるくらいになっていた。

 ぼやきや不平不満のひとつでも吐こうと思った健だったが、なんとなしに少し大人びた印象になっていた乙姫に妙に緊張してしまい、前髪を指先でくりくりと弄ぶばかりであった。




 それはその日の午前の出来事。

 出雲の異母兄であるコトシロヌシは御大みほでの休暇の釣りを終えて、まつりごとを行う西の屋敷に戻るなり、健を呼びつけた。


「大雨と風で阻まれていた熊襲への国使派遣だが、お前が正式に科野の統治権を禅譲されたところで行うのが吉兆と託宣が出た。その知らせを手土産に、お前が熊襲の王イサオに直接会うのだ」

「えっ? 僕が直接、熊襲に?」

 コトシロヌシからの想定外の指示に、健も困惑して兄の顔を見返す。

「王子が直参した方が箔が付くというものだろう。それにお前は一度イサオと面会をしているのだろ? 何も困る事はあるまい」

「まぁ、そうかもしれないですけど……」

「お前が科野の王となる席をこの出雲で設け、長門や阿岐、伯耆の使者にも参列してもらう。大々的に出雲が強国となり多くのクニが互恵関係にあるという事実を豊秋津島じゅうに、そして筑紫島にも知らしめるのだ」

「はぁ……」


 今度は途端に自分の意見に賛同し、その行為を肯定した事を訝しく思ったせいか、健は気の抜けた返事をしていた。

 そんな情けない弟に発破を掛けるように、コトシロヌシは熱い湯を飲みながら声を抑えて訥々と語りだした。

「俺はこのクニを豊かに、かつ広大にされた偉大な<大国主>オオナムチ父上の息子という立場のせいで、何をしても父と比較され、何を決めても反対する者が現れ、ずいぶんと苦心した。自由気ままなお前が羨ましくもある。だがそろそろ俺の言う通りに動いて欲しい。出雲王家は兄弟が手を携えていかねばならぬ」

「……はい」

「ということで、高志のヌナカワ母殿、そして科野のサカヒコ王に速やかに奏上するのだ。お前が科野の州羽の海を統治する次なる王の座に就くことを承諾した、と」




「……ふーん。あのお兄さんずいぶん考え変えちゃったじゃないの。性格が読めないからそんなに素直だとなんか逆に怪しいよね」

 出雲から高志にやってきただけで急に肌寒さを覚えた健は、ヌナカワの屋敷で火鉢を囲いながら温かな飲み物をすすっていた。

 さすがに北陸や東北は冬の到来が早い。

 逆に言えば、このタイミングでヤマトが一気に動き出したら山深い科野や、高志は加勢できない可能性もある。春までもつか、本格的な冬を前にヤマトを叩くか。

 その判断も健は急かされていた。

「でもあのお兄さんは僕に『言う通りに動いて欲しい』って言ったんだよ。そのうえで熊襲国交や科野の禅譲を認めたってことは、やっぱり出雲には有利に傾くって判断したと思うんだよね」


 健の意見に賛同したヌナカワだったが、今度は若干の不安さも顔に浮かべる。

 彼が不在の間、乙姫と意見交換し、また彼女のスマートフォンで未来の歴史を知る猶予は充分にあったせいだ。


「……それはタケルが、すなわちタケミナカタが科野に追われる環境が整ってしまったかもしれぬな。もしくは近々にそなたが科野での暮らしを余儀なくされるという意味とも取れるが」

「僕はコトシロヌシさんの言い付けで科野におさまるってこと?」

「だってスセリさんは和歌山県の熊野に移住したでしょ? そしたらなんらかの理由をつけてあのお兄さんが南方くんを蟄居させる最適な場所が出来たとも考えられるじゃない?」

「うーん……そうかなぁ……?」


 もし仮に出雲で『兄弟喧嘩』が起きたとしたら、ヤマトを前に兄は降参し、弟だけは立ち向かったという描写が残るとは思えない。

 記紀神話や風土記に残る記述を考察すると、やはりヤマトとの戦では、兄弟揃って対峙するというのが自然であると健は考えていた。

「あのお兄さんが今後、病気になって倒れるとか、ヤマトとの戦争よりも前に死んじゃうってことはないかな? 完全に南方くんだけで出雲を引っ張ることになるとか」

 乙姫の意見を否定するように健が首を振ると、長く伸びた髪がわずかに揺れる。それを見てまた笑ってしまう乙姫であった。

「その可能性は低いんじゃないかと思うよ? だったら『葛城にします』なんて書かれないじゃん。出雲はやっぱり負けてあのお兄さんは葛城に、僕は科野にそれぞれ追い詰められたってことだと思うんだよね」

「だとしたら、青柴垣あおふしがきの舟をひっくり返して海に飛び込んじゃうって神話が嘘になるじゃない」

「それは……いずれにせよ降伏したんだと思うんだけど……あのお兄さんが釣り好きだからそういう描写になったなんてことはないよね?」

「はあっ? そんなことがあるわけ……」


 そこで乙姫は、はっとして言葉を呑んだ。

 なにせヤサカトメは気丈で勝気な姫君。夫であるタケミナカタと夫婦喧嘩をしたりと、わずかに残る神話ではずいぶんと粗野でお転婆な人物になってしまっている。

 自分の立ち居振る舞いが神話に影響しているとしたら、もう少し立派なレディとして書いてもらわないと――。

「まぁ南方くんの言う通りかもしれないよね」

 急にしおらしく居ずまいを直す彼女を見て、健は怪訝そうに湯を飲んだ。



 それから数日後、高志には科野の従者が訪問していた。


 健を科野の次の王として広く知らしめる場を正式に出雲とすること。

 その日時、刻限などについて細かく打ち合わせをしていた。

 それにはまず現在の科野の王サカヒコが出雲へと出向く。

 以前と同様に<塩の道>を通ってここ高志の地に向かう。

 そこからはヌナカワの手引きにより用意された舟で日本海を出雲へ至る。


 科野の州羽の民は古来、大陸との往来を得意とする海洋民族であった。

 海からは遥か遠い山の奥に安住の地を求めたが、そこには州羽の海、すなわち諏訪湖という広大な湖がある。

 なので彼らにしてみたら、漁業も操船もお手の物。

 出雲や高志の者が手伝わずとも、舟を用意するだけで彼らには造作も無い事だ。


 サカヒコの乗る舟の出立を見送った健は頭を掻きながらぼやく。

「僕がワープできるせいで、後から追いかけてもあっという間に着いちゃうんだから、なんだかカッコつかないな。サカヒコさんにだけ大変な旅行させて申し訳ないなって思っちゃうよ」

「いいんじゃない? 大御所だってフェスなら最後にトリで登場するでしょ? 今回の主役は南方くんなんだから」

 そんな彼の隣に立つ乙姫は久しぶりに科野の父とのひと時を過ごし、なんとなしに充足感に満ちた笑みを浮かべる。

 既に数か月をこの古代の日本で暮らしていると、肉親や元の時代を回顧し寂しさを覚えなくも無いが、知らぬ間にこの時代にもたくさんの『家族』が出来たおかげでもあった。

 ま、そういう意味ではヌナカワ姫が僕らのお母さんみたいなもんだし――健も出雲で独りでの留守番とは異なり、こうして高志に居る日々は不思議と満ち足りていた。

 そして隣には妻の役を演じる羽目になった級友の姿。

 この時代に到着した時に頼れる者はヌナカワしか居なかった。しかし今は『母』だけではなく『妻』のヤサカトメが居ることが彼の安心感になっているのは、健自身も充分に理解していた。

 そして乙姫もまた、知らぬ間に背も髪も伸びて、少しだけ逞しくなった級友の男子との距離はゆっくりと、でも確実に近くなっていた。


 北の地である高志には冬の足音と共に寒風が吹き荒れ、二人の髪を掻き乱す。

 時間の流れは着実に神話の時代の終焉、すなわちヤマトと出雲勢の正面衝突に近づいている。その兆候を裏付けるだけの出来事が多く見て取れるからだ。

 では果たして阻止することができるのか。

 ヌナカワの本懐でもある出雲がヤマトに勝利し、国体を維持することができるのであろうか。

 今はそこまで考えたくない――無意識に首を横に振った健は、風で乱れた髪を手櫛で何度も流していた。




 それからおよそ二十日ほど後のこと。

 出雲の屋敷には、健とコトシロヌシ、科野の王サカヒコ、そして長門や阿岐、伯耆といった周辺国からの使者が集まっていた。

 厳かな雰囲気にやや居たたまれなくなった健は、何度ももじもじと尻を浮かせたり足を組み直す。こんな場に自分が居るのが似つかわしくないようにも思えた。

 加えてこの時ばかりは学生服ではなく、王族や地位の高い者が着用していた白地の衣と袴を纏い、袖と足首のあたりは紐でゆったりとした生地を絞って結わいている。その上にはヌナカワと繋がる未来から持ち込んだ翡翠の石の首飾りを着けていた。


 この格好はまるっきり日本史で習うアレじゃないか。

 コスプレをさせられてここに座って居ろとは、あまりの仕打ち――。


 何とも言えない気恥ずかしさに悶える健だったが、周囲の者も似たような衣服だ。それよりも未来に居た時より髪が長く伸びたとはいえ、角髪みずらを結うほどではない前髪が邪魔なので相変わらず麻の紐で頭頂部に纏めている。まるっきり女の子の赤ちゃんのようだ。


 そんな堅苦しい儀礼が終わり、ようやく制服姿に戻れた健は私邸の床に寝そべっていたが、そこに義父サカヒコが現れたので背を飛び起こした。

「あっ、サカヒコさん。今日はこんな遠くまでありがとうございました」

「タケルはだいぶ『王子の素振り』も板についてきたようだな。それにしても科野から出雲は本当に遠いな。私もこれが最後の仕事だと老骨に鞭打ったよ」

 サカヒコは苦笑まじりに頭を掻きながら健の近くに腰を落とすと互いの膝をつき合わせた。

 それから急に神妙に語りだすサカヒコに、健も固唾を吞んで相手を見据える。

「私もずいぶん悩んだものさ。いずれは未来に帰るタケルに国を譲るなんて妻にしてみれば気が触れたとしか思えないであろう。そなたが知る未来の予言では、州羽の海までヤマトの将に追われるとも聞いた。その事実に寄せるべきではないとのトメの忠告は耳の痛い話でもあった。でもトメも元はそなたと同じ未来の者。今はヌナカワ殿の願いを叶えることが最優先と考えてのことだ。科野と高志はただならぬ縁と交易を重ねてきたクニ同士。そこを察して欲しい」


 この時代ではヌナカワの他に自分達の秘密を知る者。

 それは科野の王サカヒコとその妻だけ。

 だから健も神妙に相手の声に耳を傾け、何度も小さくうなずくばかりであった。

「では、残すは熊襲との国交という大仕事だな。頼んだぞ、タケルよ」

 膝や腰をさすりながら立ち上がったサカヒコはそう言い残すと、健の屋敷を出て舟の待つ北の港へと向かう。


 来た道の逆を辿り、海路を経て高志の地に降り、そこから<塩の道>を抜けて科野へと至る帰路。

 その姿を見送っていた健は、自身の後ろ髪を撫でながら逡巡していた。

 このまま突き進んでヤマトとの戦となるのか、和平への道が開けるのだろうか。これが吉と出るか凶と出るか。それを知る術は無い。



 やがて、熊襲の国交を締結するための国使団が再び出雲をつ日が来た。

 多くの持参品と家臣を連れた一団を率いるのは出雲の第二王子タケミナカタ、すなわち健自身だった。

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