奴奈川姫との約束

 健と乙姫は熊襲の王イサオの屋敷を出てから関所を抜けた後もしばらくは道なりに歩いていた。

 周囲には交易を行っているであろう者達や、クニで待つ家族や友に向けて食料などを運んでいる民の姿があったからだ。


 黒い土が剥き出しの地面は踏みしめられ、草木も生えない山間の街道を下ってきた乙姫は通学カバンを肩から降ろすと、辺りに目配せをする。

「そろそろ人の気配も無いからだいじょうぶじゃないかしら?」

 すなわち高志のヌナカワのもとへと帰るワープの準備に入る合図であった。


 健もその言葉を受けて辺りを見回してから、ほっと胸を撫で下ろす。

「あぁ、今回は上手く行ってよかった。これで出雲と熊襲が和議を正式に結んだらヤマトへの抑止力にもなると思うんだ」

「とりあえずはね。でも出雲のお兄さんのコトシロヌシは、熊襲と和議を結べるかをあんまり信用してなかったんでしょ? スセリさんの忠告もあるし、あのお兄さんはどっかに行って留守にしてるみたいだし、南方くんはしばらく出雲の中の意見をまとめる事に集中した方がいいんじゃないかな?」

 乙姫のアドバイスに健は素直にうなずいた。

 ヤマトには頂点にて象徴たる日の巫女を陰から操る老獪な参謀『高木さん』が居るが、もはやタケミナカタを意のままに操るのは妻のヤサカトメであった。

 それは言い換えれば健にとって彼女への全幅の信頼でもあるのだが。


「そしたら一旦、姫のいる高志に戻ってから、僕は出雲の家臣のみんなに結果報告をしておこうと思うんだ」

「そうね。スセリさんの耳にも情報を入れておいた方がいいかもしれないね」

 健の言葉を受けて、乙姫は手元のスマートフォンから自身が持っていたタブレット端末に空メールを送る。

 すなわちそれは高志にいるヌナカワへの帰還の合図だ。


 しばらくすると、健の身体は光の泡に包まれる。

 それを合図に乙姫は彼のシャツの裾を掴んだ。

 そのまま二人の身体は細かな輝く粒となって消えてゆく。




「うひぃっ! ぐえぇっ!」

 中空から放り出された健は、身体を捻ろうとしたものの、乙姫に腕を引っ張られてしまいうつ伏せに木床に倒れ込む。その上に乙姫が座るように落下してきた。

「タケルにトメ殿も無事に戻ってこれたようだな。首尾はどうであった」

 ヌナカワの問いに健は青息吐息で言葉を絞り出す。

「まぁ、なんとか……」


 高志のヌナカワの屋敷に戻った健達は改めて腰を下ろすと、ヌナカワに熊襲との状況を説明し始める。

「……って感じでさ。とりあえずは国交開始って具合にはなったんだ。出雲から国使を派遣したり多少のお土産も用意しないとかなって。その相談をしに家臣の人達にも会いたいんだよね。なんかコトシロヌシのお兄さんはどっかに行ってて留守だから僕ひとりになっちゃうのもアレだし、姫にも一緒に来て欲しいんだけど」

 健の話を聞いていたヌナカワは幾度もうなずいたが、最後に首を横に振る。

「ふむ……あい、わかった。と言いたいところだが私は動くことができぬ。ちょうど科野のサカヒコ殿がこちらにお見えになると伝えがあってな」

「えっ? お父さんが?」


 乙姫がこの時代の『父』と呼ぶのは科野の州羽の王、サカヒコ。

 彼女が翡翠の石の転移により最初にやってきた場所であり、娘として保護していたクニでもある。


「科野は安濃津あのつを経由して木の国や摂津と交易をしておられる。その中でヤマトの動きを探っていただいていたのだが……なにやらご相談があるらしい」

「安濃津ってあの津ね。例の関所を通せんぼしてる新興国が完全にヤマトに味方したってわかったのかな?」

「あたしや南方くんを科野に呼ぶんじゃなくて、お父さんがわざわざ高志に来て姫に直接会いたいって相当な話だと思うんだけど」

 しばし腕を組んだまま思案する健だったが、仕方なしと言わんばかりにあぐらをかいた自身の膝を叩く。

「そしたら僕だけで出雲に行くかぁ。弥栄さんは姫とここで待っててよ。せっかくだからサカヒコさんと一緒に居た方がいいでしょ? もしかしたら僕もすぐに戻るかもしれないもん」

「そうだね……たまにはお父さんにも会いたいし」

「ならばトメ殿は私と共に高志に残るがよかろう。タケルよ、頼んだぞ」



 その次の日。


 ヌナカワは領内の視察のために、家臣の男衆が担ぐ輿に乗っていた。

 その脇を健は連れ添うように歩く。

 まだ出雲への出立はせず、今日はヌナカワと共に高志のまつりごとに参加していた。一方の乙姫は留守番で科野の父を迎える準備を女中たちと行っている。


 女王ヌナカワが向かったのは能生のうの村。

 太古より山間部から流れる川によって土砂が堆積し、川の両岸には平地が広がる。

 健の知る高志は親不知おやしらずのような切り立った海岸線か、後は山奥というイメージしかない。

 わずかな平地は全て川沿いにあり、そこに集落が出来ていた。


 側近の者達はそのまま小高い丘に登り、そこで輿を下ろした。

 ヌナカワは眼下に広がる田畑を観る。

 米の収穫は全て終わっており、土色の味気ない景色になっていた。


「あぁ、そうか。もうじき冬だもんね。さすがにベスト一枚だと寒くなってきたなと思ってた」

 以前見た夢の景色では、スマートフォンが示す日時は西暦二百六十五年。十月十二日となっていた。


 ヌナカワは家臣からコメの出来高や漁獲量、集落の民の陳情などの報告を受ける。

 その様子はまさに女王にして為政者のそれである。

 美貌や巫術だけでなく知略にも優れた『さかし姫』。

 祭祀を行う室内に居る時とはまた違う、陽光に晒された彼女の肌は一切の汚れが無い透き通る絹のようだ。

 これで自分と同じ高校生くらいの子供がいるんだから大したもんだ――健も自身の母や学校の教員の姿を思い浮かべると思わず感心してしまう。


 そんな彼の視線に気づいたのか、ヌナカワは健に問い掛けた。

「どうしたのだ、タケミナカタよ。私に何か意見でもあるのか?」

「いや、そういうことじゃないです……」


 家臣の前では一応は母と子の設定。

 まさかそのお母さんに見惚れてたなんて言える訳も無い。


「どうだ、タケミナカタ。能生の村は。高志はうましクニであろう?」

「確かにお米はたくさん獲れるし、海の幸もたくさん獲れるから『美味し』っていうのもわかるな。僕なんかここでウニや伊勢海老を初めて食べたもん」


 すると側近達はどっと笑い出す。


「美し、とは美しい、立派で良いという意味だ。まったく恥ずかしい子ですね」

「え~? でもそういう意味でも『美味し』で良いような気がするけど」

 気恥ずかしさから少しばかり不服そうな健に、ヌナカワも笑みを浮かべる。

 だがすぐに真剣な面持ちで視線を能生の村に戻した。

「出雲とヤマトが戦となれば、高志にも兵を指し向けることでしょう。私は王としてこの景観を守らねばならない。そしてタケミナカタよ。そなたの働きがこの日の本の未来を左右すると言っても過言ではありません。その覚悟をお持ちなさい」


 急に女王モードに戻ったヌナカワに、健は無言で何度もうなずく。

 いわゆるタケミナカタ王子の未来視の託宣――すなわちスマートフォンによる検索結果や、以前に見た夢の景色から、ここ高志の中でもヤマトと戦火を交える可能性があるのは彼女に伝えていたからだ。


「ただし……」

 そこで言葉を切ったヌナカワは、彼の瞳をじっと見つめる。

 その美貌に吸い込まれそうになると、健も緊張の面持ちで向き合う。

「決して命を落としてはなりません。そなたとトメ殿には『守るべきもの』と『選ぶべき道』がある。くれぐれも無茶をしないように」


 その言葉の意味を健もすぐにわかった。

 家臣達の手前、言い澱んだ曖昧な表現ではあるが、それが未来に帰ることだということを。

「たとえ私の肉体が滅んだとしても、私は未来永劫、祈り続ける。ここ高志で産出される翡翠の勾玉に願いを込めて。クニの安寧や民の安全こそが不変であり、普遍であると。豊秋津島が、そして日の本全体がそうなると願ってやまない」


 健は微かに憂いを纏った彼女の表情を見て、息を呑んだ。

 ヤマトの日の巫女と同じく、『ヌナカワ』は高志を統治する代々の巫女王の通称であり、彼女が王の座に就くとその名に改めたと健は以前聞いていた。

 それでも、出雲の王オオナムチと夫婦になったのは間違いなく今目の前にいる彼女だし、女王ヌナカワはやはり彼女ひとりなのではないかと、後世の生まれである健は錯覚してしまう。


 二人の間に設けた子、ミホススミはその行方を眩ませた。そして今度は夫も。

 

 彼女は別にヤマトを出し抜こうとしているのではない。

 かかる火の粉は払わなければならない。

 クニの数だけ統治者が居て、その考えは千差万別だ。

 ヤマトは豊秋津島をも支配下に置こうとしている。

 その際には必ず犠牲が出る。出雲や高志や、その民を想い、王としての責任を感じているのだろう。


 だが以前出会ったヤマトの武臣タケミカヅチはこうも言っていた。

 この大陸全土を象徴する存在のもとに下々のクニや民が集う。それが無難なまつりごとだと。無益な戦を望んでいる訳では無いが、その理想に従わないクニがあれば力で伏せるしかない、と。


 そんな言葉を思い出して、健は何も言えず視線を集落へと向けた。


 彼の知る限り、未来はヤマトが勝利してその形に落ち着いた。

 天皇を象徴として、全ての国民がいる。

 もし仮に出雲が日本の大王おおきみになった場合、祭祀を残すだろうか。

 大勢の国民が納得する状況を作れるだろうか。

 自分がしていることは神をも畏れぬ行為で古代の先人達への冒涜であり、不思議な力でヤマト勝利の歴史に寄っていく今の状況は、自分が既にある歴史の記録に翻弄されているのか、よもや神々の怒りではないのか――。


 そんな不安を振り払うように、健は首を振った。

 校則に従ってカットしていた髪はいくらか伸びて、彼の動きに併せて大きく揺れている。

「姫。今はとにかく前に進めるように頑張っていこう」

 なんとも我ながら頼りない言葉だと彼自身も思ったが、ヌナカワはそれに応えた。

「あぁ、そなたの言う通りだ」




 翌朝。

 健は通学カバンの中にしまった、乙姫から預かった予備の携帯バッテリーを入念に確認する。

 彼女がソーラータイプの充電器で全て満タンにしてくれていた。

「ねぇ、南方くん。なにかあったらすぐにメールちょうだいね。姫に呼び戻して貰うから」

「うん、わかった」

「あとスセリさんにも挨拶してきてね。それから熊襲への国使派遣の準備もね。家臣の人達が熊襲の力を借りて一気に勝負だとか言い出しても、ちゃんと止めてよ」

「はいはい、わかってるって」


 彼女はまるで頼りない夫を案じる嫁のようで、そんな二人の様をヌナカワも穏やかな眼差しで見守っていた。

 この才女ヤサカトメが居れば、もうタケミナカタは安心であろう、と。

「それじゃあ弥栄さん、サカヒコさんと姫との会談を頼んだよ。じゃあ姫、出雲までまたワープさせてよ」

「気をつけるのだぞ。コトシロヌシが所用を終えて帰ってきているかも知れぬ。あやつとよく相談するのだ」


 ヌナカワが胸元の翡翠の宝玉を両手に包み、祈り出すと彼の姿はやがて消えていった。乙姫の石はこの時代へと転移してきただけの『片道切符』。健に掴まっていなければ彼女が移動することはない。


「さてと。それじゃ姫、あたしはお父さんを迎える準備の続きをしてますね」

 おもむろに立ち上がった乙姫はスカートのしわを伸ばしていたが、ふとその手を止める。

「あれ? そう言えば前からずっと引っ掛かってた歴史の話って、科野の州羽が関係してるんじゃなかったかな?」

「それはサカヒコ殿の話か?」

「いえ、そうじゃないんですけど。なんで州羽に出雲と関係ないクニの話が……って気になってたんですよね」

「歴史書ではタケミナカタは最後、科野に落ちのびるのであろう? ならば出雲にも関係があっても不思議ではあるまい」

「いえ、タケミナカタさんの話じゃないんです。あれはたしか……」


 サカヒコに尋ねてみようとも思ったが、なにせ未来の話だ。彼が知る由は無い。

 健と再会した後も記憶の片隅に残っていたが、墨江・浪速と移動していた留守番の間にすっかり忘れていた。

 スマートフォンを手にした乙姫は諏訪関連のキーワードを入力していく。

「あ、これだ。『諏訪大明神画詞すわだいみょうじんえことば』ってやつで、ようするに科野の州羽に残ってる神話です。こっちはその画詞が基にして書いたと思われる『神皇正統記じんのうしょうとうき』なんですけど」

 乙姫はスマートフォンの画面をヌナカワに近づけるも、文字が読めない時代の彼女は眉を寄せてじっと見つめるばかりであった。

「それでトメ殿。そこにはなんと書かれておるのだ?」

「コトシロヌシさんが葛城や摂津の神様ってことになってるんですよ。出雲の第一王子なのにおかしくないですか? じゃあ出雲の国譲り神話で呪いの柏手を打った後に海に身を投げたはずのコトシロヌシさんがなんで葛城の神様になってるんでしょう。あっちの人達が手厚く祀ったって意味ですかね?」

「ふぅむ……しかし葛城とは面妖な」

「前にヤマトは大阪や京都や奈良にあったかもしれない説を姫にも教えましたよね? なんか怪しくないですか、あのお兄さん? もしかして行方不明のミホススミくんやオオナムチさんもあの人に……」


 ヌナカワは乙姫の問いに返す言葉も無く、空を見上げた。

 あんなに晴れていた空は、いつの間にか厚い雲に覆われた曇天になりつつある。

 日本海の天候は不安定でもある。

 それはヌナカワや乙姫の心中と同じく、わずかなざわめきを産んだようでもあった。


 乙姫は念のためにその内容を健宛てのショートメッセージとして送る。

「南方くん、ひとりでだいじょうぶだったかな? ホントに神話と同じようにヤマトに襲われるなんてことが無ければいいんだけど……」 

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