欺誣の誓い

 日没を迎える頃になると集落の中心にかがり火が焚かれ、食べきれない程の山海の珍味が並べられた食事の準備が盛大になされていた。

 出雲と熊襲の国交の開始を祝う宴だ。


 健と乙姫の向かいには熊襲の王イサオと彼の妻、その息子オグマが並ぶように着席している。側近の女性は歌舞を披露し、家臣の男達は酒を酌み交わす。

「さぁ、タケミナカタ殿も一献」

 イサオは持ち手のついた素焼きの土器に入れられた酒を健に差し出すが、それを見止めた健は大慌てで断る。

「いえ、僕はなんていうか、あのぉ、お酒が弱くてダメなんですよ」

 いい年頃の大人の男子が酒も飲まないとは――いささか呆気に取られたイサオはそのまま乙姫に向けるも、彼女も両手をせわしなく振った。

「あっ、あたしもお酒全然飲めないから、だいじょうぶです」

「僕らオグマくんと同じ果物を絞ったやつとかでいいんですけど……」

 だが、肝心の彼は父と同じ形状の土器から注いだ液体を飲んでいる。

 この時代には法律も条令も無いのだから当然なのかもしれないが、とうとうそれが酒なのかどうかは本人にもイサオにも聞けないままであった。


「しかし、噂通り……というのは少々ナニだが、出雲の王子タケミナカタというのは勇猛果敢で智略に優れた巫術の使い手だという噂は、ここ熊襲でも聞いておるぞ」

 酒の代わりに果実を絞った汁を健の杯に注ぎながら、イサオは会話を続ける。

「はぁ、そうっすかねぇ……噂が独り歩きしてる部分もありますけどね」

「供の兵も連れず奥方と単身、熊襲にやってきて和議を結ぼうという発想が勇ましくもあり無鉄砲とも言えるがな。俺が斬っていたらどうするつもりだったのだ?」

「……ホントですよね。でもそうせざるを得ないっていうか、ヤマトを出し抜くためですから。イサオさんなら対話できるかもなっていう確信はあったというか」


 だがこれは記紀神話や出雲の風土記や諏訪の縁起絵詞にも記載の無い行為であり、健にとっても可能性は五分以下。

 あわや歴史の波からタケミナカタが早々に退場していた恐れがあったのも事実だ。


「せっかくの縁だ。俺の息子の名を、そなたから一字もらおうと思うのだが?」

「えっ? 僕の名前から?」

「そうだな……熊襲のタケルというのはどうだろう?」


 すると健と乙姫は、またしても慌てて両手を振る。

「ダメです、僕の名前なんてマジで縁起悪いですから!」

「そうですよ! タケミナカタくんはもう本当に運が悪いんだから!」

 二人が必死に拒絶する様を見て、イサオも首を傾げる。

「だがオグマは『すまう』でそなたに負けた。これ以上の理由はあるのか?」

「いや、なんというか、そのぉ、ヤマトに狙われちゃってますからね、僕は……」

「オグマくんって名前だって格好いいじゃないですか。お父さんも満足でしょ?」

 その場を取り繕う健と乙姫だったが、イサオは杯を一気に傾けると膝を叩いた。

「なるほどな。常にヤマトに狙われているとは、やはり出雲の第二王子は噂通りの者だ。つまり各国と対峙するには、そなたと同じくらいの気概が必要だということか。それならば一も二も無く、我が子の名は『タケル』としよう。問題あるまい?」


 我が名も格好いいと褒められたが、出雲の王子と同じ名を得たことに対して、年上のお姉さん――すなわち乙姫に得意げな顔を向けるオグマを見ながら、なんとなしに申し訳なさそうに互いに視線を交わす健と乙姫。

「どうするのよ。このままじゃ、たぶんあの子『アレ』だよ?」

 小声で忠告する乙姫に健も首を小さく振るしかできない。

「これ以上の事は言えないし、無理に諦めさせるのもヘンじゃん。それにもっと後の時代の話だとしたら、タケル二世とか三世かもしれないし、あの子は助かるかもしれないもん。仕方ないよ」



 健と乙姫が懸念をしたのは、まさにこれから先の神話のことだ。

 時の熊襲の王・川上タケルはヤマトの皇子オグナに倒され、熊襲は滅亡する。

 父譲りの女好きで酒好きのタケルは、宴の晩、女装したオグナに刺される。

 やがてオグナは熊襲の王の名を受けてヤマトタケルを名乗る。

 そんな彼もまた日本各地を平定するために転々とした挙句に、非業の死を遂げることになるのだが――。


「きっと僕みたいに大変な目に遭いますから。あんましオススメしませんよ?」

「良いではないか。波乱万丈、大いに結構。攻め寄せる強敵や難題を突破してこそ、立派な熊襲の王たらしめるのだ。この子にもその運命を歩んで欲しいものだ」


 健は諦めたようにうなだれる。

 どういうことか、何故かこの時代の未来は日本神話の『結末』に寄ってしまう。

 そのために真逆の選択を、と熊襲と出雲の国交樹立を画策したのに、不思議な力で定められた未来に吸い寄せられているかのようだ。

 それは日本の神話に出てくる神が本当に存在していて、歴史の改竄を阻止されているかのようでもある。

 すなわちヤマトの高木さん、もとい『高木の神』タカミムスビの神威ではないかとすら感じてしまうのであった。

 もっと突拍子もなく、もっと大胆なことをしないと――そんな健の悩みを察知した乙姫は彼を鼓舞するように背中を何度か叩いた。




「ちょっと、なによこれ。全然お風呂入れないじゃない。久しぶりにサッパリできると思ったのにぃ」

 夜半を過ぎたと言うのに、乙姫の不満そうな声が寝室に大きく響く。

 健と乙姫に当てがわれた温泉付きの小屋とは、大地から湧き出す湯の蒸気を集めてサウナのようにしたものであった。

 それを見た健も全てを察知して諦めたように頭を掻く。

「あー、この時代はお風呂の習慣が無くて、まだ水垢離みずごりくらいしかしないもんね。僕も高志にいた頃は毎日、川で水浴びしてたよ」

「せっかく温泉がわんさか出てるのにもったいなくない? あたしなんかお風呂入りたいから州羽に居た時は家臣に温泉を作らせたもん」

「弥栄さん、そんなのいつの間に作ったの?」

「南方くんが浪速の港に行ってる間に守矢の男の人たちにやらせたの。御柱で囲まれたヘンな温泉小屋よ」

 自分が浪速に行ってた、ものの数日で温泉を造らせるなんて、むしろ統治者としては自分より彼女の方が素質はあるのでは――健も妙に納得した様子でうなずく。

「諏訪湖は温泉がでるからねぇ。糸魚川って姫に言っちゃアレだけど、そういう意味でも曇りや雨の日が多いし、クニの人口も少なかった。シーフードは獲り放題だったけどさ」

「あたし生まれて初めて九州まで来たのに温泉入れないなんて、ちょっとガッカリ」

「僕ら旅行で来たんじゃないんだから。また州羽に帰った時に寄ればいいじゃん」


 古代に来ておよそ数か月。すっかり伸びた髪を後ろに流して嘆息しながらも、乙姫は掌を振って健を追い出す。

「でもせっかくだからサウナでも入るよ。南方くんは早く脱衣所から出てって」

「はいはい、わかってますよ」




 翌朝。

 イサオの案内で健と乙姫は小高い山の頂上へと向かった。

 と言っても、熊襲の王が暮らす集落も充分に標高のある地に造られている。

 そこからさらに尾根伝いに山道を登ると、木製のやぐらが見えた。

「あそこが物見やぐらだ。ヤマトの動きを観察している」

 さらにその頂上から周囲を見下ろすと、健も驚いて目を見開く。


「うわぁ。森に囲まれているのかと思ったら、草原だらけの山ばっかりだ。あれじゃ敵の部隊もこちらも、どっちも丸見えですよね?」

 額に掌を添えて覗き見の芝居をしながら、健はイサオに問い掛ける。


 眼下には腰くらいまでの草が生い茂る山肌。

 視覚的には一面の緑だが、それは森林浴のような濃緑の世界ではない。

 辺り一面の景色が淡い緑や萌黄色に塗られていた。

 風と共に草が薙ぎ、互いにその身を擦り合わせ、丘を撫でるように吹き抜けていくと、それに合わせて背の低い雑草が揺れていく。

 これならば仮に夜襲でなくても、相手の姿は容易に発見できる。


「我が熊襲の屋敷は地盤の安定した森に置いてあるが、あの一面は太古の昔、火山が起きたせいで巨木は一掃されたようだ」

「ははぁ、周りは見晴らしがよくて相手の動きは丸見え。でもこちらは鬱蒼とした森や崖に囲まれてて要害になってるんですね」

「うむ。タケミナカタ殿よ。あそこを見てみろ」

 そう言ったイサオが指し示すのは、急峻な山々の間。

 僅かに山肌や岩が剥き出しになった、切り立った崖のような場所がある。

「あそこに川が流れているのだ。それより向こうがヤマトの土地。そして川のこちら側が熊襲の土地だ」

「すごいな。すぐそこまでヤマトの領地なんですね」

「ヤマトが日の巫女を中心に据えた小さなクニの集合体であるのはタケミナカタ殿も知っているだろう。厳密に言えばあそこは熊襲と隣接するクニということだな」


 健は川の向こう側をじっと凝視する。

 少なくとも視界の中にはヤマトの手によって造られた何らかの人工物や集落が見えることはない。

「そなたの出雲の周囲は長門、伯耆、阿岐と、交易を踏まえた良好な関係のクニばかりであろう? だが熊襲は違う。すぐ隣でヤマトと睨み合っているのだ」

「そういう意味ではイサオさんの緊張感ってすごいんじゃないですか?」

「事前に敵の動きもわかれば造作もないことだ。そのための見張りやぐらでもあるのだからな」


「そう言えば、僕らが長門の湾を封鎖したせいでヤマトの船はぐるっと南回りで日向の海や速水門を迂回しているそうなんですが、ご迷惑だったですか?」

 やや上目遣いで不安げに相手に尋ねる健をよそに、イサオは豪快に笑い出す。

「たとえ敵国の船だろうが、寄港すればそこの民草が潤う。俺はそこまで不寛容じゃないさ」

 それを聞いて、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。イサオは健に指を向ける。

「だが、俺たち熊襲の船も長門の湾で止められていると聞いている。そこだけは現地に居る出雲の兵どもによく注意をしておくんだな」

「あぁ、やっぱり……すいませんでした」

 咄嗟に頭を下げる健に代わり、乙姫がイサオとの会話を続ける。

「そう言えば、熊襲って木の国や摂津と交易ってしてます? なんか安濃津あのつへと向かう陸の交易路も新しいクニのせいで封鎖されてるんで科野も困ってるんです」

 イサオは顎髭をしごきながら、彼女の質問に首を傾げる。

「さてなぁ、東方のクニとの交易はさほど無いが……その辺りの事情はそなたが良く知っているのではないか?」

 またしてもイサオに唐突に水を向けられた健は驚いて首を横に振った。

「僕は全然知らないんですよ。どうしてですか?」

「出雲の第一王子が頻繁に東方に赴いているとは聞いているが?」

「あぁ、兄のコトシロヌシのことですか? えぇ、そうみたいですけどね」

「ずいぶん他人事のようだが……そなたの兄だろう?」

「兄なんですけど、お互いバラバラに動いてて忙しいっていうか……」

 王である父を支える二人の王子ながら、まるで互いをわからないという具合の健の様子を訝しげに見ると、イサオはそれ以上の会話をやめた。



 数日はイサオによる歓待や案内もあり、熊襲に滞在していた健と乙姫であったが、ある日の朝、出立の準備を始めた。

 と言っても、いつもの制服姿で通学カバンを肩から下げるだけ。

 ここが古代日本で無ければ、ただいつもの登校風景と何も変わらないものだ。


「本当に側近や供も連れずに夫婦だけで来るとはな……出雲というクニはいったいどうなっているのだ? ヤマトと膠着状態と言っていた割には安泰なのか?」

「いやまぁ、皆さんに余計な心配を掛けないように、まずは僕たちだけでって意味で来たんです。あとでちゃんと国使を派遣させますから」

「よもや夫婦で契りを交わした記念の旅というものでもあるまいだろうに」

 そういえば、歴史上でも特に有名なある人物が日本で初めて新婚旅行をしたという話を聞いたことがある――それは坂本龍馬だ。

 それよりも千五百年以上は前に自分達がそんな噂をされただなんて、健は妙に可笑しくなってしまう。なのでイサオから向けられた疑念は愛想笑いと共に流した。


 やがて健と乙姫は、関所の門を抜けて熊襲を後にした。


 そんな彼らを見送っていたイサオの息子『タケル』は、惜別の眼差しで乙姫の後姿を追いながら父に問い掛けた。

「父上。あの姫君はまた熊襲に来てくれますかね?」

 だが、父は息子の淡い願いを断ち切るように、首を横に振る。

「出雲と州羽が国体を維持できていれば……だな」


 そう言うと二度大きく手を叩いた。

 すると忠臣の一人が彼の後方で片膝をつく。

「すぐにヤマトに向けて、民草や交易の商人に化けた間者を放て。出雲の第二王子が熊襲にやってきた、とな」

「王は国交の開始を祝う宴をされましたが、和議のくだりも周知いたしますか?」

「いや、それには及ばぬ。来たという事実だけでいい。ヤマトの高木のジジィの耳に入れば充分であろう。それだけでもヤマトは出雲への猜疑心を大きくさせるはずだ」

 無言でうなずく家臣に向けてイサオはもう一度手を叩いた。

「あと、第一王子のコトシロヌシの動きも探るのだ。俺の知る限りでは出雲も一枚岩では無さそうだ。ヤマトと緊張状態になった時に、意見が割れる可能性がある」

「かしこまりました」


 足早に去っていく家臣には一瞥もくれず、イサオは腕を組みながら顎髭をしごく。

「これでヤマトと出雲、互いが消耗戦になれば熊襲の勝機も大きくなる。ここにきて天は我らに味方したようだな」

 無言で踵を返すと屋敷へと戻る父の後を、息子タケルは慌てて追った。

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