建御名方の相撲神事
健は革靴の爪先で、屋敷の外の地面に大きな円を描いていく。
それを見守る熊襲の王イサオは、腕を組みながら問い掛けた。
「その『すまう』とはどういうものだ?」
「相撲です。ようするに神様に勝負を奉納する神事で、両方がぶつかり合ってこの円の外から出ちゃったり、倒れて上半身や膝やお尻を地面に付けた方が負けです。あと拳を使って殴ったり、脚で蹴ったり、噛みついたりするのもダメ。基本的には神様に楽しんでもらう勝負ですから。暴力はとにかくダメなんです」
健は自分も相手も致命傷にならないように充分に念押ししながら解説する。
この時代で怪我や骨折でもしようものなら、医院も無いし満足な治療も出来ない。
ただそれだけが彼の心配だったからだ。
「なるほどな。ではオグマよ。タケミナカタ殿に稽古をつけてもらえ」
すると父の命を受けて少年は健の前に出る。
体つきはまだまだ幼いし、背丈もこの時代の子供なら健の胸よりも低い。
だが腕や肩には充分な筋肉をつけており、あどけなさよりも精悍な印象を受ける。
対する健はと言えば、高志に居た頃に家臣に剣術の鍛錬をつけて貰ったくらい。
学校では体育の授業に参加する程度で、運動部にも所属していない文化系を自称している。
学校の制服であるネクタイと紺のベストを脱ぐと、ワイシャツ一枚になった。さらに革靴と靴下を土俵の外に置くと素足になってオグマと対峙する。
「それじゃ、あたしの『はっけよい』で両手を地面につけて構えて『のこった』って合図で組み合ってね」
子供らしく素直にうなずくオグマだったが、行事役のために歩み寄る乙姫を見る目は、どこか年上の女性に恋焦がれる、おませな少年。胸元やスカートから出る素足を隠し切れない視線で見つめてくる。そこに母性を感じたのか、果ては性の芽生えか。
父親譲りの女好きという熊襲の血統にまたも嘆息を漏らしながら、乙姫は渋々両者の間に入る。
「それじゃ二人ともいくよ? 見合って……はっけよい、のこった!」
乙姫の合図にオグマは闇雲に突進してきた。
彼の頭部が健の頭部を痛打する。
その衝撃と、予想以上の筋力に彼は思わずむせ返った。
「ぐえぇっ! げほっ!」
相手の隙をついて、オグマは土俵の外へと健を押し出そうと両足に力を込める。
一方の健は自分の大きな背丈を利用して、上手からオグマの腰の服を掴む。
「いや、すごいな……パワーがあるよ、キミは」
とはいえ、そこはやはり余裕の年齢差、体格差であった。
両腕に力を込めると、オグマの身体をひょいと持ち上げる。
「くそっ! 離せ!」
健は両足をばたばたさせながら必死に抵抗する彼を土俵際まで運ぶと、自分で引いた円の外にすとんと立たせた。
「はい、勝負ありっ! タケミナカタくんの勝ちっ!」
乙姫が軍配がわりに元気よく右手を上げる。
まだ勝負したりない、負けたのが納得できない――そんな風に憮然とするオグマだったが、乙姫に促されて互いに一礼した。
「……という感じの神事なんです。これなら物事を決めるのも平和的だし、決闘みたいにお互いが大ケガしたり命を落とすようなこともないから、貴重な兵力を削いだりすることもないし、これならいいでしょ?」
早くも肩で息をしながら笑みを浮かべる健に、熊襲の王イサオも鷹揚にうなずいてみせた。
「なるほど。『すまう』とはこういう競技なのか」
すると彼は突然に動物の毛皮で仕立てられた上着を脱ぐと、貫頭衣一枚になる。
「タケミナカタ殿よ。俺もお手合わせ願おうではないか」
「えぇっ! イサオさんもですか?」
「もちろんだ。俺も『すまう』を体験してみたいものだ」
両者は土俵の真ん中で対峙すると、イサオは何かを思いついたように笑う。
「せっかくだから賭けをしよう。俺が負けたら出雲と和議を結ぶことに善処しよう。そなたが負けた時はそうだな……」
そこでイサオはちらと乙姫を見る。
「そなたの奥方を側室としてもらい受ける。これはどうだ?」
「はあっ? バカ言わないでよ、全然フェアじゃないのよっ! 勝手に決めんじゃないわ、このエロ親父!」
口相撲なら優勝と言わんばかりに乙姫はイサオに向けて喚き散らす。
それすらも意に介さず、彼は健の目を見据えた。
「どうだ? それとも勝てる見込みが無いからこの勝負を逃げるか?」
「だとしたら、オグマくんに勝った僕が一勝ってことで有利ですよね? 仮にあなたが勝ったとしても一勝一敗、引き分けです」
「だとしても和議と奥方は交換条件ということになるな。それで構わないか?」
相変わらず勝手に進む会話に乙姫は、健の腕を引いてイサオと距離を作ると、彼の肩や背中を何度も叩いた。
「ちょっと、あんなエロ親父の言う事なんか真に受けないでよ! あたしだって元のお母さんが居る時代に早く帰りたいんだから、もしここで負けてあのオッサンの嫁に無理やりさせられたりしたら承知しないわよ! ヤサカトメはタケミナカタをボコボコにして呪いの言葉をいくつも残して舌を噛んで死んだって新しい神話を作ってやるんだから!」
「いや、それだとどっちに転んでも僕が怖いんだけど……」
健とイサオは土俵で向き合う。
両者とも手をつくと、乙姫の合図を待っていた。
「マジでこのエロ親父に絶対負けないでよ! はいじゃあ、もう、のこった!」
やや投げやりな乙姫の合図を皮切りに一気に駆け寄るイサオ。
そこを待っていた健は両手を相手の眼前に向ける。
ぱぁんっ!
神社の柏手と同じくらいに綺麗な炸裂音を放った健の『猫だまし』。
目の前に迫った健の両手と音に、イサオは脚を止めて背を後ろに反らす。
そこを待っていたとばかりに健は相手の胸ぐらに飛び込んだ。
背はやはり健の方が高い。
相手の両腕を抑え込むように上手を取る。
「ぬぅっ!」
しかしそこは百戦錬磨の熊襲の王だ。
健の脇から差し手の下を通して、彼の腰を掴む。
ここで健は後悔した。
相手はいかにもこの時代の衣服という薄い貫頭衣。
対して、自分は未来の学生服のままだ。
腰に巻かれた革のベルトが力士のまわしよろしく、相手にがっちりと掴まれる。
「うぎぎ……」
健は相手を後方に押し出そうと全身に力を込めるも、イサオは微動だにしない。
「どうした、タケミナカタよ? これで終わりか?」
余裕の笑みを浮かべたイサオは健の腰のベルトをぐっと握り締めた。
「ひぃっ!」
その反動で、彼の両脚は土俵からわずかに浮く。
「ふんぬっ!」
そのままイサオは力任せに上体を右に振った。
「うわぁっ!」
一気に全身を左に寄せられた健の華奢な身体は宙に舞う。
イサオはそのまま彼を投げ飛ばそうと、一気に上体を右に反らした。
しかし現代人であることが幸いしたのか、彼の身体が地を這う前に長い左脚が地面に着地した。
「このおっ!」
さらにイサオは反対側に身体を捻った。
「ひぃぃっ!」
ふわりと宙に舞う瘦せ細った健の身体は右に大きく飛ばされた後に、右脚が大地を蹴る。
「おのれ、ちょこざいな! まるで蜘蛛のごとき長い脛ではないか!」
作戦を諦めたイサオは互いの上体を密着させたまま、健を土俵の外に圧し出そうと一気に寄り切る。
「うわぁあっ!」
自分で引いた地面の円のふちまで来た健は、何とか両足に力を込めて踏ん張った。
だが、同じ大人ならば相手は武術に長けた一国の王だ。
健が頑張っても到底敵う筋力ではない。
「ぐぇぇぇ……」
「では、そろそろ仕舞いにするぞ」
再びイサオは両腕に力を込めて健の上体を一気に押し込む。
じりじりと砂を掻きながら、後ろに下がる健の素足。
彼の上半身は背中からぽきりと折れるのではないか、というくらいに反っている。
このままでは負ける――。
荒く息をしながらも、なんとか二の腕と背中に全身全霊の力を込めて、相手の隙を作るべく土俵際で留まる健。
そこで乙姫が声を上げた。
「南方くんっ! 横!」
最初は何を言われているかわからなかった健も乙姫の声が届いた瞬間、咄嗟に自身の上半身を左にかわした。
その反動で右足は社交ダンスのように、すかさず自分の左足の後ろに回す。
正面に押し出そうとしていた相手の身体がなくなったことで、イサオはつんのめるように上体を前に倒す。
横に逃げた相手を捕らえるために、慌てて背を伸ばして身体を戻そうとした。
そこを一気に後ろに回った健は、イサオの背を取る。
「うりゃあっ!」
健は両の掌に力を込めると、相手の背中を力任せに押した。
その勢いでイサオは土俵の円の外に右足を踏み出す。
しばしその様子を見ていた乙姫は嬉しさのあまり飛び跳ねる。
「やったー! これで決まりねっ、はい、タケミナカタくんの勝ちぃ!」
対するオグマは父の負けを見届けて悔しそうに地面を蹴った。
二番も連続で相撲を取り、挙句に筋力では遥かに勝る相手に勝利したことと、乙姫からの強烈なプレッシャーを跳ねのけた健は、全身の力が抜けて土俵の上に尻もちをついていた。
「さぁ、これで約束通りね。タケミナカタくんが両方とも勝ったんだから、熊襲のみんなは出雲の戦に協力してよ!」
未だ両腕を支えに地面に座り込みながら荒く息をする健に代わり、乙姫はイサオに指を差し向ける。
だが彼はひらひらと掌をふると、また毛皮の上着を羽織った。
「あぁ、わかったわかった。しかしまずは出雲と熊襲の国交や交易を結ぶことからだな。いきなり俺達にヤマトとの戦に加勢しろというのは少々乱暴であろう」
「だったら最初に言ってくれればいいじゃないのよ、なんのためにタケミナカタくんと相撲したのよ、このイジワルオヤジ!」
乙姫はムッと頬を膨らませてイサオを睨みつけた。
イサオは未だ地面に座る健に手を差し伸べると、彼を立ち上がらせる。
「なるほど、これが『すまう』か。単なる力比べではない、技も駆使しつつ間隙をついて相手を地に落とす。それでいて互いに血を流すこともない……なかなかに面白い勝負ではないか」
「勝負じゃなくて神事ですけどね。神様の前で暴力はダメですよって意味で」
こうして五体満足で、オマケに流血沙汰になることもなく、熊襲との合議を結べる運びになったことに、健は自分自身が一番安堵していると感じていた。だが乙姫にしてみたら無理やり熊襲の王妃にさせられて、このまま過去の時代に残ることを回避できたのが嬉しくて仕方なかったから、どっちもどっちであった。
乙姫は全身で荒く息をする健の肩を叩いた。
「南方くん、勝ててよかったじゃん。もしあそこで負けてあたしがエロ親父のお嫁さんにされてたら絶対許さなかったよ。ちょっとだけ見直したよ」
疲労困憊ながら、乙姫の言葉に少しばかり高揚した彼は、ぐったりと丸めていた背や肩を広げると自信満々に笑みを浮かべる。
「それって僕に少しは期待しててくれたってことでいいんだよね?」
「正直全然ダメだと思ったけどね。期待できなかったから逆に少しはカッコ良さ増したって見られるんじゃない?」
単純に褒められているのか、けなされているのか――結局は乙姫の本心は分からず相変わらず嫁に尻に敷かれる出雲の王子という噂のままに、彼女の返答を受けた健は全身から力が抜けて土俵に座り込んだ。
「僕ってホントにタケミナカタなのかな? なんだか
「勝てば官軍よ。これから南方くんが新しい歴史を作ってくんだから、さぁほら」
それまでの発言は嘘のように、乙姫は大地にへたり込んだ健に手を差し伸べる。
女子がそばに居たら緊張するし、まして手を握るなんて夢のような話であった現代の学校と比べて、こうしていつもそばに居てくれて、背中を押して鼓舞して時に辛辣なダメ出しをしてくれる彼女の存在がありがたくもあり、健は『タケミナカタの妃』ヤサカトメの掌を自然と受け入れていた。
そこでイサオは手を二度叩く。
すると家臣や女中が何人か集まり、王の前でひざまずく。
「さて、それでは宴の準備といこう。出雲と熊襲がこうして国交を始める祝いだな。タケミナカタ殿も奥方もしばしゆるりとされるが良い。熊襲はあちこちから地の湯が湧く豊かなクニであるからな。そなた達に寝所も兼ねた湯浴み小屋を貸そう。どうか夫婦水入らずで楽しんでいってくれ」
「え? 夫婦水入らずって……弥栄さん、温泉だって。どうしよっか?」
途端に鼻の下を伸ばして頭を掻く健に、乙姫は彼の背中に盛大な張り手を食らわせた。
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