出雲とヤマト、迫る戦の陰
それは浪速の港で出会った男から詳しく聞いた話だ。
出雲の命令によって、突然に筑紫島とを結ぶ長門の湾の港が封鎖になった。
しかも、連絡船だけでなく、長距離の交易船も停泊させられて荷物の検品が行われるようになった。やむなく筑紫島の南の勢力である
長門と速水門いずれも、海底の地形に潮がぶつかり海水面に渦を巻く、船頭が航行するには難所である。
それまでクニ同士は緊張状態ながらも民間での交易は続けていた出雲とヤマトであったが、今回の出雲の行いには不信感と露骨な反発が出ている。
いよいよ出雲を陥落せしめる時だ、と息を巻くヤマト内の領主も居るという。
停泊し寄港する船が減れば、仕事が減り、食い扶持が減る。
港の男たちも出雲への不満が鬱積していた。
健はあまり目立たないよう、早々に港から離れて小さな川辺に座っていた。
水量も少なく川底が覗けるくらいのその川は、きらきらと日没間際の陽光を反射させ、健の視界に赤橙の輝きを幾度もちらつかせる。
だが、肝心の彼は呆然と川面を見ていた。
そのうち頭を抱えたり、自分の膝に顔を埋めたりを繰り返す。
「あちゃあ……やっちゃったなぁ。これじゃヤマトを挑発したようなものじゃん。かといってスパイが自由気ままに出入りできるクニってのも不健全だし、ましてや古事記とかには怪しい人が大勢書かれてるんだから、やっぱり先回りするしかないよな」
ふと足元を見ると、この時代にやってきてから唯一の履物だった、学校指定の革靴は底が擦り減り、全体も風雨の汚れなどでくすんでいた。
現代に戻ったら母さんにどやされる――そう考えただけでも辟易する。
そして足元の小石を拾うと、健は水面に向かって放り投げた。
「だいいち未来予知なんかできないんだから、古事記とか日本書紀に書いてあることをやるしかないんだよ。それって結局は歴史をなぞってるだけだとしたら、僕なんかには出雲を勝たせることなんか到底できっこないって」
小石はぽちゃんと川の中に落ちる。
流水なので波紋が広がるわけではないが、なんとなく自分の心にさざ波だつ不安が広がるような錯覚をおぼえた。
それからポケットに手を入れてスマートフォンを取り出す。
バッテリーの残量はもうわずか。
しかし未だヌナカワからの呼び戻しもない。
かといって、防災用充電器のハンドルを回す気力すらない。
次第に海岸線に沈んでいく太陽を見ながら、闇夜にひとり残された自分の行く末を案じてしまい、心細さが思考を蝕んでくる。
その時だった。
「もしかしてタケミナカタ王子ですか?」
突然に後方から声を掛けられて、健は緊張の面持ちで振り返る。
そこには剣を腰に下げて
「こんなところでどうされたのですか? 科野の土着部族を平らげたと聞き及びましたが、摂津の浪速にも怪しい動きがございますか?」
「えっと、あなたは?」
「出雲の兵でございます。交易品を検品する出雲の詰所がこの先にございますので、よろしければそちらにご案内いたしますが?」
遠く離れた摂津の地で、まさに渡りに船の出雲の民。
健は寂しさや緊張から解放された安堵の思いで、腰を抜かしかけた。
人工的な照明も無い、すっかりと日没を迎えて暗灰色に塗られた町の中で、煌々と炎が焚かれた明るい屋敷にやってきた。
といっても、寝食をするところは限られている。ほとんどは交易品を一旦収納する倉庫としての役目のようだ。
狭い寝所に健が腰を下ろすと、その前に兵たちも同様に膝を折って居並ぶ。
「すごいですね。こうやって出雲から運んできたものや、浪速から運ぶものを集めておくんですね」
「摂津はヤマトとの交易で栄えたクニでございますが、浪速や墨江は中立の港を謳っております。無論、同じような詰所はヤマトもございますが」
「ふーん。それにしても武器が多いですね……やっぱ戦が近いせいかな?」
倉庫の中は保存の利く食料のほか、槍、弓、矢、粗鉄や青銅の武器防具が並べられている。中には高級品でもある高温の炉で精製された鉄の剣もあった。
「我らの同朋が長門の湾を封鎖しましたので、ヤマトを目指す大半の船は、筑紫島の南岸を迂回するか、<鯖の道>を通って三国の港から船を出しております」
「あぁ、それは僕のせいでなんかごめんなさい。ヤマトとかえって緊張状態にしちゃったんじゃないかな、って……」
健は椀に入れられた白湯を飲みながらも、詰所の兵たちに頭を下げる。
自分のせいで彼らもまた苦労を負ったのではないかと思ったからだ。
だが、彼らは浪速の港の民とはまた違う反応を見せた。
「オオナムチ様の第二妃であらせられるスセリ姫様から、ご報告を受けてらっしゃいませぬか?」
「えっ、スセリ姫から? 出雲でなにかあったんですか?」
すると兵たちは力強い笑みを浮かべながら健に奏上した。
「出雲に潜り込んでいたヤマトの間者を成敗したと聞いております。コトシロヌシ様を
「えっ! 間者?」
兵たちは、目を丸めて驚くタケミナカタ王子は出雲の武功に驚嘆されたのだろうと感じたが、健はまったく逆であった。
やはり古事記や風土記に記述のある通りに歴史が動いているせいだ。
自分が古文書をなぞるように動いてはヌナカワの望むような歴史を越えることはできない。その焦りが彼にはあった。
「それって、もしかしてスクナヒコさん?」
健の問いに兵たちは一様にうなずく。
「闇夜に乗じてスクナヒコ殿を斬ったのはスセリ姫様の家臣と聞いております。他にもホノヒコ殿、ワカヒコ殿という下位の家臣だった者です。彼らはいずれも捕らえられ、剣の錆びとなる前に
健は驚きのあまり口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。
彼いわく、ヤマトの高木さん――神話の中ではタカミムスビと名付けられた、老獪なヤマトの忠臣<高木の翁>。つまり先代の日の巫女の頃からヤマトに仕える者だ。
その息子と目されるのがスクナヒコ。若かりし頃のオオナムチと共に出雲の拡大に尽力してくれたが、突然に
そして神話では、アメノホヒ、アメノワカヒコは出雲平定のために向かったが、オオナムチにおもねり、ヤマトを裏切った者たちとして描かれる。
彼らのうちの一柱は、タカミムスビが放ち返した矢で死ぬ。
「だとしたら、彼らが死んだことはもうヤマトの高木さんにはバレてるということですよね?」
「逆かもしれませぬ。明るみになった際には自ら服毒して死を選ぶように命令されていたのではないでしょうか?」
「うげぇ……死ぬ覚悟でスパイしに来てたんだ……」
到底、理解の及ばない世界に、健も髪を掻き乱す。
加えて神話の世界では、彼らはヤマトの裏切り者として描かれていた。
祖国のために命の危険を冒してまで敵国に侵入し、挙句に死を選び、さらには後世の神話の世界でも情けない描かれ方をする――。
おぞましいヤマトの老人に健は幾度も身震いをした。
もちろん神話のタケミナカタも同様だ。
出雲から遠く州羽の海まで追い立てられ、そこで惨めに敗北を認めるのだ。
他にも数多のクニはヤマトに敗れた者として哀れな描かれ方をする。
だが、それは後世のヤマトが勝者がゆえに残された歴史だからだ。
天上人は
太陽神から連なる唯一にして崇高な
日の巫女を神格化し、筑紫の島から豊秋津島へと触手を伸ばそうとしている。
「今は戦力を出雲に集中させる時ですので、こうして集めた食料や武具は、いずれもここから出雲に送られるものです」
「浪速の人たちは出雲が長門の湾を封鎖したせいで仕事が減ったのを恨んでるみたいだったし、クニから離れてそんな浪速で補給部隊っていうのも大変ですね」
どう言って慰めていいかわからない健は、抑えた声で兵に向かって返事をした。
しかし、健と対面した兵は顔を紅潮させながら、興奮気味に返す。
「とんでもない! 我らこそ忠義を尽くし、出雲のため、王子のために働く覚悟でございます!」
戦争はある種の催眠効果である。
武勲に名高い統治者が居れば、兵卒や民も戦勝は容易と考える。
大義が当方にあると信ずれば、家臣や軍人も身を粉にして働く。
健の言葉はいまや彼らにとって、『我ら出雲を離れて浪速に駐留する兵にまで御心配りをされる優しき王子』の下賜であった。
彼の考えている以上に、ここ古代の日本では『タケミナカタ』の名を高めてしまっていた。それが望む望まざるとにかかわらず、だ。
それから健は数日を浪速の詰所で過ごした。
ヌナカワからの翡翠の石による『呼び出し』が無かったせいでもある。
しかし、遠く離れた摂津の地でも心をひとつにして出雲に尽くす、歳の近い忠臣に出会っことで健も久しぶりに心を解き放って語らいが出来た瞬間でもあった。
ある日の朝。
朝日が東の山々から昇り、
積み荷を乗せた出雲の船が港を出発する。
来たるべきヤマトとの戦に備えるための武具を乗せた船は、ゆっくりと水平線の彼方へと消えていく。
詰所に居た出雲の兵と共に、健はなんとも言えない浮かぬ顔で船を見送った。
健は港を見回せる開けた海岸線の松林の木陰に腰を下ろすと、ぼんやりと水平線を眺めていた。
両膝を抱えたまま深い息を吐くと、また港を往来する船を見回す。
「はぁ……いくら大昔の話だからって、人が死ぬとか殺し合うとか、寝覚めが悪くて仕方ないな……これ、ガチの戦争になったら大勢の兵が死んじゃうだろうし、僕のせいだとしたら、過去の『タケミナカタ』がやったことだって割り切れないっての」
まして自分は出雲のスセリ姫に進言して、長門の湾を封鎖したり、間者と思われる者を捕らえるように言った。
緊張状態ながらも、かろうじて戦にはなっていないヤマトとの火種を敢えて作ってしまったという思いはある。
健は首から下げた翡翠の勾玉を握りしめた。
この時代で頼れるとしたら高志のヌナカワであるし、なんとなく愚痴や弱音を吐けそうだとしたら、科野で留守番をしている『妃のヤサカトメ』、同じクラスメイトの乙姫だけだ。
「とりあえずここはいったん墨江に戻ろう。同じ摂津でも、浪速は出雲に対して少し警戒してるもんな。なんか危ない気がする」
健は重い腰を上げると、数日前に来た街道に沿って墨江の港に向かった。
往路と同じく片道六キロ程度の道をとぼとぼと歩きながら、だいぶ時間を掛けて昼前に墨江の港に戻ってきた。
浪速と同様に船が幾艘も往来し、人の行き来も多く、賑々しい活気がある。
健が港の中を歩いていると、先日もここで声を掛けてくれた白髪の多い港の男性がそちらに気づいて手を振っていた。
「おい、出雲の王族の若旦那。あれから浪速には無事に行けたのか?」
「えぇ。でもまたこっちに戻ってきました」
「それがいい。向こうの連中は筑紫からの船が減ってピリピリしてただろ? だから俺もこっちの港に居住を移したんだよ」
健はなんとなしに勝手の知る親戚に会えたようで、少しばかり安心した。
そんな彼を慰撫するかのように、高齢の男性は肩に手を置いた。
「しかしあんたも運がいいな。浪速から墨江に来る途中で、あんなことがあったろ? てっきり俺たちもあんたが巻き込まれたかもって心配してたんだよ?」
彼の言う意味が咄嗟に理解できなかった健は首を傾げる。
「えっ? 出雲になにかあったんですか?」
「浪速の港にある出雲の詰所が焼け落ちたようだぞ。中には武器や防具がたんまりと溜め込んでいたから、戦の疑いありってヤマトが急襲を仕掛けたってよ。そこに居た兵もみんな斬られたり焼け死んじまったらしい」
健は色を失い、痩せ衰えて日に焼けた男の華奢で褐色の肩を掴む。
「どういうことですかっ!」
彼の反応に呆気に取られた男性だったが、その手を振り払うと言葉を続ける。
「つい今朝のことらしいぞ。浪速と墨江の定期船に乗っていた者が言っていた。あんたは人探しで浪速に来たんだろう。あっちには行かなかったのか? えらい騒ぎだったそうじゃないか」
健は街道を徒歩で浪速を出発した。
その間に、風や潮流を捕らえた船は彼より先に墨江に到着していたようだ。
彼が出発した直後に起きた騒乱。
つい昨晩まで寝所を共にした兵たちは皆、死んだらしい。
健は口元に手を当てると、震えの止まらない全身を抑えようと両脚や両腕に必死に力を込めた。
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