御穂須々美の足跡

 科野しなの州羽すわの海にある、乙姫の屋敷。

 健はぐったりと疲れ果てて庭に置かれた椅子代わりの丸太の切り株に腰掛けていたが、ある意味、乙姫の家にお邪魔しているとも言えなくもない。どこか緊張した様子でそわそわと周囲に視線を配る。まるで彼女の家に遊びに来た彼氏気取りだ。


「あぁ、なんだかここ数日はせわしなくて疲れたよ」

 老人のように背を丸めて、たっぷりと陽を浴びながらぼやく健に、同じクラスメイトであった乙姫は、スマートフォンに視線を向けたまま呟く。

「高志の女王様の命令でこれからもっと忙しくなるんでしょ?『疲れた』なんて情けないこと言ってる場合じゃないんじゃない?」



 それは先日のこと。

 州羽の海からわずかに離れた守矢の山を聖地と崇める土着の部族を屈服させたことで、科野の中で健の評判と名声は一気に上り詰めた。

 和議を申し入れた守矢の首領との対面を終えた科野の王サカヒコは、満面の笑みを浮かべて健と乙姫を呼び寄せた。

「さすが、噂に違わず未来人と申すだけの働きであった。これでヌナカワ殿もご安心であろう。そしてタケルよ。そなたが名乗る高志の女王陛下の息子という話も、その名をタケミナカタと騙る偽りも、すべて『事実』と認めると、我ら科野の民は改めて誓おうではないか」

 サカヒコと向き合っていた健は科野の王からの言葉に安堵の表情を浮かべて、上半身を深々と折る。

「ありがとうございます。これからも出雲と高志をよろしくお願いします」

 なんとなく出雲の王子様の芝居も板についている彼の姿を見て、乙姫もこれまでの学校での地味で大人しくて頼りない印象とは違う健の様子に感心していた。


 そんな『娘』の表情の変化を横目に窺ってからサカヒコは健に語り掛ける。

「さて、タケル。改めタケミナカタ殿よ。我が娘トメとそなたは同じ未来人。トメを妃に迎え入れるというのはどうだ?」

「ええっ!」

 反射的に顔を上げて視線を彷徨わせる健であったが、驚いたのは乙姫も同じだ。

「お父さんったらバカなこと言わないでよ!」

「何故だ? そなたらは既知の仲であろう? よほど知らぬ他所のクニの男よりは、良いではないか?」

「あたし達の時代だったらお見合いとかしないで、そういうのは自分で決めるから! 別に南方くんじゃなくても、あのまま未来に居たら、あたしもモテてたかもしれないじゃない!」

 明らかに狼狽、もしくは困惑、場合によっては完全否定とも取れなくもない乙姫の態度に、少しばかり落胆する健。

 だが、この時代の父サカヒコは至って真面目だ。

「物事は全て縁によるものだ。お前が彼とここで出会ったのも、ただならぬ縁なのだろう。お前が本当に未来から来た、未来に帰りたいと言うならば、お前は彼と行動を共にするのが必然ではないか?」

「まぁ、それはそうだけどもさ……」

「ならばタケルの芝居に乗るが良い。そなたは科野の王の娘ヤサカトメであり、出雲の王子タケミナカタ殿と婚姻したとしておけば、他のクニとも交渉が優位になるかもしれぬ。彼の本懐はヌナカワ殿の本懐。そしてそれが叶えば、二人とも未来に戻れる術があるのかもしれぬぞ?」

 途端に苦々しく顔を歪める乙姫。

 健から見て、このあたりは古代の日本でお姫様をしていても、普段の学校と相変わらず勝気で元気で我の強さが出ているという感じだ。

「タケルとトメのために、屋敷を用意しておこう。積もる話もあるだろうから、しばらくはそこで仲睦まじく暮らすがよい」




「タケミナカタ王子の屋敷はここから、あそこまでだ」

 州羽の海の畔に立った健は唖然と見返す。

 科野に恭順し、仕えるようになった守矢の首領が指し示したのは、湖のほど近くから見上げる地平線の丘陵の先までであった。

「いや、僕にそんな広い土地は要らないですから!」

「王子の土地は科野の聖地であり、我ら守矢の新しい聖地でもある」

「気持ちは嬉しいけど、もっと普通の小さな別荘みたいな感じでいいですよ。僕の屋敷に贅沢してないで、科野全体を豊かにしてヤマトとの戦争に備えないと!」

 科野に敗北してから、それまでの鹿の面を取って素顔で暮らす守矢の首領は、刺青の入った顔に蓄えた白いものの混じる顎髭を撫でる。

「ならばどうする? 守矢の山は焼けた。これは我らの新たな領地であり聖地でもあるのに、王子は屋敷は要らぬと言うのか? だとすると我らの聖地も要らぬのか? 受け入れて貰えぬのか?」

「いや、そうじゃないですけど、もっと質素倹約して、地味にしてくれれば……」


 身振り手振りを交えて説得しているうちに、健はある光景を思い出した。

 それは高志にあったもがりだ。

 故人を埋葬する墓であったが、四方の頂点に枝葉を落として樹皮を剥いだ木の幹を立てており、そこを神聖な地として水と炎で清める、とヌナカワから聞いていた。

「あー、じゃあ木の幹を立ててください。高志のお墓じゃないけど、ここが聖地だぞってアピールできるような、パッと見でわかるような柱を四隅に立てたらいいんじゃないですか? そしたら、よそのクニの人も『あの中は何かただならぬ感じだな』って見えるでしょ?」

「そうか、四方に柱を立てた中が聖地だな。わかった」

 守矢の首領は大きくうなずくと、男たちを山へと向かわせた。


 それから数日を改めると、健と乙姫の屋敷が建つ予定地には、四隅に巨大な丸太が大地に刺さっていた。ここを中心に敷地の中は聖地であり、守矢の民が守護すべき新たな主が鎮座する場所とされた。

 やがて、大地を穿った穴から天に向かって立てられたその丸太は、守矢の民からは『御柱おんばしら』と呼ばれて、語り継がれていくことになる。



 ところが、新居の完成を待たず健は高志に戻ることとなった。


 科野の王サカヒコの屋敷では健が対面していた。

「僕がこの時代に居る理由はふたつ。出雲をヤマトに勝たせることと、ヌナカワ姫の息子ミホススミさんの行方も探しているんです。王様は何かご存知ですか?」

 ミホススミという言葉が出たところで、サカヒコと彼の妻でもある女王は心配そうに互いの視線を絡ませる。

「たしかにミホススミ殿のお姿が消えたというのは承知している。高志の伝令から、ご立派に戻られたと聞いて安堵していたが、それはそなたのことであったのか」

「今から十年くらい前でしょうか? 出雲から高志に戻ったミホススミさんは、ここ科野で修行をするために向かったと聞いてます」

「うむ。出雲とヤマトの緊張が続くと、ヌナカワ姫はミホススミ殿を連れて高志に戻られたが、そこにもヤマトの間者が現れたので、やむなく州羽の海で匿うことにしたのだ。高志と科野は長らく塩の交易で良好な関係だったのでな」

「その途中で行方不明になっちゃったんですね?」

「いや、ミホススミ殿は間違いなくこちらに参られたぞ」

 思わぬサカヒコの言葉に驚いた健は、上体を前のめりにして彼の顔を見た。

「ホントですかっ! じゃあミホススミさんはどこに?」

「それが、幾日と経たぬうちに浪速なみはやの港を見に行くと仰せだった。いわく『お父上に呼ばれた』と申されるからな。てっきりヌナカワ殿もご承知と思っていたので出立を見送ったのだが……それきり戻られぬ。ご無事に着いたと高志にお伝えする前だったので、突然のことにわたしたちも戸惑ってしまい……ヌナカワ姫に会わせる顔もないのだ」

「そうなんだ。浪速かぁ……」


 しばらく思考に集中していた健だったが、何かを思いつくとサカヒコに深々と頭を下げた。

「そしたら僕はヌナカワ姫に状況を報告するために、いったん高志に戻ります。それから浪速の港に向かおうと思います。なので弥栄さんは引き続きここで預かってて欲しいんです」

「もちろんだ。トメの既知の仲であるそなたを信じて、我ら科野の民はタケミナカタ殿をお支えすると誓ったわけだからな」



 そして冒頭の健と乙姫が彼女の屋敷で雑談をしていた時に戻る。

「それであたしは相変わらずこの時代で留守番してて、南方くんはあちこちにワープできるっていうわけ? 南方くんも現代に帰りたくないの? そんなヤマトが勝つとか出雲が勝つとかって大事なの?」

「なりゆきでね。ここまで来たら勝手に未来に帰るのも無責任かなって」

「ふーん、高志のお姫様ってそんなに美人さんで素直にホイホイ言う事聞きたくなるくらいなんだ。さすが出雲の王子様を名乗ってるだけのことはあるのね」

 健の方には視線も向けず当て擦りを言う乙姫に、彼は慌てて両手を振る。

「いや、ヌナカワ姫は人妻で僕らと同じくらいの歳の子供が居る人だから! そんな理由じゃないって!」

「じゃあ逆に人妻の新しい魅力に気づいたんじゃないの?」

 全力で否定するも、乙姫にかえって怪しまれることに、健もしどろもどろになる。

「いや、その、ともかく、僕は高志と浪速に行くよ。そのうち出雲にも行くことになりそうだけど……弥栄さんはどうする?」

「そんなクニ同士で戦争してる危険なところに女の子を行かせないでよ。あたしはとにかく未来に帰りたいんだから」

「うん、わかった。じゃあまたチャンスがあったらいつでも来るから」

 あっさりと彼女の言い分に納得する健に、乙姫も唖然とした。


 普通はここであたしを心配して一緒に連れていく展開でしょ――。


 これまで突然に古代の日本に飛ばされて、孤独に暮らしていた中で偶然に出会えたクラスメイト。

 寂しさの裏返しで以前と同じく強気に出てしまう自分にも呆れるが、やっぱり無神経であり、女の子の気持ちを理解していない彼に若干の腹を立てる。

「せいぜい死なないようにしてよ! あたしだけずっと過去に残されるなんて御免だからね!」

「もちろんだよ。だって僕も……」

 すると、健が首元に下げた翡翠の石は突然に輝き出す。

「あっ、ヤバい! 姫に呼ばれてるやつだ! また飛ばされちゃう!」

 大急ぎで自分の通学カバンを確保した健の姿は、淡い翠緑の光とともに、瞬く間に消え去った。

「んもう! ホントにあたしのこと置いてっちゃうんだから! 南方くんの意地悪! アホ! 無頓着!」

 頬を膨らませながらひとり叫ぶ乙姫だったが、ふと自分のスマートフォンに繋がれたソーラータイプの充電器に視線が向く。

「やだっ、南方くんのスマホ充電器を借りたままじゃない! 向こうで充電が必要になったらどうしよう。でも南方くんの電話番号もメアドも知らないし……」

 主の姿を失くし、ぽつんとそこに置かれていた充電器を見ながら、乙姫は右往左往する。彼女のスマートフォンのバッテリーは陽光を集めて充電は完了していた。




「ぐえぇっ!」

 背中から地面に落下した衝撃で、肺の空気を吐き切った健は苦しみに悶えていた。

 そんな彼を見ていたヌナカワは、ご満悦そうに屋敷から見下ろす。

「タケルよ。<塩の道>を経て科野から伝令が来たぞ。土着の部族を平らげて、かのクニの内乱を収めたそうではないか? 見事なり」

 だが、それどころではない健は大の字のまま何度も深呼吸すると、ようやく上半身を起こした。

「急に呼ばないでよ。こっちだって忙しいのに」

「おまけに科野の姫君を妃に迎えたそうではないか。この醜男しこおめ。出雲の王子と騙るそのままに、我が夫とそっくりになってきたな」

「それが、そういう訳でもなくてさ……」


 尻や背中の土を払った健は、中庭から屋敷に上がるとヌナカワの前にあぐらをかいた。すると彼女も健の正面に膝を折る。

「姫の石の呪いで、僕と同じ学校のクラスメイトがこの時代に飛ばされてたんだよ。その女の子が科野のサカヒコ王に保護されてたってだけ」

「ほう、おなごとな。それも奇遇ではないか。益々めでたいのう」

「いや、だから出雲の王子と科野のお姫様が結婚したよ、って嘘の芝居したらヤマトに対抗できるかもってだけだよ」

「嘘偽りにする必要もなかろう。そのおなごを娶ってしまえば良いではないか。なにを臆しておるのだ」

 彼の縁談の話に興味津々という具合のヌナカワであったが、健はより大事な情報を伝えるべく、そんな彼女を無視して日本地図を取り出す。


 健は人差し指で地図上をなぞりながら説明を続けた。

「それよりミホススミさんの新しい噂がわかったよ。科野には無事に着いてたよ。でも、そっから浪速に向かったらしいんだ。船に乗ってどっかに行ったのかは知らないけど、なんでもオオナムチさんに呼ばれたからって」

「どういうことだ? 夫がミホススミを呼んだなどと、わたしは何も知らされておらぬぞ?」

「姫も知らないの? ミホススミさんが科野に着いてから割とすぐに出発したらしいよ?」

「ということは、あらかじめ我が子が科野に向かうと知ってて伝令を走らせたとしか思えぬのう……」

「だからとりあえず、僕は浪速に行ってみようと思うんだ。もう十年くらい前だろうけど、もしかしたらミホススミさんの情報が残ってるかもしれないじゃん?」

「浪速か。たしかに科野平定の噂がヤマトに伝われば、交易関係にある出雲や高志を中心に豊秋津島への侵略はさらに難攻不落となる。その前に、かのクニも戦にはやるかもしれぬ。気をつけるのだ」


 ヌナカワは胸元にある翡翠の勾玉を握りしめると両目を閉じた。

「では参るぞ」

 すると、今しがた高志に戻ったばかりの健の身体は、途端に光の粒となって消え失せた。

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