建御名方、動く

 健が出雲に赴き、コトシロヌシと出会ってから数日が経過した。


 ある日の午後。

 この間もずっと続く剣術の修行で、わずかな余暇の時間に健がぐったりと木床に寝そべっていると、屋敷の周囲に大勢の人の声がする。

 そこにヌナカワがやってきた。

「これ、タケル。しっかりせぬか。これから面を通すぞ」

 普段の彼女は、高貴な者だけが着用できる絹で織られた淡い色調で染められた衣を幾重にも纏っていたが、今日は出会った時と同じく、袖の大きな着物を一番上に羽織っている。それは巫術に用いる祭礼用の正装であった。

 すなわち高志の女王として、民草に下知を行う際の被服でもある。


「はあ? もうちょっと休ませてよ。ここ最近こんな生活なんだからさぁ」

「だからこそ早い方が良いのだ。そなたを出雲の正統な後継者タケミナカタとして、世に知らしめるのだからな」

「えっ! ちょっ、それ、どういう意味?」

「ふふふ……まぁ任せておけ。早う支度しろ」

 ヌナカワは不穏な笑みを浮かべると、屋敷の外へと向かう。



 健とヌナカワは、建物の入口にやってきた。

 ムラの屋敷は湿気や雨水、害獣対策で、芯の柱を中心に一段高く据え付けられた足場に基礎が組まれており、その足元にはねずみ返しが付けられている。健も小学校や中学の歴史の授業で習った典型的な高床式住居だ。

 その中でもひときわ大きく、丸太を組んで並べられた防壁に覆われた女王の屋敷には謁見を行うための舞台があった。もちろんそれは祖父の家にあった縁側とは比べ物にならない広さだが。


 女王からの大切な通達として、ここ高志の住民が集められていたのだ。

 民はヌナカワの姿を前にすると一斉に伏す。

「皆の者、息災でありますか。生活に困ることはありませんか?」

 声はやや抑えながらも、高く通る澄んだ音で民衆に語り出すヌナカワ。

 後方に控えていた健も『高志のさかし姫』らしく振舞う彼女の豹変ぶりは、巫女ならではと言えるし、いかにも女王らしい技だと感心した。


「かねてより行方を追えなかった、我が息子ミホススミが無事に戻ったのは皆も承知のことと思う。そして名をタケミナカタと改めて、ここ高志で生活を始めています」

 ちらと健に視線を送ったヌナカワは、少し前に出ろ、と促す。

 健は緊張から堅い笑顔を浮かべながら彼女の横に並んだ。

『へらへらするな。もっと王子らしくせぬか』

 小声で諫めるヌナカワに、健も声を抑えたまま反論する。

『だって、これから姫がなにを始めるかぜんぜん聞いて無かったじゃん!』

 小さな咳ばらいをしたヌナカワは、両手を広げて民に向けて語り出した。

「このタケミナカタは、これより出雲の正統な後継たる王子として、そして高志と共にヤマトと相対し、戦い抜く覚悟であると申しております。どうか皆も彼を盛り立ててやって欲しい。そして我が息子タケミナカタに神のご加護を」


「えぇっ!」

 どよめきと共に感嘆の声を上げる聴衆と同じく、驚いて肩を揺らす健。

 だがヌナカワは自身の芝居に夢中なのか巫術が始まったのか、両の膝を折ると左右の掌を空に向けてかざして祈りを捧げる。

『あらら、これ大変なことになったな……』

 健もそのままどんな芝居をして良いか分からず、民衆に向けて手を振ったり拳を突き上げるのも違うであろうと、体育の授業の『休め』の姿勢のまま呆然と前を向いていた。



「ちょっ、姫! どういうことなのさ!」

「だから早々にクニの内外に広く知らしめたのだ。お前は普段通りタケミナカタとして振る舞えば良いだけだ」

 毛皮の上に腰を下ろしたヌナカワは、木製の肘当てに身を委ねると膝を崩した。

 それからはゆっくりと白湯を飲む。

 まるで単なる女王としての儀式のひとつを終えたという風情であった。

「高志から遣いの者も送った。民草から交易を行う商人を経て、さらにヤマトへも伝わることであろう」

「それって出雲のコトシロヌシさんへの当て擦りみたいじゃない? いちおう兄弟なんだからさ、一緒にクニを造っていきましょうくらいのニュアンスにした方が……」

「案ずるな。無論、出雲にはそのように伝えておる。自分は巫術専門だから弟が軍人を束ねて欲しいと、あやつ自身が言ったのであろう?」


 どうにも未だにヌナカワの心中を汲み切れない健は、困惑して頭を掻いた。

 知らぬ間に指のマメの痛みも、全身の打ち身や筋肉痛も飛んでいったかのようだ。


「じゃあ僕が戦争に巻き込まれたらどうするのさ? ホントに死んじゃうよ!」

「そうではない。もしミホススミが本当に生きていたらどうだ?」

「……ふつうは、自分の偽物が現れたってビックリするよね?」

「ならば、『母上、本物はこちらですぞ』と申し出るであろう。もし……わたしはあまり考えたくはないが、仮にミホススミがヤマトや他のクニの間者に屠られていたとしたら、手を下した者はどう思う? あの子が生きていたと驚くではないか?」

 健は顎を撫でながらヌナカワの言葉を整理する。

 そろそろ現代を離れて一週間は経とうというのに、彼には髭がほとんど生えてこないのは、いかにも今時の若者という風情だ。無論、気になったら指で引っ張って抜いてしまうというのもあるのだが。

「場合によっては、また出雲や高志に暗殺のスパイを送ってくる可能性もあるよね」

「そこを捕らえれば良いではないか」

「そう上手くいくかな?」

「そなたの時代の歴史書では、息子にはヤマトの腕の立つ軍人が派遣されて科野まで追い立てられたのであろう? その命をまた狙ってくるのは道理だ」

「そんな誘蛾灯みたいなことしてたら、なおさら僕の命が危ないじゃん。ましてや、こんな目立つ制服姿なんだからさ」

「そのための剣の修行ではないのか? せめて自分の身を守れるくらいには逞しくなるのだな」


 にやりと笑みを浮かべたヌナカワは椀を置いて別室に下がろうとした。

 それに黙ってついてくる健の足音を聞くと、すぐに立ち止まる。

「そなたには伝えていなかったが、ここから先は男子禁制の奥の間だ。すぐにタケル専用の館を建ててやるからそちらに住むが良い。それと、わたしの部屋に平然と入って来るな。家臣から『王子はあの歳でまだ乳を飲んでいる』と揶揄されておるぞ?」

「はあっ? 僕が姫のを? マジで?」

 逆に健は、類まれな美貌を持つ賢し姫――言い換えれば美人妻――とのただならぬ妄想に顔を赤らめて、廊下を反対の方向に歩き出した。



「あーあ、はやく現代に帰りたいんだけどな……」

 健は家来に分けてもらった麻の貫頭衣を着て、川の流水で制服のズボンやシャツを洗っていた。

 と言っても洗剤も柔軟剤も無く、水の手洗いである。

 着込んでくたびれた制服の替えは無い。かと言って麻の服を着ていると、まるで自分がこの時代に馴染んでいるようで、溜息を幾度も吐いては腕の筋肉痛を堪えて衣服を揉んでいた。

 水洗いを終えたあとは、衣類を石の上に並べる。

 腰を叩きながら背を反らして伸びをすると、健は頭上の太陽を仰いだ。

「しかしよくまぁ、男の人もこんなパンツもないスースーする格好で平気だよな」


 とはいえ、先程ヌナカワから聞かされた言葉がぐるぐると頭を巡ってしまうのも事実であった。

 なにせこの時代にやってきてから、ある種の夜の息抜きと言える時間も無い。

「まさか、新しい館にはお世話してくれるメイドさんを用意してあるとか……」

 いつだったかヌナカワは、過去にやってきてヤマトに勝利する歴史をもたらす対価として傍女を置くとも言っていた。

 それを想像してしまうと、下半身も風通しが良い服という割には、非常に困った熱を帯びてしまう。

 健は慌てて麻の貫頭衣を上着だけ脱ぐと、冷たい川の中に飛び込んだ。


 洗濯は過去に来てから今日が初めてだが、水浴びは夕方に毎日している。

 剣術の稽古を終えて汗臭い自分が気になって仕方ない。学校ならば体育の授業のあとは、デオドラントスプレーやペーパータオルで整えたりしたが、そんな持ち合わせも無いので、仕方なしに沐浴を行っていた。

「あぁ、もう。シャンプーも石鹸も欲しいなぁ」

 半ば自棄になって頭まで流水に潜ると、川の中を泳ぎ回る。

 スポーツが抜群に得意という訳では無いが、こういうレジャーなら人並には楽しんできたつもりだ。


 そんな彼の姿を高志の子供たちは遠巻きに見守っていた。

「ねぇ、王子さま。なんで水浴びが好きなの? 毎日水浴びして平気なの?」

 子供たちに声を掛けられた健は、きょとんと見返す。

「みんなはお風呂入らないの?」

「お風呂ってなに? 水には入らないよ」

「そっか、この時代はまだ入浴なんてこともしないんだ……あったかいお湯に入ると気持ちいいよ。もちろん川の水でも気持ちいいけど。身体がサッパリするって感覚わかる?」

 だが、健の問いには子供たちも首を横に振る。

「清潔にすると病気にもならないし、身体の匂いも減るし、いいことばっかりだよ。みんなも入ったら?」

「でも川や海はさかなをとる時だけって、おっかぁに言われてるの」

「浅いところなら平気だよ。みんなもおいで。水の中で身体をごしごし擦るんだよ」

 風呂の伝来はこれよりもずっと後、六世紀頃とされている。

 当時はあくまでも穢れを落とす儀礼の方法としての水垢離みずごりや沐浴が行われていた。

 未だ公衆衛生や医療の観念が乏しいこの時代にあって、健には高志の民の暮らし向きを良くしていくという目論見があった訳ではない。ただ単に、彼自身が綺麗好きな現代人というだけであった。


 

 そんな惰性の日々は流れていく。


 古老ヨギから戦況や『現代史』の講義を受け、その対案として未来の神話や歴史をヌナカワに伝える中で、彼女は伝令や諜報を用いて各地の様子を探らせていた。

 やがて十日ほど経ったある日、ヌナカワは急ごしらえで造られた彼の屋敷にやってきた。


「タケルよ、時間はあるか?」

 陽光を集めながらスマートフォンを充電していた健は、ヌナカワの様子を察してすぐに外出の準備を始める。

 またタケミナカタ王子として、姫と一緒にどこかの下見でもいくのだろう――彼もその程度に考えていた。

「これから我が夫オオナムチに会いに行くぞ。あのミホススミが無事で、コトシロヌシに次ぐ正統な後継の王子が帰国したと、夫から各地に触れを出させるのだ」

「えっ、姫が出雲に帰るのっていつぶりなの? そこまで嘘を大きくしちゃってホントにだいじょうぶ?」

 若干の不安が残る健であったが、もっとも自分ひとりではなくヌナカワが同伴すると聞くと心強くもあった。

 タケミナカタという人物の芝居が定まっていないせいでもあったのだが。

「あれ? でもまたコトシロヌシさんに会ったら怪しまれちゃうんじゃないかな。ついこないだ高志に帰るって言って戻ったばっかなのに」

「それこそ神の奇跡だ。タケミナカタは瞬時に豊秋津島を移動できると、そなた自身を神格化させればヤマトも無闇には手出しできまい」

 ヌナカワは健の元に歩いてくると、彼の手を握った。

 柔らかな肌の温もりが伝わると健も殊更に緊張してしまう。

「さぁ、参るぞ」

 彼女が念じると、二人の身体は中空に放り出されたような感覚に襲われた。

「うわぁっ!」



 わずかな跳躍と浮遊の時間ののち。

「いってぇ!」

 健は草むらの中に尻もちをつく。

 そこに間髪を入れずヌナカワが彼の腹の上に落ちていた。

「ぐえぇ! 重いよ、姫!」

「あいすまぬ……って、だからわたしは決して重くないわ! おなごに向かって無礼であろう!」

 以前にも似たようなやり取りをしたのち、ヌナカワは乱暴に立ちあがると、着物の裾を健の顔にわざと掛かるように払い上げた。

「それで、前回は御大みほに行っちゃったけど、今回はちゃんと出雲の首都に着いた?」

 彼女に続いて飛び起きた健は、尻や肘の土を払っていく。

 ヌナカワはそんな彼に視線を合わせることもなく、周囲を幾度も見回すと静かにうなずいた。

「あぁ、間違いない。見慣れたこの光景、ここが出雲の本丸だ」

「僕っていうかミホススミさんの凱旋……さらに姫の凱旋でもあるんだ」


 実り多き稲穂が風に揺れる黄金色の田畑が周囲を覆う集落の中央には、天を衝くかのごとき巨大な楼閣がそびえている。

 それこそが豊秋津島の頂点にして、祭祀国家の中枢たる出雲の屋敷であった。

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