出雲の釣り人、事代主

「うわっ、いってぇ!」


 頭上よりも少し高い位置から放り出された健は、尻もちをつく。

 そこが草原で、地面は堅いアスファルトではなく土であったから良かったものの、それでもひりひりと痛みを訴える臀部を撫でながら、周囲を見回す。

「なんだ、こりゃ。またどっかに飛ばされたのかな?」


 小高い丘が背後にそびえ、陸の平地が少ない入り江の海岸線に立っている。

 上空は曇天ではあるものの、それは見慣れた雨雲の類ではなく、海からすぐ近くに切り立った急峻な山が林立しており、その頂上付近で雲が巻き付くように発生していたからであった。

「ただでさえ過去に飛ばされたってのに、そこからまたヘンな所に行ったりしたら、それこそ高志に戻れるかわかんないじゃないか……っていうか、ホントは現代に帰りたいんだけどな」

 健はポケットに入れたスマートフォンを手に取る。

 相変わらずホーム画面に表示される西暦や日時、曜日は想定外のものであるが、自分がこの時代に来てから、まる一昼夜が経過しようとしていた。

「父さんや母さんが心配すると思ったのに、全然メッセージが入らないな。いちおうはこの時代でもネットが繋がるけど、やっぱ未来とは通信できないのかな? まさか浦島太郎みたいに、知らないうちにおじいさんになって現代に帰れるとか、父さんも母さんも過去の人になった未来に戻るなんて事にならないよな……」


 健が辺りを観察していると、そこかしこに小さな木造や藁葺きの家屋があり、それらの家々からは調理や湯炊きと思われる煙が上がっていた。

 そして波打ち際には、丸太をくり抜いたり、枯草で編まれた小舟が置かれている。

 外洋に出る木造船と比べると心もとない物だったが、漁で使われるたぐいであるだろうことはすぐにわかった。


 しばらく周囲を徘徊した健は、小さな集落の中でもひときわ大きな屋敷を発見する。だが門の両側には武具を備えた男たちが立っていたので、そのまま塀づたいに、屋敷の裏手にある海岸線に向かって歩いた。

 すると、屋敷のすぐ近くの磯で釣り糸を垂らす青年を発見した。

 健は彼に向かってそっと近づいていく。

 だが彼は突然に竿を立てると、振り返るでもなく声を発した。


「あぁ、お前の足音で魚が逃げたな。禁足となっているはずの、俺専用のこの絶好の漁場にやってくるとは、お前は御大みほの住人ではないな。いったいどの村の者だ?」

 急に声を掛けられると、驚いて両肩をすぼめる健。

 一方、釣果もない針の先を見て腐る青年は、肩越しに振り返った。


 この時代の男性にしては長身ではあるものの、やや華奢な肩回りと手足。

 また、彼は髭も蓄えず丁寧に剃り上げており、それだけで健には荒々しい男性が多いこの時代にあって非常に中性的な印象を与えた。

「なんだ? 俺の話が聞こえなかったか? 釣りの邪魔をするなと言っているんだ」

「あっ、もしかして出雲の偉い人で釣りっていうと……コトシロヌシさんですか?」

 健の言葉に訝しそうにしながら、ふたたび水面に糸を垂らす男性。

「俺がそうだとしたら、いったい何用だ? 出雲の者か? それともヤマトか?」

「あの、えっと、僕は……」


 そこで健は、今この時代での自分は高志の女王ヌナカワの息子タケミナカタという設定を思い出す。

 なので、例え今は相手が独りであっても、その嘘の芝居は続けた方が無難であろうと考え、言葉を続けた。

「僕は、そのぉ……タケミナカタ。高志のヌナカワ姫の息子です」

「息子だと?」


 竿を立てて釣り糸を水中から引き上げた青年は、じっと健の顔を見る。

「お前、本当にヌナカワ母殿の息子のミホススミなのか?」

「いやまぁ、いろいろあって、今はタケミナカタっていう名前なんです……」

「タケミナカタか。あまり猛々しく男らしい感じはしないがな。そういう意味では、幼少のミホススミの頃が名に似合わず、快活で腕白わんぱくだったぞ」

「ははは、インドア……って違う、僕は勉強ばっかりだったもんですから」

「それにその服はなんだ? ずいぶんと奇妙なものを纏っているな」

「あぁ、これは大陸のやつって言っても、もっとずっと西の方のやつですね。交易でいいもの貰っちゃったなぁってラッキー……あっ、いや! 嬉しかったからお気に入りなんです」

 自分で何を言っているのか、くだらない軽口の合間に思わず現代語に化けた外来の言葉を咄嗟に話してしまう自身に後悔した健は、苦々しく口角を上げたが、相変わらずコトシロヌシには顔や手足や着込んだ制服をくまなく見られている。

 だが、彼は胸元に着けていた健の翡翠の勾玉のアクセサリーを見ると、それまでの明らかな敵意を消した。

「それで母殿は息災か?」

「えぇ、まぁ。元気すぎるくらいって感じですかね」

「出雲の親父殿に会ってからここに来たのか?」

「なんというか、そうじゃなくて、急にここに来たくなったから、まず最初はコトシロヌシさんに会おうかなって……」

「妙に他人行儀じゃないか。昔のように親しく接してくれて構わんぞ。兄弟だろ?」


 端正な顔立ちでこの時代の男性では恵まれた背丈、そして義理というか互いに異母兄弟という関係に、健は雑貨屋を営む義兄の進のことを思い返した。

 そして、まるで彼に向けての会話のように、ごく自然な振る舞いを心掛ける。


「うーんと、それじゃ、兄さんって呼ばせてもらおうかな?」

「もちろんだ。そうか、あのミホススミが生きてたとはなぁ……おっと、今はタケミナカタという名だったな。それで親父殿にはこれから会うのか?」

「それって、あの……なんて言ったっけ? オオクノ……オオモノ……」

「崇高な出雲の国王たる<大国主おおくにぬし>、オオナムチ様だろ。お前、親父殿の名前すら忘れたのか?」

「あぁ、そうだ! オオナムチなオオクニヌシって名前だった! 全然会ってないから、オオッて思うくらい忘れちゃってた!」


 これまでの不味い芝居を振り返って、健も居たたまれなくなった。

 おまけに兄であるコトシロヌシの手前、スマートフォンで調べものをすることもできず、自分の記憶を頼りに喋るしかない。彼の視線が刺さる程に、額や背中に冷や汗が浮かんでくるようであった。

 しかも側近もいない、癒しで憩いの釣りの時間と言えど、さすがのコトシロヌシも鉄製の剣を脇に置いている。あまり怪しまれてあれで斬りかかられては、為す術もないことは健自身も承知していた。


「じゃあ、まだお前は親父殿には会っていないんだな?」

「そういうことになるね。まずは僕の兄さんに会おうと思ったっていうか」

「どうする? 俺も一緒に出雲に向かって親父殿に会うか?」

「いや、今は兄さんに会えたからそれで充分でしょ。それはまたの機会にしたいなって……歩いていくと大変そうだもん」

「それで、お前は警護も牛馬も輿こしも無しに、この御大まで来たのか?」

 コトシロヌシは視線だけは周囲を見回して側近や輿を探しているが、常に身体は健に向けている。

 これ以上は怪してはなるまいと、健も慎重に嘘を重ねることにした。

「うん、まぁ近くで待機させてるけど、ヌナカワ姫が待ってるから、また高志にすぐ帰らないといけないんだ。まずは兄さんに無事だったよって直接伝えたくて」

「なんだ、また高志に帰るのか。お前は昔から母殿が大好きだな。せっかくだから、俺の屋敷でゆるりとしていったらどうだ? といっても、元は母殿とお前の屋敷だ。懐かしい想いもあるだろう?」

「そうだね、うん。でもホントお構いなく。せっかくだから、今日は帰るよ」

「せっかく兄弟が再開したのに、ずいぶんと冷淡だな。そう言うなよ」

「ここにいつまで居られるか分からない……あっ! いつまた急に戻ることになるかもしれないからって意味!」


 幼少の頃から快活で落ち着きないミホススミだったが、弟の落ち着きの無さ、というか挙動のせわしなさにコトシロヌシも呆れたように頭を掻く。

 そして裏表のない弟だったので、大きくなった今も嘘が下手なようだ――。

「あぁ。わかった、わかった。だが早々に出雲に戻れよ。酒でも酌み交わそう。それにヤマトと緊張状態なのはお前も知っているだろう? 剣技や戦術にけたお前が居てくれると助かる。俺は昔から祭祀専門で、戦にはやる軍人どもを説得させるのが大変なんだ」

「まだ戦争は始まってないんだ。そう言えば兄さんがあちこちに使者や便りを送ってるって聞いたけど?」

 健はそれとなく出雲の近況を聞こうと、コトシロヌシに問い掛ける。

「さすが母殿は情報が早いな。今の伊豫いよ淡道あわじの島は内海うちうみでの交易で大陸の恩恵を受けているヤマト寄りだ。その対岸にある阿岐あき吉備きびは出雲と陸続きで我らとの関わりが深い」

『瀬戸内海と関門海峡を挟んで出雲とヤマトは睨み合ってる感じなのか』

 健は声に出さず、脳内で出雲を取り巻く状況を整理した。

「そして内海で最も大きく、交易品が山のように集まる浪速なみはや墨江すみのえの港がある摂津せっつは、<鯖の道>や淡海あわうみを抜けて高志へと続く街道の発端だ。お前もよく知っているだろう」

 今度はコトシロヌシの言葉を反芻しながら、顎に掌を当てて何度もうなずいた。

「やっぱ大阪を押さえておいた方が出雲にも高志にも無難ってことか。ヌナカワ姫が言ってた木の国や熊野あたりはどういう態度なんです?」

「あそこは摂津の交易港への依存度が大きすぎるのだろう。今はヤマトと出雲、どちらにもつかず日和見ひよりみといった具合だな」

『じゃあ、大阪から尾張おわり名古屋まで囲まれたら、科野も危ないって訳か。豊臣秀吉も織田信長も、割といい位置に城を持ってたってことなんだ』


 健は眉間に力を込めて、地理や日本史で習った項目を必死に思い出す。

 スマートフォンはポケットに隠したままだが、このあたりは普段の授業でざっくりと理解できている範囲だ。おまけに事前にヌナカワや高志の老人から『現代史』の授業を受けていたおかげだった。

 そんな彼を見て、コトシロヌシも感心したようにうなずく。

「勉強嫌いで剣の修行ばかりだったあのお前が、ずいぶんとさかしくなったな」

「あ~、そうね。なんというか……科野は娯楽がなんにもなくてさ」

 そんな自分の言葉で、健ははたと思い返す。

 出雲がヤマトに勝利する歴史に書き換えるだけではない。ヌナカワの息子ミホススミの行方を追うことも自分の今の使命だ。

「そう言えば、僕が科野に行くことになった理由ってなんだっけか? 急にヌナカワ姫がそう言ったような気がするんだけど」

 まるで自分の記憶が無いような妙な質問ではあるが、健はミホススミが科野に向かったという事実はぼやかしながらも、その真相を知りたいという尋ね方をしてみた。

「お前、母殿にそんなことも聞かされてなかったのか? 出雲とヤマトが緊張状態になったから、高志から科野に匿われたのだろう。あちこちにヤマトの間者かんじゃが現れるようになったからな」

「あぁ、スパイとか密偵ってことね。そういう理由だったのね」

「<塩の道>を通じて、高志と科野は交易を行っている。そのえにしだろう」

「ふーん……」


 健は以前、現代にやって来てしまったヌナカワの素性を調べるためにスマートフォンで日本の歴史を紐解いたことがある。

 神々の時代を描かれた歴史書の中では、彼女の息子タケミナカタは、太陽神の遣いとの争いに敗れ、科野の州羽の海まで逃げ、そこで降伏をしていたはずであった。

『もうちょっとタケミナカタさんのことを調べた方がいいかもな』

「それで、どうする? 本当に高志に帰ってしまうのか?」

 しばし考え事をしていた健だったが、コトシロヌシに声を掛けられて慌てて注意をそちらに戻した。

「うん。また機会があったら、すぐ来るよ。ありがとう。それじゃあね」


 手を振ってそそくさと磯の釣り場を退散する健。

 その後姿を見守っていたコトシロヌシだったが、釣り竿を立てると足元の岩を二度こつこつと叩いた。

 すると彼の後方には、武具も持たず平服に身を包んだだけの男が音もたてずに現れる。

「ミホススミを名乗るあの男の跡をつけろ。母殿と懇意なのは理解したが、ずいぶんと他のクニの動きを気にしていた。高志の間者かもしれぬ。いずれ出雲の障害になる可能性があるぞ」

 片膝を立てたまま主人に頭を下げると、男は再び姿を消した。


 一方の健は、足早に御大の屋敷から離れていた。

「ちょっと芝居がヘタだったかな。あんましベラベラ喋り過ぎて、足元をすくわれないように……」

 そんなことを言っていると、彼の踏みしめる地面が突然に抜ける。

「ひえぇっ!」

 中空に投げ出されたような浮遊感に包まれ、それきり健の姿は消えてしまった。



 それからしばらくのち。

 御大の屋敷ではコトシロヌシが偵察から報告を受けていた。

「なんだと? ミホススミを名乗ったあの男は忽然と姿を消しただと? まるで鳥のように飛んだでも、氷のように溶けるでもなく、大地に吸い込まれたのか?」

 しばらくは視線を定めず、顎を撫でながら思案していたコトシロヌシだったが、手を軽く振り上げる。それを合図に偵察の男は下がっていった。

「不気味な『弟』だが、使いようはあるかもしれん。『兄』としてそんな奴を飼っておくのも悪くなかろう」

 さらに深い思索へと入るべく、彼は釣り糸を海に沈めた。

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